神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『柳屋』に登場する北村兼子と井上芳子「『美術と文芸』・『柳屋』について」への補足


 『柳屋』39号「小唄の巻」(柳屋画廊、昭和5年3月)が出てきました。もう開催しなくなった水の都の古本展(中之島公会堂)で数年前にモズブックスから購入。数冊出ていた中から藤田嗣治の表紙のを選んだようだ。2千円位だったか。目次も挙げておく。

 昨年44号「私の巻」を入手した@wogakuzuさんが北村兼子に言及していたが、本号には兼子の「柳小唄」が載ってますね。本誌は柳屋画廊の販売目録で、記載のほとんどが短冊である。その他に色紙、扇子、掛け軸、手紙(本号では夏目漱石)などが僅かに含まれる。本号には、兼子の和歌、漢詩、俳句の短冊やホイットマンを引用する色紙が載っていた。また、『碧燈』昭和5年1月号に載る『柳屋』38号「緊縮の巻」の紹介記事を転載していて、「天民*1の惚ろけの様な歌や北村兼子の逆振つた文を書き並べてゐる、一体柳屋は美人は余程すきと見えて兼子さんの写真を二つも出してゐる」とある。柳屋画廊主の三好米吉は、兼子を気に入っていたようだ。
 柳屋書店時代の三好が大正2年11月に創刊した『美術と文芸』及び柳屋画廊と改称した後の大正11年12月に21号から改題した『柳屋』については、『大阪における近代商業デザインの調査研究』(宮島久雄、平成17年3月)掲載の井上芳子「『美術と文芸』・『柳屋』について」に詳しい。それの「『美術と文芸』『柳屋』 表紙・挿絵・記事リスト」から兼子関係の記事を抽出しておく。

・36号「万巻の書」(昭和3年11月)
「万歳怪談」北村兼子
・38号「緊縮の巻」(昭和4年11月)
「銀座心斎橋四條」北村兼子 大阪朝報昭和4年10月2日
・39号「小唄の巻」(昭和5年3月)
「柳小唄」北村兼子
・40号「柳座の巻」(昭和5年6月)
「北から南へ 新台湾行進」北村兼子 大阪朝報昭和5年3月10日
・41号「柳絵の巻」(昭和5年11月)
高野山」北村兼子 大阪時事昭和5年8月15日
・43号「柳亭の巻」(昭和6年7月)
「頭からみた三好さん」北村兼子
「窓前机後」北村兼子 百華新聞159号
・44号「私の巻」(昭和6年11月)
「ミス・キタムラの三好米吉論点描」しげる・なみき
「読書短信」北村兼子 国民新聞昭和6年3月18日
「北村兼子の告別式」
・45巻[ママ]「川柳の巻」(昭和7年3月)
「大空に飛ぶ 序文より」北村兼子

 兼子は、平山亜佐子『明治大正昭和化け込み婦人記者奮闘記』(左右社、令和5年6月)によれば、昭和6年2月日本初の「エア・ガール」(飛行機添乗員)募集の審査員になったり、7月には飛行免許を取得した。しかし、発注していた飛行機でヨーロッパに向かう予定だったが、免許取得の1週間後に盲腸炎に罹り、手術の予後が悪く腹膜炎を併発して同月26日に享年27で急逝。生き急いだ人生の中で、同年1月に『上方』を創刊した南木芳太郎に会う機会はあっただろうか。
 ところで、井上氏は全67号のほか、附録として発行されたことがわかっているチラシと柳屋支店が発行した『小柳』初号(大正12年6月)もリスト化したとしている。実は私が入手した39号にも附録があるが、リストにないので紹介しておこう。目録としては、恩地孝四郎、島成園や尾山篤二郎の歌短冊、美術書籍など、記事としては竹亭主人「柳屋の緊縮の巻を見て(一)「同(二)」(夕刊大阪昭和4年11月18日・19日)を転載している。「竹亭主人」は、夕刊大阪新聞の常務取締役編輔主幹だった福良虎雄(号竹亭)で、『南木芳太郎日記』に頻繁に登場する。
 井上氏は「短冊や色紙の文字を一つずつ活字にして現代詩歌をちりばめた目録頁や、美術品の頒布会告知の記事にも三好の只ならない熱意と労力が注がれており、資料として価値あるものであることを付記しておく」と書いている。確かに『美術と文芸』や『柳屋』でしか存在の確認できない未知の詩歌句が見つかるかもしれない。

