神奈川近代文学館「帰って来た橋本治」展。横浜山手の「ブリキのおもちゃ博物館」再訪。

神奈川近代文学館で開催中の「帰って来た橋本治」展。

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橋本治は1948年生まれ、2019年に亡くなっている。この文学館には「橋本文庫」がある。

橋本治の著書は今までに3冊読んでいる。小林秀雄の恵み』(新潮社)では小林秀雄の代表作『本居宣長』を材料に、小林秀雄の正体を丁寧に薄皮を剥ぐように見せていく。神様・小林秀雄の間違いを指摘するという、恐れ多い仕事となった出色の小林秀雄論だ。その手腕はなみたいていの腕ではなかった。

橋本治内田樹』筑摩書房)。同世代の二人の特異な書き手の考えていることや手の内がわかるのだが、橋本治の逆説的な、本質的な、独学的な言葉群に魅力があって、最後まで楽しくうなずきながら読み終えることができた。内田樹は相の手と相手の言葉を敷衍するちょっとした解説がうまいので、橋本治の話がうまく回転してく。

『窯変源氏物語』は橋本治本人が「代表作に近い」という全14巻の大作。

企画展で、展示を詳しく見て、図録を買ったので、改めて私と同時代を生きた2歳上の橋本治の足跡を追うことにしたい。

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横浜山手の「ブリキのおもちゃ博物館」(KITAHARA COlLECTION)を再訪。北原照久コレクションで、1890年代から1960年代製造のおもちゃ3000点が展示されている。

クリスマスの館。こちらは初めて

昼食は、何度も訪れているレストラン「ROCHE」。

 

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「名言との対話」4月19日。椎名武雄日本アイ・ビー・エムの玄関に星条旗を掲げちゃだめなんだよ」

椎名 武雄(しいな たけお、1929年5月11日 - 2023年4月19日)は、経営者。享年93。

日本アイ・ビー・エム株式会社社長、会長。経済同友会終身幹事。社会経済生産性本部副会長。社団法人企業研究会会長。財団法人慶応工学会理事長。慶應義塾評議員・理事。慶應義塾理工学部同窓会募金委員会名誉会長。 2000年11月 勲一等瑞宝章受章。

アメリカのバックネル大留学後、日本IBMに入社。45歳で日本IBMの社長に就任したのは1975年で、1992年まで17年間の長きにわたり同社を率いた。1989〜1993年は米IBMの副社長も兼務している。1992年に会長に就任して以降は経団連経済同友会の要職に就き、IT戦略会議メンバーなども務めることで、日本における外資系企業の地位を向上させたことから「ミスター外資」との異名も取る。

椎名武雄外資と生きる IBMとの半世紀』(日経ビジネス人文庫)を読んだ。

10年がかりで朝日新聞日本経済新聞のコンピュータシステムを開発したエピソードが印象に残る。米IBMの開発担当者はアポロ計画を担当した精鋭部隊だったが、「アポロ計画のシステムより難しかった」と漏らしたほどの難事業だった。日本語の新聞記事には「書き出しは1字下げる」などこまかな約束事が3000もあった。その約束事を盛り込むとソフトのサイズが膨れ上がり、コンピュータの処理能力が追いつかない。ようやく1971年からコンピュター紙面がだんだんできあがっていき今の姿になった。

新聞のコンピュータ化のプロセスで親しくなった日経の円城寺次郎は「椎名君、日経は新聞も出している会社にしたいんだよ」と言った。日経はデジタル化に果敢に挑戦しつづけている。

ゴルフクラブには正会員、平日会員、ビジターという3種類がある。ビジターはプレー料金は高いし、キャディーさんの態度もどことなく違う。せめて平日会員になろうじゃないか。これは1975年に社長に就任したころの発言だ。売上高2千億円、社員数1万人の日本IBMは63歳で48歳の北城恪太郎に社長を譲ったときには、1兆円企業になっていた。「日本IBM中興の祖」と呼ばれている。

日本とのつながりを築くために考えだしたのが、1970年から始めた「天城会議」だ。毎年財界、学界などの有力者が集まって議論する場である。天城会議を育ててく人として、ソニー盛田昭夫と野田一夫を挙げている。

1994年に政府の高度情報通信社会推進本部の有識者会議の委員になっている。情報化の推進には縦割り行政ではダメで内閣が全体を統括して欲しい。高度情報化社会の推進にはそれを阻害する制度等を廃止・変更して欲しいと主張している。2020年から始まったコロナ下であらわになった政府のデジタル化の恐るべきお粗末さを目にすると、椎名武雄のアドバイスを実行しなかったことは明らかであり残念だ。この点は「デジタル庁」をつくったことで簡単に解決するような課題ではないと思う。工業時代から情報産業時代への転換に向けて政府全体、国家全体が総力をあげて立ち向かうべきテーマなのだ。

「お客様に鍛えられて人材というのは強く育っていく」「”Glorious discontent.” 誰にでも不平や不満はある。だけど、それをそのまま終わらせてはいけない。不平や不満があるならば、それをなくすよう物事を改善しなければならない」「これからは日本人が世界でトップになる。さもなければ、日本は本当に沈んじゃうよ」「何もせずに社長室に座っていると、悪い話は入ってこない。そうなると、経営判断を間違ったり、遅くなったりする。経営者は現場を歩き、積極的に生の情報を集めなければならない」。

椎名武雄と私の縁を思い出してみる。

・1991年前後だったか、JAL時代に日本IBMの椎名社長に社内報のインタビュ−をしたことがある。

・2004年、宮城大学初代学長の野田一夫先生とカナダ大使館地下のシティ・クラブ・オブ・トーキョーで夕食を摂った。先生はあいかわらずステーキで、ギリシャへの船旅にいく話をしていた。このとき、野田先生の親友の日本IBMの椎名武雄最高顧問が現れて私もご挨拶した。二人は「タケオ」「カズオ」と呼び合う仲だった。
・2008年。 「草柳文恵さんを偲ぶ会」で私の隣の寺島実郎さんが帰った後の席は、遅れてきたIBMの椎名武雄さんが座って、陽気楽しい会話が続いた。挨拶では「文恵さんはもの静か、もの憂げな美女だった」と印象を語った。
日本アイ・ビー・エムの玄関に星条旗を掲げちゃだめなんだよ」は、1993年1月に北城恪太郎氏に社長を引き継ぐことを発表した直後のインタビューで発せられた言葉である。椎名は「常にアメリカ本社と戦ってきた」と語り、本社に対しては日本の商習慣を理解させる苦労をする。また「外資は悪だ」という日本の抜きがたい見方を払しょくするにも苦労する。その両面を端的にあらわす言葉が「星条旗」をめぐる冒頭の言葉である。

