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神保町系オタオタ日記

2006-11-30

[][] 旅する巨人宮本常一が寄り道した聖戦技術協会(その2)


青木冨美子『731』によれば、亀井貫一郎は昭和20年10月から昭和22年5月まで、外務省の推薦により、細菌戦調査に関与。また、戦後、聖戦技術協会を改称した常民生活科学技術協会に引き続き理事長となっている。宮本常一は、この時期の亀井と接触を続けていた。『宮本常一 写真・日記集成』別巻(毎日新聞社、2005年3月)によれば、


昭和20年11月24日 大船鎌倉東京亀井氏をとふ。


昭和20年11月26日 三田久我山、橋浦氏−亀井氏−三田東京駅


昭和21年1月9日 朝からすはりこんで「日本農村の形成」。原稿紙二百字詰十行を百枚書く。夜十時までかゝる。


昭和21年1月10日 今日も原稿書き。「農業技術の展開」百一枚を書く。夜九時半終る。


昭和21年2月26日 銀座へ行つて亀井氏をとふ。つとめよといふ。あまり乗気になれぬ。夜は三田へとまる。渋沢先生のお目にかかる。


昭和21年2月27日 四時すぎ銀座の亀井氏事務所をとふ。神奈川県の方へ行つて見てくれとの事で、計画をたてゝもらふことにする。


昭和21年3月1日 そしてギンザの亀井事務所に小笠氏をとふ。未だ神奈川の方の計画は十分にたてゝないといふ。仕方がない。三田へかへる。


昭和21年3月4日 午后、常民生活協会へ行くと明日から神奈川県の金目村へ行つてくれとの事である。三田へかへる。


昭和21年3月5日 金目へあるき、役場に窪田氏をとひそして村をあるいて見る。


昭和21年3月6日 [予備欄「3.6常民協会ヨリ200.00」]


昭和21年3月12日 それから常民協会へゆく。小笠氏に神奈川県下の事情をはなして去る。


昭和21年3月13日 その後亀井氏の家で昼食をたべ四時まで持田氏とはなし、四時二十分たつ。


昭和21年3月14日 今日は一日中協会*1にゐて原稿を書く。金目村のこと、吉浜村のことを書く。小笠氏がその村へ通つて見るといつてゐる。夕方までかゝつて四十二枚となる。

昭和21年3月15日 東京駅へ行つて切符の様子を見、それから亀井事務所へ行つて小笠氏に逢ふ。四月十五日に上京*2することを約して去る。


昭和21年5月4日 報告をすましてすぐ常民協会へ行き亀井氏にあひ、中々つとめられぬことをいふ。併し明後日、持田菌の効果について報告しようと約す。


昭和21年5月5日 九時半に協会にかへり、持田菌の効用と効果につき書く。全部で十枚になる。


昭和21年5月6日 それから常民協会へ行く。いつまでたつても亀井氏から電話がかゝつて来ないので昼までまち、更に銀座の町へ出る。


昭和21年5月8日 かへる旅費が心細くなつた。常民協会へ行く。金がもらへると思つたが駄目である。(4.21)[以下4月21日のあとの予備欄]亀井氏から今日来るやうにとの話であつたのである。やはり食ふ金も必要なのである。困る。


昭和21年5月10日 午后ギンザの亀井事務所をとひ、小笠氏にフイルムを二本もらひ丸木氏に贈ることにする。


昭和21年7月7日 [記事なし。6月12日から7月7日までの予備欄をつぶして以下の記事あり。(中略)それにしても常民協会へ出した「日本農村の形成」「農業技術の展開」はどうなつたのであらうか。(後略)]


昭和21年7月16日 ギンザまで出てみると亀井氏の事務所はしまつてゐる。仕方がないのでかへる事にする。


昭和21年7月17日 午后ギンザへ出て亀井氏をとひ、小笠氏と色々はなす。アゾコアム工場の設立は仲々容易でないやうである。五時すぎまではなして辞し、ネリマへかへる。


昭和21年9月5日 ギンザに出、本など買ひ、亀井事務所に行き小笠氏にあひ、更に渋沢先生をとふ。留守である。


昭和21年12月2日 亀井氏をとうて色々はなす。旅費にとて五百円もらふ。農機具のカタログなどもらってかへりに春日町の小笠氏の所へ寄って見る。アゾコアムについてはなしあう。


昭和22年5月26日 そこを出て先生とわかれ常民協会へ行って亀井氏に逢わうと思ったが、いそがしそうで逢えない。長谷川悳三氏とはなす。近頃前橋氏との連絡も少くなっているようである。それより水道橋の小笠氏の所へ行ってはなす。ここへ研究所を移そうと思ったが雨もりとかで思うようにいかぬ。


