2012/04/22 (日)
■広い家
外に出るよりもうちにいる方が性に合っているし、多かれ少なかれ、その居場所は「広い方がいい」と思っていて、実際にもだいたいは、そうしてきた。
もちろんながら、庭にプールがあるような豪邸とか、地上50階のホテルのスイートルームで生活を送りたいというレベルの話ではない。楽しく食事を作って気持ちよく食べられる場所と、安らかに眠るための場所に加えて、パソコンを使ったり本を読んだり酒を飲んだりあるいはこれらを同時に行ったりするような、プラスアルファのための空間が確保されればよい。それは、独立した部屋でなくとも、ちょっと余裕のある部屋の一角であってさえもよい。
こう考えてみると、本当はさほど広くなくてもよいのかもしれないとも思う。
大学時代に住んでいた北白川の下宿は、古いアパートだったけれど、六畳一間の貸間やあるいはワンルームマンションよりは、幸いにして条件のよい物件だった。八畳間には大きな押し入れがあったので、なんでもかんでも放り込めたおかげで、この部屋を有効に使えた。
西宮北口に住んでいたときは2LDKだった。社会人を始めたばかりの一人暮らしにしては、少し贅沢な広さだった。ただ、築年数は、自分の年齢に近いほど相当のもだったけれど。特にリビングが広くて明るかった。
日は昇り日は沈む。いつの間にか、一人暮らしでなくなった。さらにはその場所も、タイのバンコクを経て、東・東南アジアとは大きく文化圏の異なる、インドはニューデリーへと移ろった。
この町には、いわゆるマンションというものが皆無で、3、4階建ての家があってその各階にそれぞれ一世帯が暮らすタイプが住処となる。
どの地域にするかの次は、どの階を選ぶかというのが重要な選択肢だった。地上階は洪水と治安の問題があり、逆に最上階は暑季には太陽からの熱を一手に引き受けてしまうことから避けた方がよいとのアドバイスがあった。
イギリスの影響が濃い土地だから、建物の一階はおしなべて「グラウンド・フロアで」、その上から1階、2階と呼ばれる。僕らが暮らす建物はさらに複雑で、実際の地上階部分は駐車場。その上から部屋がはじまって、そこが「グラウンド・フロア」。さらにその上の「1階」が我が家である。しかしまず駐車場があり、地上階があり、その上の階なので、日本の感覚で言えば、3階に相当する。
そしてこの家も、広い。日本の数え方でいくと3LDKプラスアルファで、200平米ほどある。日本では自分の部屋の広さというのは正確な数値として覚えていたが、このようなインドの状況ではざっくりした数字しか認識していないし、正確に調べようとも今さら思わない。とにかく、広いのだ。
一番大きな部屋は、居間と客間とダイニングが一つにまとまったような部分で、ここには5人がけのソファセットと42インチの液晶テレビがベランダに近い側に、そしてもう半分には6人がけの食卓を置いている。
寝室として使える部屋が三つあって、それぞれにトイレと浴室が備わっている。それと、台所。さらにレイアウトのせいなのか、生活習慣の違いなのか、全体の中心部に、使い道の見つけにくいスペースがぽこっとあって、その隅にはゲスト用のトイレがもう一つ。そんなわけで、二人暮らしなのにトイレが4つもある環境でもある。ベランダは大小合わせて3か所ある。
ここまでくると、いやいや、物には限度があるだろう、と言いたくなる。下宿人を置いたっていいくらいだ。二人で暮らす日常の活動においては、相当もてあまし気味でいる。
特にそれが顕著なのは、日々の食事。できた皿を持って、台所のドアを開け、真ん中の空間を抜け、玄関の前を通って、リビングのガラスの扉を開き、食卓にたどり着く。「あ、お醤油忘れた」と思ったら、この往復を歩かなきゃいけない。次第に面倒くささが勝ってきて、結局、作るはしからそのまま台所で食べるようになった。風情としては、立ち飲み屋である。その内に、妻が、引っ越していく友人のガレージセールで小さな椅子を二つ買ってきた。これでもう、いよいよ正式に、台所は料理を作るところでもあり、食事をとる場所ともなった。