 

 

塩谷賛『幸田露伴 下の二』から

本厚木に所用があって、妻と出かけた。帰りに駅で古本店が並ぶ企画をまだやっていた。塩屋賛『幸田露伴 下の二』(中公文庫)を購入。この4巻の書は、読売文学賞を受賞している。

読んでみると手元にある坪内祐三『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲がり』の露伴についての底本のようだ。「詳細きわまる塩谷賛『幸田露伴

』との紹介があった。坪内逍遥露伴を抜群の記憶力と博識を回想して「ルネサンス的天才」と称していた。

最後で、かつ最も優れた弟子であった塩谷賛の『幸田露伴』の中で露伴のことを何と紹介しているか。「国宝的存在」。「碩学、人傑」。「座談の名人」。「文豪」。「ミノスのラビリントス」(鴎外の「百門のテーベス」)。、、、、

露伴は『澁沢栄一』という伝記を書いている。「事業から事業への必然的な関係もなく、全体を通じて一貫したものがない」と語っていたそうだ。露伴は頼まれて「時代の寵児」としての側面だけを書いたとのことである。パラグラフごとに一行をあけ、段分けがない。このためスピード感があった。

塩谷賛の書は、「太公望」から始まる。その冒頭に昭和10年に「改造」新年号の「偉人論」を載ったとある、自分のためばかり走り回る人を小人、その働きが社会のためになる善良な人を大人とする。偉人は善、不善を問わないとする。「えらい人になれ」というより、「人になれ」というのが良いとしている。露伴は偉人について、大人・仁人・哲人・聖人等11の称すと比較しているというから、いずれ読んでみたい。

幸田露伴は明治・大正・昭和の三代に亘る巨匠である。『五重塔』などの小説も素晴らしいが、『努力論』には触れるたびに感銘を受ける。厚みのある人生論で、努力論いうより日本を代表する幸福論だ。運命。人力。自己革新。努力。修学。資質。四季。疾病。気。こういうキーワードで事細かく生き方を論じた名著であり、首肯するところが多い。

 最も読むべきは「幸福三説」である。

惜福。分福。植福、これを三福という。惜福とは、福を使い尽くし取り尽くしてしまわぬをいう。個人では家康の工夫。団体では水産業、山林、軍事。分福とは、自己と同様の幸福を分かち与えることをいう。人の上となり衆を率いる人が分福の工夫をしなければ、大なる福を招くことはできない。分福は秀吉が優れていた。清盛。ナポレオン。尊氏。福は惜しまざるべからず、福は分かたざるべからず。植福とは、人世の慶福を増進長育する行為である。自己の福を植え、同時に社会の福を植えることだ。「福を惜しむ人はけだし福を保つを得ん、能く福を分かつ人はけだし福を致すを得ん、福を植うる人に至っては即ち福を造るのである。植福なる哉、植福なる哉」 

露伴の娘の幸田文の文章は、新しい情報を伝える「エッセイ」ではなく、日常の見聞から人間の本質を描く「随筆」というにふさわしい。読むと父・露伴のことがどうしても目がとまる。「父にうそをつくと観破されて恥しい目にあう」「黙ってひとりでそこいら中に気をつけて見ろ」「なぜもっと父の話を沢山聴いておかなかったか悔やまれた」「父の書斎、、、そこは家人といへども猥りに入ることのできない、きびしい空気がつつんでゐた」「お父さんは偉い人だと感服して聴いた」「「お前は赤貧洗うがごときうちに嫁にやるつもりだ」、、「、、薪割い・米とぎ、何でもおれが教えてやる」。「ある冬、伊豆に遊んでいた父から手紙をくれた。「湯のけむり、梅の花、橙の黄、御来遊如何」という誘い、、」。露伴と文との関係と交流が過不足なく冷静の描かれている。「終焉」の終わりは、「「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と何の表情もない。穏かな目であった。私にも特別な感動も涙も無かった。別れだと知った。「はい」と一言。別れすらが終わったのであった」である。

露伴については、折に触れて、学んでいきたい。

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「名言との対話(平成命日編)」4月18日。来栖継「重訳が必ずしも直接訳に劣らない」

栗栖 継(くりす けい、男性、1910年7月18日 - 2009年4月18日)は、翻訳家、チェコ文学者、共産主義者エスペランティスト日本エスペラント学会顧問、世界エスペラント協会名誉会員、日中友好文通の会会長。享年98。

父が自殺したため母子家庭で育つ。中学時代にエスペラント語を知り、雑誌「戦旗」に掲載された「プロレタリアエスペラント語」という論文を読み、エスペラントにより革命運動に参加できると考え、エスペラントを学習する。

戦前は治安維持法により特別高等警察によって数回逮捕・投獄された。出獄した栗栖は小林多喜二蟹工船』のエスペラント語訳に取り組み、作家の貴司山治の助けで、大量にあった伏せ字を全部復元した翻訳を完成させた。その時点では出版できなかったが、スロバキアのジャーナリストが、栗栖のエスペラント語訳からスロバキア語に翻訳し、1951年に発行された。戦前・戦後を通じて日本のプロレタリア文学などのエスペラント翻訳などを多数行った。1949年、エスペラント運動に関する功績により「小坂賞」(日本エスペラント運動に対する小坂狷二の功績を記念した賞)を受賞した

少年期からチェコ文学に興味があり、「本物のチェコ文学者」となろうと、40歳を過ぎてから、独学でチェコ語を学習する。1995年7月、ルイジ・ミナヤ賞(世界エスペラント協会主催文芸コンクール、エッセイ部門第1位)受賞。2007年には、横浜みなとみらい21で開催された第92回世界エスペラント大会では、開会式でエスペラントであいさつを行った。

世界語・エスペラント語は、宮澤賢治も使っていた。また2011年に開催された「ウメサオタダオ展」でもエスペランチスト梅棹忠夫エスペラント語のサインの入った本が展示されていた。訪問したいくつかの人物記念館でもエスペランチストは数人いた。世界語への関心が高い時代があったのだ。