昭和22年6月2日 本の整理をすましてギンザにゆき亀井氏にあう。十二日に鎌倉へはなしに行く事にする。


昭和22年6月12日 それより渡辺氏*3にあう。協会を解散して自分は引込むのだという。そこで私は私の方針についてはなす。研究室は三田へ持って行く、私は自由にはたらく、等々。それより鎌倉へ行く。前田氏をとうて久し振に昔ばなしにふける。夕飯をごちそうになって鵠沼に小笠氏をとう。(中略)協会の実情についてはなし、今後の事などたのむ。


昭和22年6月13日 協会へ行こうと思ってあるいていると渡辺としさんにあう。松角氏があいたがっているとのことで、電車路でまっていてあう。斉藤、東倉君も一緒である。今後の農村運動についてはなしあう。本当に立派なものであるのなら私もたすけてよいとはなす。


昭和22年6月19日 池袋へ出て、本を三冊ほど買い協会へ行く。松角氏*4を中心にして出来る農村自治連盟について、その機構その他の事を協議する。三時すぎ小笠氏をとうて報告する。幾多の疑念をもっているようであるが、止むを得ない。それは私の疑念でもある。第一、松角氏の人格が問題になる。併しこの人は一応人の世話もまじめにするようであり、三人の若い仲間を見殺しにするようなこともないであろう。


昭和23年1月12日 白山行にのって春日町で下車。小笠満治氏の所へ行って見る。


[ ]は同書の編集部が付したもの。

(参考)

昭和21年3月15日 社団法人新自治協会中央理事となる。

昭和21年4月 社団法人新自治協会嘱託就任、農村研究室主任となる。

昭和22年7月 社団法人新自治協会退職。


持田氏とか、持田菌は不明。さすがに細菌兵器ではないだろうが、ナンダロウアヤシゲ。聖戦技術協会から常民生活科学技術協会への改称は、渋沢敬三が関与している可能性が大だがこれも不明。

以上、不明ばかりで申し訳ないが、私の調査力では無理ぽ。きっと、佐野眞一氏が既に調査済みであろう。


追記:「持田氏」及び「持田菌」については、宮本の「最近の農業技術」(『新農村』第2巻第4巻、昭和22年6・7月号、社団法人新自治協会。『宮本常一著作集』第46巻所収)に、酵素肥料に関する説明の中で「柴田酵素は、今日までのところでは菌の維持が困難であるが、これよりも古く九州において使用されていた持田昌利氏の酵素は、持田氏の性格の故に流行を見ていないけれども、管理の簡単なことにおいて興味を覚える。」とあることから、酵素肥料関係だったみたい。


追記:高橋正則『回想の亀井貫一郎』(財団法人産業経済研究協会、平成12年4月)に、聖戦技術協会時代、亀井に協力した陸軍省軍務局戦備課の野北中佐、吉永中佐、新妻中佐、小笠少佐らが、戦後は銀座にある亀井の常民生活科学技術協会にいたとある。「小笠氏」も軍務局戦備課の軍人だったようだ。


*風邪がなかなか治らん・・・

*1:新自治協会。以下、単に「協会」とあるのは同じ意味

*2:日記によれば、結局4月15日には上京していない。

*3:この渡辺については、佐野眞一『旅する巨人』に「宮本に新自治協会入りをすすめたのは、終戦の詔勅を書いた安岡正篤の元秘書で、のちに参議院議員となった石黒忠篤の秘書もつとめた渡辺敏夫という人物だった。渡辺は戦前、安岡が設立した金鶏学院の卒業生で、やはり安岡が日本農業の健全育成を目的としてつくった篤農協会の幹部職員でもあった。宮本が戦時中の一時期、嘱託としてこの篤農協会の仕事に関わったことは前に述べた。その篤農協会が戦後改組されてできたのが新自治協会だった。」とある。

*4:佐野氏の書によると、松角久三郎なる、日本共産党の秘密党員のにおいが濃厚にあったという謎めいた人物が新自治協会にいたという。

nanakongnanakong 2007/02/23 15:37 はじめまして。古い日記へのコメントですみません。
実は亀井貫一郎は私の祖父です。でも、私が小学生のときに死去したため、
どんな人物だったのかほとんど知らないままで、ふと検索してみたらここに
たどり着きました。私の知らない祖父の一面を知ることができて、非常に嬉しく思っています。これから私も色々調べてみようと思います。

