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神保町系オタオタ日記

2012-12-16

[][]満鉄図書館長と中谷治宇二郎

中谷治宇二郎『考古学研究への旅 パリの手記』の「シベリヤの旅」に、満鉄図書館長のK氏なる人が出てくる

(昭和四年)

七月六日晴。朝八時ハルピン着、直ちに満鉄事務所にK図書館長を訪ねる。この地在住の露国考古学者Tolmatchoff氏と面会したいためである。同氏はこの博物館長であるが、目下支那が利権回収のためにその建物を押収して、月・火・木三日の他は開館しないという。しかし氏には会う事が出来た。

(略)

計らずK氏に招かれて日本食の馳走にあずかる。

初出は、『科学画報』13巻5号、昭和4年11月。このK氏とは、「満鉄哈爾濱図書館長栗栖義助と夫人つた子」で紹介した栗栖ではなかろうか。

2011-09-13

[][]満鉄哈爾濱図書館長栗栖義助と夫人つた子

「民衆図書館」については、「『中外』の内藤民治と民衆図書館」(2010年10月10日)で言及したが、秋田雨雀の日記にも、「民衆図書館」が出てきた。

昭和6年4月18日 ハルピンの栗栖蔦子女史が民衆図書館を建てるのだといってやってきた。奥むめお、織本貞代両女史に紹介してあげた。

この栗栖蔦子の正体が、西孟利編著『満洲藝術壇の人々』(曠陽社出版部、昭和4年9月)*1を見ると、判明した。

栗栖義助

生年月日:明治17年5月6日

現籍:山口県吉敷郡大道村

現住所:哈爾賓図書館

学歴陸軍士官学校

職業:満鉄哈爾賓図書館

満洲略歴と藝術過程:大正4年渡満、5〜6年遼東新報記者、7年満鉄入社図書館勤務、後安東に転じて14(ママ)年来哈来任。この間『植民文藝』、『第一線』を発刊して植民地文藝の伸達に貢献ありし人。つた子夫人(明治27年生)も又文藝趣味には豊かな天分を持たれ短歌は最もフレッシュな性美に富む表現佳作を新聞雑誌等に発表している外、遠州流生花と茶道に造詣深き方。愛嬢清子(大正2生)(大正14年12月12日調)

村上美代治『満鉄図書館史』によると、栗栖は大正10年8月現在満鉄安東図書館主事(館長)。同年度には夫妻*2文部省図書館講習所派遣。12年5月設置の満鉄哈爾濱図書館を夫妻で運営したが、昭和5年10月夫妻は辞職したという。

義助には「哈爾濱から」『図書館研究』大正15年5月号がある*3。また、岡村敬二『「満洲国」資料集積機関概観』によると、満鉄図書館業務研究会が大正12年10月に創刊した『満鉄図書館パムフレット』の編集担当で、第1号には資料として、「婦人と図書館」という特集が組まれているという。つた子は「哈爾賓を語る」を『婦人運動』昭和4年10月号に執筆しているほか、昭和5年8月10日付『婦選獲得同盟会報』の「全国の同志より」に名前がある*4。つた子が計画していた「民衆図書館」というのは、婦人のための図書館であっただろうか。夫妻が満鉄哈爾濱図書館を辞職した理由や、その後も図書館にかかわろうとした経緯が不明だが、これ以上の追跡は、書物蔵氏にまかせておこうか。

*1:引用は『日本人物情報大系』第19巻から要約。

*2:ただし、同書では来栖と誤植。

*3:『図書館学関係文献目録集成 明治・大正・昭和前期編』第1巻による。

*4皓星社の「明治・大正・昭和前期雑誌記事索引データベース」による。

2011-09-01

[]内田樹の父内田卓爾のヒストリー

「内田樹の父、内田卓爾はあやすーぃ?」(1月26日)から7ヶ月を過ぎたが、内田卓爾が諜報機関の仕事をしていたという確認はできていない。今のところ判明したのは、『人事興信録第二十二版』、『華北交通株式会社社史』、「在外日本人学校教育関係雑件/退職賜金、恩給関係第二十八巻 6.内田卓爾」(アジア歴史資料センター)などによれば、

