うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

『がり勉クラブ』と「商業化された大量生産」の音楽の台頭と行く末


 夜勤明けで帰宅したら、「ガリ勉クラブ」さんからはがきが届いていました!
名古屋に行く時に、少額なので恥ずかしいのですが、今まで3回だけ寄付をさせて頂いていましたが、今日、親分にバレテしまったので(笑)白状しました(笑)いい誕生日のプレゼントになりました!
 当法人も皆さんのご協力を頂かないと、やっていけないので、「ガリ勉クラブ」さんに参加されている子どもたちを見させて頂いていたら、お金持ちになりたいな!といつも思うのでありました(笑)お金がないと、みんなに何もさせて頂けない......。のが現実ですね.....。時間をみつけて、せっせと作品作りを頑張ろうと思っています。
 農業の師匠であるF氏は、ブラジルでは寄付は貰ってやる!し、偉そうな奴からはいくら大金でも絶対に貰わないそうです。それで良いのではないでしょうか?
見せかけの優しさなんて直ぐにばれます(笑)福祉の現場で働かせて頂いていると、火を見るより明らかです。

外国人子ども日本語教室「ガリ勉クラブ」
ガリ勉(べん)クラブ」は外国(がいこく)にルーツを持(も)つ子(こ)どもの日本語教室(にほんごきょうしつ)です。

小学校高学年(しょうがっこうこうがくねん)から高校生(こうこうせい)までの子(こ)どもが、日本語(にほんご)や学校(がっこう)の教科(きょうか)を勉強(べんきょう)しています。 
ご興味がある方は、下記のサイトを覗いてください!
http://www.nagoya-ywca.or.jp/gariben/
活動を主宰される方も大変だと思われますが、やりがいもあると思われるので、頑張って頂きたいと思っています!
 皆さんのお力を是非貸してあげてください!



 昨日のついでに?久石譲さんの本からの抜粋をアップさせてください。
精神分析のパッケージという言葉が『クライン派の発展』に出ていました。
この本には、「商業化された大量生産」のパッケージはレコードからCDになり、今ではダウンロードが主流になりつつある。という文章があります。福祉のパッケージってどういうこと?なのでしょうか?制度自体がパッケージ?なんか違うような、違わないような......。


久石譲 音楽する日乗』より 
Ⅳ考える
 「商業化された大量生産」の音楽の台頭と行く末
 Th・W・アドルノが書いた『新音楽の哲学』という本がある。その序文で「音楽現象そのものが商業化された大量生産に組み込まれることによってこうむる内的変化を立証し、同時に標準化された社会で起きている一定の人類学的変位がいかに音楽聴取の構造までに入り込んでいるか……」などと、何回読んでも僕には意味がつかめない難しい言い回しが続く。この本自体はシェーンベルクとトラヴィンスキーを比較しながら(大雑把に言って)20世紀の音楽のあり方を論じているのだが、作者はユダヤ人でその論理的明晰さに脱帽したくなるが、読むにはかなり重度の忍耐が必要だ。
 彼の言うように20世紀は「商業化された大量生産」の音楽が著しく台頭した時代だった。レコードの発達である。それまではホールなどに出向き、いくばくかのお金を支払い、一期一会の音楽を楽しんでいたのが、家で好きなときに好きなだけ聴けるようになった。音楽はレコードというパッケージになり、商品として流通経済の1アイテムになったわけだ。そこで誕生したのがポピュラー音楽だった。ちなみにウィキペディアで検索してみると「広く人々の好みに訴えかける音楽のことである」と書いてあった。なるほど、人々の好みか……?
 その土台となった音楽は奴隷としてアメリカに渡った黒人と白人のあいだで生まれたでデキシーランド・ジャズだ。それがロックンロールになり、ロックになり今日のエンターテイメント音楽になったのだが、その論理的な構造はいたってシンプル、機能和声で述べた通り、メロディーと伴奏の和音が主体である。だが小学校の教科書に載っている音楽の3要素はメロディー、ハーモニー(和音)、リズムとあるように、これほどまでにポピュラー音楽が世界を席巻したのは実はリズムの力である。先ほどのアフリカから来た黒人のリズムが入ることによって、ヨーロッパ系の機能和声中心の歌曲(一部のフォークダンスを含む歌謡様式)から大きく変貌した。4(フォー)リズムという編成がある。これはドラム、ベース、ギター、ピアノ(キーボード)のことをいうのだが、見事に音楽の3要素そのものではないか。これをバックにメロディーの象徴でもあるヴォーカルが入るのだから完璧である。だからドームを埋め尽くすコンサートライヴも小さなライヴハウスのバンドもベーシックは同じ編成なのである(もちろん絃を入れたり管楽器を入れたりコーラスを入れたりするが)。シンプル・イズ・ベスト、だが!である。目にあまる商業主義の中で、音楽は本当に豊かになったのか?プロとアマチュアの境もなく人気者が余興のように歌う音楽で(もちろんそうでない本物の歌い手もいるが)、人々は「人々の好みに訴えかける」というポピュラー音楽を心から楽しんでいるのか?感動はあるのか?コンピューターでは音楽を情報化して定額料金で聴き放題などというふざけた話がある。それは音楽の尊厳を踏みにじる行為である。「商業化された大量生産」の音楽の行く末がこれなら、世界から本物の作曲家が消えていくだろう(食べられなくなるから)。もうこちら側には未来はないのかもしれない。
 話を戻して、レコードの発達は一方クラッシック界にも影響を与えた。例えばソナタ形式の提示部分の繰り返し(前に説明すると約束した)だが、レコード化されるときにカットされることが多くなった。レコードは片面約15~20分、両面で交響曲がやっと入る長さなのでその時間の制約が大きかった。もちろんそれだけではない。時代はたらたらした長いものより、よりコンパクトでスピードのあるもの、そして大掛かりなもの、つまりオーケストラの編成も巨大化したものを求めていった。その象徴がカラヤンベルリン・フィルだった。もちろん他のオーケストラも同じ道を辿っていった。
 ソナタ形式の繰り返しはこのことから逆に辿っていくとわかる。ソナタ形式の重要なことは第1主題と第2主題にある。それが提示され、どのように展開され、またどのように再現されるか、それを聴き分けるためには第1主題と第2主題を印象づけなければならない。だから繰り返すのである。当時はホールでしか聴けなかったから(家では聴けない)繰り返す必要があった。それが提示部についているリピートマークの意味だと僕は考えているのだが、今の時代でもそのことは有効であると思っている。だから指揮をするとき、提示部は繰り返すようにしている。
 「商業化された大量生産」のパッケージはレコードからCDになり、今ではダウンロードが主流になりつつある。手軽に便利はいいことなのだろうか?
 人の生活はものや情報では豊かにならない。爆買いする中国人を見て豊かだと思うだろうか?我々はどこかに置いてきてしまった大事なものをもう一度取り戻さなければならない。