小林多喜二の代表作『蟹工船』のスロバキア語訳の陰には、来栖継という日本人によるエスペラント訳があったことが後にわかった。「スロバキア語とよく似たチェコ語訳の『蟹工船』は、伏せ字だらけの本が底本です。重訳が必ずしも直接訳に劣らない一つの例証です」と91歳の来栖継は語っている。原作を超えるという評価のある翻訳では、森鴎外の『即興詩人』が有名だが、日本語からエスペラント語への翻訳、そのエスペラント語訳からスロバキア語への再翻訳という「重訳」が成ったわけだ。原本の良さがだんだん薄れるだろうと思うのだが、語学の才能に加えて、志の高い翻訳者を得れば、直接翻訳を上回る出来になることもある。

小林多喜二から来栖継、そしてスロバキアのジャーナリストというように松明が引き継がれたのである。来栖継の第一次翻訳が優れていて、スロバキアのジャーナリストの転訳もさらにすばらしかった。軌跡の物語がここにある。

『幸福塾』:「新・代表的日本人」シリーズ:今回は「切磋する敵、琢磨する友」のライバル編。

「幸福塾」の「新・代表的日本人」シリーズの「切磋する敵、琢磨する友」の1回目。「ライバル」がテーマ。

以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回はテーマ『新・代表的日本人』の第3回「切磋する敵、琢磨する友」でした。紹介いただいた人物は、大相撲力士の大鵬柏戸プロ野球選手の長嶋茂雄王貞治、小説家の夏目漱石森鴎外川端康成三島由紀夫ノーベル賞を受賞した物理学者の朝永振一郎湯川秀樹文化勲章を受章した小説家の舟橋聖一丹羽文雄、同じく画家の竹内栖鳳横山大観など、国民の多くが知っている大変有名な方ばかりでした。 この中で特に印象に残ったのは、柏鵬時代を築いた力士のお二人のことで、当時の子どもたちが好きなものの代表として「巨人・大鵬・卵焼き」があり、ライバルの柏戸の方には「阪神(大洋)・柏戸・目玉焼き」というのがあったということ。「巨人・・・」は知ってましたが、「阪神・・・」の方は初耳でしたので、対比のユニークさに思わず苦笑いしてしまいました。一方、現時点(令和の時代)でこれらの事例に匹敵するような有名人は誰だろうかと考えたところ、すぐ思い浮かびませんでした。国民の誰もが知っている凄い人と言えば、プロ野球大谷翔平選手や将棋の藤井総太8冠のような、好敵手と2人で切磋琢磨しながら成長した訳ではなく、単体で多大な努力をした結果、突出して大活躍しているというパターンが多いように思いました。多様性が求められ、認められる時代だからこそ、これまでと違った取り組み方が活きてくるのかもしれません。誰とつながるか、どのようにつながるか、時代とともに進化しているようです。次回もライバルの続きだそうですから、どんなつながりがあったのか、興味が湧いてきました。楽しみにしていますので、よろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。よく知られているライバル、意外なライバル、たいへん面白かったです。今日紹介された中では、北大路魯山人川喜田半泥子については名前を聞いたことがある程度でしたが一番興味深かったです。偉人もそうだし、私たちの個人史の中でもライバル関係にあった相手はいましたよね。ライバルの存在により、もっと向上しよう、あいつには負けたくないという気持ちが働くのは確かです。互いにライバルとは思わなくてもマスコミはじめ世間がライバルと見て、それで人気が沸騰することもあります。NHKの朝ドラ「ブギウギ」で笠置シヅ子淡谷のり子芸能雑誌記者がライバルに仕立てて記事を書くという場面がありました。むき出しの敵意をもったライバル関係もありますね。自民党の総裁選など典型的な例です。今日挙げられたライバル関係をはじめ、互いの向上に資するライバル関係に共通するのは「互いへのリスペクト」ではないかと思います。次回も続くということで、楽しみです。
     
