猫を償うに猫をもってせよ

2017-07-17 「健康ファシズム」の黒幕、日野原重明なにが偉いのか このエントリーを含むブックマーク

                              小谷野敦

 聖路加国際病院理事長・日野原重明は、二〇一一年には一〇〇歳になる。私はこの人物について、特に何とも思っていなかった。二〇〇五年には文化勲章を受章しているが、文化勲章というのは歳をとると貰いやすくなるので、高齢をめでて受章したのだろう、くらいに思っていた。しかし、考えてみると、ノーベル賞をとったわけでもないし、いったい医学上どういう貢献があってのことなのか。これまで、医者で文化勲章をとったのは、三浦謹之助、黒川利雄、沖中重雄などがいるが、三浦は、大正天皇の診察をしたことで貰ったらしく、黒川、沖中には、それなりの病理学上の業績があり、いずれも日本学士院会員である。しかし日野原は学士院会員ではないし、これまた皇室の主治医だったために貰ったようである。

 それだけでなく日野原は、一九八五年、つまり七十歳を過ぎてから出した『老いを創める』以下の、年々増え続ける一般向けの著作に人気がある、ないしは、長生きしている医者だ、という以上のものはないのではないか。日野原が文化勲章の前段階である文化功労者になった時の理由は、何やら情緒的なものが混じっていて「感性の医療」などという文言もあり、人間ドックを私立病院で始めたことと、「生活習慣病」という言葉を広めたことが功績になっているらしい。

 日野原の最新の著作、といっても近ごろは次々と出るのだが、多湖輝との対談本『長生きすりゃいいってもんじゃない』(幻冬舎)である。この題名はまさにその通りだと思うが、何やらとってつけたような趣きがあるし、内容は相変わらず、老人がのさばることの肯定である。日野原は、「朝日新聞」に連載している「あるがまま行く」の最初の単行本を、二〇〇七年に朝日文庫にする際に『長さではない命の豊かさ』と改題しているのだが、いかにも、裏がすけて見える改題である。何しろ、日野原自身が長命を保ち、「健康教育」「生活習慣病」などという言葉を広め、『一〇〇歳まで生きる法』といった著書を続々と出していれば、そこにおのずと、「健康ファシズム」が生まれるからである。

 「生活習慣病」というのは、元は成人病といったものだが、この「改称」は、いかにも国家主義的、全体主義的なものである。人は、いかに努めても、病気になったり、若くして死んだりすることはある。それを「生活習慣病」と言うことによって、それは変えられるし、病気にかかるのは自己責任である、という雰囲気を作り出す。これが、私が戦っている「禁煙ファシズム」を包摂する「健康ファシズム」なのである。それはあたかも、国家による健康管理、菅直人総理が影響を受けたというオールダス・ハックスレーの『すばらしい新世界』を思わせるものを現出させるのだ。

 日野原の著作は老人に人気があるようだ。しかし、それだけに、日野原の言葉は、全体として慰撫的であり、癒しをもたらすにしても、時おり、剣のように、四十代、五十代で死病に罹った人々をさいなみ、七十歳を迎えずに死んだ家族を持つ人の心を刺し貫くのである。いかにも、暴飲暴食など、やめるべきことはあろうが、世間の人々は、仕事のために過労死する人もあれば、仕事のストレスから、飲酒喫煙、暴飲暴食を、やめようとしてもやめられない人もいる。あるいは専業主婦でも、家族との関係が悪くてストレスを抱えている人もいる。

 さる、有名な東大教授の研究室のドアに、米国製らしい英語のプレートが掛かっているのを見つけたことがある。それには、「ここで喫煙しないでくれ。私は老衰で死にたい」と書いてあった。出来合いのプレートではあろうが、煙草の煙と無縁であれば、何の病気にもかからないのだと信じているとしたら、それは東大教授としての知性を疑われても仕方ないのではないか、と私は思った。ではコロンブスがアメリカ大陸から煙草を持ってくる前は、みな老衰で死んでいたのだろうか。

 日野原の専門は内科学となっているが、初期の著作を見ると、主として看護婦教育と心臓病らしい。自然科学の研究者が、いかに人文学的に愚かであっても、研究内容がしっかりしていればいいわけで、たとえば将棋の棋士など、名人でも人間として愚かな者が結構いることは知られている。だが、それが一般向けの著書で、中途半端な「哲学」など語るとなると、まったく面倒である。

