猫を償うに猫をもってせよ

2012-04-21

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『近代生活』1931年4月「雑誌及編輯者批判(座談会)」

 龍胆寺雄 若草は女の子だけでなく、文学青年相手の、ちよつと文学時代を更にジャナリスティックにやつた行き方だ。

 『新潮』1932年10月座談会「純文学の危機に就いて語る」 

2012-04-16

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 むかし、米国在住の女性日本文学研究者が、自分は昔アメリカへ留学してヘンリー・ジェイムズとかをやろうとしたら、君は日本人だから日本におけるヘンリー・ジェイムズをやれ、と言われて嫌だった、という話を、ひとつ話のようにしていた。いつもこの話だなあ、と思って鶴田欣也先生に言ったら、「そうなんだよ、何かちらちら胸元を見せるだけでね、ボディーを見せろボディーを」と言っていた。

 鈴木貞美は、純文学が形骸化している、と言うのだが、それを言うなら、具体的にどう形骸化しているのか言ってほしいもので、古井由吉とか黒井千次とか津島佑子とか、そういうのは鈴木的にはダメなのかどうか、それを言わなきゃダメだろう。それでいて辻原登はどうかと訊けばいいといい、紫式部文学賞では多和田葉子に授与していて、その形骸化ってのはいったい何のことであるか、ボディーを見せろボディーを、と言いたくなるのである。

 大塚英志が日文研の客員教授になっているが、まさか鈴木が呼んだんじゃなかろう。小松所長が妖怪研究で呼んだのだろう。なんだか私には日文研の共同研究のほうが形骸化しているような気がするがね。

 もう一年くらい前の鈴木との論争についてまとめると、こういうことになる。

 「日本文学史は、民衆文学を含むという点で、西洋文学史と違う」と鈴木貞美は言う。人はそこで、いわゆる「大衆文学」のことかと思う。すると、そうではなくて、近世のもので、芭蕉西鶴近松から、黄表紙狂歌滑稽本人情本のことだと言う。そしてこれを、権力者の弾圧に耐えてさまざまに工夫を凝らしたものだと称賛し、西洋にこれに当たるものはないという。

 ないなら、文学史に入っていないのは当たり前だが、恐らくアストンの『日本文学史』(1899)で、近世の町人文藝を「popular literature」としているのが気にかかっているのだろう。1890年の、三上・高津の『日本文学史』を見ても、近世までだが、選ばれている作品は、さほど現代のものと変わらない。ただ、東大系の日本文学史というのが正統的なもので、ほかに芳賀矢一のものがあり、戦後は市古貞次の編纂になるものがある。加藤周一の『日本文学史序説』は英訳されているが、むろん国文学者のものではなく、近世については、町人文藝はあまり扱わず、思想を重点的に取り上げている。あと明治期には早稲田五十嵐力のものがあり、東大の藤岡作太郎のは、平安朝のものだけが正式に刊行されていて、藤岡が早世したため終わっているが、講義用のものは当時刊行されていて、近世後期の洒落本、滑稽本などは扱われていない。

 しかし、1890年の文学史を問題にするのだと言っても、その後も大枠が変わっていないのは、さして評価を大きく変える必要を認めなかったからだろう。しかし芳賀は、『源氏物語』を一応古典の大作としながら、それにしてもこんな軟弱で猥褻なものが日本の最大の古典だというのは情けない、と書いているし、アストンなどははっきりと、町人の道徳意識は低かったとしている。

 大して、明治期には大きく扱われたのが、次第に小さくなっていくのが馬琴で、これは儒教的理念に則った道徳的に正しい物語だから評価されたのが、逍遥流の、人情を重んじる立場から、株が下がっていき、かえって人情本や洒落本などの株が上がるが、東大でこれらを専門にする人がいない、という程度には、まだ軽蔑されている。

 ただ法政大の広末保、松田修などの左翼近世文学者は、周知の通り、民衆のエネルギーが好きだから、こうした猥雑、低俗なものをかえって評価した。鈴木もその流れに棹差しているのだが、現在の近世文学の専門家で、これらを民衆文藝として称揚する人はあまりいない。

 では外国に民衆文学はないのか。といえば、あるに決まっている。シナにおける「水滸伝」「三国志演義」は、講談が発展してまとめられたものだし、『アラビアンナイト』も民間説話の集成で、『カンタベリー物語』や『デカメロン』といった小話集もたくさんある。それからシェイクスピアがいる。これについては、民衆演劇だとする小田島雄志福田恒存が批判したのだが、王から下層民衆までが観客であったというのがだいたいのところである。

 鈴木説では、政府に弾圧されてあれこれ工夫をしないと「民衆文学」ではないらしいのだが、それはまったくの左翼イデオロギーで、しかも古い。沓掛良彦先生などにも、いくらかこういうオールド左翼めいたところがあって、それで大田南畝を書いたりする。

