インターネットラジオとAMFMラジオの意味

インターネットラジオについて思うことは「クライアント側が録音して保存して、ユーザ側が好きなときにダウンロードして聞ける形式にすべきだ」です。これはすべてのメディアについて言える。テレビもすべてそのような形状にして、見たい人間が有料でダウンロードすればよい。無料版があってもよいだろう。つまりiTunesMusicStoreというのは、すべての情報社会において先駆的である。
「え?これが先駆なの?こんな程度で?」と思われるかもしれないが、実際社会を見てみると、テレビをわざわざ録画して見ている人間のなんと多いことか。あんなのはテレビ作成者側が自社のサーバに保存してあって、見たい人間が見たいときにダウンロードしてみる形状のほうが明らかに優れているではないか。音楽屋にいってCDを買ってPCで変換している人間のなんと多いことか。ラーメン屋に並んで順番待ちをして並んでいる時間のほうが食べている時間より長いなんてのが、なんと多いことか。銀行で並んでいる人間のなんと多いことか。インフラが整った社会では、そういうアホらしい時間はなくなり、自由になる。「待ち時間も楽しいじゃん!」という人間がいたら「そういう人間は待てばよい」である。両方選べる自由がユーザ側にあるところが重要であって、並ぶかどうか、楽しめるかどうかは、ぜんぜん別問題。
おもしろい地方番組があったとする。なぜ北海道放送は、東京で見られないのか。おかしいと思わない?それが普通だったからだろうか。地方ラジオはなぜ地方にいかないと聞けないのか。なぜその時間でないと聞けないのか。見たいときに見たいものを見る、聴きたいときに聴きたいものを聴く、食べたいときに食べたいものを食べる。コンビニの存在が非常に未来的だといえるだろう。やがてそういう形状にすべてがなっていく。いつでも欲しいときに手に入れるのは、ユーザの任意によって行われる、クライアントの依存ではない、ユーザ主体の形状になっていくだろう。まだまだインフラが整っていない、と言ったところか。あらゆる意味で。
ところで、ラジオを流しっぱなしにできる情報の軽さ、というものは重要なのだろうか?テレビを流しっぱなしにできる情報の軽さ。そういうライトな風味が好きな人間はわりと多いのかもしれない。僕は邪魔だと思うが、すべてが僕なわけではないし。