神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

赤い帽子の会主催のタゴール訪問

大正5年7月11日秋田雨雀エロシェンコらで組織された「赤い帽子の会」*1の主催で、タゴールとの会見が実施された。秋田の日記によると、

朝十時ごろに家を出た。十一時ごろに東京駅へゆく。まだだれもきていなかった。中桐、吉田、北、其他二、三の人がきた。十二時という約束なのに、まだ十名ばかりしかこなかった。アレキサンダー女史も一時半ごろにはきた。高尾君は宿の娘さん(淑徳女子校生)をつれてきた。女子英学塾の教師もきた。其他、音楽学校、高師、大学、一高の人もきた。二時ごろ出発した。電車のなかでいろいろ相談した。原(富太郎)の別荘*2に三時ごろついた。(略)一時間ばかり支那館で会談。六時すぎまで快活に話した。タゴールはじつに自然な人間だ。音楽学校の牛山氏は俗謡を歌った。

『雨雀自伝』によると、出席者は27名で、「中桐、北(昤吉)*3、武田(豊四郎)、吉田(絃二郎)、牛山(充)らがいたように記憶する」という。また、『秋田雨雀研究』所収の年譜には、同行者として竹久夢二をあげている。より詳しくは、「山上のタゴール」『早稲田文学』大正5年8月号に書かれているが、それによると、出席者は、中桐確太郎、吉田絃二郎、北署吉、矢口達、幹事の高尾、会員の河合、バッハイズムの宣伝者のアレキサンダー女史、若い革命家らしい中華民国の林法学士、台湾青年の代表者の林文学士、朝鮮の逍、秦*4、下村*5、高橋、国学院の池本、英学者の金井ら*6

フルネームのわからない人物が何人かいるが、どういう人物なのか興味深いところである。なお、秋田は言及していないが、当時矢代幸雄タゴールの通訳として、原のもとにいたはずである。

(参考)8月10日

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*1:『雨雀自伝』によると、大正5年の項に、「赤い帽子といえば、このころ私たちは「赤い帽子の会」という会を組織して毎月一回どこかで会合していた。なぜ赤い帽子を選んだのか、その理由もはっきりしていない。またこの会には一貫した思想があるわけでもない。中にはかなり進歩的な青年もいたが、ファッショ的青年も二、三人いはいた」とある。秋田、エロシェンコのほか、河合秋星、坂本紅蓮洞らが会員だった。

*2:横浜本牧三溪園

*3:北一輝の弟。明治41年早大哲学科卒で、当時同大の講師だった。

*4:秋田の日記大正5年2月1日の条によると、エロシェンコと同居していた朝鮮人

*5:大正8年7月に早大英文科を卒業する下村千秋と思われる。

*6:竹久の名は出てこないが、「T君の考へで、私達の会から各学校へ一名宛の客を招待した」とある「T君」が竹久か。