うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

彦坂先生の勉強会と、まったけごはん!と、【分析家が何が起こっているかわからずにこの種の沈黙に押されてしゃべれば、セッションは進むが、表面的あるいは繰り返しになるか一種の超自我的な趣をおびる。】


 昨日は、彦坂先生が夜勤をしてくれたので、自然と勉強会になっていたと、親分から写真が送られれてきていました。
うたたねは、いろんなスキルを持った職員がいるので、みんなで知恵を出しながらいろんなことをしていきたいと思っています。


 昨夜は、まったけごはんでした! おっちゃんは香りだけ嗅いで帰って来ました.......。
ユウスケ君が一番いい顔していて、ピースサインをだしていたので、思わず写してしまいました!


 今日は夕方、入浴介助を渥美で行って来てから、夜勤ですが、名古屋に行く用事もあったので、早朝に名古屋に行き、今、帰宅しました。
もうすぐ渥美に向かいます。

 色々ある毎日ですが、来年度に向けて、本気を出してやらなければいけない事柄が出て来たので、頑張ります!





 電車の中で、沢山本を読みました。第一部が後、一章で終わります。
去年はサリヴァンで、今年はメラニー・クラインを読ませて頂こうと、寄り道もしながらも、結局はクライン派の本を沢山選んで読みました。
 本当に参考になりますし、現場での心の持って行き方も教えてくれています。転移⇔逆転移の使い方は、本当に参考になります。


〜ここに私が論じている一種の自我の分割が見られる。患者は大人のように話すが、分析家と対等かほぼ対等な門弟としてしかかかわらない、ときには少し格が上の協力者としてかかわることの方が多く、いろんな示唆やちょっとした修正を加えたり自分の生活史にふれながら、分析家の仕事を助けようとする。注意深く観察するなら、自分がこの協力者に患者のことを話しているが、決してその患者に向かって話していないと分析家は感じ始める。患者の“患者”の部分が排除するされたままのようであるし、直ちにでも助けを必要としもっと幼児的で依存的でか弱いと思われるのはこの部分である。分析家はこの部分のことを話すことはできるが、問題なのはそれに手が届くことである。反復ばかりで終わりがないと思われる分析の中には、患者の偽りの大人あるいは偽りの協力的な部分との共謀に自分が誘い込まれていない家を調べなければならないものもあると私は思う。 このタイプの分割はいろいろなタイプの患者で見られるし、この分割が維持される理由もさまざまだろう。たとえば、幼児的な感情あるいは依存の感情についての無意識的不安、両親像への、激しいがいつもは払いのけられている競争心や羨望、分離をめぐる困難などと関連していよう。〜



〜この種の問題を考える上で私は次のようなことを強調している。すなわち、患者の偽りの協調的な部分がいかにしばしば本当に困っている部分が分析家と触れ合うようになることを妨げているか、そしてもし私たちがこれに欺かれるなら患者には何の変化ももたらすことができない――なぜならば、私たちは理解を“得ること”とは反対の、理解される体験を必要としている部分と触れ合わないから――ということである。転移状況はこれらの異なった相反する人格の部分部分である作動しているのを知る機会を私たちに与えてくれる。 私はこれまで手の届かない患者について、自我における分割を見つけることや異なる部分部分の活動を明らかにすることの重要性を強調してきた。これらの患者の多くで人格のある部分が、残りの部分に加わらないようであり、分析家と患者の残りの部分との間で起こっていることを詳細に観察し、分析家の声のトーンに耳を傾け、本当の変化か見せかけに敏感である。たとえば、患者は分析家の不安、達成の喜び、進まないときの欲求不満などのあらゆるサインに敏感である。 それで、耳を傾けじっと見ている患者の部分をえり分け、これらと触れ合うことがとても大切になる。なぜならば、これらは観察した感受性の高さ、批判といった潜在的に重要な自我機能を含んでいるが、分析家をかわし自己の他の部分を寄せ付けないようにするために使われている限り、健全に患者の役には立てないからである。患者は分析家の何かを観察したと感じ、それからいくらか搾取しているかもしれない。このようにして患者は分析家と声に不安を聞きつけたと思い、興奮し勝ち誇り、解釈を理解するのを避けるために結果的に生じてくる分析家についての批判を利用するかもしれない。このような状況では分析家は、待ち、ゆっくり進み、患者の批判を受けとめておき、さらに、問題は患者に不安の投影にあるというような解釈を一切避けることを肝要だと私は思う。分析家のこころの中で起こっていると患者が思い込んでいるものを彼が使っていることをまず示すことが大切である。ときとして私たちは、患者の耳を傾け観察する部分が、解釈を倒錯的興奮のために使うような倒錯的な部分としてはっきりと現れてくるのを見ることができる。このような患者は挑発的な解釈を“誤解”し、文脈から離れて言葉の意味をとり、分析家を刺激し混乱させようとする。

〜ここでは再び私たちがいっしょに仕事をするのに必要な自我の部分が分割・排除され、さらに対象群に投影されているために役に立たなくなっている。このタイプの投影同一化はもちろん、1943年にメラニー・クラインによって「分裂的機制についての覚書Notes on schizoid mechanisms」の中で記述された。症例によっては、本当に前進し、洞察が得られ、たとえば万能感が減りあたたかみと触れ合いがさらに得られているときに、著しく強くて手に負えそうにもない受動性のためにそれ以上進むことがまったくできないことが起こる。患者は無気力となり、私たちには進んでいると思える作業に対して、触れ合いや興味や関わりあいをまったく失うように見える。患者は積極的に協力しないようには見えないが、ただどうしようもなく受動的である。解釈した後、すべてに生気がなく平板であり、それと同時に分析家が何か言わなければ何も起こらないという印象が得られることも多い。これは稀ではない。患者は黙ったままか、とても表面的なことを言ってくる。それからしだいに緊張が高まっていき、まるで分析家が何かを言ったりすべきで、さもないと何事も決して達成されないかのように感じられる。そして分析家は、患者に強いてしゃべらせ反応させなければならないような気になる。 このような状況はきわめて示唆に富むと私は思う。もし分析家が何が起こっているかわからずにこの種の沈黙に押されてしゃべれば、セッションは進むが、表面的あるいは繰り返しになるか一種の超自我的な趣をおびる。そこで自分の体験をよく調べてみると、患者は自己の積極的で興味や思いやりをもつ分析家の中に投影しているようであり、それで分析家は圧迫を感じながら、積極的であれとのニードや何かを成し遂げたい願望を行動化するように期待されていることにしばしば気づくことができる。技法上の第一段階は、分析家が起こっている投影同一化に気づき、患者の失われている部分を体験できるまでそれを受けとめておくのを厭わないことだと私は思う。そうすれば、以前論じていたものが何であろうとその内容についてよりもその行動化されている過程について、圧迫を感じることなく、解釈することが可能となろう。〜