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神保町系オタオタ日記

2011-07-25

[]三木清も住んだ本郷館も解体へ

読売新聞東京版連載の「森まゆみのむかしまち散歩」21日分は、「本郷館文京区本郷6丁目)」だった。

そして明治38年に本郷館ができ、翌年、徳田秋声がその近くに越して昭和18年に亡くなるまで住みました。明治41年には石川啄木金田一京助の誘いで隣町の赤心館から蓋平館別荘に住み、そこには明治43年、内田百里皹曚靴討ました。

この他に本郷館に住んだ人として、武藤清(霞が関ビルの設計者)、映画評論家の佐々木能理男、小説家島田清次郎などをあげている。また、林芙美子がここにいた男に恋をして転がり込んだというが、本当だろうか、と書いている。

本郷館に一時期住んでいた三木清」(2007年4月28日)で言及したが、小島威彦によると、三木清も住んだことがあるようだ。いよいよ取り壊されるということだが、まことに惜しい建物である。

2010-08-07

[]堀多恵子生田

生田勉の日記に堀辰雄夫人堀多恵子が出ていた。

昭和14年12月9日 鎌倉行き。堀辰雄さんの奥さん、家の前に出ていて呉れる。小林秀雄がいる。いろいろのはなし。立原の日記。堀さんの家の設計。立原のこと思い出されて、彼が我々の前から消えて了ったことによる悲しみを計量する。堀さんのところの手料理。(川端さんから聞いたという焙り乍ら食べる肉。)

帰り夫人と駅迄送って来て下さる。

「堀さんの家の設計」については、多恵子の『来し方の記・辰雄の思い出』(花曜社昭和60年5月)によると、

杉並の母の家の庭に小さい家を建てることに話がきまった。それは昭和十五年の初め頃だったろうか。立原道造さんの友人、生田勉さんが相談に乗って下さった。全面的に自分の思うようにはいかなかったかもしれないが、余裕が出来たら建て増しをしたいなどと言いもした。

(参考)7月21日同月26日

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「げげっちの書物蔵」の歌

げっ、げっ、げげっちのげ〜

夜は書庫で運動会

たのしいな、たのしいな

せどり師にゃ学校も、試験もなんにもない

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波多野完治は、巌松堂創業者波多野重太郎の次男。波多野巌松堂の創業者松本仲蔵は巌松堂の元店員だが、縁戚関係はない。

kumtinkumtin 2010/08/10 11:02 信濃追分のお宅もすてきな家でした。知らない方が「堀辰雄のファンです」と訪ねてみえるのよ、とおっしゃっていた姿が印象的でした。

jyunkujyunku 2010/08/10 17:12 ん、そこまでご存知とは。kumtinさんとは、果たして何者・・・なんちて。

2010-07-21

[][]帝国図書館に土足で入館できるようになった年

上野の帝国図書館がいつから土足で入館できるようになったかについて書かれた文献をどこかで見たような気もするが、それとは別に生田勉の日記でも判明する。

昭和7年3月12日(土) 朝七時起床。上野図書館に着いたら例の長い行列をなしていたが、少し早すぎた。しかし九時には満員だから、これより十分位遅く来てもよいと思った。

    3月15日(火) 今日は弟が上京するから上野へ行こうか行くまいか迷ったが、遂に矢張り行くことにした。八時十分過ぎに着いた。丁度よかった。何故って少しも混雑しなかったから。

    4月11日(月) 今日久し振りで上野図書館へ来て見た。たった一月来ない間に靴のまま入館出来るのにはちょっと驚いた。

生田は昭和6年第一高等学校理科甲類(英語)に入学。同期には立原道造がいた。のち、東京帝国大学農学部林学科を経て、11年同大学工学部建築学科に再入学。3年生に立原が在学。14年3月卒業。生田の卒業設計は「国立中央図書館」だったという*1

