Hatena::ブログ(Diary)

神保町系オタオタ日記

2011-06-28

[]監獄部屋(タコ部屋)撲滅運動家だった中山忠直

『近代日本社会運動史人物大事典』には名前の出てこない中山忠直だが、本人によると監獄部屋(タコ部屋)撲滅運動に尽力したという。『日本に適する政治』(中山忠直、昭和15年11月)によると、

明治から大正十年頃まで、北海道樺太に監獄部屋とて、人夫を誘拐して強制労働せしめる奴隷制度があつた。安部磯雄、鈴木文治の如き労働運動家も、命が惜しくて手出しが出来なかつたモノである。ここに於てか余は輿論を捲き起し、当時の一大社会問題と化せしめて遂に警保局(当時の局長後藤文夫)との戦ひに勝ち、北海道に移動警察制度を設けさせ、この悪制度は日本から地を払つた。コレは真に命がけであつた。二十七歳の時である。

この監獄部屋を打破して見て、この悲劇の原因が資本主義制度の欠点でなく、実は罪は労働者の側にあることを覚り、ここに於て西洋的改革の愚を覚り、過去の一切を清算して、真の日本主義を自覚し(二十九歳)。その第一著として漢方医学復興の叫びを上ぐるに至つた(三十二歳)

中山が数え27歳となるのは、大正10年。中山啓名義の「『監獄部屋』に就て」は『中外』大正10年8月号掲載。後藤文夫が内務省警保局長だったのは、大正11年6月〜12年10月。中山が運動をしたのは、大正10年から11年にかけてと見てよいか。

また、ヨコジュンさんが某誌で連載した中山の評伝「中山忠直を取り巻く人々 明治快人録」で言及しているが、宮武外骨私刑類纂』(半狂堂、大正11年10月)の「此世の活地獄(監獄部屋)」に「今春中山啓子等が此非人道事実を捉へて『監獄部屋打破の叫び』といへるを発行し、社会問題として大に輿論を喚起せし」とある。この『監獄部屋打破の叫び』と同題の本が、白石健次郎著で大正11年5月に全国土木総同盟会から発行されているが、外骨が中山の記として引用している文章はなく、別物のようだ*1。いずれにしても、この中山の監獄部屋撲滅運動については、どなたか関心のある人に研究していただきたい。

このように一時期は社会運動家で、ヨコジュンさんによると堺利彦の売文社にも加わっていたと言う中山だが、前掲書では、次のような驚くべき告白をしている。もっとも、当時中山がそれほど大物だったわけではないから、いささか信じがたい告白である*2

今だから告白するが、大杉栄の葬式の時、大杉の遺骨を奪はせ、大切に某所に安置し、世間に大騒ぎさせたのも余であつた。岩田文(ママ)夫はアレで有名になつた

(参考)「北叉箸猟鏤卉羯碍=中山忠直」(4月27日

*1:なお、外骨が引用する中山の二つの文章のうち、一つは『中外』掲載の論説と一致する。また、同論説中に誘拐業者の氏名を「白石氏」から聞いたと書いている。

*2ヨコジュンさんは当時の新聞に中山の名前が出てくると書いていたが、確認できなかった。しかし、取調べを受けた大化会会員の中に石黒敬七の名前を見つけ、驚いた(大正12年12月20日付東京朝日新聞)。

2011-06-24

[]微苦笑の人久米正雄とモダーン・ガールの人北澤秀一

長野まで行かなくても、薄井秀一=北澤秀一に関して幾つかの発見があった。東京朝日新聞とは別の死亡広告に、親戚総代として、北澤新作、清水金右衛門、西澤豊三郎、薄井登一郎の名前があった。北澤側の資料から「薄井」が出てきたことになる。

あと、東京朝日新聞の訃報では、帰朝後日活宣伝部長とあったが、別の訃報には、「大正八年仏(ママ)国に留学帰朝後は日活計画部長」とあった。加茂令堂『日活の社史と現勢』(日活の社史と現勢刊行会、昭和5年12月)の「歴代の幹部」にも「計画部長−−(初)北澤秀一(爾後廃止)」とある。しかし、計画部長の方が正しいかと思いきや、『日本映画事業総覧昭和3・4年版』の「昭和二年映画界重要記事」の8月25日の項には「元日活宣伝部長北澤秀一氏軽井沢にて死去」とある。どちらが正しいのか、どちらも正しいのか判断がつかない*1

