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神保町系オタオタ日記

2018-07-12

洲之内徹と気まぐれな同人仲間

先日紹介した『四国文化』1輯(四国文化社、昭和18年9月)の「感想時評」に出てくる『四国文学』は、戦前洲之内徹同人だった『記録』を改題したもの*1でした。「感想時評」を引用すると、

光田稔の四国文学はどうなつたのか、その後の音信にふれてゐないので分らないが、村上栄子の消息も分らない。光田さんにも、可愛いゝ子飼ひの同人だつたし、書ける人としての友達だつた。放送作品を書いてゐる水城葉子と、彼女とが寄つて語ると、村上栄子は、一番家庭的で静かだつた。私は自分の身辺の私小説しか書けませんとよく云つてゐたが、どうしてゐるか。

長坂一雄氏も四国文学の書き手だつた。この人の確実な筆にのつた作品がほしかつたが、一足先に文藝主潮の同人になつたとの親切な返信に、これらの同人をかかへた光田さんも、どうして[ゐる]か、その後の消息が知りたい。

『記録』(『四国文学』)*2を発行した光田や同人の村上は洲之内の小説「雨台風*3でモデルとして使われている。光田は「私」が戦前治安維持法違反で検挙され、東京の学校を除名されて松山へ帰って来た時に知り合ったA新聞松山支局の記者でプロレタリア作家同盟の支部責任者である「水田」として登場する。水田の指導している電話局の文学サークルのフラク(党員)で美人の「村井なつ子」のモデルが村上である(『洲之内徹文学集成』(月曜社平成20年6月)の「解説ノート」による)。「私」は再度検挙されるが執行猶予で出てきて、地方新聞の記者になっていた水田やなつ子らと松山で同人雑誌を出すことになる。誌名は出てこないが、これが昭和11年8月創刊の『記録』ということになる。なつ子は大阪の兄を頼り松山を離れた後も、短編を同誌に書き、「なっちゃんの短編を集めて、日活多摩川撮影所で映画化する計画」もあったという。「感想時評」によると村上は「私小説しか書けません」と言っていたらしいが、見るべきものがある私小説だったのだろう。「私」が戦後中国から引き揚げて松山で貸本屋を始めると水田やなっちゃんも訪ねて来たという。この辺りもおそらく事実で、洲之内の没後刊行された『洲之内徹君の思い出』(白の会、昭和63年)の光田「風に吹かれて」や村上「治安維持法と青春の仲間たち」を見ればわかるかもしれないが、未見である。

長坂については、洲之内は「性格と心理 長坂一雄論」*4を書いている。洲之内は『記録』同人では長坂についてのみ評論を残しているという。また、「作品ノート2」*5には「長坂一雄という素晴らしく小説の巧い男がいて、年は私より一つ下だった」とある。小説の書き方を教えてもらおうと思い、彼に頼んで「水上氏と川成」という短編小説を合作している。洲之内は戦後、これを「女難」*6という作品に書き直した。「解説ノート」によれば、本名相原重容。戦争末期に召集され、南京野戦病院で戦病死したという。大原富枝『彼もまた神の愛でし子か 洲之内徹の生涯』(ウェッジ文庫平成20年8月)には、「『記録』の中では一番良い作品を書いていた、非常に心のやさしい、大人っぽい落ち着いた青年であった」とある。『記録』には小説を書かず、もっぱら文藝評論じみたものばかり書いていた洲之内だが、戦後は小説を書き三度芥川賞候補となる。長坂が生きていれば、同人仲間として、小説家の先輩としてどういう感想を持っただろうか。

(参考)「戦時下の雑誌統廃合が進む中でも創刊された同人雑誌『四国文化』」

彼もまた神の愛でし子か―洲之内徹の生涯 (ウェッジ文庫)

彼もまた神の愛でし子か―洲之内徹の生涯 (ウェッジ文庫)

*1:大原著によると、同人雑誌『記録』は、昭和13年洲之内が軍属として北支へ渡ることになった時の号から『四国文学』と改題された。

*2:入手困難なようで、あきつ書店が「日本の古本屋」で『四国文学』2巻2号、昭和16年に5011円付けている。

*3:『文脈』16号、昭和32年1月

*4『記録』9号、昭和13年7月か。

*5:『洲之内徹小説全集』2巻(東京白川書院、昭和58年12月)

*6:『文脈』8号、昭和29年10月