 『戦後思想は日本を…』のほうを見て、鈴木が、近世民衆文藝をまったく日本独自の、西洋より進んだものとみていることが分かった。なぜ、かくも鈴木は無理をして、日本の独自性を言おうとするのか。

 鈴木は、元来が全共闘の左翼である。もとは小説家文藝評論家で、湾岸戦争の反戦署名にも加わっている。しかし、鈴木が勤務した国際日本文化研究センターは、中曽根康弘の肝煎りでできた、右翼および保守派の研究所である。日文研は、時おり、左翼的な人も入れることで、批判をかわそうとする。だが、落合恵美子、佐藤卓己などは、京大へ去り、稲賀繁美などは東大比較出身だから左翼ではないが、根に左翼的なものがあるし、井上章一は学生運動をしていた。

 組織に属すると、おのずとその色に染まる。陰に陽に、合せることを強いられる。しかも、私は左翼嫌いの、初代所長梅原猛が牛耳る紫式部文学賞の選考委員を鈴木が務めていることに少々驚いた。

 『日本の文化ナショナリズム』(2005)を出した時、「鈴木もナショナリストになったか」と言われて悲しかったと言っているが、この本は、文化ナショナリズムを批判する本ではないのだから、それはやむを得ない。しかもそれで何かをふっ切ったように、鈴木は、『日本人の生命観 : 神、恋、倫理』(2008)、『戦後思想は日本を読みそこねてきた』といった本を出すようになる。

 梅原猛は、九条の会に入っている。これが、私の常々言う「戦後民主主義への相乗り」現象で、平和主義こそ日本の伝統で、天皇がその象徴だという、左右折衷の現在におけるあり方である。鈴木はさすがに九条の会には入っていないが、無理を重ねて、日本文化の独自性や優越性を説くようになる。だがその文章はしばしば歯切れが悪い。知識量の多いのは分かるのだが、政治的に右往左往している。

 つまりは、左翼が日文研に適応しようとして、そうなってしまったのだと見て差し支えあるまい。昭和の戦争が激化し、プロレタリア文学が壊滅した時、多くのプロ作家は転向したが、その際、「農民文学」へ走る者が少なくなかった。

 天皇に忠実な農民の称揚は、戦時政府が奨励したことだからであり、そのような形で左翼作家は最後の両親を守ろうとしたのである。幕末の勤皇の志士を「草莽」と位置づけるのも、その一環である。やはり転向作家の林房雄が、『大東亜戦争肯定論』を書いた時、幕末の志士たちの誠実が分からないのかと叫んでいたのも、林が元左翼だからである。

 そして、近世の幕府の弾圧にあった文人を称揚するのは、また都合がいい。幕府は明治政府には敵扱いだからである。明治政府に反逆した者たちでは、具合が悪いのだ。石川淳が辿ったのも、近世の反体制派をほめたたえることによる、斜に構えた反権力の姿勢である。

 幕府に弾圧されたから偉いという見方を左翼的なものとして退けていたのは、芳賀徹である。しかし、近松西鶴芭蕉は別に弾圧されてはいない。八代将軍吉宗が心中もの浄瑠璃を禁じたのをそう思う人もいようが、近松の人気作はむしろ時代ものだった。世話浄瑠璃の高評価が始まるのは、明治以降であり、それは明治期文人がそこに「恋愛」らしいものを見出したからである。

 鈴木がどうもおかしくなってきたのは、新書をむやみと出すようになってからだが、これがまたあまり出来がよくない。『日本人の生命観』(中公新書)でも、芭蕉西鶴近松を礼賛して、シェイクスピアは植字工の綴りがまちまちだった、と言っている。持ちネタか。

 そういえば、阿部次郎を出したとき、あの頃阿部は左翼だったとか言っていたが、谷崎も近世文藝を女性蔑視、恋愛蔑視で町人文藝だから調子が低い、と言っているのだがな。

2011-05-19 鈴木貞美に答える

[] 21:56 鈴木貞美に答える - 猫を償うに猫をもってせよ を含むブックマーク

http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what’s%20new/2011/koyano518.pdf

鈴木氏の反駁文は、本筋とは関係のない話が多く、そこで「博識」ぶりを開陳するので、それに幻惑されてしまいがちだ。私も、余談を誘発するようなところがある。そこでそういうあたり、ないし私への嫌味の類は無視することにする。

 さて、鈴木氏の著書の冒頭は「本書は、「日本文学史」などに用いられる「日本文学」という概念が明治期にはじめて成立したこと、それが国際的に実にユニークな「人文学」であることを明らかにする」となっている。ところがここで(以下敬称略)鈴木は「明治期に成立した『日本文学』という概念」といっているが、これはだいぶ違っている。「明治期に成立して、今日まで引き継がれてきた」という意味だと、普通はとる。そして「小谷野君は「明治期に成立した」を抜かして1980年ころを思うからおかしいのだ」と言い、たとえそう思ったとしても、というが、冒頭の文章で鈴木は結論を述べているわけだ。長い著作で、途中で筆がすべることはあるが、結論を述べている冒頭の文章は、もっと明晰でなければならない。

