神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

旅する巨人宮本常一が寄り道した聖戦技術協会(その2)


青木冨美子『731』によれば、亀井貫一郎は昭和20年10月から昭和22年5月まで、外務省の推薦により、細菌戦調査に関与。また、戦後、聖戦技術協会を改称した常民生活科学技術協会に引き続き理事長となっている。宮本常一は、この時期の亀井と接触を続けていた。『宮本常一 写真・日記集成』別巻(毎日新聞社、2005年3月)によれば、

昭和20年11月24日 大船−鎌倉−東京亀井氏をとふ。


昭和20年11月26日 三田−久我山、橋浦氏−亀井氏−三田−東京駅


昭和21年1月9日 朝からすはりこんで「日本農村の形成」。原稿紙二百字詰十行を百枚書く。夜十時までかゝる。


昭和21年1月10日 今日も原稿書き。「農業技術の展開」百一枚を書く。夜九時半終る。


昭和21年2月26日 銀座へ行つて亀井氏をとふ。つとめよといふ。あまり乗気になれぬ。夜は三田へとまる。渋沢先生のお目にかかる。


昭和21年2月27日 四時すぎ銀座の亀井氏事務所をとふ。神奈川県の方へ行つて見てくれとの事で、計画をたてゝもらふことにする。


昭和21年3月1日 そしてギンザの亀井事務所に小笠氏をとふ。未だ神奈川の方の計画は十分にたてゝないといふ。仕方がない。三田へかへる。


昭和21年3月4日 午后、常民生活協会へ行くと明日から神奈川県の金目村へ行つてくれとの事である。三田へかへる。


昭和21年3月5日 金目へあるき、役場に窪田氏をとひそして村をあるいて見る。


昭和21年3月6日 [予備欄「3.6常民協会ヨリ200.00」]


昭和21年3月12日 それから常民協会へゆく。小笠氏に神奈川県下の事情をはなして去る。


昭和21年3月13日 その後亀井氏の家で昼食をたべ四時まで持田氏とはなし、四時二十分たつ。


昭和21年3月14日 今日は一日中協会*1にゐて原稿を書く。金目村のこと、吉浜村のことを書く。小笠氏がその村へ通つて見るといつてゐる。夕方までかゝつて四十二枚となる。

昭和21年3月15日 東京駅へ行つて切符の様子を見、それから亀井事務所へ行つて小笠氏に逢ふ。四月十五日に上京*2することを約して去る。


昭和21年5月4日 報告をすましてすぐ常民協会へ行き亀井氏にあひ、中々つとめられぬことをいふ。併し明後日、持田菌の効果について報告しようと約す。


昭和21年5月5日 九時半に協会にかへり、持田菌の効用と効果につき書く。全部で十枚になる。


昭和21年5月6日 それから常民協会へ行く。いつまでたつても亀井氏から電話がかゝつて来ないので昼までまち、更に銀座の町へ出る。


昭和21年5月8日 かへる旅費が心細くなつた。常民協会へ行く。金がもらへると思つたが駄目である。(4.21)[以下4月21日のあとの予備欄]亀井氏から今日来るやうにとの話であつたのである。やはり食ふ金も必要なのである。困る。


昭和21年5月10日 午后ギンザの亀井事務所をとひ、小笠氏にフイルムを二本もらひ丸木氏に贈ることにする。


昭和21年7月7日 [記事なし。6月12日から7月7日までの予備欄をつぶして以下の記事あり。(中略)それにしても常民協会へ出した「日本農村の形成」「農業技術の展開」はどうなつたのであらうか。(後略)]


昭和21年7月16日 ギンザまで出てみると亀井氏の事務所はしまつてゐる。仕方がないのでかへる事にする。


昭和21年7月17日 午后ギンザへ出て亀井氏をとひ、小笠氏と色々はなす。アゾコアム工場の設立は仲々容易でないやうである。五時すぎまではなして辞し、ネリマへかへる。


昭和21年9月5日 ギンザに出、本など買ひ、亀井事務所に行き小笠氏にあひ、更に渋沢先生をとふ。留守である。


昭和21年12月2日 亀井氏をとうて色々はなす。旅費にとて五百円もらふ。農機具のカタログなどもらってかへりに春日町の小笠氏の所へ寄って見る。アゾコアムについてはなしあう。