神保町のオタ神保町のオタ 2007/02/23 17:15 はじめまして。
本当ですか。驚き。
御一族の方にとって、良い話ばかり書いてあるわけではないので、恐縮です。「非常に嬉しく思っています」という言葉をいただいて、光栄です。
貫一郎は、各種の事典にも掲載されている人ですが、まだまだ謎が多い人です。今後も、判明したことがあれば、紹介しますので、よろしくお願いします。

nanakongnanakong 2007/02/25 18:33 本当なんです。検索したら色々引っかかって、私も驚いています。
議員だったというのは知っていましたが、私が知っているのは晩年の祖父だけなので、現役で社会生活していた頃の祖父が歴史上の大きな出来事と深く関わっていたとは。またちょこちょこお邪魔させて頂きます。

神保町のオタ神保町のオタ 2007/02/25 18:48 どうぞ、いらしてください。2月24日分に記しましたが、横浜の日本新聞博物館で開催中の展覧会は私はまだ見てませんが、亀井と深く関係のあった秋山という人に関する展示があるようです。

nanakongnanakong 2007/02/28 23:11 横浜は近いので、行ってみます!

2006-11-27

[][] 旅する巨人宮本常一が寄り道した聖戦技術協会


佐野眞一氏は『旅する巨人』(文藝春秋平成8年11月)で、昭和20年7月に軍から宮本常一に対して、敗戦後の農村復興をにらんだアプローチがあり、宮本が三田渋沢敬三に相談して、賛同を得たというエピソードについて記している。

ところが、昨年刊行された宮本の日記*1を見ると、事実関係はかなり異なるようだ。



昭和20年6月11日 8時すぎ三田へかへり先生のお目にかゝつてはなしをきく。聖戦技術協会に入るやうにすゝめられる。一応承諾する。陸軍の仕事。農村視察をするのだといふ。


昭和20年6月12日 先生が聖戦技術協会の亀井貫一郎氏と聯絡つけるまでこちらに居れとの事なので今日は知友訪問ときめ、(後略)


昭和20年6月13日 亀井氏との連絡がうまくつかない。今日は1日待機してゐよとの事である。アチツクでボンヤリしてゐる。(中略)昼すぎ先生よりデンワ。明日亀井氏と日銀であふことになつたといふ。


昭和20年6月14日 朝、かへる支度をして先生の自動車日銀に行く。10時半亀井氏来る。農村実情についてはなす。是非軍務局佐藤大佐にあつてくれといふことになり、もう一度お邸にかへる。亀井氏は仲々能弁である。夜、亀井氏、佐藤氏お邸に来る。先生と4人で夕食。農村の実情について話す。10時をすぎる。明日陸軍省へ来てくれとのことである。もう1日のばす。


昭和20年6月15日 朝、田町まで歩いて電車にのる。市ヶ谷へ下りると亀井氏と一緒になる。陸軍省へゆく。ここでは佐藤氏甚だ忙しさうである。履歴書を出せといふので出す。林中佐としばらくはなし、昼すぎ、大久保巴町の聖戦技術協会に亀井氏をとひ、事情報告。


[凡例]註記 三田 東京三田渋沢敬三邸。日本常民文化研究所。元の名称はアチック・ミューゼアム。宮本常一はここに昭和14-18年、24年から36年まで寄寓


これによれば、渋沢敬三の指示により、宮本は聖戦技術協会や軍部への協力をしたことになる。しかも、日銀(渋沢は当時日銀総裁)で亀井(聖戦技術協会理事長)にあっている。佐藤大佐とは、佐藤裕雄軍務局戦備課長だろうか。林中佐は不明。軍事オタのだれぞは知らないかしら?


敗戦で亀井と縁が切れたと思いきや、日記によれば、宮本は戦後も亀井との交流を続けている。


*既に、佐野氏が発表しているような気もするが、見当たらないので紹介します。

*1:『宮本常一 写真・日記集成』別巻、毎日新聞社、2005年3月

kumtinkumtin 2006/11/29 21:06 自分のブログの見方がわからなくて、ようやくここにたどり着きました。名前のところにURL入れて下さっていたのですね。。。今、気づきました。
神保町のほうが神戸よりいいと思います。なんとなく。この記事に関係なくてごめんなさい。

