形容動詞について

 おはようございます。今日は、「形容動詞」について書いてみます。学生のころ、どうしても納得できなかったのが「形容動詞」でした。ようやくその謎が解けたのは、大学生になってからでした。国文法の専門の教授に教わって、はじめて日本語の「形容動詞」は、実は認めない立場もあることを知りました。では、まとめてみます。
 日本語の品詞の中で、「認める」か「認めない」かで、まだ決着のついていないものとして、形容動詞があげられます。江戸時代の学者の説では、鈴木朖[すずきあきら](一七六四―一八三七)に代表されるように、もともとの日本語の分類では、認めていなかったのですが、東京大学教授であった橋本進吉[はしもとしんきち]氏は、文節構成の仕方、活用の有無、語の切れ続きなどの形態を中心とした文法論のために、形容動詞を認める立場をとりました。この考え方は比較的穏やかであったために、現在の学校文法は、橋本進吉氏の説を中心に採用しているため(一部、副詞の項目には、東北大学教授であった山田孝雄[やまだよしお]氏の論も入っています)、学校文法では形容動詞が品詞として認められています。しかし、反対意見も根強く残っていて、橋本進吉氏の弟子の東京大学教授であった時枝誠記[ときえだもとき]氏は、形容動詞廃止論を強く主張しました。岩波書店から刊行されている辞書や『新潮国語辞典』などでは形容動詞を認めていない立場で書かれています。その場合には、「名詞+だ(断定・指定の助動詞)」として扱う考え方になります。一見すると、それでもよい感じがしますが、形容動詞を認めないと困ったことも起きます。
 形容動詞とされている形としては「性質・状態+だ・です」のパターンで、例えば「静かだ・です」「まじめだ・です」「立派だ・です」「健康だ・です」を活用させてみると、
健康なら・健康で・健康だ・健康な・健康だろう
となります。
 一方、「名詞+だ(断定・指定の助動詞)」の場合ですと、例えば「学校だ」を活用させてみると、
  学校なら・学校で・学校だ・学校だろう
となります。「健康だ」も「学校だ」も一見、大差ないように見えますが、形容動詞の場合には「―な」(例文では「健康な」)という連体形が存在します。そこが大きな違いです。そのために、学校文法では、「―な」といえたら形容動詞、「形容動詞の語幹は主語にならない」、「『が・を』を伴わない」、「語幹は性質・状態を示す」、「語尾は活用する」という具合に識別させるように指導しているのです。
 時枝誠記氏の場合には、一般の言語感覚では「名詞+だ」(「健康だ」ではなく「健康+だ」と認識される)であるという、思想的な意識が強いようです。また、「健康です」の場合には、「健康+です(助動詞)」と二語にわけるのが自然なので、「健康+だ」とわけるのは自然だという論理なのです。
 どちらも、それぞれ筋道が通っているように感じられます。では、他の視点でみるとどうなのでしょうか。柳田國男氏[やなぎたくにお]氏は、『国語の将来』という本の中で、「我々はいつも形容詞の飢饉を感じている」と述べています。これは、歴史的にみると、形容詞は早く発達したが、早く成長が止まり、現代語では新しく作られることは非常に少ないことを意味しているのでしょう。形容詞の語彙の不足を補う意味で、形容動詞が発達したと考えることは、歴史的にみて正しいといえるのではないでしょうか。それに呼応するように、状態・感情を表す言葉を外国語から借用するときには、「ドラマチックだ」「シックだ」「トレンデイだ」などのように、形容動詞として意識して移入しています。
(参考)形容動詞
品詞の一つ。自立語で活用があり、単独で述語となれるもの(用言)のうち、終止形が「だ」(口語)、「なり」「たり」(文語)で終わる語。事物の性質・状態を表す。「きれいだ」「静かだ」など。活用表は、
だろ‖だっ・で・に‖だ‖な‖なら‖○
なら‖なり・に‖なり‖なる‖なれ‖なれ
たら‖たり・と‖たり‖たる‖たれ‖たれ
となる。文語の場合には「ナリ活用」と「タリ活用」との二種類がある。