昨日は、朝田君と米子っちとの時間調整のため、意味もなく梅田のヨドバシに行ってみたりユニクロに行ってみたりするが、ほんとになにもなく、なにもなかったわけでもないだろうけど、すらーっと通り過ぎて、その前はヘップの横のなんとかメンズ館でコムデギャルソンとかジュンヤワタナベとか見るもそんなにこの前ぐっさんと来たときと品揃えは変わらず、でもこの前入った入り口と違う入り口から入ったから、あれこんな構成だったっけ?と思った。四角いスペースの壁側とか真ん中に服がかかっている、とかありきたりなものじゃなくて、なんだか入り口がよっつくらいある迷路みたいになっている。2階のトイレに行くと、大きい方のがぜんぶ使用中で出待ちの方もいらっしゃったので、3階のトイレに行くと、はしっこの和式のが空いていたので、用を足していると、おそらく手前の洋式からだと思うけれど、シーッ、シッシーッ、という制汗スプレーらしき音がやたら聞こえてきて、私が用を足し終わって手を洗っているときにもまだ聞こえていたので、トイレを出る前に口まねでシーッ、シッシーッ、と言い残していく。このシーッ、シッシーッ、は地下鉄のドアが閉まるときの音にも似ている。今日は、新装開館した神戸大学人文科学図書館に行ってみるも、書架には荷物をロッカーに預けて入ってください、とのことで、なんとなくびびって書架には入れない。なので開架閲覧室にて、今道友信編「講座美学 講座美学2 美学の主題」の新田博衞「美的経験」を読みながらメモをして、メモをしながら読む。で、そこに出てくる「ジョセフ・マーゴリス」という固有名詞でググって出てきたGenさんのblog.genxx.comの「アートはショッキングなものであるべきか」(http://blog.genxx.com/?p=160)より

ある作品を見る。あなたは作品に表象されている世界と、自分の日常世界との間にズレを見て取る。ズレに対して、たとえば「美しい」という言葉が与えられる。しかし「美しさ」は作品の客観的属性ではなく、あなた自身の判断やあなたが生きてきた社会・文化の価値観を要約する言葉となっている。

 このズレに対する言葉は4つの次元において与えられる、とジョゼフ・マーゴリスは言う。1.個人的趣味(個人的な好き嫌い)、2.鑑賞判断(個人的な好き嫌いに対する言語的・論理的な理由付け)、3.公的趣味(社会的に受け入れられ広く流通している好み)、4.評決(社会的な好みを正当化する理由付け)。あなたはこう言うだろう。「あの作品は美しいわ(1)。なぜなら筆のタッチが斬新でなにか肉体の極限をあらわしているかのようだもの(2)。キャンバスの2次元世界の中に立体的な身体性を表現して近代の限界を乗り越えようとしているんだわ(3)。そういえば小林秀雄の文章の中に、似たようなことが書いてあったわ(4)」。芸術評論家の役割は1と3の間を橋渡しすることだ、と彼はいう。とにかく、1と2と3と4の間に流通する言説を分析することが、すなわちアート界の(フーコー的な意味での)「制度」を論じることが、先述した「ひとつの文化を記述する」ということである。

エントリ後半で、「近代」のアートの定義について

近代に入ると、ドイツ・ロマン派や観念論による精神の美学の中で体系化されて、アートは人間精神による真理把握の特権的な一領域となった。つまりアートの持つ「+α」は、アートが現実の世界認識に対して持つ真理性や、現実行動の規範を提示する道徳性に求められてきた。普段は不可視な真実や正しく生きるための道しるべを示してくれるがゆえにアートであったのだ。