 日野原が一躍有名になったのは、二〇〇一年に刊行されたエッセイ集『生きかた上手』(ユーリーグ)が、じわじわとベストセラーになって百万部を超えてからである。それまでにも、中公新書で『人間ドック』(一九六五)『死をどう生きたか 私の心に残る人びと』(一九八三)などがあり、先に触れた『老いを創める』以後も、その種の自己啓発書のようなものはぼちぼち出していたが、このベストセラーで一挙に有名人になった。

 日野原への批判的な文章としては、二〇〇八年の「日野原重明(理事長)に飛び出した「老害批判」--聖路加病院「最大のタブー」」(『週刊文春』十月二三日号)くらいしか見当たらないが、それというのも、「どうせ一般大衆老人向け癒し系ベストセラーを書く九〇近い医者」だし、九〇の老人など、いずれ死ぬのだろうし批判するのも大人げない、という雰囲気があったからだろうし、だから私も、別に気に掛けてはいなかった。

 日野原は、『生きかた上手』では、「すぎる」ことを戒めている箇所で、「たばこの吸いすぎ」と書いていたが、『生活習慣病を防ぐ本』(二〇〇二)では、酒については適量を勧めつつ「禁煙法」という箇所があって、どうやら時勢に合わせて禁煙勢力になったらしい。「飛行機ではノースモーキング」などと書いてあるが、飛行機は国内外とも、一九九九年には全面禁煙になっていたのだから、そういう事情を知らずに書いているわけである。しかも日野原は「肺がん」を生活習慣病に入れている。がんの原因など今もって不明なのだから、不適切である。

 「老人だから追及することもない」という周囲の姿勢が、結果として害になったわけである。日野原よりはよほど思索力の深い養老孟司と日野原の対談もあるのだが(『話せばわかる! 養老孟司対談集』(清流出版、二〇〇三)、養老もまた人気のある著者ながら、二〇〇一年に行われたこの対談の最後で、患者にがんを告知するかという話題になり、日野原は、かつて患者から、本当のことを言ってくれ、と迫られて、「それ以来、私はウソを言わない」として、タイミングを待って告知すると言う。養老は「最近は告知となると一律にやる。医者もマニュアル人間になっている。それは非常に粗雑なことです」と言うのだが、この対談はあと五行くらいで、余命宣告などしてはいけないという話で終っている。

 近ごろは、米国の影響か、真実を教えて貰えなかったといって訴える者があるからか、医者は平然と患者の前で、どのステージのがんであるかを、冷たい目つきで言うのである。日野原がそれをよしとしているわけではないが、私は場合によっては最後まで騙し通してもいいと思う。しかし日野原は、最後は患者に伝えると言っているわけで、こういうところが、追及されないままになっている。

 また、定年廃止を唱えてもいる。「アメリカ社会では、男女差別をしないのと同じように、年齢による差別をしません。あらゆる提出書類から生年月日を問う項目は削られていますし、たとえばハーバード大学には教授の定年制はありません。現状を見るかぎり、日本人より精神的に成熟していると思わざるをえません」(『生きかた上手』五一頁)というが、これは心得違いである。第一に、米国の大学にはテニュア制があり、いったん助教授(assistant professor)のような職についても、業績が不十分と見なされたら、テニュア(終身在職権)が与えられずに追い出される。日本ではそのテニュア制を導入せず、昔ながらの終身雇用制度だから、たとえば三十歳で東大の助教授(准教授)になったら、その後の業績が芳しくなくても、定年までいられてしまうのである。医学の世界では、博士号を持っていない教授というのはまずいないだろうが、文系ではそういう東大教授もいるのである。

 しかも、東大の定年をかつて六十歳で、ほかの旧帝大などは六十三歳、私立はだいたい七十歳、慶大などは六十五歳だったが、九〇年代に、東大は、名誉教授らの反対を押し切って、三年ごとに定年を一年ずつ上げるという暴挙に出た。現在延長中で、六十三から六十四になるところである。『おひとりさまの老後』でだいぶ儲けた上野千鶴子など、本来ならもう定年なのに、六十二歳になって、なお東大教授の地位にしがみついている。金持ちなのだから、勇退するべきである。東大の定年が六十歳だったのは、「後進に道を譲る」という意味であり、結果として現在、若い学者たちは、運のいい人を除いて、博士号をとっても定職に就けないという状況になっており、巷に怨嗟の声が満ち満ちているが、これは老人がいつまでも居座り続けているのも一因である。働かなければ生活できない、などというのでない以上、公職に定年があるのは当然である。東大教授だったT氏は、定年延長後だが、六十歳できっぱり退職し、「老人には老人の仕事がある」と言っていた。日野原には、そういう見識もないのである。