また、薄井と読売新聞記者時代の同僚で、北澤が軽井沢ホテルで亡くなった翌日、ホテルに久米正雄を訪ねてきた正宗白鳥が、昭和3年9月2日付読売新聞の「寒山の詩」に「去年まで活動写真興行に来てゐた北澤秀一君も、今年は追悼映画会を催されるやうになつた」と書いている。更に同日の「よみうり抄」には、

▲故北澤秀一氏追悼会 久米、東、根岸、松崎氏等主催で五日夜六時から尾張町松本楼で一周忌追悼会開催

とある。昭和3年9月5日に久米、東健而、根岸耕一、松崎天民らの主催で北澤の一周忌追悼会が開かれたようだ。これによっても、久米と北澤の親密度がうかがわれる。

(参考)「久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一」(その1)、(その2)、(その3

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表現急行」氏が、木股知史先生と知り、冷や汗をかく。

*1:大正13年の座談会での肩書きは、日活計画部長だった。

yukunoki-ayukunoki-a 2011/06/24 18:10 木股知史先生! 『画文共鳴』が出た時、書店に走りました。

jyunkujyunku 2011/06/25 06:37 走りはしませんでしたが、私も読みました。

gothitgothit 2017/09/13 18:59 次のような記事がありました。ご参考まで。

https://courrier.jp/columns/93002/
漱石と「モダンガール」創始者とロンドン娘の恋文と…|夏休み特別ノンフィクション

Text and Photo by Toyoo Kitazawa
北澤豊雄 1978年長野県生まれ。コロンビアの先住民族とサッカーに興味を持ち、2007年から取材を続けている。「Sports graphic Number」や「旅行人」に執筆。本編の主人公、北澤秀一の曾孫にあたる
2017.8.17

jyunkujyunku 2017/09/14 06:16 全然気付いていませんでした。これは凄いですね。ありがとうございます。

2011-06-17

[]久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その3)

6 北澤秀一としての活躍

薄井秀一は大正11年には帰国したと思われる。阿部の日記に、

大正11年4月13日 六時約に従つてライオンに北澤(薄井)小宮をたづね帰つたあとで一人で銀座を散歩して帰宅

とある。実は、この「北澤(薄井)」という記述で、北澤秀一と薄井秀一が同一人物と判明したのであった。大正8年10月出国、11年帰国であれば、天民が北澤の滞英期間について三年と書いていることとおおむね一致する(『人間見物』騒人社書局、昭和2年11月)。ただし、薄井が大正10年以前に帰国している可能性は否定できない。薄井は、渡英後なぜか、長梧子(昔、薄井が使用した筆名だ)、北澤長梧や北澤秀一の名前で活躍している。私は最近まで薄井が本名で、北澤は筆名だと思っていたのだが、北澤の死亡広告に父親の名前が北澤太兵衛とあるのを発見。「薄井」は養子先の名前で、その後何らかの理由により、北澤に復姓したのだろうか。

渡英後の作品としては、

長梧子(在倫敦)「英国一の人気者 エツピングの森に於ける英国皇太子の誕生祝」『読売新聞』大正10年7月25日

北澤秀一(在倫敦)「何拠に!罷業騒ぎ−スポートに熱中の英国民−」『読売新聞』大正10年7月27日〜30日

北澤秀一(在倫敦)「英国婦人と日本 ライシアム倶楽部の日本部発会式」『読売新聞』大正10年8月6・7日

長梧子(倫敦にて)「滞英雑記」『読売新聞』大正11年11月29日〜12年1月23日

北澤秀一『近代女性の表現』(改造社、大正12年4月)・・・上記を再構成したもの

北澤長梧「モダーン・ガールの表現−日本の妹に送る手紙−」『女性改造』大正12年4月

エリナ・グリーン著、北澤秀一訳『三週間』新光社、大正12年5月

北澤秀一「テームス河の舟遊び」『女性』大正13年7月

北澤秀一「モダーン・ガール」『女性』大正13年8月

北澤秀一「英国婦人の誇り」『女性』大正13年10月

北澤秀一「丸ビル中心の現代文明論」『婦人公論』大正14年4月

北澤秀一「東京百鬼夜行録 ショップ・ガール」『改造』大正14年4月

がある。また、大正11年10月24日付東京朝日新聞「学藝たより」には、25日今半で「浅草の会」を開催し、澤田正二郎や北澤らの講話がある旨の記事がある。このように帰国後は、薄井の名を使うのを止めたのかと思いきや、薄井長梧名義も併用されていて、次のような作品がある。

