「見透かす」と「見通す」の差

なんか、ある悩んでいる風な人がいたので、その人に「悩むのと考えるのは別。解決方法を考えなさい」と言ったことがある。するとその人は「あなたにはいつもそうやって見透かされてるよね」と僕に返した。
なんというか、すこし考えさせられる。
どうも「見透かす」という単語には、マイナスのイメージがある。なぜ「見通している」とか「お見通し」とか、いわれなかったのだろう? 別に悩んでいる相手をバカにした気持ちはなく、問題点の指摘と解決方法を示したつもりだが、相手はそう捕らえなかったのだろうか。それとも「見透かす」と「見通す」を、同じレベルの単語だとして使ったのだろうか。
この「見透かす」と「見通す」はどういう違いがあるのだろう? 多くの人は、どうやって使い分けているのだろう? 僕はどう使っているだろう? 僕は他人を見透かしたり、見通したりすることがあるんだろうか? そもそも見透かせるほど、人間の透明度って高いか? 見通せるほど、人間の全体は短いか? 僕は自分のことさえ良く見えないほど混濁していると思っているけれど、他人はどうだろう。まだ答えは出ないが、もう少し考えてみたい。自分が見透かされたとき、どう感じるだろうか。自分が見通されたとき、どう感じるだろうか。
いつも曇るのは自分の眼だ。透明度を高く物事を見たい、と、ときどき思い出す。思い出すのは、だいたい自分の眼が曇っていることに気づいたときだ。

実は一人もいない

学校の怪談
「クラスに馴染めない」「友達が少ない」「自分はモテない」「死にたい」「あいつはうらやましい」
ってもしかして、クラス全員がそう思っているのかもしれない。
ただ、誰も、そのことを口にしないだけで。
自分以外は、馴染んでいるように見えているだけで。