5月4日〜6日までオールデイズクラブ(名古屋古書会館)というのもあった。
でも、入れようがないね・・・
忘れられた谷崎潤一郎と志賀直哉の出会い
猫猫先生こと、小谷野敦氏の「売春の日本史」(『考える人』連載)が終了。最終回には、
谷崎潤一郎はもっと早く、二十歳で一高の級友に吉原へ連れて行かれ、初めて女を知ったらしい。となると明治三十八年くらいなので、吉原歴は志賀より三歳年少の谷崎のほうが古いことになる。大正六年の三月、谷崎が、吉井勇、長田秀雄と吉原に遊んだことが、短編「詩人のわかれ」に書いてある。
とある。小谷野氏は遠慮してか、書いておられないが、谷崎の談話筆記「學校時代」(『文藝雑誌』創刊号、大正5年4月1日発行*1)によると、
私が一番初めに小説のやうなものを書いたのは高等学校の二年の時です。(略)
その頃恋をしました。そんな事が原因になつて、二年から三年にかけて怠け出しました。そして種々な遊びも覚えました、勿論書生の事ですから精々淫売買位の所でしたが、到頭三年の時梅毒になつて、まだ六〇六号の出来ない時分ですし、こつそり直して仕舞はうと随分苦心したものです。
というから、明治40年頃に梅毒に罹患したことになる。
さて、谷崎と志賀の出会いであるが、お互いに言及したことはないと思われる。
従来の谷崎の研究書では、触れられていないと思われるが、志賀の日記によると、
明治43年12月22日 夜伊吾と鴻の巣に行き吉井勇と谷崎に会ふ。
明治44年6月1日 夜、谷崎の少年といふ小説を見る、変はつてはゐたが、同情はない、然し面白かつた。
とある。「伊吾」は里見紝(本名山内英夫)の雅号。
林哲夫『喫茶店の時代』によると、「メイゾン・鴻ノ巣」は明治41年開業、『スバル』『白樺』の若き文学者たちが始終出入りしていたという。谷崎、志賀、里見、吉井の4名、この晩はいったいどんな文学談義をしたのだろうか。
(参考)明治43年11月20日開催の「パンの大会」には、志賀は行かなかったと日記に書いているので、同日大会に出席していた谷崎との出会いはなかった。同年12月22日の日記の書きぶりだと、初対面ではない感じがするが、同日が今のところ確認できる谷崎と志賀の最初の出会いである。
三角寛に提供された『ウエツフミ』の出所
田中勝也『倭と山窩』(新國民社、昭和52年10月)によると、
因みに、三角氏と『上記』との関係についてであるが、三角氏は戦後の昭和二十年代に氏と同郷の彫刻の大家である朝倉文夫氏から面白いから読めといわれて、『上記』を提供されたという。これは、三角氏のお嬢さんの寛子さんが証言して下さった事実である。三角氏は『上記』について一切沈黙して語ってはいないが、氏がこの書物の存在を知っていたことは間違いない。
とされる。
この朝倉文夫から三角寛に提供された『上記』の出所が判明した。
朝倉文夫の日記は公刊されていないようだが、彼の従兄弟である朝倉毎人の日記は公刊されている。その『朝倉毎人日記』第6巻(山川出版社、1991年2月)によると、
とある。『上記』は、朝倉毎人→朝倉文夫→三角寛と渡されたようだ。
(参考)
藤野七穂「偽史源流行」第21回(『歴史読本』2001年9月号)によると、
田中氏は触れていないが、朝倉文夫は戦前戦後を通じて、斯界に知られた『上津文』研究家であった。朝倉は竹田中学時代、吉良吉風と同時代の国学者・田近長陽(陽一郎)から『上津文』について教えを受けており、大正十年(一九二一)に帰郷した際には「新聞記者のやうな文学青年のやうな人」から「先生の御先祖と思ふのですが朝倉信舜といふ方が大友能直公の命を受けてかゝれた書物を持つて来ましたから読んでみて下さい」と『上記鈔訳』を渡されたという過去がある(「ウヱツフミと私のゆかり(上)」)。その後、神代文化研究会版の原文『ウヱツフミ』二十二冊をも入手しており(「同(下)」)、三角に関係資料を提供できる人物であった。