「ワイルドの贈り物 三十年間埋もれてゐた脚本」『読売新聞』大正13年10月13日

「メレデイスの家」『随筆』大正13年12月

「「丸ビルの女」の顔・服装・表現」『婦人公論』大正14年4月

興味深いのは大正14年4月の『婦人公論』(「丸ビル中心の文化」号)で、北澤秀一名義と薄井長梧名義の両方の論考が掲載されている。一人二役である。

7 北澤秀一と久米正雄の関係

北澤と久米は、久米が「破船」事件で夏目家への出入りが禁止される前に面識があったと推定しているが、親しくなったのは、帰国後の大正12年晩春に日活の宣伝部長に就任してからと思われる。両者が同席した座談会としては、

「民衆藝術としての活動写真批判会」『女性』大正13年2月・・・司会・小山内薫、久米、倉橋惣三(東京女子高等師範学校教授)、権田保之助(内務省社会局嘱託)、乗杉嘉壽(文部省社会教育課長)、山田耕作、斎藤佶三(東京美術学校教授)、柴田勝衛、吉田修(成女高等女学校長)、菅原教造(東京女子高等師範学校教授)、橘高廣(警視庁検閲係長)、高野六郎(内務省衛生局防疫課長)、芦田均(外務省欧米第一課長)、北澤(日活計画部長)、帰山教正(藝術的映画製作者)、根元茂太郎(プラトン社代表員)

「演劇新潮談話会第五回(芝居漫談)」『演劇新潮』大正13年6月・・・城戸四郎、山本久三郎、北澤、小村欣一、伊原青々園、中村吉蔵、長田秀雄、久保田万太郎、久米、山本有三、菊池寛

「映画の進み行く道 フランスの若き俳優ジャック・カトレン監督主演「嘆きのピエロー」合評会」『苦楽』大正14年4月・・・「良い映画を讃める会」会員久米正雄、東健而、廣津和郎、北澤、橘高廣、森岩雄、日活支配人根岸耕一

がある。「良い映画を讃める会」というのは、大正13年12月12日付読売新聞(「良い映画を褒める会」とある)によると、久米、東、近藤経一が発起人で組織したものだという*1。久米と日活との関係は、小谷野氏の方が何か知っているかもしれない。

8 あの日記に記録されていた北澤秀一の死

菅先生や女性学の研究者は気付かなかったが、北澤の死の前後は、ある作家の日記に書かれていた。

昭和2年8月13日 蚤く起き出でホテル門外の街を歩む、偶然活動株式会社の北沢氏に会ひ(略)北沢氏の紹介にて始めて国木田独歩の男乕男氏夫妻と語る、夫人は女優六条氏の妹なりと云ふ、断髪にして洋装なり、ホテルの食堂にて昼餉を倶にす、

    8月17日 北沢氏国木田夫妻と卓を共にして昼餉をなす、

国木田「乕男」夫人とは、のちに団鬼六の母となる人だろう。この時点ではまだ、離婚していなかったようだ。北沢とこの日記の筆者との関係も今後の宿題である。

昭和2年8月20日 晡時茶を喫して将にホテルを出発せむとする時、北沢氏新橋の阿嬌こずゑを携へて来る、笑語すること少時にして車来りしかば東京の再会を約して停車場に赴く

    8月24日 残暑忍ぶべからず(略)再びスートケースを提げて倉皇として上野停車場に赴くに、図らずも日活会社の北沢氏愛妓を伴ひて来るに会ふ、同じく苦熱に堪えずして北行すべしと云ふ、倶に失笑して列車に乗る(略)一同相携へて軽井沢ホテルに入る(略)

    8月25日 ホテルに帰り来るに北沢氏今暁急病遽に発し、土着の医師を招ぎ注射をなし一時静穏なりしが、今また医師来りて再診中なりとの事に驚きて其室に抵り見るに、面色既に土の如く猶温味はありしかど呼吸は絶えゐたり(略)妓こずゐ殆為すべき所を知らず、余百方之を慰撫し先電報を諸方に発す、晩間に至り北沢家の人人次第に来り、深夜亡骸を自働車にて運び去れり、この際北沢氏の細君と愛妓との応接稍ともすれば円滑ならず、居合わすもの心を労すること甚少からず、久米正雄日活会社々員某々氏等深更ホテルに到着す(略)久米氏食堂にて梢と共に語りあかさむと言はれしが余既に疲労に堪えず、先に辞して寝につけり、

   8月26日 午前正宗白鳥ホテルに来り久米氏を訪ふ、余旅中其情郎を喪ひたる梢子の心中を推察し久米氏と共に勧誘して強ひて街を散歩す(略)午下二時の列車にて久米氏梢を扶けて帰京す、