しかしながら、未だ定まらないのが、自分が酒を飲む場所。食事のときのビールは必然的に台所だが、ゆっくりと自分の時間に浸りながらウィスキーを飲むのにしっくりくるポイントが見つけ出せないでいる。DVDを見ながらだと居間のソファの上だったり、MacBook Airをぱたぱた叩きながらだと自室(と言っても客用の寝室兼用)のデスクになるし、寝っ転がって本を読みながら寝室のベッドの上ということもある。だが、どこも一長一短でピンと来ないのだ。
居間にいると、前述のように台所が遠いので、つまみやソーダのお代わりや、替えのグラスにたどり着くまでが手間だ。台所では、非日常への切り替えが完全にならない。だいたい妻が先に寝てしまうので、その隣でずっと明かりを点けながら読書をしているのも気が引ける。それに何より「自分一人」という感じにならないので、寝室も今ひとつである。
デッドスペースになっている家の中心の空間に、少し背の高い、一人用のテーブルと椅子を置いて、バーの一角のように設えてみようというのは、当初からのアイディアとしてあるにはあるのだが、如何せん、越してきてからそのままの段ボール箱がまだ10個ほど積みあげられたままになっている。
2011/11/20 (日)
■インディゴでゴー
「スターバックスでコーヒーを飲むこと」と、「空港のスターバックスでコーヒーを飲む」ことの間に格段の差があるように、空を飛ぶというちょっとした非日常においては、その入り口からして、何事につけ少なからぬ胸の高鳴りを覚えるものだ。
飛行機での移動にまつわる高揚感は、程度の差はあれ、どこででも存在するのだと思っていた。
インド、である。暮らし始めて半年弱。平均すると、2週に1度くらいは、どこかしらの街からどこかしらの街へ飛んでいる。その都度、イライラ、ムカムカ、あるいはげんなりとさせられる。空の旅が楽しくないんだ、と気付いたとき、ああ、世界はまだまだ広いのだと改めて知ることになった。落胆と共に。
チェックインや保安検査の順番待ちに横から入り込むのは、こちらが呆気に取られるくらいに当然のごとく。手荷物をX線検査に通すときの係員には、丁寧さのかけらもない(日本ほど馬鹿丁寧にしなくてもよいとは思うが)。しかも機械を通った鞄は埃で汚れいる。テロ対策のため仕方がないのではあるが、金属探知機を通り抜けた後、全身をまさぐられるのは、決して気分のよいものではない。機内での乗客の携帯電話の使用は傍若無人。扉が閉まっても使い続けているのも、当たり前。
パイロットの腕と気遣いの程度にもよるのだろうが、着陸のショックが強く、思わず悪態をつきたくなることも少なくはない。そして、ゲートに到着するまでもなく、すぐに何人かが立ち上がっては、乗務員に「着席ください!」と注意されている。
ムンバイ発の最終便が3時間遅れで、帰宅したのが深夜3時近くになったという経験を筆頭に、遅延を食らう率は相当である。土日でのジャイプール旅行を計画し、事前にオンラインで予約・発券完了。後日、「9W7127便はキャンセルになりました」というメール連絡。そこには振り替え便や返金などの対応の案内は一切無し。コールセンターへ電話し、30分以上待たされたて、こちらから要求して代わりの便の予約を入れ直さないといけなかった。
だけど、それでも飛行機に乗る。日本へ行くときももちろん、あるいは少し息抜きに、近隣のドバイやバンコクに出るにも。それにインドは広いから、大阪から東京に行くのに「今回は新幹線にしておこうか」と考えるのに同じように、「今日のムンバイ行きは鉄道で」、というわけにもいかない。デリーから飛行機なら2時間だが、列車では16時間はかかる。
だけど、いったい、どの航空会社を使えばいいのだ?
