Hatena::ブログ(Diary)

神保町系オタオタ日記

2007-04-20

[][] その時歴史が動いた岩波文庫の誕生−


今年は、岩波文庫が創刊されて八十周年の年。

何と、岩波文庫の誕生にあのトンデモない人が関与していたかもしれないことが判明した。


翌日、僕は卒論執筆中の二、三の質問をもって、三木の下宿*1を訪ねた。(略)「小島君、日本でレクラム版を出そうじゃないか」「ああ、それはいいですね。レクラム日本版ですか。レクラムのなかから適当なやつの翻訳ですか。どこから出すんですか、」「今、小林をここへ呼ぶから」といって岩波の小林を呼んだ。しかし小林勇はちょうど岩波の印刷係長をしていたが、店主茂雄の娘を孕ませて岩波騒動の最中だったので、別会社鉄塔書房[ママ]を店開きして独立しようとしていた矢先きだった。レクラム版よりも、三木がかねがね主張していた「マルキシズムの旗の下に」の日本版「新興科学の旗の下[ママ]に」の雑誌を出した後にしようということになった。

(略)

僕はそれと同時に三木清発案によるレクラム版の日本誕生のよろこびを、三木の許で祝いたかった。戸田と樺*2に連絡して、本郷の燕楽軒で落ちあった。三木は喜色満面、得意そうに生まれたばかりの「岩波文庫」の挨拶文をみせた。小林勇を呼んで銀座プランタンで飲むことになった。(略)戸田三郎のニーチェ岩波文庫訳はこの時に決った。


「小島君」とは、スメラ学塾の小島威彦である。この小島の記述*3をどこまで信用していいものか。「読書子に寄す−岩波文庫発刊に際して−」という文章の草案を三木清が書いたことは、事実だが、その他の事実関係については、誤りが多いようである。小林勇の年譜*4によると、


大正15年   年末、三木清と出会い、すぐ親しくなる。

昭和2年    三木清、長田幹雄らとともに岩波文庫の創刊に携わり、7月より刊行開始。

昭和3年 3月 岩波書店ストライキ起る。要求の一つに「長田幹雄、小林勇の即時解職」があった。

     8月 岩波書店を退く

    10月 三木清羽仁五郎の助力を得て、新興科學社の名で、月刊誌『新興科學の旗のもとに』を創刊。翌年一二月まで続く。

  4年 4月 鐡塔書院設立

  7年 9月 岩波茂雄の反対をおして次女小百合と結婚(仲人は、野上豊一郎・彌生子夫妻)

  9年11月 鐡塔書院を閉じ、寺田寅彦幸田露伴小泉信三の仲介で岩波書店に復帰

  10年5月 長男堯彦誕生

  12年6月 長女美沙子誕生


また、ニーチェ著、戸田三郎訳の『人間的余りに人間的』上巻(岩波文庫)の発行は、昭和12年4月。時系列の混乱が見られるので、あまり小島の記述は当てにならないが、岩波文庫の誕生のその時、その間近にいたということは信用していいのかもしれない。小林の書いた文章には、小島の名前は見当たらないようだが、岩波書店にとっては、小島のような人間が多少なりとも岩波文庫の創刊に関係していたとしたら、嬉しくない話だろうね。


小島と三木の関係については、昨年6月30日9月15日及び10月13日参照。


岩波文庫の発案者が岩波茂雄だという定説は動かないであろうが、やはり小島の日記が公表されれば、トンデモないことが色々記されているのではないかと思うのだけど。

私としては、とりあえず地道に関係者の日記・書簡を当たっていこうと思っている。

*1:昭和2年4月以降、三木は本郷菊富士ホテルに下宿していた。

*2:樺俊雄。社会学者。樺美智子の父。

*3:小島威彦『百年目にあけた玉手箱』第1巻(創樹社、1995年1月)

*4小林勇『惜櫟荘主人』(講談社文芸文庫1993年9月)