Hatena::ブログ(Diary)

北沢かえるの働けば自由になる日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-08-19 どこからくるかわからない恐怖

残念だったな、花火大会

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世田谷と川崎の花火大会、突然の雷雨で中止になった。残念。

同じ雷雨だと思うんだが、うちの辺りは雹が降ったから、おまけに雷の音の凄いこと。

でも、中止して良かったと思う。

最初の雷雨が過ぎて、晴れ間も見えるなと思ったら、続いて、第2弾の雷雨が来ていたから。

なにより、止めてよかったと思ったのは、落雷のせいで、勝手に花火が撃ちあがる現象があったようだ。

これってなにより怖いよね。

鶴見川花火大会はやっているみたいだよ」と娘がTLを見て教えてくれたんだが、結局、15分ぐらいで中止になったようだ。それまでも、ガンガン落雷があって、花火と落雷のコラボ映像が撮られているみたいなので、検索してみるといいんじゃないかなぁ。

美しいが、怖いよね。

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2017-08-16 身を焦がすような恋だわ

そこに世界はあったのか

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この間まで、『仮面ライダーアマズンズ』を息子と見ていた。シーズン1を一気見してから、シーズン2を追っかけていたんだが、ダークな平成ライダーの流れ、『龍騎』や『555』を踏襲した内容で素晴らしかった。シーズン1で未消化だった部分も、シーズン2になると、そういうことだったのかと気づかされる部分もあり。ライダーシリーズの醍醐味は、シリーズを通して、キャラクターも、俳優も成長していくってことだと改めて思った。

アマゾンズ」でも、平成ライダーで何度か繰り返されてきた、「人間とはなにか? 人間の敵とはなにか? その敵と人間を区別するものはなにか?」という問いが、「人を食わずにはいられないアマゾン」という敵を通して、今までになく苛烈に突き付けられた。玩具という枷がない分、演出も、ストーリーも、容赦なく暴力を加速させていき、食うか食われるかって、なんてものを見ているんだろうと思ったんだが。シーズン2はそれに恋愛が加わり、さらに血まみれの道行きとなるラストまで、心臓をつかまれて引きずり回された。

なんだろう。本来はこういう生きるか死ぬか、生存をかけた暴力が、仮面ライダーの底流にあるものなんだろうな。ライダーキックにライダーパンチ。自分の肉体を武器にして、敵と組み合う。生々しくなりがちな、戦いとはなにか、正義とはなにかを、うまくオブラートにくるんで、何十年も子どもらに飲ませ続けている。すばらしい。ビバ、仮面ライダー! ビバ!


シーズン2まで見終わってから、息子と『エクゼイド』にはなくて、『アマゾンズ』にはあったものはなんだろう。みたいなことを話したりしたんだが、(息子も私もエクゼイドは物足りないというか、まだまだいけると思っているので) 結論としては、足りないのは、フクさんや水島部長とか、異年齢の、まったく違った出自であり、目的で、物語に絡んでくる人たちの存在なんだろうなと。

『フォーゼ』辺りから気になるんだが、ここのところ、平成ライダーのストーリーが平坦に感じるのは、いっしょに戦う仲間、ライバル、当面の敵、圧倒的なラスボスとなる存在みたいなものとは、別の視点をもった人たちが足りないからかなと思った。世界を存在させるには、こういう関係ないような人たちが必要なんだと。

プラス、恋愛だよなぁ。すべてを捨ててもいい。世界を滅ぼしてもいいと願うぐらいの。なので、テレビの連ドラでは見せられない、映画では描き切れない、凄まじいラブストーリーになったシーズン2を、ぜひご覧いただきたいんだが。


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2017-08-15 戦争を知ろう、歴史を学ぼう

声に応えて、語れども

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ここ3日、いや、この1週間ぐらいのNHKで放送された戦争関連の特番は、どの番組も力が入っていて、引き込まれた。見ずにいられない迫力があったし、描かれたものは、私たちに連なる歴史であり、知るべきものなんだが。

まぁ、そんな都合の悪い歴史は消したい人も多いようだ。ふぅ。


再放送があるから、Nスぺの「731部隊」と「樺太」、「インパール作戦」の3本はぜひ見てもらいたい。

毎度のように書いているが、「人を薪のように燃やさないと回らない社会に先はない」。そのことを何度も、何度も思い知らされる出来事が続くこの社会は、まだ、戦時体制のまま、人を人とも思わないことが当然になり過ぎているんだろうなぁと。


実は、夏休みの宿題で、娘の質問に延々と答える羽目になっていたんだが、1995年辺りの政治と社会情勢を聞かれて、説明してみたが、なんだかスッキリとしない。「これはそういうことでしょ?」と言われても、「いやいや、違うんだよ」と矢継ぎ早に訂正することが多く、互いにイライラしているのを見ていた母が、腑に落ちたように言った。