そう言えばインドで暮らすことが決まったときも、まっさきに思いがいたったのが、食事や買い物や治安や衛生のことではなく、この課題だった。ただしそのときはまだ、「どの航空会社を使おうか?」という、楽しみを予感しながらの積極的な方向性ではあった。
老舗のエア・インディアをはじめ、同じく国有で、国内と近距離国際線を受け持っていたインディアン航空(2007年にエア・インディアと合併したものの、機体デザインとしてはまだ見かける)。民間だとジェット・エアウェイズ。2000年代半ばより勃興してきた格安航空会社であるインディゴ、スパイス・ジェット、ゴー・エア。ビール会社が運営している、瓶や缶と同じカワセミが尾翼に描かれているキングフィッシャー・エア。
周囲の人に尋ねると「インディゴかジェット」を薦められる。「逆に、もっとも避けるべきはどの会社か」と問うと、インド人からは苦笑いと共に「エア・インディア」との答えが返ってくる。言わずと知れたナショナル・フラッグ・キャリアである。
ジェットは全日空と提携しているので、ANAマイレージクラブにマイルが貯まるという。ただ何度か実際に利用してみて分かったのは、積算対象になるのは、個人的には利用機会のほとんどない、ある程度高額な券ばかり。
エア・インディアだけは除いて、その他も一通り試してみた。結局、インディゴが答えになった。理由の第一は、時間に正確なこと。インドで一番のオンタイム率。そして、いつ乗っても、A320の機体は新しく、外観も機内もよく整備されている。搭乗に向けて、機体まで走るバスもきれい。
「時間に正確」とか「清潔」だとかということが、航空会社として十分なセールスポイントになり得るのである。
さらには、何度も乗るにつれ、次第にこの会社に好意を持てるようになってきた。
インディゴにはスタイルがあって、そのスタイルを全員で保っていこうという気概が、ちゃんと感じられるのだ。これが、後からじわじわっと効いてくる。
「紳士淑女、ならびに少年少女の皆さん、ようこそご搭乗くださいました」で始まる機内アナウンスも、ピリッとしている。客室乗務員(女性しか見かけたことがない)の制服は濃いブルーのワンピースに細いベルト。ショートヘアーにちょこんと乗せた同系色の小さめの帽子。暗めのアイラインで目元をくっきり目立たせるきりりとした独特のメイク。チーフパーサーは「リーディング・レディー」、他の人たちも「ミス・インディゴ」とか色々な缶バッジをつけている。
機内に上がる階段には「できるものならつかまえてみて」とか「ほら、熱い階段が」とか、ちょっとしたフレーズがコーポレートカラーのブルーに白字で書かれている。機内の衛生袋には、同じ書体で大きく「早くよくなりますように」との文字。
いずれも、言ってしまうと、五月蠅いしおせっかいだ。そもそも、そんなこと言わなくったっていいじゃないかとも思う。けれど、辛うじてなんとかまだ「遊び心」の側に留まっているように感じられる。
こうなってくると、会社のロゴまでもがよく思え、何かしらとファンになってくる。
数年は腰を据えてここで暮らしていく以上は、何かしらのポジティブな面を、意識して探していくべきなのだ。だから、先日なぞ、ハイデラバードからの帰路、思わず妻へのみやげに機内販売のインディゴTシャツを買おうか、とさえ思ったのだ。
2011/10/17 (月)
■生活が始まった
デリーは内陸にある。7月30日にバンコクの家から送り出した家財道具が、タイ湾からマラッカ海峡を越え、インド洋を経て、アラビア海。そしてようやくムンバイ近くのナバシェバ港に着いたのが9月の頭。ほぼ一ヶ月。しかし、そこから鉄道で北上し、ようやくと我が家に到着するまでにさらに一ヶ月を要した。
段ボール箱から出して、もう一度洗うものはきっちり洗う。生活における我々自身の動線を考えて、それぞれの物のあるべき場所を定める。台所の棚に食器や鍋が収まって、ようやくと10月の最初の週末から、我が家らしくなってきた。
ハードが揃ったので、生鮮食品が豊富なINA(Indian National Army)マーケットへ食料の買い出し。目の前で絞められる鶏や、それなりに揃っている野菜類、ミネラルウォーターなんかをたっぷり買ってくる。幸いにも、休日出勤をお願いしていた運転手が案内してくれて、店の人との交渉から、車までの運搬を手伝ってくれる。
