ゆったりした時間 ダイアローグマッサージ

 「止観瞑想」を知る前は、「時間」というのは、(地球上では)一方向に、均一に流れると思っていました。止観瞑想を続けるに伴って、「時間」にも内外色々あり、色々な時間がひとつに重なっていると思うようになりました。


 止観瞑想を始める前は、一日24時間のうち、午前7時から午前10時間までの3時間も、午後8時から午後11時までの3時間も、同じ3時間であると思っていました。(外にある時間)


 確かに数量としては、同じ3時間、180分、10800秒です。しかし、植物にとって、午前7時からの3時間と午後8時からの3時間は、同じではありません。 午前7時からの3時間は、光を浴び光合成する3時間(時空間・内なる時間)です。


 そもそも、「同じ」とか「違う」ということばを使うときは、その意味や使い方を決めないといけません。何をもって、何を基準に同じというのかを決める必要があります。


 植物にとって、陽の当たる3時間と陽の当たらない夜の3時間では、数値、数量、長さとしては同じであっても、生きられた時間としては、客観的にも同じではありません。


 昭和29年生まれの人が、60年後に同窓会を開きました。戸籍上の年齢、生後経過した年数はほぼ同じであっても、生きられた時間は同じとは言えません。(外で流れた時間は数値として同じだけど、生きられた内なる時間は質が違う。)


 また、3歳児の春夏秋冬の1年と、20歳の1年、80歳の1年も、数量としては、365日×24時間×60分は同じですが、生きられた時間は同じではありません。 同じ80歳でも、健康な人と病気の人では違うでしょうし、同じ健康者であっても、瞑想者と非瞑想者では、同じではないでしょう。 呼吸の数や質が違うと思います。


 ネズミの1年と象の1年が違うように、呼吸や心拍数、分泌されるホルモンが違えば、生きられる1年は違ったものになります。 80歳でも若々しい肌の人がいますし、50歳でも老化の進んだ肌の人がいます。


〇瞑想者の時間 外なる時間では みんな同じ歳 降り積もる時間

 普通、年齢を尋ねられると、日本では、戸籍上の年齢やこの世に生まれて産声を上げたときからの年数を答えると思います。 瞑想や健康法を実践しても、時間が一方向に流れ、やがて老い、この世から去ることには変わりないでしょう。


 しかし、瞑想者には別の時間の流れがあります。 布が経糸緯糸からできているように、一次元的に一直線に流れるよこ糸と同時に、今ここに降り積もるたて糸の時間があります。 たて糸の時間からみれば、目に見えているものすべてが、同じ歳です。星も草も虫も。 赤血球の中心にあるヘモグロビンの鉄は、恒星が爆発してできたものです。


〇瞑想者の時間 一切皆苦

 仏教の根本的な教えは、諸行無常であり一切皆苦です。 仏教でいうところの「苦」は、自分の思うようにならないということです。 私達人間は、時の流れを止めることも、地殻のプレートの動きを止めることもできません。
 どのような努力もやがては、無に帰っていくことでしょう。それを思えば、虚しいし、苦しいです。


 そのやがて必ず老いて死ぬことの苦しさの解決として、自分の無力を何かで忘れようとしたり、未来に託したり、輪廻転生や来世を持ち出すことがあります。 瞑想者は、忘れようとしても忘れられないことを知っていますし、未来に託す生き方は、今を手段としてしまい、今ここを生きていないような生き方になりがちと知っています。 瞑想者は、時間が一方向に流れることを否定しません。 ただ、そのような時間感覚や認知や思考が、自分が使っている言語と深い関わりがあることを知っています。


 私たち人間は、ことばという記号を使って、ものごとを認識したり、考え事をしたり、情報を伝えあいます。私たちの言語には、「線条性」という制限があります。一行ずつしか表現できません。 線条性という制限のあることばでは、ものの見方は、要素論になりがちですし、時間を一次元的に一方向にのみとらえがちです。(外なる制度時間の必須条件)

 一切皆苦です。 苦でないものは無い、と心底納得すれば、苦ではないものを求めることもなくなることでしょう。

感受性促進ダイアローグマッサージ 6月16日土曜日
 那智勝浦町市野々 NPO熊野みんなの家 にて