仕事のこと

以前、「子どものための哲学対話」を引き合いに、自分にとっての「遊び」が仕事になることが一番幸せだということについて触れた。
しかし、現在の私は「仕事」ということについて別の考えを持っている。やはり「仕事」は「遊び」ではない。「遊び」の続きとして発生したものであっても、社会的な責任を伴い、それによって経済的自立が可能となっているような、個人独立の寄って立つような根拠としての「仕事」は「遊び」という側面だけでは成立しない。
私は受験勉強という世界に自分の思春期の8年、身を置いた。勉強というのは「強いて勉める」というあり方が必要になる所作だ。おのずから興味が生じてそれを探求するという学問とは異なるのだ。受験勉強とは、体制側が作り上げたゲーム上のルールを理解し、それを身につけ、ルールを応用することで、自分がいかに、ルールの飲み込みが早く、それの応用ができ、設定されたルールの中で仕事をすることができるかということを試される場所なのだ。
それがどんなに自分が興味がなく、無味乾燥でむなしさを感じさせるような内容であっても、設定されたルールを理解し、そのゲームで高得点を出すことが、社会に出たあとに、理不尽な会社や上司の要求にも従順に従い、社会の歯車の一部としてよりよく機能しうる人材であるということを、示す一つの指標となるのだ。
受験勉強で選別されているのはそういう人材であると考える。社会の側は、それを自分の最高価値として受験社会にはまっている人材であろうと、ネコをかぶって、ゲームルールに一時的に従っているものであろうとそれは区別しない。高得点を得られるその能力があれば、それは一時的にしろ、社会に適応しうる能力があるという指標になるのだ。
そのような受験という一義的に価値軸を決定された世界の中で、結果を出すという努力を8年間やってきた。そういう「勉強」の延長上に、今の私の「仕事」はある。
仕事で結果を残すことが自分の人生の最高で最後の価値だとは思わない。けれども、自分が社会の中で個人として自立していられるためには、仕事をしていくしかないと思う。経済的意味でも社会的な意味でも、自分は仕事を通じて評価され、名前を認識され、報酬を得て、それを使って自分の生命、健康、趣味を維持していくのである。
「遊び」というのは学問と同じく、自分の興味が赴き、「自分のしたいことをして楽しんでいる」と感じられる所作のことだ。それが自分の仕事となり、それによって社会から報酬をもらえれば、それは社会の要求と自分の自己実現の方向とがうまく合致したということで幸福なあり方といえるだろう。しかし、たとえ「遊び」が「仕事」になったとしても「仕事」になってしまった以上は、まったく好き勝手にやっていいというものではない。社会はある程度こちらの意に沿わないことでも要求してくるし、それに従う、という意味で、我々は社会から経済的な報酬を得るのである。社会の構成員が全員己の欲望のままに動くと無法地帯となるため、全員が少しずつ自分の欲望を抑圧するということで、安全と平穏が得られるという、法の発生の仕組みと同じことだ。「仕事」にはそういう社会的な要素が確かにあるはずだ。

長くなってきたが、このようなことを書こうと思ったそもそもの原因は、自分の配偶者も仕事をしているけれども、同じ働いているにしても、そういう意味で、妻がやっているのは「遊び」であり、私は「仕事」をしているのだ、ということが言いたかったが為なのだ。それは、性別の違いのことを言っているのではない。配偶とか扶養とかそういうことでもなく、単に私個人は経済的に自立している、とそういうことだ。妻が同じように自立しているのであれば、それはそうであることを認めるが、それと関係なく、私は自立した個人であるという意味で、誰の指図も受けるつもりはない。養育の義務とか、私が自分の余暇の時間をどのように使うかというような事柄について、何らの強制も私は受けたくない。
最低限私がしなければならないことは、離婚という事態において要求される、養育費と慰謝料を払うということでしかないのだ。たとえ事態がそのようなところに向かうとしても、私の自立という点を無視して何かを強制されるくらいなら、そのような、私自身が結婚ということで引き起こしてしまった回りに対する影響を、金銭で清算するというあり方を選ぶだけのことだ。
実質的には仕事の内容に貴賎はなく、妻がやっている仕事も社会的責任が伴う、重要な職務だ。けれども、彼女は、私と離婚しない限りは、仕事を自分の社会的経済的自立の手段として行う必要は無い。自分の興味が赴くままに、収入とその対価となる労働力との均衡等を気にせずに、仕事を行ってよいという立場に彼女はいる。それに対して、私はそうではない。今の仕事こそが自分の天職であるとは思わないし、これに命をささげようとも思わないが、かといって、この仕事を失うなら、次の自分の食っていくための手段をなんとしても手に入れねばならない。それがどんなに意に沿わない仕事であっても、食っていく手段がそれしかないのであればその仕事に従事しなければならない。生活力を得て、経済的社会的に自立しえているための手段だと考えるからこそ、自分に理不尽だと思われるような上司や患者からの要求や命令にも、ある程度の限度はあるものの、服従しているわけである。そしてその服従の対価として、給料を貰っているという部分が確かにある。
私にとっての「仕事」とはそういうものである。嫌なことでも、食って行くために、自立の維持のために、これを耐え忍んでいく。単に「自分のしたいことをして楽しんでいる」状態と等価に扱われては困る。これを維持している以上は、私の社会的独立、自立について、誰にも文句を言われる筋合いはないし、また、言わせはしない。