「そうか、あの時代を生きていないと、こんな簡単なことでも理解できないし、すんなり伝わらないんだね」

そうなんだよなぁと思ったのは、1990年代を説明する場合、自明のこととして理解している自民党の長期政権と、その背景にある55年体制。それが崩れたのが、ソ連の経済的な失敗からはじまる、冷戦の崩壊。というその時代に生きていたら自然と入ってくる情報が身に付いていない娘に、基本知識としての語句を教えると、意味は理解しても、大きな流れとして感じられないようだ。これが、普通の人の感覚だとしたら、過去の体験を伝えるのは、本当に難しいってことだ。

だから、戦争関連の特番が相次ぐのは、あの時代を生きていた人がいなくなってしまうからなんだな。そして、彼らも、あの時代を知らない人に、できる限り伝えたいと思っているからなんだな。たぶん。

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2017-08-14 すべてがすべてじゃなく

「すべては子どものために」

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だいぶ前なんだが、こんな記事を読んで、うへぇと思った。

https://news.yahoo.co.jp/byline/komazakihiroki/20170731-00073945/

いやいやいや、そもそも、子どもの学ぶ権利という話なのに、なぜ、母親の就労の話になるのか。

で、つぶやいた。

それにこんなレスがついたので。

返事も送ったんだが、スルーされているようなので、書いておく。

なぜ、この話をするとき、「母親の就労」が前提となるのかな。

働ける人はサービスを受ける権利がある。いやいや、困ってる人や疲れていっぱいいっぱいの人はサービスを受ける権利があるだろ。実際、15年前ぐらい、娘が通っていた保育園は、親の就労以外の理由で通っている子もいた、そういう場だったし。就労する意欲があるなしで線引くのがわからないんだが。

保育園は、家庭の代わりとして、子どもを育てる場だが、小学校は、教育を目的をしているので、そもそも、そこで、生きるために配慮がいる子たちには、ハードルが高くなる。しかし、教育を受けるのは、その子の権利なのだから、なるべく学べるようにしようと。配慮がある学校や学級を用意したり、付き添いを用意してもらえるようになった。放課後デイもその延長にある。足りないものを補完しようってことなんだと理解している。

しかしながら、システムが整おうが、無理なことも多い。例えば、発達障害の子たちの方が、医療ケアの子たちよりは、生活面での支援は少なくて済むと思うが、それでも、フルタイマーで働いている母親は少ない。なぜ、少ないかと言えば、いろいろと問題を抱えている子は、育てる上で必要なことに時間がとられるからだ。

病院の診察を受けられるのは昼間だけだし、療育が受けられるのも昼間だけ。困りごとがあっても、専門性の高い精神科医や療法士は人気が高いから、なかなか予約が入れられないし、予約日や時間を選べない。学校との面談も昼間だけ。なにか問題が起きれば、すぐ、電話がかかってくる。体調も安定しないし、事故に巻き込まれることもあるし、学校から逃げ出すこともある。

結局、イレギュラーなことであろうが、なかろうが、親の指示なしにできないことは多いし。子どもらだけで判断できることは少ないし。その判断を迫られないようにコーディネートして環境を作るみたいなことは、全部、親がやるしかない。

全部親がやる。当たり前のように要求されるこれが、本当にきつい。

携帯電話があって良かったと思うのは、保育園や学校からの連絡をすぐ受けられることだし、なにかあればすぐ駆けつけられるってことだ。仕事をしていようが、頭の中のどこかに、即応部隊がいて、スクランブルがかかったら、即動くしかない。と気づいた辺りから、自分の生活は、子ども最優先になった。

仕事と、子ども、どっちを取るのか。

そんな愚問をと思うが、子どもを抱えて仕事をしようとすれば、どこかで、迫られる。子どもを第一に考えたいが、それでは仕事にならないだろう。でも、仕事するんだよね。そこにある葛藤をうまく解消できるのか、できたのか。わからないんだが、子どもの抱える問題と、自分が抱える問題で、いつも追いまくられるような状態になってまで、なぜ、働くのか。それでも働く必要ってなんだろう。みたいなことを考えて、それぞれがそれぞれの事情に応じて選択しているんだがなぁと。


また、子どもに先生たちはこんな言葉をよくかけてくる。

「もう少しがんばれば、ここまでできるようになります。もっとがんばりましょう」

療育やトレーニング、普通の勉強でも、よくあることで。別に傷つくような言葉じゃないんだが、薄い紙を重ねていくように成長していく子にとっては、そのがんばりのために、なにを犠牲にしていくのか。がんばっていくことのストレスと、それを耐えることで得られることとの、収支を考えざるを得ない。育ちが遅い子に対して、よく言われる言葉。

「この子らしく、この子のペースで育っていけばいい」

そりゃ頭ではわかっているし、そうなんだと信じてもいるんだが、正直、“無理してでも成長させられていくんだな”と感じる瞬間もある。この子はこの子で愛しているんだが、やっぱり、成長して、自立していくことを、親として望んでいるし、それこそが目的になっていくんだなと。