 しかも実際には、1890年よりあとのことまで、この本には書いてあるのだ。混乱するのが当然で、混乱するのは分かっていないからだと言う鈴木が無茶なのである。

 ただ漢文については、鈴木はここである程度譲歩したとみる。

 次に「民衆文学」だが、「自然発生的」の説明は、とりあえずどうでもよい。鈴木が、近世文藝を「民衆文学」というのは、専門家もずっと言っているというから、今誰が言っているか問うたが、答えがなかったのは、今では誰も言わない、という理解でよいかと思う。

「わたしは「大衆文学」(mass literature)を20世紀に限定して用いている。」

 すでにその上のところからおかしいのだが、近世日本の「民衆文学」と、西洋の「民衆文学」をなぜわざわざ同じ語にするのかと私は問うているのだ。『概念』で鈴木は、日本での話だが、大衆文学と民衆文学は違うと言う。そして大衆文学は、大衆の享受を当てにしたマスプロ文学のような意味で使っている。私はそれは、西洋では19世紀半ばから成立していたのではないかと言っている。「大衆文学」を20世紀に限定するというのは、鈴木の単なる意見にすぎない。現に『アメリカ大衆小説』という進藤氏の著書を挙げている。

 それと、そのうち気づくかと思っていたのだが、政治的権力を持っていないのが「民衆」だと鈴木は言うが、19世紀西洋通俗小説の享受層の多くは女である。女に政治的権力があっただろうか。

「西洋近代の”polite literature”の概念を受け取ったのに、それが排除する”popular literature”を積極的に入れた、と言っているのだ。」

 鈴木がしばしば言及する三上参次高津鍬三郎の『日本文学史』を見ると、たとえば式亭三馬のところでは、三馬が庶民をユーモラスに描いたとして、ディケンズモーパッサンになぞらえられている。これらは、西洋の文学史にも堂々と載っている。

 日本で特に「純文学/大衆文学」の区分が強固だと感じられるとしたら、芥川・直木賞のためであるというのは、動かしがたいと思う。鈴木は否定しているが、論拠は乏しい。それどころか鈴木自身、SFが直木賞の候補になったならないと言っているではないか。なおデビューに関して言えば、昔の直木賞は、三好京三のような単行本もない作家に与えられることもあったが、だいたい単行本が出たのを本格デビューとみていいだろう。 

 「宗教が入っている」の件については、鈴木氏が顧みて他を言うから、決着がついたと思っていた。灯台を基準にするなら国立大で宗教学部など作れるはずがない、「古事記」は天皇教の聖典にはなっていない。東大では日本仏教は宗教学科でやっている。

 1935年前後に純文学・大衆文学の区別が成立したというより、大正後期から昭和初期だと私は思う。それを鈴木が覆したとは、いくら聞いても私には思えない。だいたい「中間小説」という名称自体、純文学と大衆文学の中間という意味である。それを、中間小説で三分割された後で成立したなどというのは、子供のあとから両親ができるようなものだ。

 なお、私の「大衆文学」の用法が鈴木に分かりにくいのは、私が『聖母のいない国』で書いたことを読んでいないからだと思う。そこで私は、『ジェイン・エア』は百年後に書かれていたら通俗扱いされただろうとしている。それはちょうど、デュ=モーリアの『レベッカ』がそうであるのに近い。

 鈴木氏が、『講談倶楽部』などを見ていないことを「白状」したのは痛快であった。実は私も、『若草』は見ていなかった。『若草』を文藝雑誌だとしたのは和田芳恵だと思う。私は、コバルトとか春陽文庫など、直木賞の候補にもならない小説を「直木賞以下」と言っている。

「私が日本も西洋も同じと言っているのは、文学史村井弦斎や渡辺霞亭、その他の「家庭小説」、菊池幽芳から、西村京太郎赤川次郎、果ては陣出達朗、山手樹一郎は入らないという意味においてである」と書いたのは、1960年ころのもの、つまり中公の「日本の文学」あたりのことだ。改造社の円本には弦斎も幽芳も入っているが、そちらではそのようなことは書いていないし、プロレタリア文学が入っていないとも書いていない。そして順番を見れば、年代順ではなく、幽芳、弦斎、春雨などが後ろのほうに来ていることは明らかである。

 不思議なのは、鈴木は近世日本文藝については「読んで」高い評価を下し、それが日本文学史に入っている、と言うのに、西洋の(鈴木の語でいえば)「民衆文学」つまりセンセーション・ノヴェルなどを、どうやら読まずに、文学史に入っていないと言っているらしいことだ。いや、日本の「民衆文学」のようなものはない、と言うのだから、少しは覗いたのだろう。なお私は、デフォースウィフトの「市民文学」は、戯作などよりよほど優れたものだと思う。馬琴は別だが。その点で中村幸彦の『戯作論』の意見に賛同している。

