江見水蔭の書簡の謎は、くうざん先生の手により、あっという間に解決されてしまったが、この謎は中々解けないと思われる。7月29日に書いたネタだが、重要な記述を見落としていたので、追加情報と併せて再掲しよう。
坪内逍遥の日記によると、
大正7年7月3日 木呂子へ病兄の「料理法」を托す
大正7年7月8日 木呂子、病兄の「料理法」を刊行せんといふ、病兄を訪ひて 其事を報ず
大正7年7月25日 木呂子来、 病兄の料理辞彙の校閲を弦斎ニ校閲を頼む書を同人に渡す
大正7年7月29日 木呂子来、料理辞彙 弦斎序文承諾云々
大正7年7月30日 病兄へ割烹字典の稿を返附す
(参考)
大正13年7月23日 午前十一時二十五分病兄逝く
木呂子斗鬼次は、林哲夫氏に御教示いただいた山崎安雄『春陽堂物語』によると、春陽堂の番頭。
前回、『料理辞彙』を逍遥の作品としていたが、正しくは「病兄の料理辞彙」であった。この「病兄」とは、大正13年7月23日に亡くなる次兄義衛のことである。
坪内義衛の略歴は、『坪内逍遥事典』によると、
官吏。嘉永3年生、大正13年没。両親の世話をするため、また年少の逍遥に専心勉学をさせるため、結婚分家して愛知県庁に任官。明治28年1月病を得て退官。妻エツ子は名古屋の人で、明治27年死去。
料理とは縁がなさそうな人だが、料理辞彙を執筆したのであろうか。それと、結局この本は春陽堂からは刊行されていないが、幻の弦斎の序文はどうなったか。
ちなみに、春陽堂からは昭和4年に緑川幸次郎・石川泰次郎『料理大辞典』なる本が刊行されている。