白鳥は読売新聞記者時代に薄井と同僚だったが、その後も交際を続けていたのだろうか*2。この日記により、久米が北澤の亡くなった日に駆けつけ、翌日北澤の愛妓を送って帰ったことが判明し、北澤とは相当親しかったことがうかがえる。昭和2年9月10日付読売新聞に、映画関係の各団体が発企者となり14日伝通院で追悼法要、式後同院前の西川洋食部で追悼会を開催する旨の記事がある。日記の筆者は出席しなかったようだが、久米は出席したであろうか。

さて、この日記だが、私のブログの常連である文学好きの人、特に小谷野とん氏、盛厚三氏、林哲夫氏、松本彩子さん、広島桜氏、晩鮭亭日常氏、黌門客氏、かぐら川氏、菅原健史氏らには文体から既にわかっているだろう。『断腸亭日乗』として知られる日記である。


(あとがき)北澤の「映画本質論 我国の製作者及び批評家に送る」は、『映画時代』昭和2年9月号から連載を開始したが、10月号・11月号に(二)・(三)が遺稿として掲載された。また、北澤の葬儀が行われた長野市の寺や娘の名前も別途判明している。葬儀では東京朝日新聞社グラフ部次長だった星野辰男(筆名・保篠龍緒)の弔電のみが代表として披露されたという。いつか長野で現地調査して、本稿の(その4)を書く日が来るであろう。

*1:この他、北澤と映画関係の団体としては、大正15年11月9日付東京朝日新聞夕刊によると、同月7日映画事業に関する人々の社交機関「大日本映画クラブ」が、森岩雄、星野辰男、北澤らの映画批評家、柳井義男、田島太郎、橘高廣らの検閲官、アーベック、コクレン、オーコンナーらの配給者、日活の根岸(耕一)支配人、西本(聿造)営業部長、松竹キネマの堤(友次郎)常務、城戸(四郎)所長、山本嘉一、井上正夫らの発企で発足したという。

*2:ただし、白鳥は、北澤の死を聞いて駆けつけたわけではなく、昭和2年7月15日・16日付読売新聞「軽井澤にて」によると、梅雨の頃から軽井沢に滞在していた。

2011-06-16

[]消えた大西小生

薄井秀一=北澤秀一はちと一休み。昔々大西小生という人がいた。いや、今もいるはずだが、主宰していたホームページ「新「アリス」訳解」は2009年以来消滅したままである。小谷野敦『リアリズムの擁護 近現代文学論集』(新曜社、2008年3月)所収の「岡田美知代と花袋「蒲団」について」に、

「田中秀夫」のモデルの永代静雄についても、『不思議の国のアリス』の翻訳もしていることなど、あまり知られていないが、これについては在野の研究家大西小生が、私家版『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』(ネガ!スタジオ、二〇〇七年)を出している。(略)永代静雄を中心として事実関係をよく調べたものだが、永代と美知代に肩入れして、「蒲団」に描かれたような二人の実事を否定しており、承伏しがたい。

と言及された人物である。黒岩比佐子さんの「古書の森日記」にも何度かコメントした人で、たとえば2008年5月22日分には、

1. Posted by 大西小生 2008年05月22日 16:01

永代静雄研究者の大西です。

『不如帰』の柳の下のドジョウを狙った作品については 大屋幸世先生の『書物周游』(朝日書林、1991.)所収「「不如帰」余波」に詳しく書かれてますね。

横田順彌先生が、この本で永代静雄の『終篇(しゅうへん)不如帰』を知り、その後、古書通信などで取り上げて(『古書ワンダーランド 1』所収)、蒐集家の間で永代のことが有名になったわけです。

まぁ内容のわりに永代の本の古書価が釣り上がるといった弊害もあったんですが。

http://www.eonet.ne.jp/~shousei/alice/diary07_6.html

私としては、勝手ながら横田先生の研究を引き継いでるつもりです。

2. Posted by 大西小生 2008年05月22日 16:03

5年前に横田順弥先生からいただいたハガキによれば、横田先生が大屋幸世先生に『終篇 不如帰』の話をしたところ、その本は手離したあとだが探してあげよう、と言って大屋先生が神保町の古書展を駆け回って見つけてくれたとのことでした。ちょっとした表現を悪意に受け取ってネチネチ批判する専門研究家や先行研究家は多いが、そういう方もおられます、と横田先生の非常に感謝していたことが印象に残ってます。

