なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

オールディーズ、バッド、グッデーズ

新年の朝の光に照らされて、空中に微細な埃が舞っている、午前7時。ふと下に目を落とせば、窓のそば、本棚の前、テーブルの下、冷蔵庫のわきに、くるくるまるまった綿埃がひとつ、ふたつ、転がっている。
毎年同じだけれど、年末は思うように休みが取れないことはもちろん、残業と忘年会に繰り返し襲われ、ほとんど掃除らしい掃除ができなかった。綿埃をつまみ、ゴミ箱に入れる。

つい先だって、ここに、おしょうがつ、などと称して、何か文章を書いたような気がするのに、あれからもう365日も経ったとは、埃だけじゃなくて時間も転がっているのかね。埃は拾っているだけでは埒があかないので、掃除機を出してきた。

時間が転がっているのは本当で、きょうという一日もあっという間に過ぎた。
掃除の後、テーブルにおせちを並べ、きのう食べそびれた鰊蕎麦もつくり、酒を燗にして、年末に購入したプロジェクターで、これまた年末に3本3000円で購入したDVDの中の1本である『ブエナビスタソシアルクラブ』を壁に投写して、観ながら食べた。『ブエナビスタ』は、何度観かえしても、あらゆるシーンでじんわり涙がにじんでしまう、郷愁にあふれた映画だ。
映画の後は、NHKラジオで、松浦寿輝の『ミュージック・イン・ブック』という番組を聴く。小説の中にでてくる音楽を聴き、それについてゲストと語る、というもの。きょうの相手は川上未映子。番組のラストに松浦氏が、川上さんにとって音楽ってなんですか、というなんともかんともな質問をするのだが、それに答えて川上さんが、うーん、そうですね、けっして鳴り止まないものですかね、と言ったのが、心に残った。
確かに、音楽は鳴り止まない。いつも鳴り続け、聴こえている。楽しいときも憂うときも、ひとりのときも大勢のときも、ざわめくときも雑踏にまぎれていても、闇に沈んだ無音のときでさえ、必ず音楽は鳴っている。
いつも心に音楽と詩を。そう思うだけで、満たされてくる気持ちがする。
午後からは、近くの神社に初詣にいき、お神酒とお汁粉をいただく。近所を1時間ほどぐるっとひとまわりし、正月の風景を刻み、帰宅してから、家事をして、本棚の整理をし、ここに日記を書いたのだけれど、どういうわけか更新寸前で突然パソコンがフリーズし、なんだなんだとエンターキーを闇雲に押してみたら、一瞬にして全てが消えた。
仕方がないので、録音しておいた『世界の快適音楽セレクション』を聴きながら、夕ご飯をつくる。粕汁に、ハッシュドポテトにロースハムを焼いたもの、キャベツときゅうりと卵のサラダに、おせちと白ワイン。プロジェクターに次々とDVDを放り込み、好きなシーンばかり、大画面で観ていく。とうとう寝るまで、映画ばっかりみていた。我が家は映画館。
こうして午前1時には寝た。

先々月にここに文章を書いてから、いろんなことがあった。その中には、選挙と牧野エミさんのことがあった。
わたしは政治には恬淡としていたいほうだし、そんなに関心があるわけではないのだが、こんなに投票するのに気が重くなる選挙は、たぶんはじめてだった。会社に行くのもたいがい嫌だけど、投票所に行くのがすごく嫌で、日曜日が来るのが本当に憂鬱だった。棄権したかったけど、結局行った。村上春樹は選挙に行かなくても社会は変えられると言ったけど、まあそれはある意味そうなんだと思うけど、でも投票所には行って、でも小選挙区のほうは、誰にも入れられなかった。本当に投票したい人がいなかった。だから、あの小さい投票用紙にあの書き難いエンピツで、なぜわたしは誰にも投票しないかという文章を書いた。数分かかってせっせと書いたので、係りの人に少し不審がられた。わたしのしたことはたぶん何の意味もないし、社会も変えないかもしれない。だけど、黙って従うのは絶対に嫌なのだ。

11月に牧野エミさんが突然、亡くなってしまったことは、やはりショックだった。それは、例えば小沢昭一さんや勘三郎の死から受ける気持ちとは違う、さみしさだった。わたしは牧野エミさんを応援していた。それは、生きるということはもちろんだったけれど、それだけではなくて、悔いを残さないでこの世と別れるという、その別れ方も含んで、わたしは牧野さんを応援したかった。そして、もう応援しなくてよくなってしまったことへ、空漠ともいえるさみしさを感じてしまうのだ。

けれども、私は、だんだんこう思うようになったのです。時間などというものはない、あるのはたださまざまなより高い立体幾何学にもとづいてたがいに入れ子になった空間だけだ、そして、生者と死者とは、そのときどきの思いのありようにしがたって、そこを出たり入ったり出来るのだ、と。
そして考えれば考えるほど、いまだ生の側にいる私たちは、死者の眼にとっては非現実的な、光と大気の加減によってたまさか見えるのみの存在なのではないか、という気がしてくるのです。

2012年に読んだたくさんの書物の中で、一生読み続けたいと思った小説であるW.G.ゼーバルトアウステルリッツ』の中の文章。これを牧野さんに伝えたい。