コラボレーションについて。西沢立衛「建築について話してみよう」にはいっている「透明感と都市の風景」という妹島和世さん・西沢立衛さんに対するインタビューの、妹島さんの発言より。

コラボレーションはいろんな人の能力を組み合わせているのはいいと思うけれど、ただ民主的なものができても面白くない。その結果まったく違う塊ができなければいけない。

そういえば、青木淳さんは、「オルタナティブ・モダン―建築の自由をひらくもの」の2巻「青木淳 そもそも多様である、そもそも装飾である」の小野田泰明さん、金田充弘さんとの討論のなかで

コラボレーションというのは、自分とは違う領域からの刺激が欲しいためにやるのであって、自分の領域と重なるのであれば、必要ないと思います。

という発言のまえに、形をつくる人とのコラボレーションはできない、形は自分で決めたいから、とも言っていた。コラボレーションというか、他人となにかを一緒にやったりつくったりすることについて、わりとずっと頭の片隅にあって、面白いこともあれば、面白くないこともあるわけで、その面白くなさについて考えていたが、妹島さんのいう「ただ民主的なものができても面白くない。」というのは的を射ている。そうなんだよなー、みんなのやりたいことを民主的に平等に実現させましょう、やりたいことがぶつからないようにしましょう、っていうのは、実はとんでもなくつまらない。なぜか。妥協がないから。コラボレーションっていうのは、足し合わせる、みたいなイメージがあるけれど、そのまえにそもそも妥協ありきのものだし、妥協からいつもとは違うことに発展して、面白くなるわけだし。あと、妹島さんのいうコラボレーションはプロセス重視、青木さんのいうコラボレーションは結果重視、という違いがあるが、程度や形式の違いこそあれ、妥協そのものはあるだろう。妥協ということばにネガティブなイメージがあるなら、自分ひとりで決定できないこと、他人の介入、とでもいえばいいか。それにどう対応していくかが面白いところであって、個々の決定権の範囲をちいさく分けてぶつからないように民主的に解決するくらいなら、そもそもコラボレーションしなければいいだけだし。まあでもどこからコラボレーションか、というのもあるけど。共演と競演の違いというか。どっちがどっちか分からんけど。あと、「あなたのやっていることは、美術か、音楽か?」と聞かれたらどうしようというか、平間君が古立君に聞かれたらしいけれど、どうしよう、困るな。でも私じしんの面識でいえば、音楽のほうと面識がある。活動上、美術とはあまり面識がない。「あえて」美術にこだわることで面白いことをやっているのであれば、美術だというだろうし、「あえて」音楽にこだわることで面白いことをやっているのであれば、音楽だというのだけれど、別にそういうわけではないので、ほんとどちらでもいいというか、良い意味でどちらでも「良い」し、分類によって見え方が変わるのはイヤだな、くらいなので、なんともいえない。音楽ではない、とあえていうことで音楽にこだわることもできるし、美術ではない、とあえていうことで美術にこだわることもできるけど、別にそういうわけでもないので、とくに自分から、これはこうだ、というのは、ないかもしれない。とはいえ、いままで1回も「美術か、音楽か」と聞かれたことはないので、たぶんこれからも大丈夫だと思う。「小田さんってなんなんですか」とは聞かれたけど。美術か音楽か、のどちらかっていうよりも、お前はなんなのか?と。なんなんだろう。定義や意味としての私ではない、目の前の現象としての私??ああ、でも、「あなたのやっていることは、美術か、音楽か?」というふうに質問するとき、聞かれているのは、どっちの「つもりか」ということで、そういうふうに考えてみたらば、具体的な行為や作品に先行した、一貫した「つもり」というものはあまりないかもしれない。その都度の個別のなにかやる機会の形式に応じてやるので、時には音楽のつもりに見えるだろうし、ときには美術のつもりに見えるだろうし、そういうふうに寄生してやっているので、自分のなかに一貫した「つもり」というのは、たぶんない。自分がどういう「つもり」であろうと、他の人から見える「つもり」の方が、見る側にしてみれば重要なので、他の人が見たときに分かりやすいように、腑に落ちやすいように、「つもり」の見え方も操作する。もちろんひとつの「つもり」・やりかた・形式にこだわりつづけることで、見えてくるものや面白さもあるけれど、私はただ選択の問題として、そういうやりかたを選択していない、というだけで、ひとつの「つもり」を否定するものではない。あと、美術と音楽の境目って、重要なものであることには変わりないけれど、どちらも、美術作品の体験・音楽作品の体験、というふうに自分の思考様式や身体やなんやかやでもって体験するもので、そういう意味ではどちらも同じで、そういう体験の質や現代性なんかを問題にするかぎり、美術と音楽の境目っていうのは、あまり意味がないように思える。