3. Posted by Hisako 2008年05月22日 19:57

大西さま、コメントありがとうございました。永代静雄が『終篇不如帰』を書いていたというのは、記憶にありませんでした。しかも、垂直離陸機(ヘリコプター)が登場するとは……。大正に入ってからもそうしたタイトルで本が出ていたということは、本家本元の『不如帰』の人気が、それだけ長く続いていたということでしょうね。

横田順彌さんがお書きになったことで、古書価が上がった本というのはいろいろあるようですね。ご本人がそう言っていらっしゃるのを、私も聞いたことがあります。それでも、古い本を全部コピーして読むのは大変ですし、高くてもしかたがない、と清水の舞台から飛び降りることも……。

この後もコメントのやりとりは続くが省略。これによると、ヨコジュンさんにも接触していたようだ。今頃、どうしているのかしらね、別の名前で活躍してるのかしら。大西氏の前掲書は読んだが、未読の『解題「女皇クレオパトラ」「大ナポレオンの妻」』は日本近代文学館に行ったときに読もうか。

jun-jun1965jun-jun1965 2011/06/16 23:01 大屋先生は鶴見大にいないけど、定年?

2011-06-15

[]久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その2)

1 生年

薄井の生年は不明だが、

松崎天民『人間見物』(騒人社書局、昭和2年11月)に北澤秀一は明治11年生まれの天民より若いとある*1

・米窪太刀雄『海のロマンス』(誠文堂書店・中興館書店、大正3年2月)の「はしがき」で、明治14年生まれの米窪は薄井を先輩と呼んでいる

・赤木桁平の追悼録、永井保編『池崎忠孝』(池崎忠孝追悼録刊行会、昭和37年10月)の松岡譲「『明暗』の原稿その他」に薄井は明治24年生まれの赤木より年長とある*2

これらにより、薄井=北澤は明治12年か13年生まれと思われる。

2 幼少期

薄井秀一の幼少期についても、不明である。横田順彌さんは薄井の長野県における出身中学は判明していると書いておられるが、私には確認できなかった。

3 読売新聞記者時代

明治39年には読売新聞記者となっている。初芝武美『日本エスペラント運動史』によると、明治39年5月16日、17日同新聞に掲載された黒板勝美文学博士の談話「世界語(エスペラント)」は、読売新聞記者薄井秀一の筆になるものという*3。また、同書によると、同年6月12日神田一ツ橋学士会事務所で黒板、安孫子貞次郎、薄井が発起人となり、協会設立の相談会が開かれ、日本エスペラント協会が発足。薄井ら三名は幹事となった。評議員の中には、足立荒人(読売新聞主筆)、堺利彦、高楠順次郎、田川大吉郎(都新聞主筆、のちに東京市助役(明治41年10月〜大正3年10月))、山縣五十雄(萬朝報記者)の名前がある。

この年の薄井の動向は、夏目漱石全集所収の薄井宛書簡でも見ることができる。10月29日付の「本郷区森川町四番地蓋平館 薄井秀一」宛書簡では、薄井の日曜文壇への執筆依頼に対し、近刊の『文学論』の序ではどうかと書いている。この序は、11月4日の読売新聞に掲載された。40年2月漱石は東京朝日新聞社に入社。同年3月13日付「下谷区上野桜木町丸茂病院 薄井秀一」宛書簡では、病気の見舞いとともに、依頼された『鶉籠』(春陽堂、明治40年1月)を小包で送ったことが書かれている。漱石との親しさがうかがわれる。

4 東京朝日新聞記者時代

漱石を追いかけた訳ではなかろうが、41年5月には薄井も東京朝日新聞社入社*4。同社での活動としては、やはり御船千鶴子や長尾いく子の透覚・千里眼や鈴木文殊の神通力を研究した長梧子名義の「神通力の研究」(明治43年10月28日〜11月12日)、「神通力の発言」(同月13日〜25日)が重要だろう。この連載を修正増補したものが、薄井秀一の名前で刊行した『神通力の研究』(東亜堂書房、明治44年3月)である。このほか、長梧子の名義で、

「飛行界の不振」 大正元年11月6日〜11日

「顛倒せる飛行界」 大正元年11月20日〜27日

「飛行機と飛行船の優劣」 大正元年12月1日

「透視と念写の可能(上)・(下)」大正2年8月14・15日

の記事が確認できる。横田さんによると、太田雅夫編『新装版 桐生悠々伝 思い出るまま・他』(伝統と現代社、昭和55年10月)に「東京朝日新聞記者だった私の友人故薄井秀一氏は一時は同新聞の飛行機係であった」とあるという。また、薄井秀一名義で『太陽』に