(付記)

 研究会などでの発言についてだが、言い間違いであればよろしい。しかしシンポジウムというものもある。これは公開なのだからいいだろう。それに、「問題発言」のようなものは、許可を願っても許されないだろうから私は場合によっては公開する。むろん、私が大学教授であれば、学生の発言に関しては守秘義務が生じる。これは言うまでもない。鈴木も、かつて公務員、今もみなし公務員であるから、発言は慎重にしないと、アカハラになるのでご注意されたい。

(付記2)

 確かに私は『日本の文学を考える』に書いてあったことを忘れていたようだ。ただ忘れられないのは、鴎外のドイツ三部作は、ドイツの三文小説をもとにしているとあったことだ。この「三文小説」はいったいどう位置づけられるのだろう。

(付記3)

 青山誠子『シェイクスピアの民衆世界』によると、シェイクスピア劇では、平土間で見物するのは、第四階層、小売商人、職人、日雇い労働者、徒弟、家事使用人などが多数であったと推定される、とある。ただどうも鈴木氏は、王侯貴族が中心だったと考えているらしいので、その根拠となる研究を教えてもらいたい。

(付記4)

 「『久米正雄伝』の見本が届いて思い出したんだろう」ってどういう育ち方をすればそこまで異常な性格の人間になれるのだろうか。

 

 

2011-05-16 独裁的傾向がボルシェヴィキなのである

[] 23:30 独裁的傾向がボルシェヴィキなのである - 猫を償うに猫をもってせよ を含むブックマーク

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 鈴木氏の「民衆文学」という語についての説明は、混乱しきっている。

1.西鶴芭蕉近松を「民衆文学」とする。そして「自然発生的で為政者の弾圧に耐え」などと称揚する。

2.日本文学史は、その「民衆文学」が入っているからユニークだとする。

3.西洋におけるpopular literatureは、「大衆文学」でなく「民衆文学」と訳すべきだとする。

4.では西洋の「民衆文学」は、「1」のような性質を持っているのか。感傷小説、センセーション・ノヴェル、ウジェーヌ・シューなどは、そういうものなのか。

5.違うとするなら、わざわざ双方を「民衆文学」と呼ぶのはおかしい。むしろ西洋のpopular literatureは、鈴木氏の「1」の用法に従うなら、「大衆文学」とすべきである。

6.では「1」のような民衆文学は、西洋にあるのかないのか。

7.「ない」のであれば、「2」がおかしい。ないものが入れられるはずはないからだ。

8.「ある」のであれば、それは具体的に何か。

 要するに、この点について、日本と西洋を「比較」しても意味がなく、西鶴芭蕉近松を「民衆文学」と呼び、それが入っているのがユニークだなどとは言えないのである。なお私は、藝術性が高いから町衆のものであるはずがないなどと馬鹿なことは考えてはいない。また私は、西鶴近松をさして評価していない。浄瑠璃としての構成は、近松以後の作家のほうが優れているという、内山美樹子先生に賛同する。だが、並木宗輔や近松半二について、一冊の研究書もない。

 なお近世文学の専門家は、「町人文藝」とは言うが、あまり「民衆文学」という語を使うのは、最近では知らない。もちろん1950‐60年代の広末保とか松田修とか森山重雄とかいう人は言ったかもしれないが、今では、西鶴の俳文のみならず、八文字屋本、歌舞伎にしても、ブルジョワ文藝であることが分かっているから、あまり言わないように思うので、誰か今の近世文学の人で、西鶴芭蕉近松を「民衆文学」と呼んでいる人がいたら、教えてもらいたい。

 私が前から問題にしているのは、鈴木氏の「成立」の冒頭の文章である。あの文章を見れば、誰だって「現時点」少なくとも1980年ころの「文学史」のことを言っていると思うだろう。もし鈴木氏が、1890年ころの文学史成立について言っているのだというなら、あの文章は「書き間違い」である。

 なお、日本の文学史は大衆作家も記述しているが西洋では全然ないと鈴木氏は言うが、そうでもない。最新のものというわけではなくて、戦前の英文学史でも、コナン・ドイルは出てくる。アメリカ文学史には、ジェイムズ・フェニモア・クーパーが出てくる。フランス文学史でも、ウジェーヌ・シューやアレクサンドル・デュマは出てくる。つまりエポックメイキングなものは記述するということで、日本文学史でも、後の方まで細かに書くわけではない。

