神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

黒岩比佐子さんの遺稿「歴史と人間を描く」が西日本新聞で連載開始(その4)

第10回は「心残り」*1。直接的には年譜作成のために行った井上孝治への取材が心残りなものだったことを表すタイトルだが、50回を予定していたこの連載や、次作として予定していたヘレン・ケラーなどの評伝などが未完で終わることが心残りであることを示すようなものとなってしまった。パソコンに残された第11回目の結びとみられる文書も掲載されている。

そして悟った。“平凡な人生”などないのだ、と。

西日本新聞の野中彰久氏によると、

11回目が収録された文書ファイルの更新日付は昨年10月30日。黒岩比佐子さんはその5日前から東京大学病院に入院していた。(略)黒岩さんは病室にパソコンを持ち込み、この連載随筆を仕上げようとしていた。

最期までライターとしての務めを果たそうとしていた黒岩さん。亡くなられて半年が経つが、いつまでも忘れられない存在である。

(参考)(その1)は5月11日、(その2)は5月13日、(その3)は5月14日

*1:なお、第5回は「事実」、第6回は「定説」、第7回は「デビュー作」、第8回は「井上孝治」、第9回は「コミュニケーション」。

川端康成が回想した久米正雄のパリ訪問

川端康成昭和32年国際ペンクラブ執行委員会出席のため、渡欧。川端の同年3月27日付川端麻紗子宛書簡に、

今日Spainから帰つた小松君と牡丹屋で(略)夜食べ、横光君、久米さん、今さんなどの泊つた家(モンマルトル、藝術家町)を見、横光さんが岡本太郎さんにつれられて毎日座ってたといふ、カフエに行くと、佐藤敬さんが来た。

と書かれている。「久米」とある久米正雄は、『巴里週報』(149号、昭和4年4月)の「モンパルナスから」によると、「久米正雄氏、目下アカデミイに通ひ、コンテで盛に練習中、秋のサロンに出品の意気込の由」とあるが、モンマルトルに泊まったというのは、確認できない。久米らの話を川端にしたのは、「小松君」とある小松清だろう。久米がフランスにいた時には、小松はフランス中南部ロット県カオール近郊の村サン・シール・ラポピーにアトリエを設け、滞在していた。ただし、久米に会ったのかは確認できない。「今」は今日出海で、昭和12〜13年の渡仏時に小松とは親しくしていた。「横光」は昭和11年東京日日新聞、大阪毎日新聞両紙の特派員として渡仏した横光利一で、小松と面識があったかは不明。横光が太郎と親しくしていたことは、横光の『欧洲紀行』に書かれている。

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