神保町のオタ神保町のオタ 2006/11/30 06:23 いらっしゃい。
そうそう、確かURLに記入したはずと思っておりました。今後ともよろしく。

2006-11-21

[][] 森鴎外に預けられた亀井貫一郎


戦後、731部隊戦犯免責に深く関与した亀井貫一郎については、2月6日6月14日に言及したところである。

その亀井は、森茉莉による*1と鴎外に一時期預けられていたようだ。


私の夫だった人の知人に、亀井貫一郎という人がいた。夫だった人とは親しくなく、家に来たことはない。その人物は大へんな遊び人の浪費家で、金を湯水のように使う。その人物の父親が困って私の父に、預かって監督してくれと、頼んで来た。ところが預かってみると聴いていたより酷く、月末にもならぬのに紙に細かく数字を書き込んだのを持って来て、父に見せて金を下さいと言う。だが父がその紙を見ると、細い字で、これこれこれに、これだけ使ったという数字が並んでいるが、途中であっちこっち、欄外に線が引いてあり、幾ら見ても父にはわからない。参考書、学術書の名は見えるが、そんなに学術書が要る筈がない。小父さま、小父さま、と態度は柔しいが、到底父の手には負えぬ。そういうことが何度か重なって、父も貫一郎の監督は到底駄目なので、あやまって彼をその父親の許へ帰した。


鴎外の研究者はこの茉莉の記述の検証をしているのだろうか。文献があれば見たいものだ。

茉莉は他人事みたいに書いているけど、森茉莉明治36年1月生まれ、亀井は明治25年11月生まれ。亀井が学術書を読む時期に鴎外に預けられていたとすれば、茉莉も共に暮らしていたはずだね。


鴎外の日記を見てみよう。



明治42年6月23日 亀井綾子*2来て貫一郎の未来などにつきて物語す。


明治42年7月11日 亀井貫一郎来て学業の事を語る。


明治42年9月10日 亀井あや子金四十円を借りに来ぬ。


明治42年9月11日 亀井貫一郎の来たるに金二十円持たせ返す。


明治42年12月23日 朝電車にて亀井貫一郎に逢ふ。


明治43年3月28日 夜亀井貫一郎来話す。中学を卒へて、此より第一高等学校に入る準備をなすと云ふ。


明治43年8月11日 亀井貫一郎、生田弘治来訪す。


明治43年8月15日 佐々布充重を訪ひて亀井貫一郎一家の事を言ふ。


明治43年8月29日 佐々布充重来て、亀井貫一郎一家の事、亀井家乗の事を話す。


明治44年1月21日 渡辺又次郎、亀井貫一郎、中嶋茂一来話す。


大正2年7月17日 亀井貫一郎卒業して来訪す。


大正3年1月12日 植木直幸来て亀井貫一郎の事を言ふ


大正7年9月29日 亀井貫一郎去。


(参考)大正6年7月 東京帝国大学法科大学政治学科卒、同年10月外交官及領事官試験合格、同年11月外務省嘱託・臨時調査部、7年3月領事官補・安東在勤(未赴任)、同年9月天津在勤、同年10月着任(『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』より)


亀井が学術書を読みそうな時期に、鴎外が亀井について話題にすることはあったが、預かっていたことを示すような明確な記述はないね。


*こんなネタよりも、戦前亀井が理事長を務めた聖戦技術協会にトンデモない人達が関与していたことがわかって、驚いているところ。

*1:『ドッキリチャンネル(供法戞森茉莉全集第7巻、筑摩書房1993年11月)中、<一九八三年四月−十二月>の「海外秀作ドラマ、堀口大学、亀井貫一郎、柳の下 他」

*2:貫一郎の祖母

MM 2011/01/02 21:43 祖父の名前が出てきたのでついふらっと立ち寄りました。こんなエピソード、本人から聞いたことなかったので興味深かったです。

jyunkujyunku 2011/01/03 07:49 はじめまして。亀井の孫に当たるのでしょうか。佐々木の方でしょうか。亀井の孫の方が来られたことがありました。→http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20061130/p1

2006-06-14

[][] 鴎外のトンデモ、露伴の非科学(その4)


亀井貫一郎については、2月6日に言及した怪人だが、この人と、その父親茲迪も鴎外の日記に出てくる。


明治41年2月22日 午後亀井伯第に往く。家政相続人補欠、埋蔵金処分等の件を議す。亀井茲迪破産の顛末を聞く。


同4月26日 亀井伯の第に往き、亀井茲迪の母と弟貫一郎に告諭せらるる席に立会ふ。茲迪は隠居して別に一家を立し、長男凱夫相続し、貫一郎が丁年に達するを待ちて、凱夫を廃せんとするなり。貫一郎は実は長男にして、凱夫は実は二男なり。



