神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

50年後の太平洋と1万2千年前のムー大陸を夢見た三好武二

昨年知恩寺の古本まつりで買った友松円諦主幹の『真理』1年5号(全日本真理運動本部、昭和10年5月)。全体的に折れ曲がっていて状態はよくなくて500円だが、三好武ニ「南方熊楠研究」が載っているので購入。三好武ニといっても、その名前にビビビと来るのは、わしと偽史ウォッチャー藤野七穂氏ほか数名くらいだろうか。『サンデー毎日昭和7年8月7日号に「失はれたMU太平洋上秘密の扉を開く」を書いた日本における最初期のムー大陸紹介者である。その三好が熊楠について書いているので買ってみたわけだ。
記事の内容は、副題に「南紀田辺に最近の心境を訪ふ」とあるが、熊楠の少年時代から渡米、その後のロンドン時代、帰国後の様子とともに、田辺を訪問し、インタビューをしている。迎えてくれた熊楠の姿。

そして心持ふるへる手で朝日に火をつける。裸形ではなかつたーー白木綿の半ズボンをはき、襦袢にネル格子縞の寝衣を重ね、寝起きたばかりの百姓のおつさんとでもいふいでたち・・・・。

三好に泣き言めいたことも言っている。

「学問のことは自分の努力で片付くが、出版の方は、どうも思ふやうに行きませんよ。日本でも外国でも、わしをよく知つてくれてゐた友人たちが死んだしね・・・・」
この人にこの反面がと思はれた程、南方さんはホロリとしてゐた。これまでの研究の最後の段階として、粘菌図録を印刷に附し後世まで残したいのが、昨今の望みであるらしい。

結局粘菌の図録は発行されずに、熊楠は昭和16年に亡くなっている。
さて、三好の経歴を調べようと思ったら、酒井大蔵『日本人の未来構想力ーー三好武二と「五十年後の太平洋」ーー』(サイマル出版会、昭和58年)で既に調査されていることが判明。それによると、

明治31年3月18日 青森県弘前市生 (本籍は婿入りした香川県三豊郡辻村(現三豊市)。旧姓は奈良)
大正8年 東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科卒。日本酷酸製造株式会社入社
9年*1 日本酷酸製造退社。朝鮮総督府道技手、京幾道慶尚北道勤務
昭和元年 退官。朝鮮総督府嘱託として欧米の商工業制度調査を命じられ南洋、豪州、ニュージーランド、欧州各地を視察*2
昭和2年 ロンドン大学で植民地政策専攻
3年 帰国。大阪毎日新聞社入社、学芸部勤務。
7年 上海事変特派員
9年 大阪毎日新聞社退社
12年 文藝春秋支那特派員
13年 蒙古自治政府嘱託*3
14年 報知新聞入社、編集局次長兼外報部長学芸部長論説委員
16年 報知新聞社退社。蒙古自治邦政府弘報局長
18年 株式会社蝶矢オイル工業所嘱託
19年 7月現在の住所は東京都大森区馬込町
戦後 第一科学社で編集企画
29年2月4日 没

酒井氏が三好に感心を持ったのは、大正15年大阪毎日新聞東京日日新聞が行った「五十年後の太平洋」を課題とした懸賞論文で一等を受賞した三好の論文*4に出会ったのがきっかけだという。そして、息子で画家の碩也氏ら遺族や知人を探し、経歴を明らかにしてくれた。その中で驚くのは、大阪毎日新聞で三好と部は違うが親友だったという高木健夫からの手紙である。その中に、

かつて三好は、いま騒がれている太平洋のムー大陸の研究をやっていました。小生もこの話を三好から聞かされましたが、へぇーそういうものがあったのかねえぐらいの相槌しか打てませんでした。
とにかく彼は奇才ですよ。いつか彼のことをジックリ書きたいと思っているうちに年をとってしまいました。

三好は『サンデー毎日』に二回ムー大陸について書いている*5が、その後も研究していたようだ。ムー大陸を取り込んだ竹内文献等の偽史運動やスメラ学塾との関係があったとは確認できないが、もしかしたら接触していたかもしれない。
上記の三好の経歴やムー大陸との関係だけでも面白そうだが、長男の碩也氏によると戦前大森の住居には田中清玄が出入りしていたというので底知れぬ人脈が伺われる。
三好の「五十年後の太平洋」には日本諸島が太平洋に沈下してしまうかもしれないという小笠原島付近の海底地震による大津波の発生が予想されている。なるほど、1万2千年前に太平洋に沈んだとされるムー大陸に関心をもつのももっともなわけである。三好はムー大陸とともに熊楠にも関心があったようだが、熊楠の方はムー大陸について何か考えを持っていたであろうか。
(参考)「藤野七穂により解かれた『失われたムー大陸』中のキリスト日本渡来説の謎

*1:昭和19年現在の自筆の履歴書による。大正15年の一等入選時の略歴紹介では、東京高等工業学校卒業後、大阪の株式会社芝川商店東京支店染料薬品部に入り、大正10年2月朝鮮京城旭石鹸会社に転じ、同年8月京畿道産業技手、13年2月慶尚北道産業課に転じるとある。

*2:酒井氏の書によると、一等入選の懸賞として、欧米視察の旅費が支給され、朝鮮総督府も旅行中の三好を休職扱いとし、一時賜金を支給とある。

*3:酒井氏が話を聞いた佐川一雄氏(戦後京都府会議長)によると、蒙古行きは元毎日新聞社会長の城戸元亮、蒙古連合自治政府の最高顧問の金井章次、蒙古の司法制度確立のため派遣された控訴院判事の藤井五一郎の三人が介在したという。

*4:論文といっても、小説仕立てでSFである。横田順彌氏か長山靖生氏が紹介していた気がする。

*5:昭和7年8月7日号のほか、同年10月2日号に「歴史の撹乱者MU」