うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

昼食と『患者から学ぶ』と、文化のシャワーを小さい頃に浴びないことには、発信できない



 今日は夜勤ですが、送迎の職員さんが送迎ルートの確認の為、教えて欲しい所があるとの事で、午前中にうたたねに行きましたが、ドタキャンがあったので、せっかく来たのだからと、皆さんと昼食に行くことにしました(笑)
 マックが良いと言う方がおられたり、バイキングが良いと言う方がおられたので、マック派、うたたね派、バイキング派に分かれました。
 おっちゃんは、バイキング派に同行しましたが、ダイエット中なので、元が取れませんでした(笑)
 元を取ったのは晴君だけですね……。しばらくバイキングは中止かな(笑)自宅に帰ると、外出したがらない方がいたり、外出はヘルパーさんとだけだったりするので、なるべく家庭的に外出と思いますが、いかんせん、職員配置に左右されてしまいます。
 でも、職員配置ができている日は、なるべく外出するようにしています。
 今日のバイキング会場には、本が沢山あるので皆さんが好きな本を読んでいる間に、『患者から学ぶ』の目に留まった箇所を携帯に打ち込みました。携帯の方がパソコンより、自分は早く打ち込めます。
 この本は、最初からこの調子なので、アップしまくるかも(笑)知れませんので、覚悟願います(笑)


『患者から学ぶ』 (P,ケースメント著)
差し出された、それとも、強いられた洞察か

患者たちが理解されていないと感じるとき、そのことを、それらのことについて知ることが専門的な資格である人物に伝えることは必ずしもたやすいことではありません。患者があることを意識的には知らないのなら、それは、分析家から差し出された真実と思えることを意識化していないからである、との究極の、そして、反芻できない返答に患者が出会うこともありましょう。けれども、それは決して差し出されるばかりではありません。ときには、教義のように語られます。さらに、解釈を患者が拒絶することさえ、その真実性の証拠として、解釈への反応の中での患者の防衛性の証しとして使われます。
無意識についての絶対の予言者としての分析家か精神療法家は高い最大の注意を払いながら取り扱わねばならないこれらのことがらについての権力の座を占めています。患者によっては、治療者に立ち向かうことはたやすいことではありません。そうではありますが、治療者がいつも正しいわけではありませんから、よりよい理解のためには、患者のヒントからの援助が治療者に必要なのです。これらのヒントは、たいていは、直接的よりも遠まわしで、意識的であるよりも無意識的なものです。
患者を理解しようといくとき、同定されて、解釈されうる意味のすじみちを認識できていると感じるまで、治療者は待ちます。しかし、この解釈する作業において、どのようにして中止は治療者自身の理論上の偏りを患者に強いてしまうことを避けることができるのでしょうか?分析家は、セッションのたびに、欲望や記憶や理解を放棄して向かっていくべきである、とビオンは唱えています(Bion 1967a;1967b;143-45)。(たとえば)治したい欲望や影響を及ぼしたい欲望、前のセッションについての能動的な想起、理論上なじんだ点からの理解と言う錯覚、すべては、精神分析が最も好ましい状態にあるという極め付きの証である。患者の個性に心が開かれていることに対立しています。

誰の抵抗か

治療者によって差し出されたのだけれども、患者が自分自身についてのある真実を認めることができないときとか、言葉の上で賛成はしても生活や治療関係では意味深い変化が何も起こらないとき、これは患者のなかの無意識の抵抗によるものである、と見なされることがふつうです。そうしたこともありましょう。しかし、ときには、この変化を欠いていることは、患者や理論や技法についての治療者の仮説を治療者が再吟味するための無意識のヒントがあることの指摘であったりします。そこには、治療者がいまだに気づいていなかったり、認めきっていないものがあるかもしれませんし、治療者も抵抗していることだってあるのです。患者のコミュニケーションのなかの無意識の対称性に耳を傾けることは、しばしば、それまで見過ごしていたものが何なのかを知るよう手助けしてくれるでしょう。そうして、潜在していた手詰まりは新たな展開へと進んでいきます。



 


