胎盤食で感じる「珍しいことが自然体でできる私」

胎盤を食べることがどんどんと浸透しちゃっていますね。助産所だけでなくお医者さんのいる産院でも食べさせてくれたよとか、まぁとにかく、きちんとした結論があるべき(あったはず/胎盤は医療廃棄物)なのに、「個人の自由」となってしまったようです。
「昔は食べていた」という、証拠もない話しを助産師の方達(時に、医師含む様子)がしているので、私たち専門知識のない立場の者が「許されている行為」をあえてしていないだけだと、珍しがっておもしろがってしまったのも原因としてありますよね。

子どもが無事に生まれるだけで終えてはいけないのでしょうか。
何かをしないといけないのでしょうか。

最近、ネットで胎盤を食べた報告がよくされている気がします。
つい先日は当ブログでも書いたように、某有名人が奥さんの出産を控え、胎盤を食べることを検討中みたいにありましたね。

そして、昨日目にしたのが
【閲覧注意】胎盤を食べた話に賛否 …どんな味なんだろ?
疑問を抱くことなくまとめられていることが残念です。
気にするのは味か…

食べた方達のお話を読んでいると、助産院で出産しているような自分的には珍しいことではないけど、こうやって話してみるとまだまだ世間的には珍しいってことになっちゃうみたいだから、総論、やっぱり私って凄い方だよね? 
ってことなんでしょうね。
ね、ね、凄いよね? 
って「珍しいことが自然体でできる私」を主張されるほど不自然さを感じますが、こういう方達もある意味利用されているわけで、胎盤を食べないといけないように仕向けた方がいるってことです。私は日本では胎盤を食べていない(東北の飢饉の問題で非常食としての保管はあったのかもしれないくらいしか有り得ない)と捉えていますが、ここまで食べさせる方向に導いた助産師の方達は何が目的だったのか? 「助産院で産むと、こういう経験もできるよ!」っていうことも理由として大きく存在しているとおもっています。

お産で子どもの無事を祈っているだけ、無事で喜ぶだけではもうダメなんでしょうかね。
へその緒を切るっていうのも、厳密にいうと医療行為に該当するというのも琴子の死によって知って、助産師界、言っていることとやっていることがメチャクチャなんだとショックでした。
助産師の方達は医師や病院で出産することに対して、過剰な医療介入を批判してきたけれども、ここまでして出産の場に儀式を作って介入させていることには異常性を感じないのでしょうか。
味だとか食べ方だとか、そんなことではなくこういうことを論じ合いたいけれども、「珍しいことが自然体でできる」タイプの方は否定されると
“科学で証明出来ないことを理解できる私”は“あなたとは違うんです”
として対話が難しくなります。
やんわりした空気を漂わせながら、攻撃的になっていきます。これはツイッターなどでこの手の方とやりとりしているとよくわかりますよね。
表情見えないだけで、急にいつものポエム調から攻撃的なものに変わったりしますから。

別の視点から。
胎盤の場合は、まずその胎盤を食べて良いのか? という、カニバリズムの倫理的問題があるので、本来は同じレベルで論じることはできないはずですが、
厚生労働省 豚レバーの生食は、やめましょう
でもう少し考えてくれる方が増えてくれることを祈ります。
ただ、何度も言いますが、胎盤は火を通せば良いのではなく、胎盤は食べてはならないものだと、食べるということはカニバリズムになると考え直して欲しいです。