「飛行機と飛行船の優劣」大正元年12月

「飛行隊を有せざる海軍」大正2年6月

「陸軍の眼目たる飛行隊」大正2年11月

を書いているという。

松崎天民は、明治42年1月国民新聞社から東京朝日新聞社に移ったが、その時、同社社会部には山本笑月、西村酔夢、坂元雪鳥、薄井秀一、美土路昌一がいたとしている(『人間秘話』文行社、大正13年9月)。薄井が社会部に属したというのは、北澤秀一の訃報に「東朝社会部に在」ったということと一致する。

薄井は、この東京朝日新聞時代に漱石とより親しくなったと思われる。漱石の大正3年9月5日付小宮豊隆宛書簡には、朝日新聞に小説を書きたいという小宮に対し、漱石は我慢して外に廻してくださいと言いつつ、薄井にでも頼んで山本(笑月)に話してもらいなさいとも言っている。また、知人・門下生に書画を揮毫したときのメモとされる同年の「断片六〇」には、「○薄井秀一(柳ト釣スル人着色小形)」とある。

後にモダーン・ガール論を展開する薄井だが、東京朝日新聞時代に既に次のような婦人論を執筆している。

「新しい女と卵細胞」『中央公論』大正2年5月号

「近代婦人思想の出発点」『中央公論』婦人問題号(大正2年7月)

「近代婦人の貞操観」『太陽』近時之婦人問題号(大正2年6月)・・・薄井長梧名義

「『予が婦人観』と僕の婦人観」『新仏教』大正2年8月号

「自覚せる新女徳の価値」『大正婦人』大正2年6月号?(未見)

「女子の潜在能力と婦徳」『新真婦人』第21号(大正4年1月)*5

大正2年8月26日付東京朝日新聞の楚人冠「カルヰザハ(下) 別荘開き」には、「一軒おいて隣の薄井長梧子」が出てくる。この頃、薄井は軽井沢に別荘を持っていたようだ。

この後の薄井については、横田さんは、山中峯太郎らが大正6年4月1日付で東京朝日新聞を追われた淡路丸偽電事件*6で薄井は逮捕されなかったが、何らかの形で事件に係わっていたことは間違いなく*7、その後の消息がたどれないとしている。しかし、阿部次郎の日記でその消息をたどることができる。同日記には、薄井が大正5年8月から7年9月にかけて、帝劇、市村座、有楽座で、漱石夫人鏡子や阿部、小宮らの門下生と観劇していることが記されている。小谷野敦『久米正雄伝』でも言及された6年10月29日帝劇の藤間右衛門舞踏会で、阿部は、鏡子、久米、赤木、松岡らに会ったと書いている*8。このとき、薄井もいた可能性がある。今のところ、久米が夏目家に出入り禁止となる「破船」事件前に、久米と薄井に面識があったことの確認はできていないが、知り合っている可能性は高いと思われる。

5 渡英

大正8年10月薄井は英国へ渡ることとなる。阿部の日記によれば、

大正8年10月18日 (略)それから日本橋錦水に薄井秀一英国行送別会出席小宮松岡及び朝倉文夫*9成瀬正一坂口萬朝編輯長等と一緒になる。十時散会、夜寒し

とある。なお、北澤は『近代女性の表現』(改造社、大正12年4月)で大正8年にロンドンへ来たと書いており、薄井と渡英時期が一致している。

(続く)

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東京堂書店のホームページによると、

若松英輔氏(批評家)×安藤礼二氏(文芸評論家)トークイベント

『井筒俊彦―叡智の哲学―』(慶應義塾大学出版会)刊行記念

「いま、なぜ井筒俊彦か」

若松英輔(わかまつ えいすけ)

1968年生まれ。批評家。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。

「越知保夫とその時代」(『三田文学』、2007年)で三田文学新人賞評論部門当選。その他の作品に「小林秀雄と井筒俊彦」「須賀敦子の足跡」などがある。初の本格的井筒俊彦論『井筒俊彦―叡智の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011年)を発表。

安藤礼二(あんどう れいじ)

1967年生まれ。文芸評論家。早稲田大学第一文学部考古学専修卒業。現在、多摩美術大学美術学部芸術学科准教授、同芸術人類学研究所所員。『神々の闘争 折口信夫論』(講談社 2004年)で第56回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。『光の曼荼羅 日本文学論』(講談社 2008年)で第3回大江健三郎賞、第20回伊藤整文学賞受賞。

