京都にPARASOPHIAを見に行ってきた。

印象に残った作品は三つ。
ヨースト・コナイン「飛行機」
ハルーン・ファロッキトランスミッション
ウィリアム・ケントリッジ「セカンドハンド・リーディング」
ヨースト・コナインの「飛行機」は、作品の主旨やあり方というよりは、単純に「砂漠で飛行機に乗る」というテーマが『イギリス人の患者』と似通っていることが自分の中で引っかかった。飛行機を自分で作ろうとし、大体の形に仕上げるまでは本人や手伝ったスタッフのセリフが出てくるが、後半に砂漠で車が壊れ途中の町で直してもらい修理費を交渉するくだりやキャンプを張っていた(おそらく)ベドウィンに飛行機の調整を手伝ってもらうところなどは字幕もなく淡々と進む。さまざまなシーンがフラッシュバックしては重なりまた消えていくのを頭の中で感じていた。

ハルーン・ファロッキの「トランスミッション」は、今回見に行ってよかったと思える作品だった。バチカンのペテロ像の足、ローマの真実の口、ミュンヘンの教会の中にある悪魔の足跡、嘆きの壁に残るイエス・キリストの手形、人の体温に保たれた強制収容所のプレート、鏡のように磨かれたベトナム戦争戦没者碑、その他「人が集まり何らかの形で触れては去っていく」場所の映像が、セリフもなく淡々とした字幕と共に映し出されていく。
特に印象深かったのが聖墳墓教会磔刑の台座。人々が耳を当てていくのは、その石にはいまだにイエス・キリストを十字架に架けるときに打たれる槌の音が聞こえるという伝承があるからだそうで、実際に聞こえるのかは私にはわからないけれど、しかし、もしそれが聞こえるのであれば、その瞬間にもイエス・キリストは十字架に打ち付けられ続けているということになる。
こうした習慣はもしかしたらその場にいる人にとっては周りの人がそうしているから、もしくは何となく目についたからという理由で行われているだけであり、実際に信仰心や場所の意味を理解する必要を求めていないのかもしれない(実際ベトナム戦争戦没者碑に手を触れるという仕草はガイドブックに記されている習慣という解説がありそれを形骸化と捉える向きもあるだろうし、ローマの真実の口のくだりではちゃんと『ローマの休日』のワンシーンが挟まれていた) しかし生きている人間が何かの仕草を加えることでペテロの足はすり減り続け、窓がないことを条件に教会を建てる手伝いをして裏をかかれた悪魔は地団太を踏み続け、イエス・キリストは十字架の重みに耐えかねて壁に手をつき続け、強制収容所の人々は寒さに対して何とか自分の体温を保ち続けようとしていることになる。
そうした仕草の連続の後に、テル・アヴィブの高速道路上での車が次々に止まりナチス犠牲者とナチス抵抗者に対する黙祷が捧げられるシーンに、「特別な仕草―――何もしないという仕草」という言葉が挟まるのは、こうした人間の仕草によってもたらされる一種の永続性の現れのような気もする。鏡のように磨かれた石碑に触れることは、鏡に映る虚栄と、鏡の向こう側のもはやいない、しかし立ち去ることのない人々との交感であり、それは場所も対象も違えども人間が繰り返してきた営みの一環であり続ける。

ウィリアム・ケントリッジの「セカンドハンド・リーディング」は十回近く見てようやく「本を読むという体験」に関する作品なのだと気づいた。「私たちを章の中に招き入れよ」、「言葉の文法/世界の文法/傷の文法」、「どのページを開いてもあなたはそこにいる」から「どのページを開いてもそこにいるのはあなたなのだ」へと、「そして起こらない」。
ケントリッジの作品は、私にとって本を読むこととよく似ていることを再確認した。


堀田善衛『スペインの沈黙』から「ゴヤと怪物」

死の床に横たわった中年の女―――死の床、といま書いたが、別に床があきらかに描かれているわけではなく、すべてはねばりつくような蝋灰色と黒だけで、その瀕死の女は眼を瞑って現実に死につつあった。死の色というものが、あれほどに近接して描かれた例というものを私は知らなかった。これ以上は書くまい。まず人はこういうふうにしてものに魅入られて行くのであろう。しかし、相手がわるかった。相手はゴヤであり、あの絵が存在をつづける限りは永久に死につづけるモナである。私自身の内部にあっても、モナは私が生きている限りにおいて死につづけている。
この“瀕死のモナ”は、プーシュキン美術館においても、あまり優遇はされていない。ほんの片隅に、ひっそりと灰色に、そうしていつまでも死につづけている。今年の二月、もう一度彼女を見に行ったのであったが、やはり同じ場所で、黙して死につづけていた。再会して、私は彼女に愛を感じた。彼女が、かくも近く、しかもかくも遠くにいることに苦痛をさえ感じた。