野菜は泥がかなりついているので、持ち帰ってまずはざっと洗って冷蔵庫に保管。とりあえずは足の速いモヤシを、酢と一風堂のホットもやしソースで和えて冷蔵庫(店員が「マメモヤシー」と言っていた。日本人も結構来る場所のようだ。モヤシ自体は日本のものほどぷっくりしておらず、かなり細長いのだが、しゃきしゃきしていて新鮮だった)。
今日はここまでで一仕事とし、家の近くのイタリア料理屋で簡単に夕食。
そして日曜。本格的に始動。
まず、パン焼き器の使い方を妻に教える。今後、もし僕が家にいなくても、せめてできあいのミックスの粉さえあればパンくらい焼けるだろう。いや、それ以前に未だに知らない炊飯器の使い方を教えた方が役立つのでは、と思いながらも、僕も買ったばかりの機械を使うのがおもしろくて、とりあえずはパン。
そして、お弁当にする分を含め、明日からのためのおかずの作りおき。両手で抱えるほどの束で売られていたほうれん草を二度に分けて大きな鍋で湯がく。一つはゴマ和え、もう一つは酢とオリーブオイルと醤油と少々のスパイス類で漬けておく。妻が横で筋を取ってくれたインゲンも、半分はさっと炒めて醤油と味醂と削り節で含め煮。残りをニンニクとタマネギとアンチョビと一緒にオリーブオイルで炒めて洋風に。
昨日の八百屋で見つけた栗は、一晩水につけておいた。再度熱湯に半時間ほど浸してから皮を剥く。妻が調理バサミで殻をはがし、僕が包丁でちまちまと鬼皮を剥いていく。用途は栗ご飯と、鶏と栗の煮物。
鶏肉も、「普通は一羽分買います」と運転手が言っていたけれど、どうしたらよいかも分からないので、とりあえずモモから先の部分だけを「皮付きで」とリクエストして5つほど買ってきた。普段、この国では捨てられてしまう部分なので、こういう買い方ができるのはうれしい。
しかし、煮物の下準備に一口大にしようにも、どこにどう包丁を入れたらよいか難しく、当然だけど筋なんかもそのまま残っているので、難儀しながら捌いていく。骨についた肉は、もったいないのでそのまま煮物に放り込む。ふと、部位ごとに分かれパッキングされたスーパーマーケットでの売られ方が懐かしくなる。
だんだん、夕方になってくる。焼きあがったパンを味見。ホームベーカリー用の出来合いの粉だから、それほどというわけではないけれど、焼きたてのパンというのはそれでも格別の香りがある。
サラダオイルでインゲンとオクラを素揚げにする。塩と柚子胡椒をつけて、簡単な食前のつまみ。揚げたはしからぽりぽりとかじる。
シンハとヱビスの「ザ・ホップ」で始めて、日本酒をちびちびと。いずれもバンコクから知り合いが持ってきてくれた貴重品。美味。
2011/07/14 (木) 一ヶ月
■一ヶ月
バンコクからデリーに移ってきて1ヶ月が経った。地元の客でごった返す食堂で日常的に昼食を取っても腹を下すこともない。美味しい店や良いバーの探索も徐々に始めている。家探しも、バンコクよりは時間も手間もかかりつつ(この間、妻も2回バンコクから飛んで来た)、60軒ほど足を運んで、ようやくなんとか満足できる一軒が見つかり、家具を選び、仮の宿からの引っ越しを算段というあたりだった。
この間、文字通り土日も飛び回っていて、宿から一歩も出ずにしっかりと休息したなというのは一日だけであった。時折「走りすぎている、少し落ち着け」と自身に言い聞かせることもあったが、新しい環境への興奮や、色々の義務感などもあり、概ね、身も心も飛び回っていた。
そのつけが出たのかもしれない。バンコクからTG315便で飛んで来た6月10日のちょうど一ヶ月後の夜は、病床にあった。
前日から徴候はあったが、日曜の昼前には、高熱(自分で計ったピーク時は39.2度だった)、脈拍に合わせて割れんばかりの頭痛、喉の腫れ、絶え間ない腰の痛み、ふくらはぎのやるせないような鈍痛に襲われ、七転八倒していた。ただし、症状としては、何度か経験したことがあるものに近い。何かしらの細菌による感染症ではないかと思われた。
