転寝するメダカ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2006年07月30日 日曜日 このために このエントリーを含むブックマーク

ずっと後になって、「このためだったのか」と思わせることに行き当たる。

ずっと後になってというのがポイントで、

渦中にいるとき、あるいは選択した時点では想像だにしないことなわけで、

続けることの価値はここにあるのか、と思う。

例えば私はピアノという楽器を上手には弾けないが、

自分のたのしみとして、時々弾くくらいの関係を保ちながら大人になった。

数ある楽器の中でピアノを選んだのは、小さい時から今まで、

私の隣に物理的な意味でピアノがあったからだ。

(今も狭いマンションの私が寝る布団の隣にピアノがある)

人的環境としても、どんなに下手な雑音でも、ピアノだと思って

受け入れてくれる環境があればこそ、続けてこられた。

ピアノを続けることの意味は上達することだと思っていた。

上達しない私はピアノを弾く時間を別の何かもっと有意義なことに当てるべきだと

かたくなに思い、全く触らなかった時期もある。

それでも今、音楽を聴くことも、演奏することも、

前よりもっと私は素直に楽しんでいて、そんな今が来ることは

以前は知らなかったわけで、今が嬉しい。

ピアノと出会うことができ、自分の意思ひとつで向き合うことができ、

指定速度を無視すればエキサイティングなひとときを持てる。

音楽を介してコミュニケーションも弾む。

で、これは一つの例なのだけれど、

ろくでもない仕事だと愚痴を言いながら取り組んだり、

自分の不運を嘆いたりしたこともあった仕事だけれど、

5年以上続けてきたことで、発見した喜び、行き当たった幸運が沢山ある。

続けることで自分が成長したり技術が向上したり、というのは些細なことで、

その場に居続けたことで、自分が探し回るのではなく、

その延長線上にさまざまなことが現れてくれた。

そして「このためだった」わけでは本当はない、のだけれども

そう思わせるような出来事が時々起こるので、人生って、あっぱれって、

クスクス一人で笑い出したくなるようなことがある。