 それに西洋諸国では、政治指導者がどんどん若返っている。米国のクリントンやオバマ、ロシヤのプーチン、ドイツのメルケル、英国のキャメロン、オーストラリアのギラードなど、四十代で大統領や総理といった政治指導者になる例が多いのである。二〇一〇年に英国総理となったキャメロンなど、一九六六年生まれと、私より若いのである。かつて猪木正道は「老人支配と日本の政党」(『中央公論』一九六二年七月)で、日本の総理の平均年齢と他国とを比べて、日本は特に年齢が高いと指摘したものだが、今やそれがさらにひどくなっており、近ごろ若くして総理になったといえば安部晋三がいるが、それでも五十代で、菅、鳩山、小澤、谷垣といった人たちは六十代、「四十、五十は洟垂れ小僧」と言われて久しい。もし西洋のほうが成熟しているというなら、日野原はこれをどう見るのか。若くて能力のある人を活用し、地位を与えているからこそ、定年廃止などということが意味を持つのである。日野原は、九十九歳の現在でも、聖路加国際病院の理事長だが、これはもはや老害と言われても仕方ないだろう。「勇退」という言葉の意味を、日野原は考えたことがあるだろうか。

 日野原のこういった文章に勇気づけられる老人もいるだろうが、勘違いしてはいけない。これは、社会的地位を得た者にのみ都合のいい理屈なのである。それに「男女差別」「年齢差別」というが、天皇制は「身分差別」ではないのか。日野原は、皇室崇拝者であり、と同時に、かつての戦争体験から、憲法九条護持論者でもある。こういう「左右同居」のようなものは、二十世紀にはなかったことで、今世紀に入ってから、梅原猛などがそういう立場をとり始めたのだが、別に矛盾するとは言わない。だが、九条を護持して日本の防衛をどうするのか、仮に尖閣諸島付近で有事があっても、現憲法の下では、自衛隊員は殺傷行為を行う権利を持たない、すれば殺人罪に問われてしまうのである。そうしたことを、日野原が考えているとは思えない。

 日野原は、いわさきちひろの絵が好きだと言って、二〇一〇年にちひろの子の松本猛との対談『アートを楽しむ生き方 ちひろさんの絵に恋をして』(新日本出版社)を出しているが、ちひろの夫は共産党の議員松本善明であり、天皇制にはちひろも反対だった。対談の最後のほうで、松本が「天皇」と言っているのに、日野原は「天皇陛下」と言っていて苦笑させられる。「天皇陛下」などと書いてある本が、左翼系の新日本出版社から出るとは、ずいぶん堕落したものだと思う。もっともいわさきちひろについては、死んでいるのをいいことに、こうしたちひろの思想に反した利用が多い。

 あるいは、「看護師」というのは、単に法令上の名称に過ぎず、男の看護師を看護士、女の看護師を看護婦と呼んでおかしいことはないのだが、マスコミは自主規制的に「女性看護師」などと書くようになった。私はこれを「看護師ファシズム」と呼んでいる。キャビンアテンダントとかいうのと同じ、理論だけからできた「言葉狩り」である。しかし、かねて看護婦のための書物を多く書いてきた日野原は、看護師でいいのではないか、とお墨付きを与える。もっともこれが笑えるのは「ナース」は使っていることで、男をナースとは言わないのだから、英語ならいいのかと、いかにも知性が欠如していることが、日野原に限らず、こういう珍妙な区分けには感じられる。つまり日野原は「オポチュニスト」なのであって、これを言えば世間受けがいいだろう、という思想を、適当につまみ食いしているだけなのだ。日野原には社会科学的な思考は欠けているし、社会改革の思想もない。人の幸福を願うなら、これはおかしなことだが、それが「世間的出世」には都合がいいのである。日野原は「あるがまま」という言葉をよく使うが、これは森田療法がよく使うもので、社会改革を断念し、社会の仕組みやあり方を変えることは考えず、自分の心持ちを変えることを勧める、保守的な思想である。