「もう少しがんばれば、ここまでできるようになります。もっとがんばりましょう」

別に傷つくような言葉じゃないんだが、ギリギリの状況で仕事している身にとっては、そのがんばりのために、なにを犠牲にしていくのか。がんばっていくことのストレスと、それを耐えることで得られることとの、収支を考えざるを得ない。

例えば、黒板を見ながら、先生の話を聞いて、ノートをとることが、一輪車に乗りながら、笛吹きつつ、お手玉するぐらいの難易度に感じる子は少なくない。その子らに先生がかける言葉、「もっとがんばりましょう」はどう響くのかねぇ。

自分の仕事へのがんばりと、子どもの成長するためのがんばりと、そのがんばりのために引き換えるなにかと。

それぞれのしんどさを思うと、「お母さんも働きたいんです! 働くのは権利です!」みたいなことで、まとめないで欲しい。それぞれ、ギリギリの判断で、ギリギリがんばってるのに、まるで、システムが準備されてないから、働かないんだみたいな話でくくらないで欲しいんだが。

この流れに乗ってしまうと、子どもたちと同じように、「あなた、がんばってないんだから、できないんだよ」扱いされるのが、目に見えているんだってばよ


そもそも、医療ケアを必要としている子を家で介護している親は充分に仕事していると思うんだが、それを子どもの世話だからとスルーしていいのかな? さらに仕事をしなくても、いろんなサービスを使っていいだろうに。仕事を理由にしないと、保育や放課後デイを使えないのは、変じゃない?

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2017-07-22 That’s your call

良きタイミングという難しさ

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今日は講演会へ行ってきたんだが、テーマが「発達障害の子たちへの性教育」ということで大入り満員だった。特に知的に問題がないタイプに対して、どう性教育をするかという話だったので、これは本当に困っているし、悩ましい話だなと。

例えば、ネットで検索して、いろいろ知るのはいいが、出てくる情報の真偽、というか、性にまつわる情報の多くが、コマーシャリズムで過剰に誇張したものが多いことがわからない。で、AVみたいなことが常識と思いこむ。なんてのは、よくあることだ。抽象的で、自分が経験したことがない、微妙な話がわからない人たちだから。

そういう人たちにに、どうやって正しい情報を伝えたらいいのか。ということを、やらざるをえなかったよこはま発達クリニックの吉田友子先生が、経験談を踏まえて話をしてくれたんだが、本当にスッキリした話にならず、悩ましかった。

結論として、それぞれの状況も性格も違うので、誰が、どういう風に教えたらいいかは、手探りでやるしかない。

親がやるべきか、主治医がやるべきか、まったく第三者的に関わるカウンセラーがやるべきか、それも人それぞれ。

だから、準備できるのは、そういう際どい、話しにくいという話でも、子どもが相談できやすい雰囲気を常に持っていること。当たり前みたいな話なんだが、「困ったり、悩んでも判断がつかないことは、必ず相談してね」という状況を作り続けるしかないと、私は理解した。

講演を聞いていると、このめんどくさい子らには、「恋愛をして、結婚して、家庭を持ったら、子どもが生まれて、夫婦で育てる」みたいな人生のパターンを当然のように話してしまうのが、いちばん危険と思った。親や周囲が「結婚して子供を産んで一人前」みたいなことを言っていると、本当にそれをなぞって生きようとしてしまうそうだ。その結果、誰でもいいから結婚を申し込んだ人と25歳までに結婚して、子どもは30歳までに産むみたいな人生を目指して、それ通りならないと病んでしまう。というのはあるだろう。呪いをかけてはいけないんだがなぁ。

もうひとつ、吉田先生の言葉で印象に残ったのは、

「彼らが必要とするタイミングで、話をしないと、耳に残らない」

ということだった。普通の中学高校に通っていると、漠然と「愛する人と結ばれて、子どもが産まれる」みたいな、保健体育の授業で行われている性教育を受けているはずだが、それがめんどくさい子たちにとっては、自分が関わる妊娠や出産の知識として記憶されない。生物の授業で、受精や交尾、また、解剖図等々を知識として頭に入れていても、「赤ちゃんはどこから産まれてくるの?」はわからない。その辺、生物や医学の知識が自分の身体への理解へ結びつかないというのも、この子たちには多い傾向だという。

だから、タイミングが大事になる。例えば、思春期を迎えて、性欲を感じたが、それをどうしたらいいのかわからない。誰かに告白されて付き合うようになったが、いろいろと言われることがわからない。そういう「わからない」が頭の中にたまる、具体的な状況にあると、理解がスムーズになるらしい。

普段から彼らを見守っていて、表情や態度、生活の乱れなどから察して、「困ったり、悩んでいることがありますか?」を問いを投げかける。その良きタイミングをつかむのは、観察が大事なんだろうがなぁ。

だから、やっぱり、親の役割が重いか、ふぅ。

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