Hatena::ブログ(Diary)

ka-guの日記

2017-02-03

椿の花と玉露と、【重要な突破】(自閉症スペクトラムの臨床より)

14:11

f:id:ka-gu:20170203100302j:image

  節分なので、山に行って柊を頂いてこようかと思いましたが、ひーひー王子との朝の散歩で、椿を一枝頂いて来ました。ある意味今日は大晦日で、明日から新年なので、まだ咲いていないつぼみを頂きました。

 気をもう一度引き締めて、残りの日々を過ごして行きたいと思いました。

f:id:ka-gu:20170203135735j:image

 夜勤前に、今日は先日、菊川で買った玉露を淹れてみました。

ちょうど良い温度で淹れる事ができ、高級品の玉露(100g何万円もしますが、こちらは100g1,600円です)とまではいきませんが、自分には十分美味しく頂けました。

五煎まで頂きました(笑)がそこまで行くと、普段頂いているお茶の味になっていました。

 もう少ししたら夜勤に行って来ます。


 今日は、大人しくサークルKで昼食用に肉まんとあんまんを買ったついでに、コーヒーも買って事務仕事の合間に少しだけ本を読ませて頂きました。

 赤字の箇所は、支援にも大きなヒントと考え方を与えてくれます。

選んでしまう本が、フロイトクラインビオンウィニコット系列の本なので仕方ないですが、段々クラインの世界に入ってしまっている自分に最近気づきました(笑)。タスティンまでいくと完全にクライン派ですね(笑)メルツァーも読みましたし、完全にクライン派(笑)


【重要な突破】

私にはパーソナリティの自閉的部分は、分析に入って来ることを避けている部分ではないかと、気づくようになった。それは、「消化される」ことができずに隠されたままでいる、乳児期の経験という治療しにくい部分なのである。自閉対象や自閉形態に閉じ込められているだけでなく、特異な行動やチックに閉じ込められていることもありあえる。私は、ジェムズ・ロバートソン(James Robertson)の映画にあった、入院させられたことで母親から引き離された2歳のとても控えめな少女、ローラのことを思い出す。彼女はこの「考えられないほどの」経験を、まるで流すことができない涙を拭うかのように、手で顔を払うというチックによって隠し込んでいた。より洗練されたレベルでは、こうした隠れた自閉的部分は、早口言葉、語呂合わせ、なぞなぞへの過度な没頭として、一部の子どもに見られる。これはダフネ・ナッシュ(Daphne Nash)(Tustin, 1986に引用)によって記述された古代ケルト人の特徴でもあった。母親からの身体的な分離は消滅する破局として経験されていたので、知られていない、気づかれていないと感じているのは、患者の歪曲された部分なのである。

 自閉症は「反—生命(anti‐life)」であるが、「反−生命」は死と同義ではない。死ぬことは生命過程において避け難い要素である。自閉的テクニックは分離、別れ、終結、そして最終的な死という「ブラックホール」に気づくことを避けるための反応である。そうすることで自閉的テクニック個人を人生から切り離すのである。人生をきちんと評価できるのは、死の事実に気づくからである。〜

自閉症は、アリアドネのこの傷ついた部分を固定させる、ギプスのようなものであった。彼女は自閉的なやり方を断念するにつれて、本来自分に備わっている治療する力と、そしてまた自分を取り巻く、揺るがない優しい配慮にも気づくようになった。要するに、センチメンタルな「胸のときめき」の類ではない、思慮深い考えから生じる、彼女の必要に応じて適応的に調節してくれる「愛情」に気づくようになり、そのような思慮深い考えは彼女にも可能になった。彼女は、死ということが起こりうる、誤りやすく限りある人間であることの、苦悶やエクスタシーを経験でき始めたのあった。こういったものから逃れる代わりに、日常生活における葛藤、困難、痛みに向き合い始めた。悲しみと同様に喜びがあることを知り、彼女自身と私の中に実直さ(uprightness)を経験するにつれ、両者に彼女は耐えられることを知った。汚物や病気に取り憑かれるという彼女の恐怖に対する防衛手段であった自閉症も、軽くなった。彼女は、心地悪い感情の解放が、身体の絶対的な純潔を汚し、心の絶対的な透明さを曇らせるということを、もはや恐れてはいなかった。受け入れられた「自分」と拒絶された「自分−でない」の両方を抱く、適応能力のある人間の互恵性という、共有された統合的リズムに気づくようになるにつれて、これらの極端な分裂は修正された。〜

【結論】

 〜乳房(あるいは乳房への生得的期待という観点で経験された哺乳瓶)における経験は、来るべき避け難い人生状況を前もって味わわせる。比較的健常な発達では、母親の没頭という夢想によって保護された状況でこれらの経験はかなうのである(Bion,1962a;Winnicott,1958)。これが妨害されると、人間進化の一翼を担いつつも今やその痕跡をとそめているのすぎない原始的で野蛮な恐怖に乳児は支配されたままなのである。通常の発達では、コミュニケーションの最早期の形である、母親と赤ん坊との間の他害を変形させる共感的交流によってこの野蛮さは人間性を与えられて文明化されるのである。

 早期の、基本的で、根底にある過程が、後の経験パターンを形作る。理由がどうであれ、もし回避することが優勢な反応となれば、回避することは後のすべての困難が処理されるやり方になる。セラピストにとっても患者にとってもこれらの基本構造に変化をもたらすのは、長期の骨の折れる仕事である。しかしその努力は無駄ではないのは、こうした患者は、人の営みのなかにある意義深く言葉にならず触れることのできないものに意味を読み取る新しい方法を私たちに与えてくれるからなのである。使い古され摩耗してしまった専門用語や常套句から私たちをかいほうさせてもくれる。彼らは、物事を表現するためのより感情溢れる方法を発展させるように、私たちを刺激する。結果として、分析家と患者の双方の精神生活や霊的生活は強化される。

ページビュー
734446