    • 本日もありがとうございました。まず、「ほんまる」の棚を確保されたお話。神保町へ立ち寄ってみたいと思います。すてきな棚にできればよいなと思います。佐藤可士和さんデザインのほんまるは、見るのも楽しみです。講義の方は、切磋琢磨してきたライバルに注目した方たちのお話を聞きました。たくさんのライバルたちをご紹介いただいて、これまで幾度もお話を伺っているような気がしますが、ライバルとして二人並べてお話を聞くと、また違った側面で、性格も浮かび上がってきて面白かったです。だいたい天才肌と秀才肌、の組み合わせが多いように思います。天才だけど陰で努力されている方ばかりで、ライバルがいてこそだと思います。他を認め自分も努力し高めることが大切だと改めて思いました。白洲次郎白洲正子、二人はライバルだったのかどうかは分かりませんが、武相荘を訪れたとき、楽しく暮らしていたように見えました。図解塾の日本文化の白洲正子のコラム、実際に見ると、様子がとても分かりやすいと思います。武相荘、また訪れてみようと思います。次回もライバルのお話。よろしくお願いいたします。
    • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、幸福塾。先ずは恒例の久恒先生ブログ紹介から。①神田神保町シェア書店「ほんまる」、直木賞作家今村省吾氏の手により4月27日にオープン予定、久恒・橘川両先生は店舗の1階、深呼吸学部の田原さんは地階に、夫々棚を確保済との事。「今、本屋が潰れている」というニュースの中、書店のメッカとして有名なその街で「革命の予感」、ワクワク致します。(この後はすべて「名言との対話」から)②「大林信彦」(おおばやし のぶひこ 1938-2020 広島県尾道市出身 映画監督)、元々医者志望、途中から映画制作の道へ、自主映画⇒TVCM⇒ホラー⇒尾道3部作、独特なキャリヤ、「映像の魔術師」と呼ばれた。かの有名CMで氏が手掛けた作品多数とか。これはいつか深掘りしたい。『第2の黒沢にはならない、第1の大林になる』…オリジナリティを重んずる孤高のプライド、憧れます。③「三國廉太郎」(みくに れんたろう 1923-2013 群馬県太田市出身 俳優)  戦後、木下啓介作品へ出演した際の役名がそのまま芸名になった。『演じる事が生き甲斐、名優と言われたらおしまい』、嗚呼…スーさん。第2釣りバカ日誌の構想:西田敏行演ずる「浜ちゃん」は今や鈴木建設の社長で相変わらずの釣り三昧、ある日呑み屋で出会った「サトー」(演:佐藤浩市)は鈴木建設のエンジニア、アフリカ某国の石油プラント事業が内戦でとん挫し失意のまま帰国。抜け殻の様な彼を励ます浜ちゃん、ある時釣りに誘いいつしか常連に(もちろん身分は秘密)。ある日元気を取り戻したサトーが浜ちゃんに尋ねる。「あんた、どうしてそんなに親切にしてくれるの?」、浜ちゃんが答える「昔世話になった人が居てさー、似てるんだよ、あんたに…」、アッ、これはあくまで当方のフィクションです、悪しからず。④「田村正和」(たむら まさかず 1943-2021 京都市出身 俳優)ご存じバンツマの3男『俳優は白いキャンバスであるべき』…幅広い役柄を演じたマルチな俳優、一方で私生活は秘密を通す完璧主義、頭が下がります。⑤「モンキーパンチ」(本名かとう かずひこ 1937-2019 北海道厚岸郡出身漫画家)お馴染みルパン3世は代表作、2003年より東京工科大学大学院に学びその後大学で教鞭をとった、2足目のわらじ。『乾いた手拭いを絞る…これが勝負』…当方も社業で散々仕込まれました。「無い袖振るのがエンジニアだ!」って。氏の漫画で描かれた「ワルサーP38」や「メルセデスSSK」といったメカニズムのリアルさがとても印象的で、「技術好き」なお人柄がしのばれました。⑥「小池滋」(こいけ しげる 1931-2023 東京都出身 英文学者) 「余はいかにして鉄道愛好家になりしか」…内村鑑三著作のタイトルをパクるカッコ良さ、1997年刊の自伝のタイトル。本業に並び英国鉄道史研究でも名高い、JR東日本の「鉄道博物館」開業の10年も前の著作で鉄道車両保全を訴えた先見の明、サスガです。⑦「白川義員」(しらかわ よしかず 1957-2022 愛媛県出身 写真家) 『私の仕事はどれも歴史上類を見ない撮影』、中国、アメリカ、ヒマラヤ、南極…恐るべき行動力、撮影の苦労5%、現場に立つまでの苦労95%、ココでも出た!『段取りが全てを決する』。…さて、ようやく本題。前回まで2回にわたる『仰ぎ見る師匠』レクチュアに続き、今回からのテーマは『ライバル』。1) 『栃錦若乃花』 ☞トチワカ。栃錦春日野親方、理事長、両国国技館を作った、若乃花は次代の理事長、土俵の鬼、若貴のおじ。「力士は紳士たれ、礼節をわきまえろ」…現在相撲界の基礎。2)『柏戸大鵬』☞ハクホウ。ともに圧倒的な強さ、「巨人・大鵬・卵焼き」ちびっこのMy Favorite things。一方「阪神柏戸・目玉焼き」なるワードも有ったとか、ナンバー2繋がり。通好み、負けず嫌い体質…オレ、スキカモ…。3)『三原と水原』プロ野球、三原は早稲田、水原は慶応、互いに絶対負けないと誓う永遠のライバル、武蔵と小次郎。4) 『王、長嶋』プロ野球、ON時代のヒーロー、記録の王、記憶の長嶋。5) 桂と西園寺、桂園時代…明治大正の総理。6) 漱石と鴎外、本業は陸軍医、作家活動は夜、スミワケばっちり。7) 白洲次郎と正子、次郎、ケンブリッジ大学吉田茂のブレーン、GHQと対峙、マッカーサを叱った男、ネイティブスピーカーを手玉に取る英語力(英国仕込み)プリンシプル、一方正子は能・古美術研究、「巡礼とは自己発見の旅…」夫婦が互いの主義主張を認め合う、「大人の余裕」が垣間見え…憧れマス。8) 湯川秀樹朝永振一郎(ともながしんいちろう)、京大物理学科、湯川は天才、テーマをさっさと決めた。一方朝永はドイツへ活路を求め…、後年共にノーベル賞を受賞する。9)川端康成三島由紀夫、三島はノーベル賞を逃し家人にだけ悔しさを吐露したとか、後年両者共に自殺。三島も賞を取っていたなら二人とも生きる永らえる事が出来たか?。…今回もなかなかのボリウム、言葉のシャワーをたっぷりと浴びながら思ったことは、「切磋琢磨するライバル同士の互いを思う心」。互いを意識するから負けられないから、必死に技を磨く。相手が解ってくれているから心置きなく自分の課題に打ち込める。夫々タイプはあれど「掛けがえない相手の存在」というものが自らの成長に欠かせない。という存在意義を確認する事が出来た事が学びとなりました。さて、去る4月13日に東京南青山で催された「イコール創刊パーティ」は普段お目に掛かれないすごい人々との「リアル」な会合で非常に興奮したひとときを過ごす事が出来、大変有意義でした。当方は持参した東京新聞切り抜きの話題で、某社新聞現役記者様との談笑する機会が得られました。その際の図をご披露します。先日の大相撲春場所で新入幕優勝を果たした「尊富士関」の記事だったのですが、よく読むとそのわきに描かれた九重親方のコラムに俄然目が止まりました。「110年ぶりの快挙」を謳うその文頭では当時の出来事から始まる、子気味良い、コンパクトにまとまった文章から、「ただモノではない」気配を感じ調査。ご存じ「千代の富士」の愛弟子「千代大海」がその人で、生立ち~師匠との出会い~スピード出世~その後の親方・部屋継承と2世代にわたる「金のわらじ」のリレーのみならず、新聞コラム担当という『2足目』まで継承されていたという絆の強さを、「人生鳥観図」で表す事が出来ました。親方の華麗なプロフィールと強い絆を2ページに渡り図解致しましたのでup致します。併せてご覧いただけますと幸いです。有難うございました、次回も宜しくお願い致します。
  • 4月の幸福塾「代表的日本人」に参加させていただきました。久恒先生、皆様、ありがとうございました。今回の話題はライバルについてでしたが、とても参考になりました。特に、野球の巨人の長島茂雄さんと王貞治さんの話が印象的でした。お互いに切磋琢磨したからこそ歴史に残る素晴らしい記録を残した選手になったのだと思います。ライバルの話でよく耳にするのが、上杉謙信武田信玄に塩を送った話です。ライバルであっても、相手を思いやることが大切だと思います。いずれにしても、ライバルは成長のきっかけになると思います。これまであまり考えたことがなかったテーマでしたが、今回の話を通じて多くのことを学びました。 今後もこの学びを活かし、自分の成長に努めていきたいと思います。改めてありがとうございました。次回の代表的日本人にも期待しています。
  • 並び立ち、切磋琢磨できるライバルの存在について興味深く学ばせてもらいました。 ライバルという存在は、お互いが認めるものもあるでしょうし、周りが煽り本人達は否応なくライバルとされる場合もあるのかもしれません。これまでもスポーツ選手のライバル関係については見聞きしてきましたが、芸術、文学、研究などの分野でもライバル関係があることを知りました。特に朝永辰一郎という人物については名前程度しか知らなかったのですが、湯川がノーベル賞を取ったとき、朝永はドイツにて一報を聞いたというエピソードは人間らしいというか、面白いと思いました。大阪大学の湯川記念室のサイトにも、「ライバル・朝永辰一郎」という見出しがあり、湯川がノーベル賞を取った時には、師匠の仁科芳雄に「湯川をとっておけばよかった」と聞こえる様に言われたとのエピソードが掲載されており、叱咤激励も含めて周りからも意識させられる存在だったのでしょう。成功するまでは辛い事だけれども、それをバネにして成功に導ける人物だったからこそ、ライバルと評されるのではと感じました。大器晩成なんて言葉も、先に成功したライバルに対して、後から成功した者に使うのかもしれないと考えました。
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都築 功
 
