うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

増築工事ほぼ完成と、【分析者は患者を積極的に荷おうとせずに、水が泳ぐ人を支え、大地が歩む人を支える具合に荷い支えるべきであるということ。】


 増築工事が、ほぼ終わりました。
トイレは、照明が自動的につき、消えます。
後は、居室の入り口2つのドアだけですが、カギをつけてもらっているので、少し遅れています。


 本は、バリントの『一次愛と精神分析技法』に入りました。フェレンツェに入ろうかと思いましたが、バリントをもう少し読みたかったので、こちらに入りました。
『スリルと退行』も読みたいな、と思って、Amazonで調べたら......。108,000円!先日は、約30,000円だったのに......。新装復刊が続いているので、この本も期待しています!こんなことしていたら、余計に本から離れて行きますよね?



 アップは、暫く続きます。

 下記はまるで、道教の教えの様な箇所ですが、これが一次愛では?とも思いました。

『分析者は患者を積極的に荷おうとせずに、水が泳ぐ人を支え、大地が歩む人を支える具合に荷い支えるべきであるということ。』


 下記も、そう感じましたが、どちらも母親の象徴の様な感じもします。
支援の難しい方でも、支援者が現存することで、支援者が支援の難しい方にでも耐えられるという、感じが、支援の難しい方にも伝わると自分も思って、支援させて頂いています。先にも述べさせていただきましたが、支援の難しい方々も、誰かから一次愛をもらっているわけで(もらっていなければ、支援者が与えるようにすればよいと思います。ただ、本当の母親的な事は不可能)、退行された時に、バリントがいう、新規蒔き直し的な状況に持って行けば、新しいものがお互いに生まれる可能性があります。と、バリントが教えてくれている感じがしています。
 
『しかし、分析者は前進に必要な抵抗を創出するに止めるべきで、それ以上は絶対にいけないことさもなければ、媒体の抵抗が強すぎて前進不可能になりかねないはそれに加えて、また、何よりもまず治療者として現存しなければならぬ。いつも現存しなければならぬ。そして水や大地かま破壊不可能であるように破壊不能でなければならぬ。』


 今日は、夜勤なので早めのアップです。



〜この章の最後の問題はこの過程を育てるために分析者には何ができるか、であろう!答えの大半は次章で模索しよう。ここでは、三つの消極面つまり分析者が避けようと努める非常に重要な三つのことを強調するに止めよう。ありとあらゆることをできる限りまず転移と解釈すべし、とする、われわれの現技法では、どうしてもわれわれは患者の目の前には壮大で知識豊かな対象に変じてしまう。これは患者を一種のオクノフィリア的世界に退行させる。自然にそうなることも、退行を強制してその結果そうなることもある。オクノフィリア的世界においては、依存する機会はいくらでもあるが、患者が独力でものを発見する機会はないに等しい。患者が独力で何かを発見することが、少なくとも、依存と並ぶ重要性をもつ事実はやがて一般に認められるようになろう。裏返せば、分析者は、他の症例はもちろんこの種の症例でも選考段階で有効だったからといって、ある一種の対象関係に硬直的に固執すべきでなく、いつでも患者とともにオクノフィリア的とフィロバティズム的の両原始世界を往復する心構えが必要であり。時には両世界の一次関係まで行く心構えがなければならない。先に記した鑑別診断能力を分析者がもつ場合にだけできることである。 第二の重要な面は、分析者が自分が他からくっきりと分離独立した対象となること、また、そういう対象として行動することをせぬように、である。全力を尽くしてこれを回避すべき秋(とき)がある。換言すれば、分析者があたかも一次物質のどれか一つに化したような関係を患者が治療者と結び、そういう関係の中で治療者と共にあるように持ってゆくべきである。分析者は患者を積極的に荷おうとせずに、水が泳ぐ人を支え、大地が歩む人を支える具合に荷い支えるべきであるということ、すなわち、患者のために存在し、またそうされることにあまり抵抗を感じないで患者に使用されることである。たしかに、多少の抵抗があってもよいばかりか、不可欠ですらある。しかし、分析者は前進に必要な抵抗を創出するに止めるべきで、それ以上は絶対にいけないことさもなければ、媒体の抵抗が強すぎて前進不可能になりかねないはそれに加えて、また、何よりもまず治療者として現存しなければならぬ。いつも現存しなければならぬ。そして水や大地かま破壊不可能であるように破壊不能でなければならぬ。この面は一部をすでに第二二章で論じたが、この問題をしばらく続けよう。〜