※イベントのテーマとなる井筒俊彦氏については慶應義塾大学出版会さんの「井筒俊彦入門」をご覧ください。

開催日時 7月28日(木)18:00〜20:00(開場17:45)

開催場所 東京堂書店神田神保町店6階

参加方法 参加費500円(要予約)

電話または、メール(tokyodosyoten@nifty.com)にて、件名「若松氏安藤氏イベント希望」・お名前・電話番号・参加人数、をお知らせ下さい。イベント当日と前日は、お電話にてお問合せください。電話 03−3291−5181

井筒俊彦―叡知の哲学

井筒俊彦―叡知の哲学

*12010年5月19日参照

*22007年9月8日参照

*3:ただし、「暁水記」とある。また、明治39年1月、同年9月警視庁調の「新聞紙通信社一覧表」(『原敬関係文書』第八巻)の読売新聞記者に名はない。

*4朝日新聞社大阪本社社史編集室編『村山龍平伝』(朝日新聞社、昭和28年)

*5:薄井のこの論考については、布川清司「日本女性と教育 近代日本女性倫理思想史(1)」『神戸大学発達科学部研究紀要』5巻1号、1997年が言及している。

*6:門司発至急電として、淡路丸が玄界灘で沈没したという連絡が報知新聞東京本社へ入り、号外を出したため、株式市場は一時大混乱に陥ったが、虚報と判明した事件。東京朝日新聞の山中、阿部欽次郎、國府寺唯吉と国民新聞の記者、兜町の株の仲買人などが逮捕された。

*7:岩野泡鳴の日記大正6年4月3日の条には「新潮、小此木、前島、天弦、中央新聞を訪ふ。薄井(秀)氏に逢ひ、東京朝日のクラブで玉突と碁とをやつた」とあり、山中が朝日を追われた後も、同社に出入りしている。

*82010年10月23日参照

*9:薄井と朝倉については、2009年3月1日参照

kaguragawakaguragawa 2011/06/15 20:33 薄井秀一の名前をどこかで見たなとおもっていましたが、桐生悠々つながりだったのですね。ところで、「蓋平館別荘」=本郷区森川町一番地新坂三五九(現:文京区本郷6丁目10-12〔現・太栄館〕)/「蓋平館支店?」=本郷三丁目十八(現:文京区本郷3丁目〔地下鉄駅付近〕)ということになるのでしょうか。梶井基次郎が下宿していたのも三丁目の方ですね。では、「本館」は?・・・。たしか「石川啄木事典」に、蓋平館の主人が、満洲の蓋平で戦勝したので、それを館名にしたとかなんとかと書かれていたような記憶があるのですが、今確かめようがありません。自慢話ですが数年前に東京にいったとき、太栄館の啄木のいたと思われる部屋に泊りました。

kaguragawakaguragawa 2011/06/15 20:42 (上の記載、途中一部抜けと入力ミスがありました。追加・訂正します。)「森川町四番地」が、蓋平館本館になるのでしょうか。しかし、森川町に「四番地」は存在しないのでは。。。。〔訂正〕「蓋平館支店?」=本郷三丁目十八(現:文京区本郷2丁目〔地下鉄駅付近〕)

jyunkujyunku 2011/06/16 16:18 四番地は存在しませんでしたか。漱石の間違いか、誤植でしょうか。

2011-06-13

[]久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その1)

久米正雄は昭和2年7月第一高等学校以来の親友芥川龍之介を失った。従来知られていないことだが、久米は翌月にも友人を失っている。日本で「モダーン・ガール」という言葉を最初に使った北澤秀一である。北澤の死については、故菅聡子先生が『セクシュアリティ』(ゆまに書房)所収の北澤秀一『近代女性の表現』 (改造社、大正12年4月)の解題で、

東京朝日新聞』に掲載された死亡記事「北澤秀一氏逝く」(『東京朝日新聞』一九二七(昭和2)年八月二六日)によれば、「かつて東朝社会部に在り、洋行とゝもに新聞記者を辞し帰朝後はあるひは日活の宣伝部長として映画輸入業として真面目な批評家として専ら映画のために努力した人であ」り、八月二十五日、「軽井沢ホテル」にて死去したという。ほかの各種人名辞典には記載がなく、これ以上のことは不明である。