内田卓爾 うちだたくじ 

明治45年1月22日 山形県鶴岡の内田重松(明治7年生)と妻高井の四男に生る

大正15年4月1日 北海道庁立札幌師範学校本科第一部入学

昭和6年3月14日 同校卒業

  同年3月31日 旭川市啓明尋常小学校訓導

  9年1月31日 傷痍又は疾病のため休職

  ? 満洲に出奔

  9年4月1日 北安日本居留民会立北安日本尋常小学校訓導

  同年11月21日 北安日本尋常小学校が在外指定学校となったため自然退職 

  10年1月31日*1 旭川市啓明尋常小学校訓導を休職満期により退職

  10年4月30日 斉斉哈爾日本尋常高等小学校訓導

  12年4月30日 同校を自己都合により退職

  ? 満鉄入社

  ? 華北交通(本店北京、14年4月設立)に入社

  20年4月1日 華北交通が軍の機構に組み入れられ、北支那交通団に改称。全職員が軍属となる。 

  20年4月25日現在 北支那交通団総務局編訳係副係長

  ? 引揚げ

  ? 日本開発機製造に入社

  ? 河合鎰雄二女昌子(大正15年2月14日生、福岡高女卒)と結婚

  23年9月18日 長男徹誕生

  25年9月30日 次男樹誕生

  27年 総務課長

  31年 管理課長

  32年 管理室長

  37年10月 三井造船への吸収合併に伴い、同造船日開工場資材部長に就任

平成元年8月4日 朝日新聞声欄に「日本語学校の詐欺被害の中国人、救えないのか」を投書

  14年5月12日 没

内田樹氏は、平成20年9月7日付朝日新聞の「おやじのせなか」では、「自分とかかわったことで中国人の友人が戦後に殺されたと晩年に書き残していたので、諜報関係の仕事をしてたんでしょうね」としており、父卓爾から諜報機関に属すると聞いていたわけではないようだ*2。これ以上の追跡は、「ファミリーヒストリー」でわしや書物蔵氏を泣かせたNHKにでもやってもらうしかないか。

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東京堂書店の「イベント情報」によると、

第21回神保町ブックフェスティバル企画

坪内祐三氏トークショー「こんな古本を集めてきた」

開催日時 2011年10月29日(土)14:00〜16:00(開場13:30)

開催場所 東京堂書店神田本店 6階

坪内氏の文章は、最近では、『ユリイカ』9月号「B級グルメ」特集の「B級グルメの意味するもの」、KAWADE道の手帖『竹中労』の「一九七三年の『キネマ旬報』で出会っていたのだが・・・」を読んだ。

*1:9年1月31日から1年間の休職期間の満了により自然退職となるので、10年1月30日退職が正しいと思われる。

*2:なお、内田氏は「師範学校を出て北海道で小学校の教員をして、19歳で満州に出奔」としているが、年譜で示したように、卓爾は旭川市啓明尋常小学校を休職中に北安日本尋常小学校(満洲国黒龍江省にあった)の訓導となっており、満洲に出奔したことがうかがえる。ただし、当時数えで23歳である。

jun-jun1965jun-jun1965 2011/09/01 19:31 オタどんは元号主義者ですね。

jyunkujyunku 2011/09/02 07:10 そうですね。元号の方が何が起きた年かピンと来ますね。しかし、右翼ではないですよ(笑)

jun-jun1965jun-jun1965 2011/09/02 15:48 私は1970年以降、特に平成なんか、西暦に直さないと分かりません。右翼フラグ立つオタどん。

shomotsubugyoshomotsubugyo 2011/09/03 00:28 斉斉哈爾はわちきの親やばあちゃんが最後の列車で南下した先ぢゃ。ばあちゃんが言うとった「わたしらはチチハルまで行けたから助かった」と...(*゜-゜)

2011-03-21

[][]親切すぎる板垣一二三満鉄営口図書館

宋斗会『満州国遺民 ある在日朝鮮人の呟き』(風媒社、2003年6月)に、板垣なる満鉄図書館長が出てくる。

営口の新市街には、満鉄図書館があった。田舎の町だからそんなに大きなものではなかったが、その図書館の館長であった板垣さんという人が、どうしてか知らないが、親切にしてくれた。その図書館に並んでいる本に関して、「どれでもいいから何冊でも好きなだけ持っていきなさい」ということで長期貸し出しをしてくれたり、そのうちには「手元に残しておきたい本があれば、残しておきなさい」とまでいってくれた。何ともう(ママ)ルーズともいえるが・・・。それどころか「新聞なんかで新しい本を見つけ、読みたいというものがあれば、買ってあげるから」と。ずいぶん親切にしてくれた。