 朝、ネットニュースを見ていたら気になる記事がありました。
バイキング後、皆さんを送ってから自転車で図書館に行き、そのニュースを掘り下げたいなと思い

『心の育ちと文化』を借りて来ました。この本を読んでから掘り下げたいので、ニュースの抜粋だけアップさせて頂きます。
 貧困問題でのNHKの報道のありかたが、国会議員から庶民までネット上で熱く議論されていますが、貧困と感じるのは相対的なものなので、非常に難しいですね。自分の場合も、貧困家庭だったといっても信じてもらえないし(実際小学校6年生の時には半ズボンが一つしかなくて洗濯して乾くまで外に出れない期間があったり、左右微妙に違う靴が安かったのでそれを履いていた時期もありました)京都時代はお金には人生で一番恵まれていて、京都をでて北海道に行った時に、月給が27万円くらいもらいましたが、最初はそれで生活できるのだろうか?と真剣に悩みました。今から思うと贅沢が出来るのに(笑)
 ご興味のある方は、ネットのニュースを見て下さいね!http://rpr.c.yimg.jp/yn/rpr/tanakatoshihide/cover-1365068951.jpeg
『文化のシャワーを小さい頃に浴びないことには』には、NOと言いたい(笑)大人になってからでも十分大丈夫!おっちゃんを見に来てください(笑)何とか社会で生きています。(色々問題提起をしていますが(笑))

文化のシャワーを小さい頃に浴びないことには、発信できない
田中俊英
一般社団法人officeドーナツトーク代表

 この結論を読めば今回の騒動の大筋は理解できるが、そのことと、「相対的貧困」当事者の声をどう伝えるか、どう「代弁」するかは別問題である。

相対的貧困者は6人に1人になっているが、その2,000万人の人々は、残念ながらほとんどが自らの気持ちや状態を発信できない。

これは、貧困に伴う学習不足や、貧困の結果生じる児童虐待から陥った発達の遅れ等の原因が考えられるが(たとえば杉山登志郎医師の「第四の発達障がい」や、ライター鈴木大介氏の「脳障害と貧困記事」貧困の多くは「脳のトラブル」に起因している 「見えない苦しみ」ほど過酷なものはない等参照)、そうした原因論はまさに最前線の議論だからまだ一般化はされていない。

これらはひとことで言うと、「文化」不足からくる発信能力の低さだ。
貧困家庭や養育環境が原因の低さなので、思春期以降に出会った第三者による「文化シャワー」があったとしてもなかなか発信能力は獲得できない(ちなみに僕の本業はこうした「文化シャワー」をハイティーンに伝えることだ→たとえばこの記事参照「カルチュラル・シャワー」高校生カフェは2.0に〜横浜、川崎、大阪のチャレンジ)。

人間の「世界」とは、イコール「ことば」の世界の豊穣さとつながる。また、ことば(記号)を土台としたさまざまな「文化」を子ども時代にどれだけ浴びたか、その浴びた文化「量」がそのまま、その人の「世界」の広さとつながる。

その文化内容に「善悪」はあるとしても、まずは「量」を浴びる必要がある。ことばと文化をたくさんたくさん浴び、それらのシャワーから自分に適した価値を選択していく。
その価値に基づいた自分なりの「ことば」が、その人の世界観を構成し、その世界観から自分なりのことば(つまりはその人の世界観)が発信できる。

まずは、ことばや文化のシャワーを小さい頃に浴びないことには、発信もできない。
その点で、一般的に、紋切りの文化や狭い語彙しかもたない貧困層の世界観は不利だ。







「カルチュラル・シャワー」関連の物もありました。

カルチュラル・シャワー」高校生カフェは2.0に〜横浜、川崎、大阪のチャレンジ
田中俊英 | 一般社団法人officeドーナツトーク代表
2016年8月21日 11時2分配信
■横浜、川崎、大阪

2012年からの大阪府の取り組みとして「高校生居場所カフェ」があり、府立西成高校での「となりカフェ」の取り組みから始まって、昨年度は21校まで拡大したにもかかわらず、今年度は残念ながら予算切れしてしまったことは前回のこの記事(ああ「高校生居場所カフェ」よ、どこへ行く?)で報告した。