 
 
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松本龍
 
 
 
 
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「名言との対話」4月17日。小池一夫「僕は80歳ですが、これからが自分が全盛期だと思っています」
小池 一夫(こいけ かずお、本名及び僧号: 俵谷 星舟〈たわらや せいしゅう〉、旧名: 譲〈たわらや ゆずる〉、作詞家としての別名: 東 文彦〈あずま ふみひこ〉1936年5月8日 - 2019年4月17日)は、日本漫画原作者小説家脚本家作詞家作家。享年82。
秋田県大仙市出身。中央大学法学部卒。時代小説家・山手樹一郎にまなび小説家を目指すが断念。その後、司法試験を受験するが3度失敗。さいとうたかをプロダクションをへて独立し、わずか数年で劇画界に一大勢力を築く。
1970年、「漫画アクション」連載の「子連れ狼」が大ヒットし、映画化、テレビ化された。アメリカにおける漫画ブームの先駆けとなった。1977年に小池一夫劇画村塾を設立するなど、新人の育成にも熱心だった。2000年に大阪芸大教授教授となり、ゼミで多くの漫画家を育てた。
世に出るまでゴルフ場、雀荘などに勤務したこと、また居合道、茶道にも詳しく、その雑学的知識が漫画に生きている。
小池一夫のキャラクター創造論ーー読者が「飽きない」キャラクターを生み出す方法』を読んでみた。
まずキャラクターから考える。名前、年齢、生い立ち、職業、家族、交友、好物、苦手、性格、夢、能力などを徹底的に考え抜く。主人公のオーラ、弱点を定める。そして敵役・ライバルのカリスマ性、欠点をなどを決める。キャラクターは一人では起たないのだ。主人公の夢が物語の行く先を決める。
ストーリーは事件など悪いことから始める。主人公は、「謎」を追う。脇役、引き回し役に物語の背景などを語らせる。
「主」(キャラクター)「謎」「技」(アイデア)「感」(感動・感情)が大事であり、「しゅめいぎかん」として覚えるといい。
この本の中で、「僕は80歳ですが、これからが自分が全盛期だと思っています」と強気の宣言をしている。
ところが小池一夫はそれから2年後に82歳で亡くなる。実年期まで疾走し熟年期の途中で倒れたのだ。今からが「全盛期」だとする心意気、気概がいい。
 
 
 
 
 
 

MLBの全選手がジャッキー・ロビンソン(黒人初のメジャーリーガー)の永久欠番「42」をつけた日。

ドジャーズの試合をみていたら、プレーしている全員が「42」の背番号をつけていた。4月15日は黒人のジャッキー・ロビンソンが初めてメジャーデビューを果たした日で、ガラスの天井をうち破ったその偉大な貢献を記念して1997年に永久欠番となった42の背番号をつけている。永久欠番は1939年のルーゲーリッグの4番から始まる。

有色人種の大谷もいずれ野球殿堂入りし、永久欠番になるだろうが、それはロビンソンが道をつけてくれたのだ。

日本でも導入されている。巨人では1番の王、3番の長島、4番の黒沢俊夫、14番の河上、34番の金田が永久欠番だ。こういった制度は、サッカー界やホッケー界などにもある。人物で歴史に思いを馳せる、こういった制度は素晴らしい。

さて、ジャッキー・ロビンソンとは誰か。

ジャック・ルーズベルト・ロビンソンJack Roosevelt "Jackie" Robinson1919年1月31日 - 1972年10月24日)は、アメリカ合衆国プロ野球選手内野手)。1890年頃以降、有色人種排除の方針が確立されていたMLBで、アフリカ系アメリカ人選手としてデビューし活躍。

ニグロリーグマイナーリーグを経て、1947年メジャーリーグデビューし通算10年プレー。ナショナルリーグMVP 1回。1949年新人王。。1947年首位打者 1回:1949年盗塁王 2回:1947年、1949年。MLBオールスターゲーム選出 6回、1949年 - 1954年。。

1962年には1939年のルー・ゲーリッグ以来となる有資格初年度で野球殿堂入り。1997年にはロビンソンの背番号42が全球団共通の永久欠番となった。

 2013年4月12日、彼を題材とした伝記映画『42 〜世界を変えた男〜』が公開され、4月第2週(4月12~18日)の全米映画興行収入ランキングで初登場首位を飾り、野球映画史上最高のオープニング記録を打ち立てた

 「「不可能」の反対は、「可能」ではない。「挑戦」だ!!」

「もし、他人に何かのインパクトを与えるような、生き方が出来なかったとしたら、人生などそれほど重要なものではないと思う」

ジャッキー・ロビンソンは「一流になれ、そうすればものが言える」と言った。有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。その道のりは苦難をきわめた。しかし敵を実績と人柄で黙らせて尊敬を勝ち取って一流の人物になっていく。「ものがいえる」、ということは人が意見を聞いてくれるということである。人に影響を与える。それが高い価値のある人生なのだ。

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幸福塾の準備に没頭:意外なライバル関係を発見!