 ところで前に、漢文を白文で書いたと鈴木氏は言っていたが、阿呆らしいので放っておいた。いったいどこに、漢文を書くのに返り点を打ちながら書くなどということがあろうか。白文に決まっている。しかしてそれを訓読するのである。朝鮮にはそういうものがない。漢文文学が微妙な位置にくるのは当然である。カネッティが英国に住んでいたってドイツ語で書けばドイツ文学、オンダーチエがスリランカに住んでいたって英語で書けば英語文学である。日本の漢文文藝は、訓読が出来るから日本文学なのであって、訓読がなかったら漢文文学である。それでもそれが日本文学史に入っていたら、その時初めて「ユニーク」と言えるのである。

 さらに言えば、日本人の書いた漢詩は、菅原道真などは前から研究されていたが、近世漢詩人については、1966年に冨士川英郎が『江戸後期の詩人たち』を出したあたりから、研究や評論が盛んになったものだ。そもそも明治期の文人には、自ら漢詩を読む者が多く、のち帝国藝術院が出来た際には国分青崖が会員となっている。

 漢文など知識人であれば読めたから、シナの漢文の研究者はあったが、日本人の漢文の研究者などというのは特になかった。その点、幸田露伴「運命」は、近ごろ、ただ訓読しただけではないかと高島俊男が言っており、谷崎ほどの人がそれでも絶賛したのが不思議である。

 その後、戦後になっても、日本人の漢文・漢詩は、吉川幸次郎漱石漢詩を注釈し、また近年鴎外の漢詩を、台湾へ留学した古田島洋介がやり、齋藤希史が日本人の漢文をやるなど、半ばは依然として漢文学者がやっている。近世漢詩でも、近世文学専攻の人と、漢文学の人と半々くらいである。国文出身で近世漢詩をやったのは川口久雄、徳田武らで、あと福島理子とか、堀川貴司など若い人はやっている。

 だいたい、「純文学/大衆文学」の区別をなくせと言うなら、まっさきに言うべきことは、芥川賞直木賞をなくせ、ということだ。なぜ鈴木氏はそう言わないのか。なくして「久米正雄賞」にでもして、どっちも対象にする、とかにしろ、と言えばいいのだ。

 『成立』の冒頭の文章で、鈴木氏は、日本文学は世界的にユニークだ、と書いている。私はそれには反対していない。ところが「民衆文学が入っている」などとおかしなことが書いてある。しかも、それが読み進んでいくと、漢文やら民衆文学のところは、明治期の文学史編成の話でしかない。ところがそのあとで、今度は昭和戦後のことにまで触れて「三分法」だなどと言うが、先に触れたとおり、「雑誌の制度」で「中間小説誌」「大衆小説誌」の二分割などされていなかったのは明らかだ。これに鈴木氏がうまく答えられていないのは見る人にも自明だろう。当時、挿絵の入った小説を書いたら純文学と認めないと臼井吉見が言ったとされているが、『小説新潮』も『小説公園』も挿絵入りである。紅野敏郎の子である謙介氏のほうが、雑誌についてはむろん私よりよほど詳しいはずだ。

 鈴木氏が「実証的研究」をしているのは認めるが、それをまとめる時に「大言壮語」になる、と紅野氏は言っているのである。もし言うなら「近代になって日本文学史が編成される過程で、漢文や「民衆文学」をめぐってさまざまな議論があった」「純文学/大衆文学についても、あまり知られていないこうした議論があった」とだけ言えばいいのである。それを「日本文学(史?)は世界的にもユニークだ」とか「純文学/大衆文学の区分が成立したのは1961年」などと、鬼面人を驚かすようなことを書くから、おかしなことになるのである。

 なお中村真一郎が言ったのは、黄表紙、洒落本、滑稽本のことであって、もちろん西鶴近松らのことではない。鈴木氏は、これら草双紙が文学史に入っている理由について、何も言っていない。ないしは、「民衆文学」に入れてしまっているかのいずれかだ。

 私があげた改造社の円本は、単にどのような顔ぶれがあるかを示すためだったから、作家名がないものは除いた。ただ15日に指摘する人があったので、誤解を避けるために入れておいた。鈴木氏は、ここには君のいう通俗小説も入っている、というが、これは冗談か、誤解のどちらかだ。鈴木氏が恐れているように、私は明治、近世までさかのぼって、純文学/大衆文学があるなどと言っているわけではない。それと、私が順番に並べたのは、最後のほうに大仏次郎が来るあたり、賀川でも何でもいいが、1980年代の「昭和文学全集」でも、18巻が「大仏次郎山本周五郎松本清張司馬遼太郎」で、26巻に五木博之や井上ひさしが入っているのと同じであることを示すためである。

 あと私が通俗と大衆を混同しているなどというのは、鈴木氏のは勤務先へ『久米正雄伝』が届いているだろうから、それを見れば、ありえないことであることは分かる。

 『水底の歌』の一番の問題点は、人麻呂が刑死したということ、佐留と同一人物だというのが間違いだということにあって、死んだ場所については二次的な問題に過ぎない。「軽々しく言うものではない」という言には、いかにも鈴木氏の組織人としての一面が表れている。

