随分以前、「政治活動するなら本気でしろ、デモをやるなら本気でやれよ」みたいなことを書くと、デモなんかには気軽に政治参加すればいいじゃないか、なんでそんなにハードルを上げるのかと言われてしまったことがある。

なるほど、政党の集会などで、お祭りのように屋台が出たり、様々な娯楽を準備したりして、人々が気軽に参加できるような仕掛けをしたりすることは、珍しいことではない。

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ただ、デモのような積極的なアピールは、やはり「気軽に」参加するようなものではないのではないかと私は思う。

政治は、自分の生存をかけたものであるべきだ、つまり生き死にを賭けたところがないといけない。

本気で、本当に心の底からそうだと思うことをしないと、どんなに大きな活動にも、説得力というものが生まれないのではないだろうか。

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ずっと前に死んだ私の父は70年安保の参謀役で、私が小学生6年生の時、「何が面白かったの?」と聞くと、「男のロマン」という返答が返ってきたことを今でもよく覚えている。その時は「男のロマン」の意味が分からなかったが、勝つ可能性は限りなく低くとも、権力に反抗することがロマンじゃないか、というようなことではなかったかと今は思う。

学生運動での経験は、父のその後の人生に大きく役立ったことは間違いないが、それはあくまでも人間集団を動かすための技術を身につけたという意味であって、本気で何事かを成し遂げる、ということとはやや異なっていたのではないか。

というのも、もし「本気」であったのであれば、「男のロマン」という返答になるはずがないからだ。「本気」であれば、敗北に対して「男のロマン」という言葉を用意することはできないはずで、しかもあまりにも言い訳じみている。

なにより、参謀役の父の言うことを聞いた兵卒たちに対してどういう申し開きができるのか。自分の「男のロマン」に、他人を付き合わせて、その人の人生まで左右させたかもしれず、その責任についてどう思うのか。「男のロマン」で片づけられると本当に思うのか。

父の気持ちはよくよく分かるし、血は争えないものとみえて私にも「男のロマン」に共感する部分があることは認めざるを得ないと思っているが、しかしこういう父に対して私は批判的である。

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政治家の評伝のようなものを読んでいても、その政治家が本気で何を考えてどうしたかという部分に私は非常に強く打たれる。その人が本気で抱えた問題と格闘するところに政治があるのがよく分かるからだ。

ベニト・ムッソリーニですら、少なくとも社会主義者だった頃は、彼なりに本気で考えたことを得意の弁舌にのせたらしく、若いころから芝居がかった傾向はあったらしいが、単に舌先三寸で人を動かそうというだけの人ではなかったようだ。

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ただただ、利害の調整や、票集めのための選挙民向けアピールだけが頭にあるような政治家は、それは政治家とは言わない。

そして、その本気を問うことは、なにも政治家に限ったことではない。