夕刻は、温泉「森の彩り」

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「名言との対話」4月15日。柳生博「日本人のいちばんの魂の置き場所は野良仕事だと思う」

柳生 博(やぎゅう ひろし、1937年昭和12年〉1月7日 - 2022年令和4年〉4月16日)は、日本俳優司会者タレント声優団体役員

茨城県出身。東京商船大学に入学するが、禁止になり断念し中退。俳優を目指す。映画『あれが港の灯だ』でデビューし、30代後半の連続テレビ小説『いちばん星』の野口雨情役で広く名を知られる。クイズ番組『100万円クイズハンター』の司会を担当した。『平成教育委員会』の解答者や『生きもの地球紀行』のナレーションも長く担当するなどマルチに活躍。NHK大河ドラマ竜馬がゆく』『八代将軍吉宗』に出演している。味わいの深い演技は定評があった。

自然愛好家であり、1976年に八ヶ岳山麓北斗市に一家をあげて住み、作庭家としても活動した。自宅周辺に1万本以上の植林を続け、息子の柳生真吾(2015年に47歳で死去)とギャラリー・レストラン「八ヶ岳倶楽部」を開設した。日本野鳥の会」の第5代会長、名誉会長に就任している。

柳生博加藤登紀子 自然を生きる 自分を生きる』(河出書房新社。2019年刊行)を読んでみた。八ヶ岳の柳生と鴨川の加藤の対話を本にしたものだ。

柳生家は江戸時代の柳生新陰流の末裔である。その柳生家には「男子は13歳になったら一人旅をさせる」という家訓がある。博は中学2年で八ヶ岳へ旅をする。それ以来、人生の節目ごとに訪れている。

もともと吃音であったのだが、山村聡という名優が、「どもりくらいの方が役者として大成するんだよ」「おまえ、40歳くらいになったらいい役者になるんじゃないか」と励ましてくれた。

柳生は八ヶ岳へ移住してくる若い人たちに希望を託している。また高梨沙羅大谷翔平の生き方や言葉に感銘を受けている。

以下、柳生博の言葉。

「老人が貧乏くさくなったらダメだよ」。「お金を出すことと、挨拶は短くすること、そこにジョークを投入できればなおよし」。「オール・オア・ナッシングではなく、いま可能な範囲での改善策を講じることの大切さ」。

NHK「あの人に会いたい」では野良仕事の魅力を「森を切り植えて、切って植えて、花を咲かせて、鳥を呼んで、これを幸せと言わずして、「何を!」という感じです」と語っている。

野を良くするのが野良仕事なのだろうか。こういう幸福感は日本人の幸福感なのだろう。

柳生博は「木を植える」ということを続けた。そして若い人を育てた。同じことである。木は人であったのだ。

 

 

 

 

 

神保町にオープンするシェア書店「ほんまる」に申し込み。

シェア書店「ほんまる」(直木賞作家今村翔吾さん経営)に申し込みました。「本の聖地」神保町から始める出版革命に賛同し、出展。

 

営業日無休(11時30分~19時)で、スタッフは常時配置。出版取次にも対応。棚主は新刊を仕入れての販売も可能。販売手数料は5%。棚数は1階と地下1階で364を用意されている。

今村翔吾:1984年生。2022年、『塞王の盾』で」直木賞を受賞。

以下、2024年4月3日の私のブログから。

今村翔吾『戦国武将を推理する』(NK出版新書)を読了。1984年生まれの若い直木賞作家のエッセイ本。歴史小説に立ち向かう姿勢、考え方を追った。人物研究は自分だけのプロファイルをつくることでいいというメッセージである。人物像は真実であるかどうかは、もともと不明であり、それを推理する権利があるということだ。この作家が人物を選ぶ場合には、現代のテーマと絡めて選択している。つまり、歴史小説は、現代を描く小説なのだ。

今村翔吾『戦国武将を推理する』ーーー歴史小説のテーマは「現代」。 - 久恒啓一のブログ「今日も生涯の一日なり」 (hatenablog.com)

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水曜日の幸福塾「新・代表的日本人」の準備:テーマは「ライバル」。意外なライバル関係。

久恒啓一の幸福塾『新・代表的日本人』第3回『切磋する敵・琢磨する友』 | Facebook

午後は立川:オステオパシーで体調を整える。

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「アジア太平洋文化賞」 山本 正 氏 受賞のことば :: アジア太平洋フォーラム・淡路会議

「名言との対話」4月15日。山本正「人間の安全保障」

山本 正(やまもと ただし、1936年3月11日 - 2012年4月15日)は、日本を代表する国際主義者。日本とアメリカを始めとするその他の国との民間交流の強化を先駆的に提唱した。享年76。

東京出身。香港、ボンベイを経て帰国し、上智大学に入学、その後米国セント・ノーバート大学、マーケット大学経営学院を取得。1962年には大統領選時に接したケネディに影響を受ける。

帰国後に信越化学工業小坂徳三郎社長秘書時代に、1967年から、日米の有識者による政策対話「下田会議」を開催し、1990年代まで続けている。日米の有力者同士のつながりをつくった。

独立した山本は1970年には日本国際交流センターを設立し、理事長に就任。1973年には日米欧委員会の創設メンバーともなった。日米賢人会議、日米諮問会議、日韓21世紀委員会などの事務局長を引き受けている。小渕内閣鳩山内閣でも総理との懇談会に委員もつとめている。

山本の活動は広い。アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカなど全世界と日本との交流に力を注いでいる。その功績で、オーストラリア、ドイツ、イギリス、日本の政府から表彰を受けている。2011年委は旭日中綬章を受章。

山本正の戦後の50年以上にわたる献身的な努力には頭が下がる思いがする。日本とアメリカからどのように感謝されたか、以下の人物評をみればわかる。

  • トム・フォーリー(米国下院議長)「我々の二国間関係の強化にこれほど効果的な人物は他にいない」
  • ウオール・ストリート・ジャーナル「日米同盟の熱烈な擁護者」
  • ジェラルド・カーティスコロンビア大学教授)「彼(山本正)は、民主主義国同士の交流は民間が主導するべきだという信念を捨てなかった」
  • 松山幸雄(朝日新聞論説主幹)「山本は国際交流のために他の誰よりも多くのことを行った。名実ともに何もないところから始めたのに、彼は(彼が接した)全ての人から好かれていた」

日本は発信の少ない受信型文明であり、沈黙の経済大国でああった。国際関係においては、外部からの情報を一方的に受け取る直流型であった。山本はそれを「交流」に変えようとしたのだろう。

山本正は冷戦終結後には「人間の安全保障」の概念を提唱し、日本外交の柱の一つとなった。緒方貞子が共同議長をつとめた国連の「人間の安全保障委員会」は、「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」と定義している。その考え方が、日本外務省、JICAの方針となったのである。