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何回か行ったことがある立原道造記念館が9月で休館になるという。寂しい・・・

三省堂は、黒岩さんの本のポップを直したかしら。

*1:『杳かなる日の 生田勉青春日記』麥書房、1983年7月。

2008-08-11

[][] 駒澤大学図書館の設計者菅原栄蔵


菅原定三『美術建築師・菅原栄蔵』(住まいの図書館出版局、1994年12月)を読んでいたら、菅原栄蔵という人は駒澤大学図書館(大正15年竣工)の設計者だった。


当時、学長として努力していたのは忽滑谷快天禅師であり、大学認可にあたって校舎増築のほかとくに当時すでに世界一の漢籍仏典の蔵書として有名なコレクションを収納する図書館の建設が急がれていた。この蔵書の管理は当時高名な印度哲学・サンスクリットの大家高楠博士があたっていたのであるが、筆者の推測では当時すでに仏教建築の権威としても著名であった伊東忠太が高楠博士の需めによって栄蔵を推薦したものと思われる。


同図書館は、現在は禅文化歴史博物館として健在のようである。


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正直言うと古本市には飽きてきた。


閉鎖中の「ジュンク堂書店日記」2005年7月12日分から引用させてもらうと、



『京都生活を百倍楽しむ』という新刊書には、下鴨納涼古本まつりのほか、三月書房や、アスタルテ書房に加え、某大学附属図書館まで登場する!(笑)

洋泉社新書『やっぱり京都人だけが知っている』(入江敦彦著)の「本屋」では、著者は京都三大古本まつりの中では、秋の百万遍の古本まつりを筆頭に挙げていた。

ちなみに、「本屋」に出てくる今はなき、書店の名前を見ると、著者ととともに泣きたくなってくる。たぶん、この著者とは書店で何百回とすれ違っていたことだろう。

別冊太陽『生活をたのしむ6 京都の市で遊ぶ』には、市川慎子さん(『海月書林の古本案内』の著者)が、下鴨納涼古本まつりに来て、長新太さんが絵を描いた『星の牧場』などを発見するエッセイが載っている。(「思っていた以上によかったです」とのこと)

『乙女日和』(山崎まどか著)には、今度の秋には、百万遍知恩寺の青空古本まつりには、行ってみたいとある。古本蟲ばかりでなく、古本乙女もぜひ、集まってほしいものである。(笑)

『「満洲国」資料集積機関概観』(岡村敬一著)は、雨にたたられた年の下鴨納涼古本まつりで、津田書店出品の旧満鉄図書館所蔵本に出会う話から始まる。

『日本の経済学を築いた五十人−ノンマルクス経済学者の足跡』(上久保敏著)には、「第一五回下鴨神社納涼古本まつりで、添田寿一の『実用一家経済法』(大正二年)を釣り上げた。わずか二〇〇円。この時の一番の収穫だった。戦前の経済関係の啓蒙書や随筆は専門書とは異なり、雑本扱いされるためか、社会科学専門の古書店でもあまり取り扱われておらず、かえって探しにくい」など、随所に古書蒐集話が出てくるという(「文献継承」第8GO(金沢文圃閣のPR誌)より)。


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『週刊現代』で内澤旬子さんの「リレー読書」を見る。メガネをかけてない写真で、誰の写真かと思ってしまった(笑


S先生が解き残した謎が解けるかもしれない。

ジュンク堂の怪人ジュンク堂の怪人 2008/08/11 10:53 ジタバ。あちゅ。

shomotsubugyoshomotsubugyo 2008/08/14 22:26 ん?(・ω・。) わーいジュン怪さんだー(o^∇^o)ノ

2007-05-14

[] 隣近所の柳田國男と丹下健三


丹下健三の自伝『一本の鉛筆から』(日本経済評論社、昭和60年8月)によると、


前川建築事務所にいたころ、四谷の木造アパートの設計を担当したが、出来上がると自分も住みたくなリ、しばらくの間はそこに入っていた。同じアパートに松村さんという若いご夫婦がおられたが、夫人三冬さんは画家の石井柏亭先生のお嬢さんであった。柏亭先生には、大学の三年間、絵を習っていたというご縁もあってご夫妻とは特に親しくしており、アパートの強制疎開後、松村さんに誘われて成城に移り住んだのである。