「板垣」は、板垣一二三である。『第三版満洲紳士録』(昭和15年12月)によれば、

板垣一二三 営口図書館

[出生]明治33年7月

[本籍]小倉市木町

[学歴]大正12年明大専門部商科卒

[経歴]大正14年8月満鉄入社、大連北公園・本渓湖・近江町各図書館勤務、埠頭・大連各図書館司書、瓦房店図書館長を経て昭和12年11月現職に就き、同12月退社、引続き在任す

図書館長としては親切すぎると思われるが、この板垣は戦後無事引き揚げただろうか。

なお、宋は、前掲書の「年表」によると、昭和48年春から京大近くの鴨川の橋の下で暮らすが、秋、京大熊野寮委員会から寮の一室を提供され、亡くなるまで熊野寮で起居したという。

shomotsubugyoshomotsubugyo 2011/04/02 22:38 わちきの親父は営口生まれだよ(σ^〜^)

2011-02-03

[][]野波静雄と下中弥三郎

2006年2月21日に言及した旅順図書館と下中弥三郎だが、旅順図書館ではなく、大正7年に関東都督府博物館(のちの旅順博物館)分館に設置された図書閲覧場ではないかという気もしてきた。まず『下中弥三郎事典』の「旅順図書館」の項を再掲すると、

 大正七年(一九一八年)八月日本女子美術時代の教え子野波八重子が旅順から下中を訪ねてきた。下中はこの年の三月埼玉師範を辞任し、もっぱら出版を初(ママ)めようと志していたところであったが、野波のいうところによると、夫の野波静雄が満鉄から図書館の経営をたのまれたが、自分は適任でないから誰かほかの人に頼みたいというのでお願にきた。ぜひ引きうけてくれというので、元来書物好きの下中は快くこれを受託渡満した。(中略)

 さて図書館は露清銀行の2階にあった。下中はそこで図書分類法を研究し、新な配列を実施すると同時に、オープンドアシステムを実行した。この開放的なやり方は満鉄に歓迎され、沿線に普及した。ついで下中は大谷光瑞の蔵書保管も一任されたので、その整理保存にあたった。

改めて岡村敬二『遺された蔵書』を見ると、

なお付記すれば、光瑞の発掘品は先に触れた朝鮮総督府博物館へ寄贈されたものとは別に、関東都督府満蒙物産館を前身とする関東庁博物館に寄託され分館に陳列されたものもあった。その分館には大正七年一〇月に関東都督府図書閲覧場が付設となり、一〇年には本館に移って図書部と改称されたが、昭和二年四月関東(庁)博物館附属図書館、昭和四年関東庁図書館として分離独立した。実はその関東庁図書館の蔵書設計で(略)大谷文庫三四八八冊所蔵と報告されている。大連図書館の大谷本との関連は未だ不明であるが(略)大谷文庫は発掘品関連の洋書を中心としてこの図書館にも所蔵されていたと考えられる。

とある。大正7年当時満鉄に「旅順図書館」があったとは確認できないので、正しくは旅順の関東都督府図書閲覧場のことではないかと思われる。同事典では露清銀行の2階にあったというから、分館がどこにあったかが問題だ。下中と図書館の関係についての先行研究はないと思われるが、誰ぞか岡村氏に今後の調査を期待しておこう。

さて、下中を旅順に呼んだ野波八重子の夫野波静雄だが、『満川亀太郎日記』にも出てきた。

大正13年5月23日 午後六時海上ビル中央亭内に於ける「神柢[祇]辞典」出版披露会に列す、清藤幸七郎、下中弥三郎両君に招かれてなり

下中君より野波静雄氏を紹介せらる、氏は有名なる阿片問題のオーソリチーにして、御互に姓名上の知人なりしなり

昭和8年1月26日 午后五時半東京会館にて大亜細亜協会創立発起会

近衛文麿、松井石根、小笠原長生、根岸倍(ママ)、村川堅固、秦真次、永田鉄山、本間雅晴、下中弥三郎、野波静雄、大塚惟精

同書の巻末の「主要登場人物録」では、静雄は「(生没年不詳)満鉄調査部嘱託、大亜細亜協会会員、著書に『東南亜細亜諸国』、『国際阿片問題』など」とある。また、同事典では、「阿片問題を研究しイギリスの悪辣なやり方を暴露した人で、いつも外国を回り国際情報を満鉄に提供していた」とある。詳しい経歴は不明だが、またどこかで出会えそうな人物だ。