(付記)

 なお「防人歌」を本当に防人が歌っていたと思っていた人もいるくらいなので、少し説明しておく。私はかつて鈴木氏の研究会で、シェイクスピアは民衆文学ではないのかと言って、観客は貴族層だと反論された。のち、民衆演劇とする小田島先生に対して福田恒存が批判していたのを知った。これは実際鈴木氏が正しいようだ。

 また西鶴以前に、談林などの俳諧があるが、西鶴の文章は『好色一代男』がきわめて難解、そのあとはいくらか易しくなるが、概して俳諧などをやっている富裕層のインテリ町人、および文藝好きの武士が享受者である。近松も、大坂ー京の富裕でかつ知識層の町人、武士である。かつて1970年前後に言われていた「民衆文藝」というのは今では間違いだと分かっている。歌舞伎にしても、裕福な町人および武士が観客である。馬琴となると、武家の女性がかなり読んでいた。

 現代において想像するような「庶民」は、その享受層に入っていないというのが、現在の近世文学研究の常識である。

 なお江戸時代には、富裕層の町人・農民による革命は起きなかった。これはまさに橋本治が言ったとおり、日本史の特徴である。これは前にも小林よしのりとの論争で言ったことだが、近世の日本人で、こういった古典的文藝に触れていたのは、全体から見るとごく僅かである。

 

2011-05-14 鈴木氏のボルシェヴィキぶりに呆れる

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 西鶴近松芭蕉を「民衆文学」とするのは、単なる鈴木氏の「意見」に過ぎない。なるほど北村透谷は、近世の、遊里を中心とした文藝を批判しつつ、それが民衆の文藝だからというので、尊重した。そこに透谷の矛盾がある。透谷は自由民権運動の闘士だったからである。

 しかし最終的には、西鶴近松芭蕉は、その後藝術性が高いとされて文学史に入り、黄表紙、洒落本、人情本は、当時ほかに文藝らしいものがなかったので入れたと、これは中村真一郎が言ったことである。私は透谷の、民衆の文藝だから評価するという姿勢を、イデオロギー的でくだらないと思っている。鈴木氏は狂歌を挙げたが、洒落本や人情本はどうなのか。いやそれより、浄瑠璃歌舞伎はどうなのか。鈴木氏は、もしかするとあまり歌舞伎など観ない人なのではないかと私は思っている。(狂歌を詠んだりしていたのは武士階層である。芭蕉近松は、出身は武家である。曲亭馬琴も柳亭種彦も武家だ)。 

 透谷その他の人が、近世のこうした文藝を「民衆文藝」とした、ということと、鈴木氏がそれらを「民衆文藝」と呼ぶこととは、別のことである。なのにその二つを混同し、自分でこれらを「民衆文藝」と規定しておいて、それが入っているから日本文学史はユニークだと、現時点の日本文学史を指して言っているのである。おかしいではないか。

 鈴木氏は盛んに「polite literature」「popular literature」と言うが、では英語以外ではどうなのか。西洋に「純文学」に当たる語が見つけにくいのは、大衆文学が大衆文学であることが自明のこととされているからである。

 鈴木氏の『成立』の冒頭を、私は問題にしているのだが、鈴木氏はそこをずらし、とぼけ続ける。あそこには、現在私たちが見ている日本文学史に「漢文」が入っているのがユニークだ、と書いてある、としか思えない。鈴木氏は、日本では知識人は多く漢文で書物を書いてきて、それが膨大な量にのぼるから、それを無視しては国文学は成り立たない、と書いている。そして私は、訓読というもの、仮名というものが発明されたから、日本文学は多彩な発展を遂げたのであり、それは漢文中心だった朝鮮にはないものだと思う。鈴木氏は、朝鮮文学史が現在、漢文作品を軽視していると書いているが、そうではなく、強烈な中華思想に災いされて、漢文訓読のようなものを発達させることができなかった朝鮮文学史が、もともと貧弱なものなのだと考える。

 前にも言った通り、だから日本文学は、西洋の近代国家つまり英国、フランスなど、古代を持たないような国々よりも、長くかつ豊かな文学を持っている、というなら、理解するのだ。もともと日本文藝が豊かだったから「日本文学史」がこのようなものになったのであって、「日本文学史」の編成は、日本文藝が多彩であることの結果でしかない、と言っているのだ。

 戦後の「大衆文学雑誌」というのは、『講談倶楽部』とカストリ雑誌と、あとは『キング』あたりだろうか。鈴木氏は、雑誌の編成の上で三つに分かれたと言いつつ、自分でも認める通りはしょっているから、具体的にどの雑誌なのか分からないのである。また図表に書いてある、と言うが、その図表には、

