「上品・下品、品格」

 品のない美術作品。その言い方は、私にはあり得ない。美術作品と称される作品は、すべて品があるから。 品のない作品は、美術作品ではない、と私は考えている。
 「上品中品下品」は仏教用語で「じょうぼん、ちゅうぼん、げぼん」と読む。この用語に出合った時、上品 (じょうひん)、下品(げひん)を思った。そして「品がない」を。美術作品また芸術作品と称される作品には、 品があることが必須条件であると思う。よって品がない作品は、美術品でも芸術品でもない、ただのモノ。 では下品な作品は? 下品という品があるから美術芸術作品。言葉の遊びみたいだが、品を作るのが作品。 モノは溢れているが、作品はどこにある?
 さて、ポール・ヴァレリーは「知性の決算書」で書いている。

《 観察が直接的であればあるほど、我々は事物や出来事や存在を直接知覚し、自分が受け取った印象を直ちに 紋切り型、定形表現へ翻訳するようなことはしません。そして我々の知覚の価値もそれだけ大きくなるのです。 さらに言えば──これは逆説ではありません──直接的知覚は表現するのが難しいほど貴重なのです。表現する 言葉が見つからなければそれだけ、我々自身が言葉を開拓しなければなりません。 》 『精神の危機』岩波文庫、 「知性の決算書」211頁

 言葉を開拓する……で、品(ひん)の意味の美術的意味への拡張あるいは転換を図った。下品(げひん)という品だ。 衝撃的な美術・芸術作品は、まず下品だ、と顰蹙を買う。マネの『草上の昼食』がいい例だ。当時下品だと非難轟々。 現在オルセー美術館の目玉。下品という品は、時代が変われば品格を有するようになる。下品とも言われない作品は、 歴史の闇に消えてゆく。(下品も含んだ)品の有る無しが、作品の行方を左右する分岐点だ。
 翻って、上品な作品は、また先行きが危ういものを含んでいる。上品と言われる作品は、その時代の価値観で 上品と言われている。時代が変われば下品に落るかもしれない。が、下品という品があることには変わりない。 下品も品のうち。優れた美術・芸術作品にはどれも品が、さらには品格がある。当然、時代が変われば品の無くなる (非美術)作品もある。カスパー・ダーヴィド・フリードリヒも、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールも、ヨハネス・ フェルメールも、伊藤若冲も、河鍋暁斎も、没後長らく忘却の底に沈んでいた。それが今じゃ大作家。作品はいつ沈む (忘却)か、再浮上する(再評価)か、予想がつかない。K美術館で収蔵した作品はどうだろう。 これぞ後世への人生をかけた極私的華麗なる(?)賭け。

 午後、友だちと近所の店でお茶をしているところへ、知人の女性社長がご主人と来訪。初対面の挨拶の後、彼が東京駅 八重洲口近くにあった北一明の小料理屋を贔屓にしていた、と。世間は狭い。

 ネットの見聞。

《 エイトブランディングデザインの西澤明洋さんから新刊著者『クリエイティブのつかいかた』をおおくりいただいた。 気になる方でお会いした事のない方がいて気になる。さすがの人選だ。読まなきゃ。 》 高橋正明
 https://twitter.com/buzzmeak/status/723300389576040448

 その人たちの肩書。アートディレクター、プロダクトデザイナー、クリエイティブ・デザイナー、デザインエンジニア、 コミュニティデザイナー、コミュニケーションデザイナー……。知らないうちにデザイナーが。

《 100年後の研究者が平成という時代を知ろうとしたとき、公の部分は新聞を読めばいいんだろうけど、 市井の人がどんな家に住んで、何を持っていて、何を食べていて――といった生活スタイルや生き様、 人生観は記録には残らない。だからこそ、「家、ついて行って」で記録していきたいですね。 》
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160416-00000001-withnews-ent&p=4

《 集団的自衛権という単語をいれたとたん、フォロワーが極端に少ない卵アカウントのフォローが急増。 なるほど 》 堤未果
 https://twitter.com/TsutsumiMika/status/723480787782275072

 ネットの拾いもの。

《 スタンプカードの有効期限はありませんが、お店がなくなっていたらすみません」》

《 盗塁を許しているのではない、相手選手をどんどん走らせて疲れさせる作戦なのだ。 》

《 新聞配達員が走り回る時間になっちまった。 》