追記:村上美代治『満鉄図書館史』(村上美代治、2010年12月)によると、関東都督府図書閲覧場は満鉄旅順図書館の前身だった。

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三省堂古書館が、現在地での営業は2月27日までで、3月3日から隣の神保町本店4階に移転とのこと。よく下で呼び込みしてたから、苦戦してたのかしら。→http://www.books-sanseido.co.jp/blog/kosyo/2011/02/post-44.html

2011-01-26

[]内田樹の父、内田卓爾はあやすーぃ?

内田樹氏の父はその詳しい経歴について、次男の樹にも語らなかったという。後藤正治『表現者の航跡』(岩波現代文庫、2009年6月)によると、

父は一九一二(明治四十五)年生まれ。明治最後の人であるが、その詳しい来歴を内田は知らない。語らない父であったからである。

断片的に知ったことは、師範学校を卒業、教員、満鉄を経て戦時中は北京にあって諜報機関の仕事をしていたらしい。

同書には、父の名が書かれていないが、戦後の人事興信録に出てくる。

内田卓爾 うちだたくじ 

明治45年1月22日山形県重松の四男に生る

昭和6年札幌師範卒業、華北交通勤務の後、日本開発機製造に入社

27年総務課長、31年管理課長、32年管理室長、37年三井造船への吸収合併に伴い、同造船日開工場資材部長に就任

妻:昌子 大正15年2月14日生 河合鎰雄二女 福岡高女卒

長男 徹

二男 樹 昭和25年9月30日生

これでは、華北交通勤務と、おそらく戦後のことと思われる日本開発機製造(昭和18年1月長谷川製作所から改称)への入社との間の経歴が不明である。この間に、北京で諜報機関の仕事をしていたということのようだが、いつかオタどんによって、その謎が解明されるであろう、なんちゃって。

なお、内田氏のブログによると、父卓爾は2002年5月12日に亡くなられたようだ。

AtsukoAtsuko 2011/01/26 17:10 かつての父は平野三郎でしょうか?

jyunkujyunku 2011/01/26 17:43 ん、??

匿名匿名 2011/01/27 12:59  ヨコジュンのトーク・イベントには、参加できなかったので、オタ様の記事に感謝しています。
 さて、内田氏の父君についてですが、「月刊社会民主」2009年9月号にも内田氏の言及がありました。やはり父君は戦時中、北京の「政府機関」に所属していたようで、「中国に対してずいぶんひどいことをしたという罪悪感」があり、「中国人に対しては返すことのができないほどの借りがあると言っていた」のだそうです。またそうした意識からか、70年代には「日中友好協会のメンバー」として中国人留学生の支援をしていたそうです。
 父君が後年「罪悪感」を感じるような、戦時中の活動とはどんなものだったのでしょうね。やはり気になります。

jyunkujyunku 2011/01/27 16:21 参加されてなかったのですか。当日、会場内にいるのだろうなあ、と思っておりました。
内田氏の情報、ありがとうございます。政府機関とは、なんでしょうね。気になりますね。

shomotsubugyoshomotsubugyo 2011/01/28 12:11 オタどんの文献調査力にはすさまじきものがあるだす…
別件でも図書館史におほいにお役立ち…

2010-11-15

[]佐野洋子の父、満鉄調査部の佐野利一

亡くなられた佐野洋子に関心はないのだが、11月9日の読売新聞で、三木卓氏が「さようなら佐野洋子さん」として、洋子の父佐野利一について、満鉄調査部出身で東洋史が専門と書いていた。戦後は、三木氏の入学した静岡高校で世界史の先生をしていたという。また、洋子の『シズコさん』によると、利一は浦高、東大卒。洋子が19歳の時、50歳で亡くなったという。「支那に於ける封建語義の変遷」『歴史学研究』昭和8年11月号などを書いているようだが、人名事典では見当たらない。

ma-tangoma-tango 2010/11/16 15:50 塩谷は他でも見る名前ですね。なーるほど。

jyunkujyunku 2010/11/16 16:56 ググると、わんさか出てますね。竹内文献の信奉者でもあったのかしら。