昭和22年5月26日 そこを出て先生とわかれ常民協会へ行って亀井氏に逢わうと思ったが、いそがしそうで逢えない。長谷川悳三氏とはなす。近頃前橋氏との連絡も少くなっているようである。それより水道橋の小笠氏の所へ行ってはなす。ここへ研究所を移そうと思ったが雨もりとかで思うようにいかぬ。


昭和22年6月2日 本の整理をすましてギンザにゆき亀井氏にあう。十二日に鎌倉へはなしに行く事にする。


昭和22年6月12日 それより渡辺氏*3にあう。協会を解散して自分は引込むのだという。そこで私は私の方針についてはなす。研究室は三田へ持って行く、私は自由にはたらく、等々。それより鎌倉へ行く。前田氏をとうて久し振に昔ばなしにふける。夕飯をごちそうになって鵠沼に小笠氏をとう。(中略)協会の実情についてはなし、今後の事などたのむ。


昭和22年6月13日 協会へ行こうと思ってあるいていると渡辺としさんにあう。松角氏があいたがっているとのことで、電車路でまっていてあう。斉藤、東倉君も一緒である。今後の農村運動についてはなしあう。本当に立派なものであるのなら私もたすけてよいとはなす。


昭和22年6月19日 池袋へ出て、本を三冊ほど買い協会へ行く。松角氏*4を中心にして出来る農村自治連盟について、その機構その他の事を協議する。三時すぎ小笠氏をとうて報告する。幾多の疑念をもっているようであるが、止むを得ない。それは私の疑念でもある。第一、松角氏の人格が問題になる。併しこの人は一応人の世話もまじめにするようであり、三人の若い仲間を見殺しにするようなこともないであろう。


昭和23年1月12日 白山行にのって春日町で下車。小笠満治氏の所へ行って見る。


[ ]は同書の編集部が付したもの。
(参考)
昭和21年3月15日 社団法人新自治協会中央理事となる。
昭和21年4月 社団法人新自治協会嘱託就任、農村研究室主任となる。
昭和22年7月 社団法人新自治協会退職。


持田氏とか、持田菌は不明。さすがに細菌兵器ではないだろうが、ナンダロウアヤシゲ。聖戦技術協会から常民生活科学技術協会への改称は、渋沢敬三が関与している可能性が大だがこれも不明。
以上、不明ばかりで申し訳ないが、私の調査力では無理ぽ。きっと、佐野眞一氏が既に調査済みであろう。


追記:「持田氏」及び「持田菌」については、宮本の「最近の農業技術」(『新農村』第2巻第4巻、昭和22年6・7月号、社団法人新自治協会。『宮本常一著作集』第46巻所収)に、酵素肥料に関する説明の中で「柴田酵素は、今日までのところでは菌の維持が困難であるが、これよりも古く九州において使用されていた持田昌利氏の酵素は、持田氏の性格の故に流行を見ていないけれども、管理の簡単なことにおいて興味を覚える。」とあることから、酵素肥料関係だったみたい。


追記:高橋正則『回想の亀井貫一郎』(財団法人産業経済研究協会、平成12年4月)に、聖戦技術協会時代、亀井に協力した陸軍省軍務局戦備課の野北中佐、吉永中佐、新妻中佐、小笠少佐らが、戦後は銀座にある亀井の常民生活科学技術協会にいたとある。「小笠氏」も軍務局戦備課の軍人だったようだ。


*風邪がなかなか治らん・・・

*1:自治協会。以下、単に「協会」とあるのは同じ意味

*2:日記によれば、結局4月15日には上京していない。

*3:この渡辺については、佐野眞一『旅する巨人』に「宮本に新自治協会入りをすすめたのは、終戦詔勅を書いた安岡正篤の元秘書で、のちに参議院議員となった石黒忠篤の秘書もつとめた渡辺敏夫という人物だった。渡辺は戦前、安岡が設立した金鶏学院の卒業生で、やはり安岡が日本農業の健全育成を目的としてつくった篤農協会の幹部職員でもあった。宮本が戦時中の一時期、嘱託としてこの篤農協会の仕事に関わったことは前に述べた。その篤農協会が戦後改組されてできたのが新自治協会だった。」とある。

*4:佐野氏の書によると、松角久三郎なる、日本共産党の秘密党員のにおいが濃厚にあったという謎めいた人物が新自治協会にいたという。