『共同研究 転向 下』中の「転向思想史上の人びと −略伝−」によると、亀井貫一郎(1892−1987)は、「島根県津和野四万五千石の藩主亀井伯爵家の長男として生まれた。母は早く死に、父は海外に去り二十数年後再会したときには、神田の夜店で古本屋をやっていた。一高をへて、東京帝国大学政治学科を1917年卒業。さらに米国に留学してフォーダム大学を卒業。外務省に入り、天津領事館、ニューヨーク領事館をへて、本省づとめになる。その後外務省を去り、左傾。1925年から「労働総同盟」とむすびつき、おなじ年の12月社会民衆党結成にさいして、その外交政策を担当。満州事変後の国策の変化に応じた社会大衆党の国家社会主義への集団転向にさいして、近衛文麿ら支配者層との間を斡旋した。戦後追放。追放解除後は右派社会党に所属。」


あの亀井貫一郎の父親が、神田の夜店で古本屋をやっていたとは!

すずらん通りでやっていたのかしら・・・

2006-02-06

[][] 731部隊と亀井貫一郎



 「今泉定助をめぐる人々」は(その4)も(その5)もある(一部の方々には受けているか?)のだが、ちと飽きてきたので、路線変更。


 昨年読んだ本の中でベストテンに入ると思われるのが、『731』(青木冨貴子著)。その調査力には感服するけれど、一つ見落としている(?)ことがあった。


 731部隊員の免責を得る鎌倉会議を取り仕切ったとされる、亀井貫一郎なる人物について、青木氏は、「彼について残された資料は少ない。唯一、財団法人・産業経済研究協会によって刊行された『回想の亀井貫一郎−激動の昭和史を陰で支えた英傑』という本を見つけた。」と記しているが、『亀井貫一郎氏談話速記録』(日本近代史料研究会編。昭和45年1月発行)という本がある。


 どちらの本にも、亀井の自伝「五十年「ゴム風船」を追って」が収録されているのだが、『回想の〜』(平成12年4月発行)では削除されている記述があるのだ。


 自伝の昭和18年5月1日の所で、「財団法人聖戦技術協会」(産業経済研究協会の前身)の設立に伴い、理事長に就任したことや、協会が関係した項目を挙げているのだが、『回想の〜』では

  イ 液体酸素及びその魔法壜、

  ロ ロケットミサイル

  ハ 風船爆弾など。 と記されている部分がある。


 この「風船爆弾など。」という部分は、『亀井貫一郎氏談話速記録』では、次のような驚くべき記述になっている。


風船爆弾。関東軍防疫給水部、石井中将部隊の細菌爆弾及び謀略兵器。ANTHRAX(脾脱疽菌)開発(協力)。陸軍登戸研のレーサー[ママ](いわゆる殺人光線)、(連絡)。

    

 『回想の〜』では、「関東軍防疫給水部」以下の記述が「など」にされてしまっているのである。


 亀井が731部隊員の戦犯免責のために奔走したのは、実は他人事ではなかったのかもしれないのである。


追記:この自伝によると、亀井はナチス副総統のヘスや、地政学者ハウスホーファーと会談している。僕にとっては、そちらの方が関心がある。その話は、またいずれ。

杉山真大杉山真大 2008/08/16 23:26 で、その財団法人・産業経済研究協会の理事を歴任してたのが、今は国民新党にいる亀井久興なんですよね。久興は津和野亀井家の本家で、貫一郎の方は分家筋。

そう言や、貫一郎の孫が確か社民党青年部で活動していて、久興の娘で参院議員の亜紀子もピースボートに参加して辻元清美と知己があったり・・・・・亀井貫一郎の周辺って兎角無産政党や左翼と縁深いんですね。

gaikokuBugyou?gaikokuBugyou? 2010/03/04 21:38 財団法人・産業経済研究協会は世界救世教と関係が深いですな
H21年度の理事長は東方之光、 理事には世界救世教の関連組織のMOA関係
の方の名前があります。 事業報告書からは、現在はたいした活動をしてないようです。
しかし、有事の際には、何か役割が与えられていそうですな。

フェレイラフェレイラ 2013/09/19 20:39 初めまして、フェレイラと申します。
全く別の見地から亀井貫一郎をしらべていたのですが、この日記にたどり着けたおかげで理解が深まりました。ありがとうございます。
ちなみに私の調べた本では、亀井貫一郎があるユダヤ人家族に対してシンドラー、あるいは杉原千畝の役割を果たしたという記述があったので、何とか裏取りしようと試みたのですが無理でした。

jyunkujyunku 2013/09/21 09:20 初めまして。亀井にそんな話がありましたか。千畝的役割を果たした人は何人かいるようですね。