岸本葉子さん親族調べ

 岸本葉子さんのお母上は下田信(のぶ、1925-97)、佐賀県武雄の医師の末子として生まれ、姉一人、兄四人がいたが、胎内にある時に父が死んだため祖母に育てられた、と『読む少女』にあるが、はて母は死んだわけではないはずだが、もしや夫が死んだため実家へ帰されたのか。
 従兄に当たる下田弘之(1940- )は、岸本さんと同じ湘南高校卒、東大教養学科イギリス分科卒、英文科大学院で英語音響学を学び、電気通信大学をへて74年から教養学部助教授、89年教授なので、岸本さん在学中は駒場で英語を教えていたことになるが、どうも理系の所属だったらしい。
 ところで岸本さんは教養学科卒だが、どの分科だか分からない。第二外国語はフランス語だったように思うが、国際関係論かと思っていたが、違うのか。
 なお弘之の弟に昌宣がいるので、昌子の名はこれからとったか。また、姉の現姓はおそらく原田。(甥の名が「はらだしんご」とある)

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最近、ぞっとすることがあるのは、アマゾンレビューである。貶してあるほうは、悪意あるものも多いが、それはまあ人間の本性だからいいとして、怖いのは、たいていは現代の小説とか映画の、絶賛レビューに「20人中20人が参考になった」などとある時で、これはまさに山本七平が言う、全員賛成なら不成立の世界である。ここでは主として小説と映画に限る。
 またそれらのレビューの文章が悪達者なのである。どう考えたってそんな名作ではないものを、微に入り細を穿って褒めている。プロの文筆家でも、江國香織などはこういう文章を書くのだが、だいたい私の考えでは、小説にせよ映画にせよ、本当にいいものは年に二、三点である。以前、絲山秋子の『ばかもの』を福田和也が絶賛していたので私も読んで、まあ『ぼぎちん』を絶賛する福田だから、と思いつつ、まあいいかな、くらいに書いたことがあったが、それから一年半ほどたってみると、それほどの作ではない。
 たぶん、こういう絶賛レビューを書く人は、亜インテリないし知的な大衆で、学校でこういう文章を習うのだろう。恐らく彼らは、小説であれば飛ばし読みしたりせず、じっくり読み、さあ泣こうとかさあ感動しようとか構えている。筒井清忠先生が言うように、これはフォークナーの亜流ではないか、などと考えない。批評家の中にも最近は、あまりに現代のものばかり多量に読んでいるので、いったいいつ古典を読んでいるのだろう、というような人がいるが、恐らくこれらの人々には、同時代を生きている作家や映画監督が、一所懸命に作った作品を、褒めなければいけないというような(無意識の)「肯定の欲望」があるのだろう。
 特に最近の直木賞作家あたりには「感動もの」が多くて、しかしこうした亜インテリおよび知的大衆は、そういうのを批判するインテリを憎む気持ちがあるのである。
 そのいい例が、『カラーパープル』である。誰が見たって感動ものの純文学に思えるが、英文学者の間では通俗ものと見られている。真面目な米文学者などは、女子学生が、これで卒論を書きたいなどと言ってくると、ちょっと困るのである。(これはどこかに書いたな)
 サリンジャーなどというのもまあ通俗小説作家で、ああいうものが死んだからといって文藝雑誌がこぞって特集してしまうというのは、ちょっと見識がないのである。

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http://ameblo.jp/kenjuha/entry-10478504378.html
「小型電話とか電子手紙とか」ってのが、いいです。