これがバンコクなら、すぐにタクシーを拾って病院へ向かうところだが、オート・リクシャーとの価格交渉、また排ガスと騒音にまみれた道路を行くことを思うだけで、頭痛がいや増した。
しかし待っていてもしょうがないので、午後の一番暑い時間だが、意を決し、とにかく部屋を出て表通り。オートリクシャーを捕まえ、病院の診察券(来てすぐに、B型肝炎予防接種の第二回目を受けていた)を見せ「ここへ行ってくれ」と。
「150ルピーだ」「メーターで行かないのか」「150だ」「では、不要だ」「120でどうだ」。力なく手を振って追い返す。この期に及んで、100円するかどうかの金額の多寡は問題ではなく、そういう、ふっかけ過ぎるやり方が納得いかないからだ。つらい体調よりも意地が勝った。
15分ばかり道端の木陰で待ち、乗客の乗っているリクシャーを10台ばかりやり過ごした末、ようやく捕まえた一台がメーターでオーケーだった。20分くらい走って62ルピーだった。
病院の入り口で金属探知機とボディチェックを通過し、すぐの左脇にあるインフォメーションカウンターへ半ば倒れかかるように症状を伝える。「6番の扉を入ってください」と言われるが、割れんばかりの頭痛と全身の重たさに、もはや一歩も動きたくない状況だった。
願いはかなえられ、ぐったりした身体は、救急のコーナーへと運ばれていく。いったい、誰が医者で誰が看護師で誰が事務員で誰が患者で誰が付き添いなのかさっぱり分からず、しかもデリーの町中と同じ程度に、日本であれば何かの祭りだろうかと思うほどに、ごった返している。どこで何をどうしたらよいのかがさっぱり見えない。
とは言うものの、宿のベッドで一人のたうち回っていたことを思えば、ここまで来ただけで大きな進歩だ。ここは病院であり僕は病人なのだから、根本のところで舞台と役者が合っていれば、後はそれなりに進行するだろう。それに、これ以上自分から何かができるほどの余力も残っていない。
期待通り、車椅子を押してきた係員がしばらくは付き添ってくれたおかげで、血液検査用の採血までは比較的スムーズに行われた。その結果が出るまで3、4時間とのこと。
しかしずっと車椅子に座っているのも、どうにももたない。「ベッドは空いていませんか」と近くの人に聞くが、「ない」との即答。ここで、はいそうですかで終わっては、この国ではやっていけないというのは、この一ヶ月で学んだことの一つだ。人を変え、何度も尋ねる。その度に、この世の終わりのようなつらい表情で主張する(実際、しんどいのだ)。すると、どこからかストレッチャーが一台出てきて横になれた。その内に点滴も始まる。
医者だか看護師だが入れ替わり立ち替わりやってきて、症状について何度も何度も同じことを聞いていく。カルテで情報は共有されていないのか。その合間に「どこから来た」「トーキョーか」「デリーに来てどれくらいだ」というおしゃべりをしていくのが一人いた。勘弁してくれ。相手の状況を見て対応を判断するという能力が欠如している。
最終的な結果、「数日間、入院してください」とのこと。問うてみると、やはり急性の感染症とのこと。血圧も体温も血液検査もX線の結果も、あるいはそもそもの診断内容すらも、こちらが聞かないと、特に何も教えてはくれないのだ。
その病状から、一晩くらいの滞在は覚悟しており、歯ブラシだけは持ってきていたのだが、数日となると心許ない。幸いにして、よき友人がいて、電話で事情を説明すると、宿の部屋から着替えなどの必要なものを快く持ってきてくれた。
午後7時を回ったころ、再び車椅子に乗り、ようやくと病室へ運ばれる。6人部屋。
「個室をリクエストしていたんですが」と言うも「空きがありませんで」
「とりあえずここに入りますが、とにかくもう一度確認してください」
部屋の入り口頭上に設置された小さなテレビから、マサラムービーが大音量で流れている。にゃわわんにゃわわんと勇壮に轟くインドダンスミュージックが頭痛を加速させる。たまらず、スイッチを切ってもらうよう看護師に頼む。
ベッドを仕切る右側のカーテンが開いたので、横になったまま枕の上の首だけをそちらに向けると、隣の患者が「ジャパニーズ?」と。ほっといてくれ。ジャパニーズかどうかよりも、今の僕は病人である。