今年度は結局、各法人と提携高校の自主的取組として細々と継続していく。たとえば、「となりカフェ」のほか、府立長吉高校「なかカフェ」や、その他2校とは協議中だ。

そんななか、横浜市内で「予防支援における成果指標作成委員会」という会議が定期的に開催されており、昨日8月21日にその第2回が行なわれた。初回に続き、僕も参加し、高校内における「居場所カフェ」支援の継続の必要性について話しあい、その「根拠」のあり方、成果指標の位置づけについて議論した。

大阪のような激しい動き(4年で1校→21校、5年目に小規模開催+数校に激減)ではなく、横浜では田奈高校1校ではあるが、着実に実績を積み上げている。それは田奈高校のホームページでも掲載されているほか(ぴっかりカフェ)、カフェを実際に運営するNPO法人パノラマのホームページ(NPO法人パノラマ ぴっかりカフェ)や、パノラマの理事長石井正宏氏のFacebook(石井正宏タイムライン)でも常時報告されている。

■「カルチュラル・シャワー」

この取組は、ネットメディアの「ハフィントンポスト」においても報告されており(高校内カフェって知ってますか?:"ぴっかりカフェ"にみる貧困の連鎖を予防する3つの機能)、臨床心理士鈴木晶子氏(一般社団法人インクルージョンネットかながわ代表理事NPO法人パノラマ理事)によるクリアな分析は一読の価値ありだ。

横浜以外にも、川崎市では、市立川崎高校の定時制では、「ぽちっとカフェ」という取り組みも行なわれている。こちらは仁藤夢乃氏(女子高生サポートセンターColabo代表)によるあたたかい写真報告があったりする(定時制高校へ)。

冒頭の委員会には、上記鈴木晶子氏も出席していた。鈴木氏の添付したハフィントンポスト記事には、高校生居場所カフェの意味として以下の3点があげられている。

1. サービスを届ける「アウトリーチ
2.地域の人的・公的リソースの集まる「プラットフォーム」
3.生育環境を補う「文化のシャワー」

僕は、このなかでも特に3つめの「文化のシャワー」、英語でかっこよく言うと「カルチュラル・シャワー」の意義が大きいと思っている。鈴木氏はこれを以下のように表現する。

【貧困家庭で育った子どもたちは文化的環境に乏しく、それが学力やその後の就労の力にも影響していきます。学校図書館でカフェを開くことで、文化に触れ「文化のシャワー」を浴びる機会にもなります。】

■50年先の可能性を秘めたリソース

冒頭「委員会」では、この高校生カフェをより明確に意義付けしていき、年明けにはフォーラム等のイベントを行ないつつ、より一般化したサービスとして全国に普及できるよう訴えていくつもりだ。
大阪の一時的頓挫を逆に前向きに受け止め、少し前のめりになってしまった大阪の動きを、神奈川の取り組みと「ブレンド」しつつ、他の都道府県に訴えていきたいと僕は思っている。

大阪も神奈川も900万人規模の特別な自治体であり(全国3位と2位)、ポイントは、人口100〜200万人規模の「普通の自治体」の公立高校において、高校生居場所カフェが設置されることだと思う。

それは、4割が貧困階層化している我が国において、家庭ではとても担えなくなっている「カルチュラル・シャワー」を10代に伝え、人口減少社会ではあるが十分可能性のあるニホン社会を担う最大の人材である「若者」を育成していくことにつながる。

特にこれからのキーワードである「ローカリティ」を担う(グローバリゼーションの対抗概念)、地域の若者を育成する突破口になっていく。高校生居場所カフェは単なる高校内の新規なサービスではなく、50年単位で見ると、かなりの可能性を秘めたリソースなのだ。★