上方郷土研究会が主催した『好色一代男』250年記念西鶴忌


 大阪古書会館の「たにまち月いち古書即売会」で『上方:郷土研究(復刻版)1』(新和出版、昭和44年7月)を購入した。古書ディック出品で300円。1冊300円の棚で上下2分冊だから600円かなと思ったが、函に300円のシールが貼られていて300円で済んだ。ありがとうございます。
 『上方:郷土研究』(上方郷土研究会編、創元社発行)の元版は大阪市立中央図書館の開架で読めるので買わなくてもいいのだが、300円では買ってしまいますね。2~9と索引の巻もあったが残しておいた。誰か買っただろうか。
 パラパラ見ると、8号(昭和6年8月)は「西鶴記念号」、9号(同年9月)に南木生「西鶴忌」掲載。後者の一部を引用しよう。

 昭和六年八月十日は大阪の生んだ文豪井原西鶴翁逝いてより二百三十八年に当る。又画期的小説一代男を著述せる天和二年より恰も二百五十年の詳[ママ]月命日に相当する。(略)西鶴に至つては元禄文学喚[ママ]発の尤たるもの、その霊、その墓を今日まで弔ひ行はれなかつた事は甚だ遺憾の極みである[。]本会茲に感ずる処あり、西鶴忌を修行し、以後年々歳々俳句の季題として西鶴忌を永久に営まれん事を世の俳人に提唱したのである。(略)玄関にて署名を乞ひ記念はがき及展観目録を渡し、書院にては陳列せる左記の著書遺墨を展観、休憩に宛てた。
  展観目録
(略)

 そういえば、この「記念はがき及展観目録」に当たる物を持っていたことを思い出した。誓願寺で開催された西鶴忌の式次第・展観目録が記載された紙と絵葉書2枚*1、更に昭和6年5月27日~6月3日大阪三越で開催された「西鶴記念展覧会」の目録の合計3点である。令和3年4月大阪古書会館で厚生書店出品、3千円。
 南木芳太郎が書いた前記「西鶴忌」に載る「来会者名簿(記名順)」の154人の中から目につく名前を拾っておく。この中に私が入手した西鶴忌関係史料の旧蔵者がいれば嬉しいが、何の痕跡も無く残念である。

中井浩水*2 玉樹芦城*3 鹿田文一郎 三宅吉之助 川崎巨泉 高安吸江 水木十五堂 水木直箭 福良虎雄 野田別天楼*4 藤原せいけん 上田長太郎 生田花朝女 魚澄惣五郎 高梨光司 多田莎平 松瀬青々*5 野間光辰 入江来布

西田幾多郎記念哲学館で中田邦造展開催中ー中田邦造や東田平治に関する講演会もー


 今や「居場所としての図書館」の筆頭として脚光を浴びる石川県立図書館(田村俊作館長)。同図書館の戦前における館長(昭和6~15年)として中田邦造がいた。西田幾多郎の門下生でもあったので、現在石川県かほく市西田幾多郎記念哲学館で「図書館社会教育の実践者ー西田幾多郎の弟子、中田邦造ー」が開催中(~9月29日)である。哲学館館長による中田に関する講座も予定されている。
 また、中田と共に読書会運動を進めた東田平治に関する展示「かほく市における読書会活動ー東田平治中田邦造ー」が、かほく市立中央図書館で開催中(~9月20日)である。こちらでは、元かほく市七塚図書館館長による東田に関する講演会が予定されている。
 中田といい東田といい、一般の人には知られていないだろう。私は書物蔵氏のブログや『文献継承』への寄稿を愛読したので、名前を覚えてしまった。更に東田の『わたくしの読書会経営』(有朋堂、昭和19年9月2刷)を持っているぐらいである*1
 図書館史や西田に関心のある人は、是非観に行きましょう。

 

*1:中田の単著は持っていないが、中田編『秋村翁追懐録』(秋村翁追懐録編纂会、昭和12年12月)は持っている。「大東亜図書館学の小川寿一旧蔵『趣味之北日本』(郷土研究社)と谷村一太郎、そして中田邦造 - 神保町系オタオタ日記」参照

『京都大学大学文書館だより』45号に渡辺恭彦「教職追放を受けた京大教員」掲載


 先日何十年か振りに哲学の道を歩いてきた。疎水にできた花筏や風に舞う花吹雪を味わいながら、私も京都学派の一員になった気分であった。そうすると、『京都大学大学文書館だより』45号(京都大学大学文書館、令和5年10月)に渡辺恭彦「教職追放を受けた京大教員」が掲載されていたことを思い出した。
 戦後公職追放や教職追放を受けた京大の教員については、このブログで「学内の権力闘争に敗れ教職追放となった京都学派の西谷啓治と鈴木成高 - 神保町系オタオタ日記」を書いたり、旧Twitterで↓のようにつぶやいたことがある。