人間の安全保障とは、国家の安全保障に対する概念である。外務省の開発援助ODAのホームページには「人間の安全保障とは,人間一人ひとりに着目し、生存・生活・尊厳に対する広範かつ深刻な脅威から人々を守り、それぞれの持つ豊かな可能性を実現するために,保護と能力強化を通じて持続可能な個人の自立と社会づくりを促す考え方です。」と記されている。安全保障の中には、環境、人権、難民、貧困などの脅威にさらされる取り組みの行って、人間の身体の安全と心の安心を手に入れようという考え方である。

私がJICA(国際協力機構)の専門家派遣研修の講師を2010年代に数年つとめた時、「人間の安全保障」という概念がJICA(緒方貞子理事長)の方針の中に銘記されていたことを思いだした。これは緒方貞子が世界に向けて提唱し、山本正が尽力して日本の方針となったのである。こういう人が国際交流が日本の生きる道であり、それに生涯を捧げようという大志をもって、戦後世界を疾走したのだ。一人の人の力はやはり小さくない。そういった先達の努力の上に今日の日本があうと改めて感じ入った。

 

 

駅前のダンスイベントをひやかし、古本市をブラブラした日曜日。

快晴の日曜日。駅前を楽しみました。

子どもたちのダンスイベントを見物。両親や祖父母たちのカメラ撮影の熱心な姿がなかなかいい。

古本市をのぞく。あまりに安いので、つい買ってしまう。地元以外に、吉祥寺、船橋あたりの古本屋などが出ている。

竹内宏『「元気」の経済学』(PHP)。塩谷賛『幸田露伴 下の二』(中公文庫)。樹木希林『一切なりゆき』(文春文庫)。『巻頭随筆Ⅱ』(文春文庫)。紀田順一郎『四季芳書ー読書人の日常』(実業之日本社)。戸板康二『役者の伝説』。山口洋子『百人の男』。締めて1500円也!

朝の神社への往復と午後の駅への往復で8200歩。過去7日平均7400歩。過去26週間7600歩。2つの駅から、歩いてそれぞれ16-17分の距離。駅からある程度、遠いところが住むのが健康にいい。昨年は年平均で7400歩あたりだったから同じペース。何とか1年を通じて8000歩にまで、もっていこうとは思っているが、、。

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三國連太郎

「名言との対話」4月14日。三国連太郎「でも、名優と呼ばれたらおしまい」

三國 連太郎(1923年(大正12年)1月20日 - 2013年(平成25年)4月14日)は、俳優、映画監督。

飢餓海峡」「神々の深き欲望」など幅広いジャンルの作品に多数出演した。1988年から22年間にわたって続いた映画「釣りバカ日誌」シリーズでは鈴木社長ことスーさん役をコミカルに演じて人気を博した。

自身の著作『白い道ーー法然親鸞とその時代』が話題になり、1987年には自ら監督を務めた「親鸞・白い道」でカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した。この本が出たとき、私の関与していた勉強会で講演の依頼をしたが、なかなかつかまらず、返事はなく断念したことを思い出す。

戦争で中国から引きあげた時に、木下恵介監督と偶然に出会い、全くの素人ながら『善魔』という作品にでることになる。若い記者「三国連太郎」役でのデビューだった。それを芸名とした。この出会いがなければ、俳優にはなっていなかったと述懐している。「人は一人では生きられない。だからこそ、人とのかかわりに人生は大きく左右されます」という言葉は本音だろう。

「役者業は、趣味と実益を一緒にしてしまった素敵な世界」であり、「役者に年齢は関係ないし、演じることが僕の生きがい」だった。人々の生活の糧になるような映画に出ることを希望しており、死ぬまで正々堂々と歩くことができれば、自分自身の中で敗北することはないという考えだった。

私生活では4度結婚している。また結婚には至らなかったが、女優・太地喜和子との熱愛、同居も話題になった。3人目の妻との間に生まれた息子の佐藤浩市は小学3年生のときに、三国は映画をつくるため家族を捨てて家を出る。テレビのインタビューで俳優となった佐藤浩市が父のことを聞かれて「ひどいよ、そりゃ」、「世間一般の親子ということでの会話はできないんです。僕と彼との間に介在したのは役者という言葉だけなんです。ですから、父親として、どうのこうのということはいま言えません」と語っていたのを見たことがある。

佐藤は19歳のときに同じ道を進むことを決意した。「そのことを告げたのは早稲田駅のホーム。三國はそうかと一言いって、電車に乗って行った」。後に『人間の約束』で息子・佐藤とワンシーンのみの初共演を果たした後、『美味しんぼ』で本格的に親子の役を演じる。『笑っていいとも』に出演した際に「佐藤浩市くんの演技がよかったです」とコメントしている。

BSで繰り返し放映されている『寅さん』シリーズの後が、『釣りバカ日誌』だったので、西田敏行三国連太郎の演技はよく見ている。釣りマニアの社長役を楽しんでいる。

三国連太郎は、役作りに徹した鬼気迫る演技を行う俳優だった。老人役の役作りのため上下の歯を10本抜いたことで、顔を腫らしたエピソードもある。役にハマりこんでしまい、他人が近づきがたい状態になることもしばしばだった。

以下、三国連太郎の俳優哲学。

  • イメージに限定されてしまうのは、役者の堕落。
  • 芸を極めたなんて、とんでもない。まだまだこれから少しづつ階段を上っていかなくては。
  • 役者というのは、挑戦する以外にない。
  • 明日の芝居を考えていると、今日の生活が役と同じになってしまうんです。
  • 「自分の才能にプライドを持つ」ということ。志を高く、誇りを持って突き進むことで、人生を実り豊かにしてくれる出会いを引き寄せて欲しいです。
  • 名匠たちの良心に応えようとして今までやってきました。
  • でも、名優と呼ばれたらおしまい。

不器用を自覚していた三国連太郎は、演じている役柄で人格が変わってしまう。芝居のことを考えていると、生活と役柄が同じになるという。不器用だからこそ、役作りに徹底するから、名優というより「怪優」とも呼ばれるにふさわしい存在になった。

 

産経新聞 ENAK 「釣りバカ日誌」20作品目 俳優、三國連太郎に聞く

 

 

新雑誌「イコール」創刊パーティを開催。すてきなコミュニティのゆるやかなネットワークが増殖中!。

新雑誌「イコール」創刊パーティが外苑前のシェアラウンジ神宮前内FlatBaseで盛大に行われました。

第一部。

  • 『イコール』編集長の橘川さんの創刊の趣旨説明と来賓の紹介を兼ねたアジテーション
  • 私の『イコール』(知研責任編集)の「アクティブ・シニア革命」のアジテーション。「新しい世界の胚芽となるすてきな集団、すてきな関係のネットワーク、さまざまな場所で、さまざまな仕方で、いたるところで発芽させ、増殖し、ゆるやかに連合する」「一人の人間が、一年間をかけて一人だけ、ほんとうに深く共感する友人を得る、、、、100年で100億人。速い革命、、破壊する革命ではなく、創造する革命」

第二部は、ラウンジでの懇親の時間。緩やかな交流会。ラウンジのあちこちで新しい関係が生まれている。すてきなコミュニティの生成の瞬間。私も多くの新しい友人を得ました。

最後に、集合写真を撮って終了。毎回感じることだが、全国から集まったイベントスタッフのチームワークのよさに感心。ありがとうございます!

