ソラリスの陽のもとに 感想

 この作品の何が凄いのかと言えば、当時のアメリカ式宇宙SFの常識を見事に覆した点に尽きる。この本の訳者あとがきに書かれている作者のまえがきで、アメリカのSFについて言及なされているが、これらの見解は本文中にもまるでアメリカのSFを皮肉っているかのような文章に垣間見ることが出来る。特に目に止まった文章が

 人間は、自分の内部の、暗い扉にとざされている秘密の場所の通路や井戸をとことんまで知りつくしてもいないのに、他の世界、他の文明を知ろうとして遠い惑星へ出かけて行く。ばかばかしい。
 (P253)

と、

 われわれは……われわれはありふれた存在だ。われわれは宇宙の雑草だ。そして、自分らの平凡さが非常に広く通用することを誇りにし、その平凡さのうつわのなかに宇宙のすべてのものを収容できると思っている。そういう図式を信条にして、われわれは喜んで勇んで遠い別の世界へ飛び立っていた。しかし、別の世界とは一体何だろう? われわれがかれらを征服するか、かれらがわれわれを征服するかのどちらかで、それ以外のことは何も考えていなかった……
 (P255-256)

だ。
 これはやはり、東欧の作家でなければそもそもそういう視点に立つことがなかったという点から、為し得なかったことだろうと予想出来る。つまりこの作品は、連綿たる拡がりを持つ広大な銀河においてなんらかの知的生命体と我々人類が遭遇した時に、そもそも交渉・対話できるというその前提こそが間違いなのではないかという問題提示をしている。また、仮にその対話を通じて我々が得られる物があるとすれば、それは相手のことではなくあくまで我々のことにすぎないのだということに気付くだろう、ということをこの作品は示唆していると感じた。
 ただここで重要なのは、アメリカ製の、人間が他の惑星の理性的存在と出会うSFにおける三つの型、「相共にか、われわれがかれらに勝つか、かれらがわれわれに勝つか」という型に到底当て嵌まらないSFは言うまでもなくこれだけではないし、またこの『ソラリスの陽のもとに』が数多あるその(アメリカ製のに当て嵌まらない)型の一つにすぎないということだ。不勉強のため正確なことは言えないが、そのような型の宇宙SFで比較的初期に有名になったのが、この作品なのかもしれない。この作品が、こういう型における宇宙SFものの金字塔なのかも知れない*1。兎にも角にも、レムという作家が未知との遭遇を題材にした三部作を形成したのもなんとなくそのことから頷ける――ただこの『SOLARIS』の前にも一つ、同様のテーマの作品が書かれていたとのことなので、レムは最初からそっち方面に力を入れていたのかもしれないが。そしてそれは、もちろんレム以外の作家が書いたそのような題材を以って書かれたSFが――仮にそれが傑作だったとしたならば――第二第三の『SOLARIS』と呼ばれるのに、どうして首を傾げられようか。


*1:今挙げた二つの点については、今後の読書遍歴の中で明らかになってくることだろうと思っている。早急に、その点についてどうなのかということを調べる気はない、と断っておく。