とまとめたうえで、

では、現代におけるアートが持っていなければならない(それを持っていなければアートとして認められない)「+α」は一体何だろうか。

という問いをたて、「現代」はアートで「アートの要件とは何かを問うている」時代だと答える。それは一面ではまさしくそうなのだけれど、私がさいきん思うのは、どうも「現代」じたいがそういう循環・同語反復に耐えられず「近代」に戻っているか(「戻る」んじゃなくて、いろいろな時代の様態が平行して存在しているのだろうけど)、もしくは、社会活動とデザイン活動とアート活動がごちゃまぜになっていて、なにもかもがアートであり、よって、なにもかもがアートでない、みたいな感じがするなあということ。そして、「純粋」な(なにをもって純粋なんていえるのかと思うけど)アートを志向する人々は、総じて「近代」的な感じがして、こういってはなんだけれども、違和感を感じる。作者によって「真理」に誘われる、という芸術観。ないしは、作者が作品に込めた・作品を介して伝えたい、「真理」を感じ取る、という芸術観。もしくは、「作者」という「真理」を作品から感じ取る、という芸術観。作品を、何かを伝えるもの・媒介・メディアと考えるならば、その行き着く先は作品の透明化、つまり、芸術の終わり、であって、というよりも、何かを伝えるのに、作品という形式、芸術という形式は、あまりにノイズが多すぎるのではないかしら。「作者の言いたいことはこれだ!」「いやいや、それは誤解で、これこそが作者の言いたいことだ!」なんて、不毛な議論をしてもらうために芸術家は作品をつくるのだろうか。「真理」ということばが芸術に持ち込むのは、「ただひとつの」真理、という観念で、作品というものには、その作者が込めた、ただひとつの意味があるはずだ、という思い込みだ。それぞれに様々な解釈が生まれるのは当たり前で、そこに様々なやりとり・折衝・意見の交換がが生じるのも当たり前である(ベンヤミンが「複製技術時代の芸術」で「芸術の政治化」というとき、美的・感覚的なものだけに浸るのではなく、なおかつ解釈の正当性をお互いに主張しあう「だけ」ではなく、折衝・意見の交換をこそやっていこうじゃないか、という意味だと私は理解している)。しかし、その解釈を正当化してくれるものはどこにもない。当の作品にもないし、その作者にもない。その解釈を背負うのはその解釈者しかいない。それを作品に求めるのも作者に求めるのも、間違っているのではないか。これが新田博衞さんが「美的経験」で言っている「作品の解釈を他律的にする、という不利益を生む」ということで、そのくだりはこういうもので、手書きでメモしてきた。

われわれの主題は精神科学における真理理解ではなく、芸術における作品受容、つまり「美的経験」である。美的経験の側から言えば、芸術に真理を結び付けることは―既に見たように―一方において作品を実体的に”閉じ”させるとともに、他方において作品の解釈を他律的にする、という不利益を生む。

他律的な解釈でいったい自分に何が残るのか、ということで、とはいっても、人間の解釈ないしはその基盤となる知覚そのものが、そもそも他律的なものでもあって、「律」に従うような素振りを見せつつ「律」を利用する、とかそういうことが必要になるのかどうかはよく分からないけれども、なぜ私がいつもいつもこういうことを書くかというと、芸術と真理が結び付くことで起こる「作品の他律化」は、不要かつ不当な暴力を引き起こすからで、たとえばある人が、ある作品を見て、自分で解釈して、その作者にはなしてみたとする。しかしその解釈は作者の思うところのものでなかったらしく、作者は作者としての解釈をその人にはなす。ここで大抵の人は、自分の解釈と作者の解釈とのあいだに優劣やそれこそ正誤などないにも関わらず、自分なりの解釈を捨ててしまって、作者の解釈を取り入れてしまうだろう、たぶん。。そして、こういうやりとりが、作者と観客のあいだではなく、観客と観客、ないしは、作者を知る観客と作者を知らない観客のあいだ、だとさらにややこしい。自分の感じたことをお互いに潰しあうようなことになってしまって、つまらないことこの上ない、ことになることの方が多い、ような気がする。これは人間同士に起きる「権力関係」がこういうところにも顔を出してくる、ということで、それが私自身に向けられるのなら別にどうってことはないし、じっと耐え忍ぶだけだけれども、無意識に私が誰かに向かってそういう力を振るってしまうことになるのだけは避けたいし、誰かが誰かに向かって無意識にそういう力を振るっているのを見ていたくはないし、解釈を断罪だとか判定だとか思っている人にはびっくりする。お前は神か!と問いたいけど怖いからしない。また、ある作品同士が、物質的な面で(かたちにおいて)類似性があるからといって、その解釈の可能性まで同じわけではないし、これもいつもいつもいつも思うけれど、「純粋」な(なにをもって純粋なんていえるのかと思うけど)アートを志向する人々は、「かたちが似ている」ことに異常なくらい敏感で、ちょっとでも似ているものが先にあったりするとパクりだとか二番煎じだとか残念だとか言う。これはつまり、作品を自分で解釈するまえに、物質的な側面である「かたち」によって選別し(自分の頭のなかの小さな"閉じた"データベースで検索し)、解釈に値するかどうか聖別しているということで、あまりに傲慢だと言わざるをえなくて、お前は神か!と問いたいけど怖いからしない。こういう感じ方こそ異常に敏感なのだと言われるかもしれないけれど、芸術という制度には「芸術」とは無関係な、「人間」に由来する暴力がいたるところにあるうえに、それこそが「芸術」の厳しさだ!とか思われているフシがある。ほんとに?ドゥルーズは、哲学は概念をこしらえることだと言ったらしいけれども、芸術も同じことではないだろうか。概念というひとつの道具、モジュールをこしらえること。そしてそれを必要な人に届け、使ってもらうこと。芸術は使ってもらうことによって意義が生まれる。直嶋平間竹内小田コンピのそれぞれの曲名をyoutubeで検索。→http://d.hatena.ne.jp/recorded/20080521 今週の日曜日は

com+position 8

作曲と演奏 : 江崎將史 木下和重 竹内光輝
2008. 5. 25. sun.
開場 15:00 開演 15:30
料金1,500円(1ドリンク付)
at chef d'oeuvre
大阪市西区阿波座1-9-12 tel. 06-6533-0770