と紹介している。実は東京朝日新聞には、菅先生が紹介した訃報のほかに、同月28日に死亡広告が載っていた。それによると、

・北澤は軽井沢に旅行中狭心症を発症し、25日午前10時30分に急死

・葬儀は郷里長野市で29日実施

広告は、長野市の父北澤太兵衛とともに、友人総代根岸耕一・久米正雄の連名である。久米が作家の久米であることは後に明らかにする。根岸は日活の取締役で、『映画界の横顔』(超人社、昭和5年9月)所収の「モダンガール型」で「北澤君なら(僕も時々引きづられて、ほんとに引きづられて)生前よくモガ型を引率してそこいらの銀座の夜のカフエーを飲み廻つたものだ」と回想している。

北澤が『神通力の研究』(東亜堂書房、明治44年3月)の著者薄井秀一と同一人物であることは、このブログで何回か紹介してきたが、横田順彌さんの『明治時代は謎だらけ』によると、薄井の郷里は長野*1だから、この広告で北澤の郷里も長野と確認でき、益々私の説の正しい可能性が強まってきた。そこで、薄井秀一=北澤秀一の生涯について、久米との関係も盛り込みながら論述することとする。

なお、本稿は、面識はなかったが、菅先生に捧げる。

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昨日の毎日新聞に酒井佐忠氏による『折口信夫研究』創刊の記事。

その情熱に満ちた研究者の一人、安藤礼二氏は、海の彼方の起源の場所に立ちながら、はるかな古代と、音楽と舞踏による「祝祭」が行われる現代に通じる道を示した折口の「故郷」について述べる。

とある。また、啄木の『一握の砂』に、歌の評価や印象を折口自身が書き込みを入れたものを資料として収録しているという。

*1:典拠は、『日月』大正2年3月号の蛯原紅郎「東朝印象記(二)」。

2011-04-19

[][]横田順彌『近代日本奇想小説史 明治篇』(ピラールプレス)を編集した川村伸秀の悲しみ

『本の窓』5月号の「私の編集した本」で、川村伸秀氏が横田順彌『近代日本奇想小説史 明治篇』について書いている。

柳田(泉)の研究を正統派とするなら、本書は異端の小説研究と位置づけることができる。僕の頭のなかで二つは表裏一体だった。今回、漸くもう一方の本書もお届けすることができて、とても嬉しい。ただひとつ残念なのは、『文学遺産』に解説をお書きいただいた黒岩比佐子さんが急逝され、本書をご覧いただけなかったことだ。

(参考)1月22日

yukunoki-ayukunoki-a 2011/04/19 12:48 本当にここに黒岩さんのコメントが欲しいですね……
東雲堂書店は、萩原朔太郎や室生犀星を詩人として世に出した北原白秋主宰の詩雑誌『朱欒(ざんぼあ)』の出版社として、西村辰五郎(陽吉)は石川啄木の『一握の砂』を世に出した人物として知る程度でした。びっくりです!
東雲堂書店の先代は西村寅五郎と思って居ましたが、西村憲次郎とどういう関係になるのでしょうか?

jyunkujyunku 2011/04/19 16:46 正しくは、先代は「西村寅次郎」でした。大事典の記載と食い違っているのに気づきませんでした。母親が式守蝸牛三女というのも驚きですね。しかし、だんだん閨閥好きの猫猫先生に似てきたなあ。

かぐら川かぐら川 2011/04/19 23:35 いつか、西村陽吉について調べてみようと思っていましたが・・・、びっくりですね。ところで、余談で恐縮ですが、yukunoki-aさんが名前をあげておられる室生犀星ですが、「むろおさいせい」とルビをふることになったとか。。。去年ぐらいから室生犀星記念館では、「むろおさいせい」に統一しているようです。室生家では代々「むろお」と名乗っており、室生朝子さんが娘さんに「むろお」と書くのと言った由。
もちろん表音的には「むろう」ではなくて「むろお」ですが、そうであれば、陽吉も「よおきち」とルビを振らねばならなくなりますね。傷。田恆存氏にでもなった気分で私は「むろふさいせい」と書きたい気持ちです。

かぐら川かぐら川 2011/04/19 23:38 おっと、「福」の旧字体が「傷。」に文字化けしてしまいました。

jyunkujyunku 2011/04/20 16:45 「むろおさいせい」・・・私はあまり関心はないのですが、くうざん先生(岡島昭浩教授)あたりが好きそうな話ですね。

αγαγ 2011/04/25 15:57 亜希子の弟は慶応高校や大学の野球部員で、甲子園にも行つた。
電通の社員だがもう定年か?

jyunkujyunku 2011/04/25 16:25 弟は電通の社員でしたか。