という。丹下のこの成城への疎開について、柳田國男の『炭焼日記』に出てきた。



昭和20年4月24日 隣の森氏あとに来た松村七郎君夫婦、丹下健三君来る、松村は石井柏亭氏聟のよし。


追記:講談社学術文庫から鈴木棠三『日本語のしゃれ』のリクエスト復刊。そんなリクエストっていつやってたっけ?鈴木は、昨年10月8日に紹介した柳田の『炭焼日記』に大いにやせて登場した人だね。

2005-12-16 武田五一と東畑謙三

[] 建築関係の展覧会が多い特異な年


   「文京ふるさと歴史館だより」12号によると、



     武田五一(1872−1938)は、明治末期から

     昭和初期にかけて活躍した、日本近代を代表する

     建築家のひとりです。(中略)代表作は日本勧業

     銀行本店(明治32年、現、千葉トヨペット本社、

     国登録有形文化財)、山口県旧県庁舎(大正5年、

     国重要文化財)、東方文化学院京都研究所(昭和

     5年、現、京都大学人文科学研究所附属漢字情報

     研究センター)などで、今でも彼の作品を眼にす

     ることができます。

    とある。


    ところが、漢字情報研究センターについては、「紅萠」

    7号の「再発見ツアー 漢籍をおさめる僧院」に、



     「京大本館=時計台、赤レンガの建築学教室本館、

     東華菜館(四条大橋西側)などで知られる、初代の

     工学部建築学科教授・武田五一が設計に関わったと

     されていますが、実質的に設計を手がけたのは武田

     の弟子である東畑謙三です。」田中(淡)教授は同

     僚とともに1974年、東畑先生にインタビューを

     おこなった。先生は設計当時二十代後半、「武田先

     生から、東畑一つやってみないかと言われましたが、

     恐いもの知らずで、浜田耕作先生(考古学者、のちに

     京大総長)と相談して設計をすすめました。私は当時

     、フランスの建築家ル・コルビュジェに心酔していま

     したので、中国の研究センターだから中国的な装飾が

     必要なのかとお聞きすると、そんなことは関係ない、

     建物として素晴らしければそれでよい、という話でし

     た。浜田先生は、わしの好きなのはスペインやイタリ

     アの僧院や、と言われたのです。すでに中庭、列柱回

     廊のスケッチを描いておられました。」


    とあった。 全文→「紅萠

     ちなみに、同センターの中庭には、初代所長の狩野直喜 

    の銅像があるそうである。

     

    今年は、建築関係の展覧会が多かった年で、武田五一の他に

    清家清(建築博物館、松下電工汐留ミュージアム)、

    吉村順三(25日まで、東京藝術大学大学美術館)、

    前川國男(23日から3月5日まで、東京ステーション

    ギャラリー)、

    村野藤吾(25日まで、京都工芸繊維大学美術工芸資料館。ただし、

    これは既に何度か開催)など色々多彩に開催された年であった。


追記:何か肝心なことを忘れている気がしていたら、関野貞

   (東京大学総合研究博物館)を忘れていた。

今井兼次(多摩美術大学美術館)もあった。

立原道造建築家への志向后廖立原道造記念館)は25日まで。

   文京ふるさと歴史館で開催された「近代建築の好奇心

   武田五一の軌跡」展で、年譜を見てたら、昭和13年

   2月8日に百万遍知恩寺で武田の葬儀が営まれたそうだ。

   青空古本祭の時には、古本供養だけでなく、武田の冥福も

   祈ろう。