 「純文学」 「中間小説」 (大衆文学

 とある。「」と()と、なぜ分けたか。分けた上で、本文では、中間小説が大衆文学に入れられてしまうと言っているのだから、誰も三分割だと思わないではないか。

 あと私は『知恵蔵』の記述を見て、誰もそれ以前が三分割だなどとは思わないと言っているのであって、あれは誤解を招く書き方だと思う。

 それとまだ疑問があるのだが、戦前にも中間小説に該当するものがあったのか、それは『オール読物』に載っていたのか、それとも戦後になって出現したのか。鈴木氏は「雑誌の編成も」と言いつつ、なぜか具体的な雑誌の名を出したがらない。それは、「中間小説雑誌」と「大衆文学雑誌」の区別が実ははっきりしないからではないのか。「中間小説誌」と銘打った雑誌があったのか。

 星新一が「セキストラ」でデビューしたのは1957年、初の短篇集を出したのは61年で、その61年に直木賞の候補になっている。「長いこと候補にもならなかった」と証言する人がいたら、それは記憶違いであろう。なお小松左京が最初の単行本を出したのは63年、直木賞候補になったのも同年。筒井康隆は初の著書が65年、直木賞候補は67年、半村良のデビューは71年、SF『黄金伝説』で直木賞候補になるのは73年、田中光二のデビューは74年、直木賞候補は75年である。そういうことを確認するために「直木賞のすべて」を貼りつけたのである。もちろん、半村の市井もの以外、受賞していない。受賞しない恨みが、いつしか「候補にもならなかった」という誤伝になったのだろう。(なお和田芳恵の間違い)。

 鈴木氏が、「大衆文学」をpopular literatureの訳語とすべきではない、というのは、ご意見として拝聴する、以上のものではない。先に述べた通り、鈴木氏の「民衆」「大衆」の区分には、イデオロギー的なものがあるからだ。

Yves Olivier-Martin, Histoire du Roman Populaire en France de 1840 a 1980 (Albin Michel, 1980) という本がある。これはフランスの、ウジェーヌ・シューなどの通俗小説を扱ったもので、通俗文学のことをsou-literatureといった語で表したり、世間から通俗として批判されてきた歴史を扱っている。

 むろんこれは1980年の本である。私が日本も西洋も同じと言っているのは、文学史村井弦斎や渡辺霞亭、その他の「家庭小説」、菊池幽芳から、西村京太郎赤川次郎、果ては陣出達朗、山手樹一郎は入らないという意味においてである。また西洋にも「中間小説」めいた領域はあって、マーガレット・ミッチェル、パール・バック、ストウ夫人などいろいろ、扱いに困っている作家たちがいる。

 鈴木氏は、概してプロレタリア文学などの方面からものを見るので、『真珠夫人』が通俗小説だというのを否定するのだが、ブルジョワ作家の間でははっきり通俗小説で、菊池も『半自叙伝』でそう書いているし、小林秀雄も『受難華』を、通俗小説としては素晴らしいという文脈で褒めている。

 1935年に菊池が「純文藝」に芥川賞を、と書いたのは前に紹介した。規定に「創作」とあった理由を、川口則弘氏に書いてもらったが、それについて鈴木氏はどう考えるのか。純文学の語が安定していなかったというのはいいが、少し鈴木氏の書き方は、針小棒大に過ぎないか。

 