 今回、渡辺先生が大学文書館所蔵資料に基づき文学部で教職不適格の判定を受けた松村克己、西谷啓治鈴木成高の経緯について明らかにしてくれた。ネットで読めます。→「Kyoto University Research Information Repository: 京都大学大学文書館だより 第45号
 渡辺先生が書いておられるように、高坂正顕高山岩男は、大日本言論報国会理事を理由として教員適格審査委員会の判定を経ずに自動的に不適格となっている。この点、『物語「京都学派」:知識人たちの友情」と葛藤』(中央公論新社)で高坂・高山は公職追放、西谷・鈴木は教職追放と区別した竹田篤司は誤っていたことになる。私も一時期竹田と同じ認識であった。正しくは、高坂・高山は公職追放と教職追放、西谷・鈴木は教職追放ということになる。
 こういう大学の影に当たる事実でも忌憚なく研究・公開する京大の姿勢は、誇らしいものがある。ぜひとも、公職追放や教職追放に関する展覧会も実施してほしいものである。

パステル画家矢崎千代二と近角常観を繋ぐネットワーク


 何となく面白そうと思って横田香世『パステル画家矢崎千代二:風景の鼓動を写す』(思文閣出版、令和5年6月)を読んでみた。そうすると、71頁に驚く記述を発見。大正8年に中国旅行から一旦帰国した画家矢崎が渡印の援助を求めた可能性のある人名の一覧に関する記述である。「スクラップブック」のインド関連資料の中に貼られ、22名の名前が記されていた。一覧の端には「○印は交渉済み」と書かれていた。そして、

 その○印がつけられた一四名を記載順に記すと、近角先生(近角常観か)、帝大講師・常盤大定、帝大教授・高楠順次郞、帝大講師・島地大等、帝大学士員[ママ]*1会員・南條文雄、文学博士・前田慧雲、帝大教授・村上専精、文部省技師・中川忠順、孝修[ママ]*2官・荻野仲三郎、帝大教授・瀧精一、藝術院長・森鴎外、帝大教授・伊東忠太、宗教局長・柴田局長、常盤(ママ)井尭猷(常磐井尭猷)となっている。また、○印は付されていないが「西・大谷光瑞上人、東・大谷光演上人」の名もあり、ほとんどが仏教学者、宗教家である。

( )内は横田氏による注、[ ]内は神保町のオタによる注

 引用文に名前が出てこない残りの6名は、一覧の写真を見ると、正木直彦、大村西崖、□本□三郎、關野貞、九鬼隆一、榊博士である。「□本□三郎」は紙の折り目の部分に書かれていて肩書きも含めて判読しにくいが、当時京都帝国大学文学部教授だった松本文三郎と思われる。榊博士は「京帝大教授」の肩書きがあるので、榊亮三郎である。
 これらの人物の関係を調べてみよう。「近角常観研究資料サイト」で見られる近角常観が主宰した『求道』1巻1号(求道発行所、明治37年2月)掲載の「求道会館設立趣意書」の賛助者として、荻野*3、高楠、常盤、南條、前田、松本、村上の名がある。また、一覧の肩書きに「帝大教授」とあるのは東京帝国大学教授のことで、記載がないものの前田は同大学文学部講師(印度哲学)、中川は同学部講師(日本美術史)でもある。更に、岩田文昭『近代仏教と青年:近角常観とその時代』(岩波書店平成26年8月)32頁に書かれているように、常盤は近角と同じ明治31年東京帝国大学文科大学哲学科卒業である。前年には瀧が同科を卒業など、半数が東大卒である。
 この一覧について、横田氏は、各人の肩書きや氏名は矢崎の筆跡ではないと思われるが、「○印は交渉済み」の覚書は矢崎本人が記したものと判じられるとしている。とすると、矢崎から支援者の候補を尋ねられた人物が矢崎に渡した一覧だろうか。近角を「先生」と呼び、多くの仏教学者や宗教家とネットワークを持っていたと思われるこの人物は、いったい誰だろうか。