ぴっかりカフェの様子〜NPO法人パノラマHPより
ぴっかりカフェの様子〜NPO法人パノラマHPより

田中俊英
一般社団法人officeドーナツトーク代表
20代は独立系出版社の共同設立者。その後、青少年支援者に転身し、子ども若者支援NPO法人代表(02〜12年)のあと、2013年より一般社団法人officeドーナツトーク代表。子ども若者問題(不登校ニート・ひきこもり・貧困問題等)の支援と、NPOや行政への中間支援を行なう。03年、大阪大学大学院「臨床哲学」を修了。主な著書に、『ひきこもりから家族を考える』(岩波ブックレット)ほか。京都精華大学非常勤講師「こころと思想」。13年、内閣府「困難を有する子ども・若者及び家族への支援に対する支援の在り方に関する調査研究企画分析会議」委員 、14年以降はユースアドバイザー(広島県福井県若狭町ほか)。川西市子どもの人権オンブズパーソン調査相談専門員。大阪市市民活動推進事業運営会議委員(2016年)。





 ついでに『エグザイルは貧困の怒りを代弁しない』も!

全部、田中俊英さんです!

■エグザイルは貧困の怒りを代弁しない

だからこそ、貧困層が愛する「文化」が、そうした多様なことばや価値をもつ必要があるのだが、コロンブスの卵的にどちらが先かはわからないものの、貧困層やその代表的生活様式のひとつである「ヤンキー」層が愛する文化は、徹底的に細く紋切り的なことばや価値しかもたない。

それはたとえば、エグザイルの作品に現れている。
ちなみに僕はエグザイルのアツシが結構好きで、アツシが無謀にもアメリカ進出というかアメリカ修行に行くこと(EXILEのATSUSHIが2018年まで海外へ 決断した思いを語る)にはガッカリ感はあるものの、数で勝負するヤンキー/アンダークラス文化のトップにいるアツシが人員キャパを超えるエグザイルから「押し出される」ことは仕方がない(ヤンキー文化と「数」はこれ参照→ヤンキーは「海賊王」がすき〜階層社会の『ワンピース』)。

ちなみに元祖ヤンキー代表といえば矢沢永吉だが、ミドルクラスばかりの当時の日本社会ではエーちゃんはマイナーであり、またエーちゃんは『成り上がり』というベストセラー本も書いた。エーちゃん自ら、自分のナマのことばで、「自分」を語る人だったのだ。

が、エグザイルは徹底的に紋切り型だ。典型的な愛のことば、若者のことばが詞にはあふれるが、それは無難な若者世界観を表象しており、ロック的エゴイズムもない(マーケティング的にロック的うっとおしさを排除している)。
エグザイルははじめから貧困層を狙っているわけでもなく、実際、中間ミドルクラス層にも好きな人はいるのだろうが、多くのアンダークラス若者にも結果としてて支持されている。

その結果、無難なエグザイルのことばは、アンダークラス若者の「気持ち」を無難な世界として閉じ込める。現実の貧困アンダークラス若者はもっとセンシティブだったり暴力的だったりするだろうが、そうした微細さは紋切りな愛の言葉が発現を抑止する。

結果として、エグザイルは貧困の怒りを代弁しない。

■彼女ら彼らと毎日関わる、支援者や教師

では誰が「代弁」するか。
それは湯浅氏や藤田氏ではない。彼らはあくまでも「良質な外部」なのだ。もちろん片山さつき氏でもない。

では、雨宮処凛氏だろうか。雨宮氏のこのエッセイを読むと一見代弁者のように勘違いしてしまうが(すべての貧困バッシングは、通訳すると「黙れ」ということ〜「犠牲の累進性」という言葉で対抗しよう〜の巻 - 雨宮処凛)、ここには「ロマンティック・ヒューマニズムイデオロギー」(ロマンティック・ラブ・イデオロギーのパロディです)といってもいい、過剰な人権主義ロマンのようなものがある。

この過剰な人権主義ロマンは、一人ひとりの貧困者の単独性(世界でただ1人のその人のあり方)を隠し、ヒューマニズムを主張したいための道具として使われるという皮肉な結果になる(いずれ別に詳述します)。

アンダークラスの人々を誰が代弁するか。

僕は今のところ、それは、「現場」で彼女ら彼らと毎日関わる、支援者や教師だと思っている。現場の支援者や教師は、日々の忙しさも大事ではあるが、ある意味、貧困若者を「どう代弁するか」という最重要な仕事を担うと僕は考える。有名人が解説する段階は終わっているのだ。★