神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

スメラ学塾より筑摩書房編集顧問を選んだ唐木順三


昭和15年創業の筑摩書房。塩澤実信『古田晁伝説』(河出書房新社、2003年2月)によれば、編集顧問として西田幾多郎の門下生、唐木順三を編集顧問として招くために古田らが成田を訪問している。


出版社創業の挨拶状*1を発送すると、晁は伊那谷から上京した臼井吉見に伴われて、千葉県成田へ唐木順三を訪ねて行った。(略)
臼井は、中学・高校を通じての最も尊敬している唐木順三に古田晃を紹介し、これから興す筑摩書房の顧問に推輓するつもりだった。


唐木は成田高等女学校の教員(昭和10年〜15年)であったが、この古田らの誘いのおそらく少し前に、小島威彦や仲小路彰接触があったようだ。
唐木の「私の履歴書」(『唐木順三全集』第19巻)によれば、


春陽堂から『現代日本文学序説』を出した因縁で知り合つた仲小路彰や、小島威彦から、上京して、何といつたか、とにかく戦争協力のために新しくできる機関に関係するやうにといふ誘ひをうけたが私は応じなかつた。ただ小島が当時たしか東京日々新聞の後援でアフリカへの旅にでたとき、そのロマンティックな行を壮んにしたことはある。私はその頃スウェン・ヘディンや岡倉天心を読み、「絹の道」とか、アジァンタといふエクゾティックな名前に関心をもつてゐた。飛鳥や天平仏教美術のもつ国際性、非日本的な風姿に、遠く古いアジアとの通路を感じてゐた。(略)
成田への最後の訪問者は古田晁臼井吉見の二人であつた。(略)
昭和十五年の二月に古田晁臼井吉見が成田へ訪ねてきた。


小島や仲小路が関与していた機関は、皇戦会や戦争文化研究所もあるが、「絹の道」云々というくだりから、「戦争協力のために新しくできる機関」とは、スメラ学塾昭和15年5月設立、同年6月開講)と見てよいだろう。唐木は、西田門下生の1年後輩である小島や、春陽堂編集者(又は編集顧問)として世話になった仲小路の誘いを断り、筑摩書房の編集顧問となる道を選んだわけだ。もしも、唐木がスメラ学塾への協力の道を選んでいたら、その後の筑摩書房の発展もまた違う道を歩んでいたかもしれないね。


ちなみに、小島は恩師の西田幾多郎からも、不信感をもたれていたようである。昭和13年7月27日付け柳田謙十郎宛書簡*2によると、


文部のものにいくら云つても真に学問本位といふよりさういふ一種の態度が加はり困つたものと思ひます 小島など従来私の処にまゐり全く反対のことを言ひ居りながらさういふ態度を取るなど誠に表裏のある信じ難き人物とおもひます


(おまけ)
27日(金)の午後10時からのNHK教育美の壷」は「文豪の装丁」。
見るつもりが、疲れて、寝てしもうた・・・

*1:昭和15年1月1日付け

*2:西田幾多郎全集』第19巻(岩波書店。1953年7月)