神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大川周明とトンデモ本の世界(その7)


3 大川周明と櫻澤如一(承前)


 あわてて、草柳大蔵『実録満鉄調査部』上巻を見る。岡上(黒田)の名前がちゃんと出ている。

松岡[均平]は東大ではじめて社会主義を講義し、その中でマルクス主義を紹介した教授である。伊藤武雄によると、そのときの松岡の講義案は、調査局員でのちに日本共産党の創立委員になった佐野学、同じく調査局員でのちに、ナチス・ドイツゲッペルス宣伝相と懇意になった岡上守道(筆名・黒田礼二)の二人が書いて渡したものだという。


 伊藤武雄『満鉄に生きて』によると、

このころ、郊外の目白(中略)に、孫文革命に参じ、「三十三年の夢」をかいた宮崎滔天の息、竜介の管理する家がありました。(中略)ここが新人会の集会所に提供されたので、組織はひじょうに活潑に動きだしました。(中略)これに卒業生の関係者として木曜会の麻生久(中略)片山哲(中略)佐野学、岡上守造[ママ](ペンネーム、黒田礼二)などが加わりました。(中略)佐野、岡上は満鉄の東亜経済調査局におり、片山は当時弁護士をやっていました。
(中略)その創立グループのなかに、満鉄の調査機関の一つ、東亜経済調査局に勤めた佐野学、岡上守造[ママ]のいたことは、その後、満鉄調査機関と、日本の民主主義運動者、社会主義運動者との関係がつく糸口の一つとなります。私たちはそのはしりのひとつとして、この線でごっそり、満鉄の調査機関に就職することになりました。


 岡上も、東大新人会→満鉄調査部という流れの一員だったのね。しかも、新人会の創立期のメンバーとは。更に、ゲッペルスと懇意とは。2月6日に言及した、副総統ルドルフ・ヘスと会見した亀井貫一郎にも負けない。いや、亀井より実は上を行っているのだ。
 『日独政治外交史研究』(三宅正樹著)は、その一節を「黒田礼二遍歴の終着駅ヒトラー」と題して、

廃帝前後』[中央公論社、1931年]では、ヒトラーの運動への共感など全く見せていなかった黒田礼二は、次の著作の『独裁王ヒットラァ』(新潮社、1936年)では、ヒトラーの徹底した礼讃者として姿をあらわした。黒田の思想的遍歴が「転向」の一例としてとり上げられる所以であろう。黒田がこの本の冒頭で記しているところに従えば、黒田がヒトラーの心酔者に「転向」したのは、1931年12月末、当時ナチ党の機関紙「アングリッフ」の主筆であったゲッペルスを通じて申し込んであったヒトラーとの会見に成功した瞬間からである。ミュンヘンのナチ党本部(中略)でヒトラーに会った黒田は、直ちにヒトラーの瞳と声に魅せられた。


と記している。


 黒田礼二というペンネームは、クロポトキンレーニンにちなんで付けたという岡上。その彼にして、心酔者に転向するヒトラーとは。わすも会いたかったよ・・・


 さて、話が広がりすぎたか。櫻澤と偽書関係者の関係について見てみよう。
 例によって、三村三郎の『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』(昭和28年8月)を見ると、皇漢医学者中山忠直を紹介する一節中に、櫻澤の名前が登場するのだ。

著者は約20年前中山氏が牛込区柳町におられたころ同じ町におられた遠藤無水氏を訪問の帰途立寄つてお邪魔したり、また牛込若松町に移られてからも同箪笥町にいた薄田斬雲からの帰途よく立寄つていろいろ聞かされたものだ。桜沢如一氏を知つたのも同宅でであつた。当時はアナキストから足を洗つて日本主義的な立場にあつたころで、晩婚だつた氏がまだ奥さんをもらつたばかりだつたと記憶する。

引用者注:「アナキストうんぬん」は、中山のこと。

 中山も櫻澤も、ヨコジュンの『日本SFこてん古典』第1巻に登場する人物。さすがヨコジュン、偶然であろうが、面識のある両者に言及しているとは。
 

 ところで、先ほどの三村の記述を裏付ける記述がある。
 『西洋医学の没落』(ドクトル・ルネ・アランヂイ著、櫻澤如一訳。昭和6年12月発行)の「訳者の言葉」中「本書翻訳の動機」によれば、

去る8月、二ケ月の予定を以つて経済的血路を切り開いて態々私はソルボン大学名誉教授仏国哲学会々長レ井”イブリユール氏著「原始民族の宗教、思想及び社会」の翻訳を出版する為に帰つて来たのである。然るに出版界の不況はこの目的を窒息せしめて了つた。帰仏する旅費が出なくなり、(中略)。此の時、畏友中山忠直兄は、アランヂイ氏の本書訳出をすすめられ、私の窮境を救はん事を申出られ、かくて本書の出版を見る事になつたのである。

 昭和6年11月3日 中山氏邸にて
              櫻澤如一

とあり、また、中山の「跋」によれば、「余の住所は東京市牛込区若松町12」とあるのだ。

 ところで、櫻澤と畏友中山はどのような接点があるのだろうか?


(その8へ続く)