神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

早稲田大学図書館を追われた毛利宮彦(その2)


毛利ネタについて、史料の追加をしておこう。太字は、『早稲田大学図書館史』からの引用。



大正4年7月   館員毛利宮彦が、図書館事業研究のため、ニューヨークのパブリック・ライブラリー付属ライブラリー・スクールに1ヵ年留学のため出発した。帰国は翌年7月。


  5年1月11日 市島来訪、(略)湯浅招酬の件等相談


    5月   京都府立図書館を辞任した湯浅氏を、内外の図書館界に精通した経歴をいかすべく本館顧問に招聘した。


    5月29日 湯浅太[ママ]郎、早稲田図書館顧問となり、来訪


    7月 市島館長・湯浅吉郎顧問・佐藤功一教授・小林堅三事務主任・毛利宮彦館員などが参集し、大体の意見をまとめて提示、再設計を佐藤教授に依頼した。
その後、この計画は新大学令の発布により大幅な変更を余儀なくされ、大正10年に、新しく「図書館建築委員会」が設置されるまで、停止されていた。


    7月 1年間の米国留学から帰国した毛利館員は、『早稲田学報』に帰朝報告を寄稿し、その中に、つぎの5項目を示している。
 (1)米国は世界の成金にして又世界の本好きである。
 (2)米国は図書館事業の発達において世界一である。
 (3)米国の教育は図書館教育である。
 (4)米国図書館の発達は国是の然らしめる所である。
 (5)米国の図書館事業は今や婦人の手に落ちんとする。


    8月   大学幹事より毛利館員の司書任命にあたり、それに先だち、図書館の職制を制定する件について検討するよう通知があった。


    11月 図書館増築にあわせて、新分類表を作成するため、市島館長を中心に、館内にて協議、検討にはいった。


  6年4月   昨年より検討中の分類表(案)が出来。分類および、図書館増築計画について意見を聴取するため、田中稲城和田万吉太田為三郎・佐野左[ママ]三郎・田中一郎・新村出・橘井清五郎・今沢慈海の諸氏を浅草大金亭に招いた。本館からは市島館長、湯浅顧問、小林事務主任が出席した。
(略)この分類は、図書館増築の中止とともに立ち消えとなったが、大正14年に図書館が新築された際に作成された新分類に、生かされている。


    8月   かねて引退を表明していた市島館長が辞任し、代って中島半次郎教授が本館事務監督に嘱任され、さらに同年9月吉田東伍教授が中島教授に代った。


   12月16日 毛利の母より奈良漬を贈り来


  8年2月   湯浅吉郎顧問が辞任し、後任に安部磯雄教授が就任した。


  8年5月1日  湯浅半月来、昨日限り早稲田大学絶縁云々、俳優連の図書館の件 


ちなみに、坪内逍遥は、図書館長ではないのは勿論、大正4年8月に早大教授を辞任しているので、毛利に対して懲戒権や、辞職を承認する権限などはなかった。
母親が、登場するのは、元々、毛利宮彦が母方の姻戚である坪内を頼って上京してきた関係であろう。それにしても、母親がしゃしゃり出てくるのは、違和感があるね。


毛利の意に反したであろう辞職については、新分類表作成をめぐって、湯浅とぶつかったという説も成り立ち得るがどうだろうか。
湯浅は昭和18年死去。
毛利は昭和25年に早稲田大学教育学部講師(図書館学)として早大へ復帰(昭和32年死去)。ちなみに昭和25年同じく早稲田大学教育学部講師となって、書誌学を講じた人物がいる。森銑三その人である。


毛利と森という、うらやましい授業を受けて図書館員になった人もけっこういるのだろうね。


*湯浅が京都府立図書館長に就任した年については、明治36年とする文献と37年とする文献があるが、どっちが正しいだすかね?


(参考)顧問湯浅の勤務状況については、山宮允編「半月年譜」(「書物展望」13巻11号、昭和18年11月)に、「大森府知事辞職の後間もなく京都図書館長の職を辞し、妻子を京都に残して単身上京、市島謙吉の推薦により早稲田大学図書館の顧問となり爾後毎日同所に出勤す。」とあり、常勤顧問であった。