抗生物質を身体に入れ、一晩寝たことで、まず熱と下半身の痛みは引いたが、完治はまだ先だった。
病床をとりまく騒音は、途切れることなくひどい。患者と付き添いの人との絶え間ない大きな話し声、テレビの音声、あちこちで大音量で鳴る携帯の着信メロディ。これらをシャットアウトする意味もあり、耳にはイヤフォンをつっこんで、iPodから気に入りの落語を小さな音量で流しながら、日中もぼんやりと寝たり起きたりを繰り返す。
幸いにして食欲はあまり衰えておらず、消化器系はまったく正常なので、病院のインド食も少しずつではあるが普通に食べられる。美味い物が好きだし、できればそういうものばかりを口にしていたいが、いざとなれば大概のものが食べられるというのは、自身が生き延びていくことでの強みではないかと思っている。
朝一番に処方される錠剤は「after tea」に服用するように指示があった。理解ができず、2度聞き返したら「after morning tea」と言われ、ようやくteaという音が「お茶」を意味しているのだと認識。実際に、朝食の前にチャイが供された。いやはやしかし、teaという簡単な単語であっても、自分の持ち合わせに無い文脈の中に置かれると、咄嗟には理解ができないものだ。「食前・食後、食間、就寝前」というあたりは知っているが、「お茶」が服薬のタイミングになるなんて新たな知見だ。
大学時代のサークルの後輩が、数ヶ月先んじてデリーに家族で住んでいる。その奥方は医師である。ありがたくも、手作りのお弁当を持って見舞いに来ていただいた際に、抗生物質の投与を受けていることを説明し、口を開けて見せたり、喉辺りを触診していただいた結果、この病気は溶連菌(溶血性連鎖球菌)性咽頭炎だろうと教えてもらった。飛沫感染する細菌で、別にインドに限った病気でなく、抵抗力が落ちているとかかり易いとのこと。
「身体が、無理はできないって教えてくれているようなものです」とも。やはり少し生活のペースは考えないといけない。もはや20代でないどころか、30代の後半に差し掛かっていることを自覚せねば。したかないけど。
P.S. 1
情報共有のなさは笑ってしまうほどで、三日目の夕方、新たな一人、看護師だかインターンだか医者だか分からないが「どうですか?」とやって来た。
「熱は引きましたが、喉の痛みはまだ残っています」
「なるほど。では、そもそも、熱と喉の痛みの症状があったのですね」、ときたものだ。
コミュニケーションが「藪の中」のように感じられることが、ままある。
P.S. 2
日本やバンコクの病院に慣れた僕からすると、患者への説明が極端に不足しているように見える。検査数値を知ったからと言って自分でどうこうできるわけでもないが、その意味の説明によって自身が納得することで、それなりにほっとするものがあるのだが。
検温すら、その結果を患者に伝えるような流れになっていない。一度、どんなもんだろうと思って看護師が脇の下から抜き取る前に、体温計のデジタル数値を覗いてみたら、95.5とあった。カ氏表示なので、見ても分からなかった。
P.S. 3
注射のために入院中ずっと右手甲に突き刺さっていた針とチューブには、普段は血液の逆流を防ぐために途中に栓をする小さな部品がついている。何度か、その栓を外さないまま注射を試みられた。どれだけピストン部を押しても液体が注入されるわけがない。基本的な動作がマニュアルとして徹底されていないのか。
さらには、一度、注射中に、そのジョイント部分が外れ、薬液が見事に辺りに飛び散ることがあった。この状況はもはや、おもしろ過ぎて、濡れたズボンを履いた姿のまま、ベッドの上から静かに微笑むしか術がなかった。
担当者は動じるでもなく、「壊れてるのね。交換します」と言って、一度栓をしたまま、そして結局何の対処もなされなかった。
結果的にそのままの器具で、別の人が半日後に注射した際には、何ら問題はなかった。
P.S. 4
食事だが、最初の時点でベジかノン・ベジか、そしてタマネギは食べるかという問いがなされていた。前者は菜食の人も多いインドなのでうなずけるが、後者はどういう理由によるのだろう。肉類はマトンはなく全て鶏だったが、当地では皮を食べないらしく、全てから取り除かれていた。鶏皮好きとしては残念である。
