うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、【分析家のなかの無意識の動きの最も小さな徴をも発見しますが、分析家はこの分析の試みをゆるぎない忍耐で持ちこたえねばなりません。】


 今日の散歩は、雨でしたので、蔵王山の展望台で行いました!
ぐるぐる回ったり、階段を上ったり、降りたり、していたら、あっという間に1時間半が過ぎました!
合計11,000歩を超しました。これはいつも午前と午後の二回で行う歩数に匹敵していますので、散歩は午前中で終えました。
後は整容やマッサージであっという間にこんな時間!


 今日は、明日が早いので、直ぐに移動できる場所に行きますので、早めのアップです。


 本は、今日は夜に読ませて頂こうと思っています。
アップの箇所は、患者からの転移や反応(抵抗)に、どう耐えるか?が書かれているように思いました。
 全てが大切な箇所に見えましたので、そのまま読んで頂きたいです。


 この徹底操作、あるいはそのためにする労苦は、抑圧と抵抗の力関係、つまり純粋に量的な要因に関係づけなければなりません。症状の病因としての動機の成立条件の発見は、いわば質的分析ですねこれがほとんど完成されても、期待される分析的変化を引き起こさないことがあります。しかし、転移メカニズムと抵抗メカニズムがおそらく数えない切れないほど繰り返し分析的に経験された後、時として思いがけず重大な進歩がもたらされることがあり、ついに成功した徹底操作の要因の働きに他ならないものとのそれを説明することができます。あるいは逆に、長い徹底操作の後、分析の終わりを告げるような、新たな記憶の素材への接近が突然可能になることもよく起こります。 私のみるところそれぞれ、症例ごとに克服しなければならない、真に困難ではあるが興味深い課題は、分析家の信頼性に値することと理解しなければなりません。とりわけ。態度や発言でまだとても無作法に振る舞っている患者にも示すゆるぎない好意のことです。実際、この点に関する分析家の忍耐の容量を徹底的にかつ、さまざまな方法で試す患者の無意識的試み、それも一度だけでなく数え切れないほど繰り返される試みについて論じることもできるでしょう。患者はその際、それが現れるのが発言であれ、身振りであれ、沈黙であれ、医者の反応の仕方を極めて鋭い感覚で観察します。彼らはしばしば極めて巧みに分析家を分析します。分析家のなかの無意識の動きの最も小さな徴をも発見しますが、分析家はこの分析の試みをゆるぎない忍耐で持ちこたえねばなりません。これはしばしばほとんど超人的な営みとなりますが、どの症例でも苦労に値するものですうたたなぜならで何らかの虚偽や歪曲を分析家が行うところを取り押さえることができないと、患者はしだいに、最も性質の悪い子どもに対しても客観性を保つことが実際に可能で、(その徴を引き出そうとどれだけがんばっても)医者には高慢な傾向が認められないという認識に達しますし、また、時に犯す自分側の誤りや軽率さを医者が喜んで告白することを認めざるを得ず、そうなれば、苦労への報いとして比較的早い段階で患者の振る舞いの変化を得られることもまれではありません。私にはどう見ても、こうした試みによって患者は彼らの子ども時代の状況を切り替えそうとしているように思えます。思慮のない教育者や血縁者が子どもをいわゆる悪い自らの激しい情動で反応し、子どもを反抗的な態度へ押しやった子ども時代です。