神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

森鴎外に預けられた亀井貫一郎


戦後、731部隊の戦犯免責に深く関与した亀井貫一郎については、2月6日6月14日に言及したところである。
その亀井は、森茉莉による*1と鴎外に一時期預けられていたようだ。

私の夫だった人の知人に、亀井貫一郎という人がいた。夫だった人とは親しくなく、家に来たことはない。その人物は大へんな遊び人の浪費家で、金を湯水のように使う。その人物の父親が困って私の父に、預かって監督してくれと、頼んで来た。ところが預かってみると聴いていたより酷く、月末にもならぬのに紙に細かく数字を書き込んだのを持って来て、父に見せて金を下さいと言う。だが父がその紙を見ると、細い字で、これこれこれに、これだけ使ったという数字が並んでいるが、途中であっちこっち、欄外に線が引いてあり、幾ら見ても父にはわからない。参考書、学術書の名は見えるが、そんなに学術書が要る筈がない。小父さま、小父さま、と態度は柔しいが、到底父の手には負えぬ。そういうことが何度か重なって、父も貫一郎の監督は到底駄目なので、あやまって彼をその父親の許へ帰した。


鴎外の研究者はこの茉莉の記述の検証をしているのだろうか。文献があれば見たいものだ。
茉莉は他人事みたいに書いているけど、森茉莉明治36年1月生まれ、亀井は明治25年11月生まれ。亀井が学術書を読む時期に鴎外に預けられていたとすれば、茉莉も共に暮らしていたはずだね。


鴎外の日記を見てみよう。


明治42年6月23日 亀井綾子*2来て貫一郎の未来などにつきて物語す。


明治42年7月11日 亀井貫一郎来て学業の事を語る。


明治42年9月10日 亀井あや子金四十円を借りに来ぬ。


明治42年9月11日 亀井貫一郎の来たるに金二十円持たせ返す。


明治42年12月23日 朝電車にて亀井貫一郎に逢ふ。


明治43年3月28日 夜亀井貫一郎来話す。中学を卒へて、此より第一高等学校に入る準備をなすと云ふ。


明治43年8月11日 亀井貫一郎、生田弘治来訪す。


明治43年8月15日 佐々布充重を訪ひて亀井貫一郎一家の事を言ふ。


明治43年8月29日 佐々布充重来て、亀井貫一郎一家の事、亀井家乗の事を話す。


明治44年1月21日 渡辺又次郎、亀井貫一郎、中嶋茂一来話す。


大正2年7月17日 亀井貫一郎卒業して来訪す。


大正3年1月12日 植木直幸来て亀井貫一郎の事を言ふ


大正7年9月29日 亀井貫一郎去。


(参考)大正6年7月 東京帝国大学法科大学政治学科卒、同年10月外交官及領事官試験合格、同年11月外務省嘱託・臨時調査部、7年3月領事官補・安東在勤(未赴任)、同年9月天津在勤、同年10月着任(『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』より)


亀井が学術書を読みそうな時期に、鴎外が亀井について話題にすることはあったが、預かっていたことを示すような明確な記述はないね。


*こんなネタよりも、戦前亀井が理事長を務めた聖戦技術協会にトンデモない人達が関与していたことがわかって、驚いているところ。

*1:『ドッキリチャンネル(Ⅱ)』(森茉莉全集第7巻、筑摩書房、1993年11月)中、<一九八三年四月−十二月>の「海外秀作ドラマ、堀口大学、亀井貫一郎、柳の下 他」

*2:貫一郎の祖母