 あとこれは鈴木氏は先刻ご承知だろうから一般読者のために掲げるが、1927年に刊行が始まった改造社の『現代日本文学全集』つまり「円本」の一覧である。

現代日本文学全集 改造社

第1篇 明治開化期文学

第2篇 坪内逍遥集

第3篇 森鴎外集

第4篇 徳富蘇峰集

第5篇 三宅雪嶺集

第6篇 尾崎紅葉集

第7篇 広津柳浪集,川上眉山集,斎藤緑雨集

第8篇 幸田露伴

第9篇 樋口一葉集,北村透谷集

第10編 二葉亭四迷集,嵯峨の屋御室集

第11篇 正岡子規集

第12篇 徳富蘆花集

第13篇 高山樗牛集,姉崎嘲風集,笹川臨風集

第14篇 泉鏡花集

第15篇 国木田独歩集

第16篇 島崎藤村集

第17篇 田山花袋集

第18篇 徳田秋声集

第19篇 夏目漱石

第20篇 上田敏集・厨川白村集・阿部次郎集

第21篇 正宗白鳥集

第22篇 永井荷風集

第23篇 岩野泡鳴集 上司小剣集 小川未明集

第24篇 谷崎潤一郎集

第25篇 志賀直哉集

第26篇 武者小路実篤集

第27篇 有島武郎集・有島生馬集

第28篇 島村抱月集 生田長江集 中沢臨川集 片上伸集 吉江孤雁集

第29篇 里見とん集 佐藤春夫集

第30篇 芥川竜之介集

第31篇 菊池寛集

第32篇 近松秋江集 久米正雄

第33篇 少年文学

第34篇 歴史・家庭小説集

第35篇 現代戯曲名作集

第36篇 紀行随筆集 附:「春」「嵐」

第37篇 現代日本詩集,現代日本漢詩

第38篇 現代短歌集,現代俳句集

第39篇 社会文学

第40篇 伊藤左千夫集,長塚節集,高浜虚子集

第41篇 長谷川如是閑集 内田魯庵集 武林無想庵集

第42篇 鈴木三重吉集 森田草平集

第43篇 岡本綺堂集 長田幹彦集

第44篇 久保田万太郎集 長与善郎集 室生犀星集

第45篇 石川啄木集

第46篇 山本有三集 倉田百三集

第47篇 吉田絃二郎集 藤森成吉集

第48篇 広津和郎集 葛西善蔵集 宇野浩二集

第49篇 戦争文学

第50篇 新興文学

第51篇 新聞文学

第52篇 宗教文学

第53篇 小杉天外集,山田美妙集

第54篇 巌谷小波集 江見水蔭集 石橋思案集 菊池幽芳集

第55篇 小栗風葉集 柳川春葉集 佐藤紅緑集

第56篇 田村俊子集 野上弥生子集 中条百合子集

第57篇 小泉八雲集,ラーファエル・ケーベル集,野口米次郎集

第58篇 新村出集 柳田国男集 吉村冬彦集 斎藤茂吉集

第59篇 賀川豊彦集

第60篇 大仏次郎

第61篇 新興芸術派文学

第62篇 プロレタリヤ文学

 現代からみても、さほど違和感がない。通俗小説は、菊池幽芳、柳川春葉などが申し訳程度に入れられていたりするが、この頃既に、今言う「純文学」のキャノンは確立していたのだ。

 どうも鈴木氏は、何とか通説を覆そうとして失敗しているようにしか見えない。「純文学/大衆文学」の二分法は、まあ明治末期あたりに生じて、昭和初期に確立した、しかしていつどこでも、「ハイブロウ/ロウブロウ」の区分はある、というあたりでいいのではないか。

 まああと、書評を読んで見当をつけるというのは普通のことで、鈴木氏はなんで片山杜秀か読売新聞に訂正を申し入れないのであろうか。

 さらにまた、師匠や同僚に異論を唱えるにしても、鈴木氏の場合は「意を汲み取って」というのが、俺に基本的に逆らわず、という意味だから困るのである。それならたいていの学者がそうである。では誰か日文研で、梅原猛の『水底の歌』は間違いである、という発表をしたのか。

 私はかつて日文研の中西進研究会で、中西氏が「近ごろ大江健三郎はキリスト教に行っているが、日本人としてどうなんですかねえ」と言い、ツヴェタナ・クリステヴァに「どうですか」と訊いたらツヴェタナが「私は神道ですから」と言ったので驚いて、後で人に話したら、二人の人が「そうしないと生きていけない」と行った。まあその手の話はこれまでいくらも書いている。世代の問題ではない。

 むろん、私に、批評の領域における戦略はある。もし、私小説こそが純文学である、という風潮が支配的であったら、私も、私小説こそ純文学であるなどと強弁しないのである。しかるに今では、西村賢太が、「私小説をエンターテインメントに昇華した」などと言われている。これではまずい、というので純文学を擁護しようとしているのだが、なんでそれが鈴木氏に分からないのであろう。それがもしかすると、世代の問題で(といえばもうプロ文学の立場からガンガン言っているところが全共闘世代なのだが)、『ドグラ・マグラ』なんかを称揚して、通俗視と戦ってきた過去の記憶でものを言っているのだろうか。私には、奥泉光のように、『ドグラ・マグラ』の亜流みたいなものばかり書いている人を見ていて、もううんざりしているのだが。

 なお鈴木氏が私に対して、「リテラシーが低い」とか「捏造」とか言っているのは、すべて事実ではない。誹謗中傷の類である。

 鈴木氏は、ことがらの軽重を計るということができない。新興藝術派がとか、新潮社系の作家がとか、全体としては小さな出来事を、あたかも大きな出来事のようにとらえているだけである。たかが「中間小説」の一語で、1961年まで繰り下げてしまうのも、その一つである。ただ、私がプロレタリア文学に冷淡なのは事実で、円本にも、プロ文学は入っていない。いったいに昭和期の文学論争は政治的なものが多いのだが、なぜか京都にいる人は、これは論争ではないと言いたがるようだが、この論争は、プロ文学(とその末流)を絶対無視したくない鈴木氏と、無視してもいいんじゃないかという私との、政治的立場の違いということで納めることはできぬものだろうか。まあ、左翼というものは、自分の立場が絶対だと固執するもので、鈴木氏のやり方には、ボルシェヴィズムとかスターリニズムに似たものを感じる。