2006年01月18日 水曜日 追悼 
二十歳の頃、一人の友人に先立たれた。
私は未熟で身近な存在の死に、あまりにも不慣れで、来る日も来る日も後悔し、泣き続けた。
街で見かける同じ背格好の他人にハッとすること数知れず。そのたびにその年頃の女の子には不似合いなほど大きなため息を漏らすのだった。
何もかもが悲しかった。先立たれたこと、その命を絶つ方法、予測される原因、遠因。葬儀で再会した別の友人から知らされるさまざまな「私の知らないこと」。最後の電話−−−それがかかってきた日、翌朝ヴェトナムへ旅行へ行く予定だったため(そのまま3週間もの「贅沢な」貧乏旅行をしたのだった)、簡単に、いま思えば本当に簡単に「会おうよ」という誘いを断ったのだ。
故人のかなしみを思うよりも、安らかな死を祈るよりも、自分を責めることに時間を費やした。幼かったのだ。
十年近く経った今もときどき、どうしようもなく悲しみがこみあげることはある。しかしそれは静かなもので、優しい祈りのようなものだ。思い出すことで彼を心に生かし、新たに弔う儀式のような。一番かなしく辛かったのは本人であり、その家族であり、私よりももっと親(ちか)しい人々だ。私のような数えるほどしか思い出のない者にいつまでもクヨクヨとする権利はないのだとさえ思う。
しかしあまりにも短く、不幸な面の多かった彼が、せめて記憶の中で笑っていられるように(笑顔の写真はほとんど残っておらず、遺影もにらみつけるような写真であった)、祈り続ける。
三十路を一年後に控える私に、また一人、旅立ちの知らせが届いた。私よりも若い、学生時代の後輩。五年前のある日、彼の友人であり、彼と私の接点をつくってくれた後輩が、厄介な病気で手術を受け、病院にいるという連絡をくれた。二人で見舞ったが、会話は思ったより弾まず、頭に巻かれた包帯が痛々しかった。以来私は一度も見舞うことなく、日常の忙しさに巻き込まれていった。たまにどうしているだろうと気になりながらも、それ以上の行動には一度も移さなかったのだ。
ひとつには病状が快方に向かっている、リハビリを受けているという情報が入っていたことから、いずれ本当に元気になったら会えるだろうと思っていた。
いやそうではないかもしれない。私などが見舞っても迷惑なだけかもしれないという自信のなさ(そもそもなんのために見舞うのかという視点を欠いた浅はかな発想)、億劫な気持ちもあったはずだ。自分の知らない病に対する恐れ、目を背けたいというエゴイズム。思い返せばいろんな要素が浮かび上がる。
しかし告別式で見た写真が、彼を慕う大勢の若い友人たちが、当日の青空が、満開の椿が、私を告別式へ導いた不思議な数々の要素が、真冬の八王子に似合わない束の間の陽気が、一切合財を許してくれているようの思えた。
数えるほどの思い出と、遺された歌と、私は生きていくのです。彼らの分まで、とは約束ができない。けれど彼らが心配するようなことは私や友人たち、遺されたものがサポートし、私は私の分の命をまっとうするのです。
こんなに強くタフに育ってしまった私は、そんな自分が憎くもあり、愛しくもある。
どんな所以か出会ってしまったこの縁に、それが痛みを伴うものだろうと、感謝し、生かし、生かされたい。