Natsuki Nobu。You Ogasawara 『イコール』副編集長、AR三兄弟三男。ゴンザレス 上智大学神学部4年。まきりか 作曲家・脚本家・海辺の出版社代表。松永統行 国際社会経済研究所主任研究員。伊勢 司 NTT出版 出版本部長。伊藤正人 深呼吸学部塾生。越智二朗 クラウドクロッシング株式会社。遠藤 諭 元東京おとなクラブ編集長。垣内武 久恒図解塾幸福塾塾生。吉池琢磨 『イコール』スタッフ。橘川幸夫 『イコール』編集長。久恒啓一 NPO法人知的生産の技術研究会理事長。宮下英一。近藤千恵子 第二次深呼吸学部。高橋信行今井陽子 深呼吸学部塾生。佐々木浩産経新聞 夕刊フジ。左田野歩。最中義裕 真崎守研究家。山本コヲジ フローフロー。森 誠一郎 出版社再雇用勤務中 編集コンテンツ系。森上博司。森嶋良子。深谷康雄 知的生産の技術研究会 幹事。深谷桃子 深呼吸学部塾生。仁上幸治 図書館サービス計画研究所 代表。西山カオリ 第二次深呼吸学部。青海エイミー 作家。石花ちとく 石花師。石橋毅史 文筆家。川島和子 信頼資本財団理事長。浅沼正治 深呼吸学部塾生。浅野耕一郎 東京国際工科専門職大学講師。多田洋一 文芸創作誌「ウィッチンケア」発行人。大久保 青志 レーベン企画。大村紫乃 よりみち愛好家。大野誠ライフシフト・ジャパン 代表取締役CEO。地蔵真作 リブライズ。中島映介 合同会社Nakajimaya 代表。津田一樹。田原真人 デジタルファシリテーション研究所。田中よしこ。渡辺幸弘(ギリークラブ代表)。渡邉 啓 日本パブリックリレーションズ協会 常務理事。渡邉ちか 第二次深呼吸学部1期生。都築功 知的生産の技術研究会。道下裕史。南谷真 第二次深呼吸学部。楠 泰三 第二次深呼吸学部。入江武彦 シンエイ動画株式会社 常務取締役.。梅田雄基 受験マネジメントサロンBiden・塾長。柏木 誠。淵上周平 シンコ。平井太郎。平野友康 株式会社メタコード。片岡利允 軽井沢風越学園など。片岡玲実奈。堀鉄彦 公益社団法人著作権情報センターコピライト編集長。力丸萠樹(知研)。鈴木 敏行 アキバテクノクラブ・事務局長。國井正人 株式會社クーニーズ代表取締役小泉吉宏 マンガ家。芹沢類 作詞家。
配布したチラシ
説明がありません

第一部の会場の様子。


名刺交換した方々。

終了後は、都築さん、垣内さんと居酒屋で懇親。

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朝はヨガ教室で1時間。

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「名言との対話」4月13日。小池滋「余はいかにして鉄道愛好者となりしか」

小池 滋(こいけ しげる1931年7月15日 - 2023年4月13日)は、日本の英文学者。享年91。

東京都出身。東大文学部、大学院を経て、1959年から東京都立大学に奉職。1980年教授。1989年に退官し、東京女子大教授。2000年に退任。

19世紀ビクトリア朝文学を専攻。ディケンズの研究、コナン・どいるの「シャーロック・ホームズ全集」の翻訳、風刺新聞「パンチ」の翻訳も行った。イギリスの大衆文化に造詣が深い学者である。著作に「ロンドン」「ディケンズ」などがある。

小池滋という名前は英文学者としてよく知っていたが、一方で鉄道史の研究家としても多くの著作を発表している。文学作品の背景にある鉄道に関心が広がったのである。1979年刊行の『英国鉄道物語』は毎日出版文化賞を受賞するほど高い評価を得ている。

1977年から1年数か月、私はロンドンに駐在したが、事前に小池滋の著作などを読んでいる。私は滞在中に「英国経済とシェークスピア」を研究対象にした。小池滋ヴィクトリア朝時代に興味を持た。後に、親しくなったホームズ研究の河村幹夫先生(三菱商事の駐在員として英国に住んだ)と同じだった。国の勃興期には国力の総力を挙げて、インフラをつくり、文化も花開く。だから産業革命時代のヴィクトリア女王時代が面白いと小池滋も河村先生も考えたのだ。したがって、私が選んだシェークスピアより、ホームズの方が実りが多かったのだ。この点は今も残念に思っている。

幼いころから鉄道が好きだった小池滋は、本業である英国研究を深める中で、鉄道研究にものめり込んでいく。英国の鉄道保存運動、そして日本でも鉄道車両の保存運動にも参加している。

「鉄道」という対象は、多くの人を魅了してきた。鉄道マニア、鉄っちゃんの数は今も飛行機マニアに比べて圧倒的に多い。この名言との対話でも、鉄道を研究対象にした人を取り上げている。

阿房列車』の内田百閒。『南蛮阿房第2列車』の阿川弘之。『時刻表2万キロ』を書いた時刻表極道の宮脇俊三「鉄道院周遊俊妙居士」との戒名をもらった『気まぐれ列車』の種村直樹、、、。鉄道は旅行と結びついているため、こういう人たちの本には、愉快なエピソードが満載となっている。

2007年には小池滋は『余はいかにして鉄道愛好者となりしか』が刊行されている。ディケンズ研究の第一人者にして無類の鉄道マニアの自伝的作品である。豊富で多彩なエピソードや蘊蓄が語れられている。この本はまだ読んでいない。私もいつか『余はいかにして〇〇になりしか』という本を上梓したいものだ。その場合、〇〇は何になるだろうか、と空想する。