2011/07/03 (日)
■進化する道具
道具というのは、便利だと思う。あるいは、人の生活にとって便利なものを我々は道具と呼んで重宝しているのか。その基本は、人が行うことを代理でこなしてくれるものだが、結果、ものすごく省力がなされたり、のみならず人間では真似できないほどのレベルでの稼働により生活そのもののあり方さえも変わることがある。
ここ最近、衝撃的だったのが、ブラウン社のブレンダー。3年ほど前の結婚当初、ジューサーを欲しいと思っていた時期がある。ただ、デザインやサイズの観点からピンと来るものがなく、そのままになっていた。ところが、先日、アマゾンで買い物をしている最中に、バナー広告に目が留まり、即断で買った。
ミキサーとは真逆の発想で作られた道具で、食べ物をミキサーに入れるのではなく、食べ物にブレンダーを入れることで撹拌する。その威力たるや。
毎朝、冷蔵庫にある果物を2種類ほど、そこに氷と水を少々、場合によってハチミツや豆乳や牛乳やヨーグルトなどを混ぜ、スイッチを入れる。ものの数十秒で、冷たいフルーツシェイクができあがる。
果物はなんでも手当たり次第。リンゴ、キーウイ、マンゴー、パッションフルーツ、ライム、ドラゴンフルーツなどなど、週末のスーパーでの1週間分の買い出しのときに、えいやっとまとめ買い。イチゴなんかは使い切れないから、洗ってヘタを除いて凍らしておく。妻はパイナップルが気に入りで、僕はマンゴーのねっとりした感じが好きだ。
夜の時間であれば、ここにアルコールを加えてフローズンカクテルも。
また、野菜スープ。オリーブオイルをひいた鍋でタマネギを軽く炒め、水気がある程度飛んで甘味が出たあたりでカボチャを入れる。ざっと炒めて、水を注ぎ、キューブのコンソメとローリエを一枚。胡椒をがりがり。味付けは少し濃いめにしておく。あくをすくいながら、火が通って柔らかくなったらコンロから下ろす。そこにブレンダーをつっこんで、スイッチを入れると、みるみる内に全体がとろとろとした濃い黄色のポタージュ状になる。
粗熱をとって、密閉容器に小分けし冷凍庫。食べるときには電子レンジで解凍し、牛乳を加えて温めることで、いつでも熱々のカボチャスープ。朝の忙しい時間にも手軽でよい。
バリエーションも簡単である。ブロッコリーは妻にも受けがよかったが、セロリは「青臭い」と大不評だった。僕は彼女と違って野菜を愛好しているので、セロリスープは感動するほどの美味だったのだが。アスパラガスは美味しいが、細かな筋の部分が少し口に残る。空豆は濃厚な豆の味が、飛び上がるほどに美味しかった。
このブレンダー、刃の部分のアタッチメントを交換することで、撹拌以外にも、細かく切るという機能も持っている。モロヘイヤのスープが好物なのだが、洗って葉だけを摘み取って、みじんに切る、その手間がかかる。しかし、ブレンダーを使うと、最後のプロセスにかかる時間がものすごく短縮できる。この作業は、付属の専用のプラスティックの容器内で行うので、まな板にはりついた粘りをたわしでごしごしと洗う手間も省けるという副次的な効果もあった。
挽き肉もできるので(厳密には、<挽いて>はいないが)、自分の好みの割合の合い挽きもできる。
しかし、万能性に目がくらみ、鰹節を入れてみたのは失敗だった。さすが世界一固い食べ物。いちおう粉状にはなったものの、逆に刃の一部が欠ける結果となった。無精せず、鰹節削り器を使うより手はなさそうだ。
新しい道具によって、世界観が変わる。例えば親の世代くらいだと、生活必需品としての3Cという言葉があった。現在の我が家で、技術の高度さを突き詰めた道具はどこまで来ているのかと考えてみると、パソコン(MacBook Air)や、妻が持っているiPhone、あるいは液晶テレビという辺りになるだろうか。
一方で、逆の方向を向いてみたら、洗面所の床に置いてある竹踏みに思いが至った。電子的な動作ではなく、物理的に働くという観点において、ブレンダーというのは、パソコンよりもむしろ竹踏み寄りの道具である。