 日野原は、しばしば、おかしな文章を書くことがある。『生きかた上手』のエピソードで、三度がんに襲われ手術をして、生きる意欲を失った六十五歳の知人に、絵を描くことを勧めたというものがある。その人は、十年後には絵で賞をとり、個展を開くようになったという。そこへ日野原は「冒頭のひと言は、仮にそばで聞く人があったら、さぞかし突拍子もない提案に聞こえたかもしれません」と書くのだが、別に突拍子もなくはないだろう。日野原は、自分が他人とは違った斬新な発想のできる、決断力のある人間だということを、こういう形でほのめかすことがある。仮に自慢話でも、それが実際にそうであればいいのだが、別にそれほどのことでもない。

 私がこの文章を書こうと思い立ったのは、日野原の「猿翁その死の輝き」(『文藝春秋』一九八四年六月)を読んだからである。猿翁は、二代市川猿之助、今の猿之助の祖父である。一九六三年、二代は孫に三代目を譲り、自身は猿翁を名乗ったが、その時既に半ば死の淵にあり、息子の市川段四郎もがんのため慈恵医大病院にあった。日野原は、その五年前に、猿之助が人間ドックへ入った時の主任だったとして、それから死去までの経緯を書いているのだが、これは前年、中公新書で『死をどう生きたか 私の心に残る人びと』を出して有名人の死について書いた中の、猿翁の部分に加筆したものである。

 新書のほうは別にいいのだが、『文藝春秋』の加筆部分に、妙な話が出てくるのである。襲名披露の歌舞伎座で猿翁は、代表作「黒塚」を踊るはずだったが、代って新猿之助が踊った。聖路加病院に入院している猿翁は毎日、「黒塚」が始まる時刻になるとベッドに起き上がり、瞑目していたという。二週間たつと「そろそろ袴の糊がとれて脚にからみつくようになるから、取り替えるように」と孫に伝言した。ここまではいい。だが日野原は、新猿之助が「おじいちゃんは入院しているのに、どうして僕の足に袴がからむのが分るんだろう」と不思議がった、と書いている。二週間たつと糊がとれてくる、と言っているのだから、不思議ではないし、猿之助自身はそんなことは書いていない。さらに、猿翁の臨終の時に、猿之助は義経をやっていたが、幕が降りた時、自分の中に猿翁が入り込んでくる感じを持った、という。だが、猿翁が死んだ六月、猿之助は義経などやっていないし、猿之助自身は、舞台を終えて袖へ引っ込み、祖父の死を知らされたとだけ書いている。この話は、八四年当時聖路加に入院していた猿翁の後妻から聞いたようだ。

 さて猿翁は、五月の千秋楽までの三日間、日野原らに付き添われて歌舞伎座に出て口上をした。だが、その時付き添ったのは、歌舞伎俳優の主治医で、歌舞伎座そばで開業していた市川一郎医師(一九一一−九九)である、と『歌舞伎座百年史』にもあるのだが、日野原は「若い担当医」と書くだけで、市川のいの字も出て来ないのはどういうわけか。市川は日野原と同年である。

 それと、そのオカルト志向が、猿之助が書いていない二つのエピソードに窺われる。日野原は、幼い頃に受洗したキリスト教徒である。だが、「セレンディピティ」などという語を用いる。これは「偶然の幸運」とも言うべきものだが、そこに何かの意思が働いているかのように言うのは、オカルトでしかない。いわんや、霊がのりうつったなどというのは、まともなキリスト教徒の言うことではなく、遠藤周作もキリスト教徒だったが、晩年、シンクロニシティなどというオカルトに取りつかれていた。

 私は最近、「日本人論」を批判した本を書いたが、日本人が「医者」を信用することは、西洋人に比べると顕著である。西洋人は今では、放射線被爆の危険を伴うレントゲンを、健康診断程度で撮られることを拒否するが、日本人は平気である(もっともその西洋人も、飛行機に乗ると被爆することを知らなかったりする)。「白い巨塔」のような小説を、ドラマなどで観ていても、なお医者が立派な人間だなどと考えるのが不思議なのだが、だいたい、理事長とか学長とか、「長」のつく職にある者が、そんなに善良な人間であるはずはないのである。

 九十九歳になって、なお理事長の職にしがみつく日野原の姿は、とうてい、自身のエッセイが描きだす人間の理想的な姿とはほど遠い。老いて多くの微温的な人生訓的著作を出す人は多いが、公職にしがみつく者の言からは、ただ言論と行動の乖離が目立つばかりである。日野原は、即刻公職から退くべきである。

(『新潮45』2011年2月)