*1:正しくは、帝國学士院

*2:正しくは、考證

*3:「萩野仲三郎」と誤植

上林暁の妻徳廣繁子と徳正寺の井上正子ー京都第一高等女学校の同窓会誌『鴨沂会雑誌』ー


 井上迅編『ためさるる日:井上正子日記1918-1922』(法藏館、令和5年11月)大正11年5月11日の条に鴨沂会が出てくる。鴨沂会は、正子が同年4月本科5年に入学した京都府立京都第一高等女学校の同窓会である。同会の機関誌『鴨沂会雑誌』を数冊持っているので、パラパラ見てみた。すると、53号(京都鴨沂会、大正12年12月)の「会員名簿」の「大十二、本」の条に「在国 京都市富小路四条南三十九 井上正子」とあった。前掲書の略年譜によれば、正子は同校本科を大正12年3月卒業後、同年4月同校国語漢文専攻科入学、15年3月卒業である。残念ながら、正子の寄稿はないが、名前を見つけただけで嬉しくなる。
 もう1冊、66号(京都鴨沂会、昭和5年7月)の「転居改姓」に「昭二本 東京市本郷区駒込駒込アパートメント 田島改 徳廣繁子」とあった。上林暁(本名・徳廣巖城)の妻繁子ですね。山本善行編『文と本と旅と:上林暁精選随筆集』(中公文庫、令和4年7月)の「京都の思い出」*1によれば、繁子は錦林小学校卒業後の第一高等女学校5年生だった大正15年の夏に上林と見合いしている。逆算すると、大正11年に同校入学である。正子とは、4年間在学期間が重なる。学年が異なるので、話す機会はほとんど無かったかもしれない。しかし、正子と繁子が女学校で同じ空気を吸っていたと思うと面白い話である。

*1:初出は、『洛味』昭和25年4月号

『京都吉田忠商報 きもの』へ寄稿した作家・詩人達ー大阪高島屋の今竹七郎と吉忠の上田葆の時代ー

 平成17年10月から11月にかけて西宮市大谷記念美術館で、「生誕100年 今竹七郎大百科展」 が開催された。南陀楼さんがブログ「朝6時に大阪で、夜10時は神戸だった - ナンダロウアヤシゲな日々」で紹介されていたので、私も観に行ったと思う。図録を見ると、今竹が表紙を描いた京都の吉田忠商店(現吉忠)の商報『京都吉田忠商報 きもの』4冊がカラーで掲載されている。表紙が今竹というだけで注目すべき雑誌だが、寄稿者も超絶であった。
 京都の古書店ワキヤ書房の脇清吉が主宰した『プレスアルト』22・24輯(プレスアルト研究会、昭和13年10月・14年1月)に掲載された上田葆(吉田忠商店宣伝部長)「編輯者の手帖」から商報に寄稿されたであろう随筆、詩などを要約しておこう。

10月19日 邦枝完二、藤澤桓夫が執筆快諾。宇野千代から「バタ臭さと粋さ」
10月22日 小寺菊子から「色に苦労する」
10月26日 南海高島屋に今竹を訪ね、12月号の表紙を依頼
10月27日 椋鳩十から原稿
10月29日 宮本三郎のカット(ほとんど裸婦)
11月19日 深尾須磨子から「きものの幻想」
11月23日 吉田謙吉が原稿承知。吉井勇から随筆に代えて「きもの」に関する歌15首にしたいという手紙
12月4日 堀口大學から春の主調色に因んだ詩
12月7日 次の表紙に今竹、カットに新人金野*1を推薦
12月13日 宇野三吾を訪ね、田中佐一郎と海老原*2のカットを貰う

 豪華な執筆、挿画陣ですね。この商報は、国会図書館サーチや美術図書館横断検索では全くヒットしない。『大阪における近代商業デザインの調査研究:2000年度サントリー文化財団助成研究報告』(平成14年10月)の下村朝香「戦前までの今竹七郎のデザイン活動」により、大谷記念美術館が昭和13年12月号~14年6月号までの7冊を所蔵していることが確認できるぐらいである*3。戦後も発行されていて、安西冬衛の日記*4昭和26年4月9日及び11日の条で吉忠の上田葆に「きもの」の詩の原稿を渡したことが分かる。いったいどれだけ未知の随筆、詩、短歌、表紙、挿画が埋もれていることか。ある程度は吉忠に残っているのだろうか。

*1:金野弘と思われる。

*2:海老原喜之助と思われる。

*3:追記:大阪中之島美術館が『プレスアルト』8輯(昭和12年8月)、13輯(13年1月)、14輯(同年2月)、17輯(同年5月)に綴込まれた商報を所蔵しているようだ。

*4:安西冬衛全集九巻』(寶文館出版、昭和57年7月)