学ぶのは簡単だけど、教えるのって難しいなぁ

こんな質問があった。
人力検索はてな - あなたの身近にいるパソコンにとても詳しい人について、その人のイヤなところ、やめて欲しいこと、改善して欲しいこと、ダメな点などをお聞かせください。

お、逆もあった。
人力検索はてな - あなたの身近にいるパソコンにあまり詳しくない人について、その人のイヤなところ、やめて欲しいこと、改善して欲しいこと、ダメな点などをお聞かせください。

思い当たる節がだいぶある。なるほど、確かに教えることを自分の顕示欲を満たすために、使う人は多いと思う。自分もうっかりすれば、はまりやすい落とし穴だと思う。そして、聞く側の陥りやすい罠は、自分が知らないことを棚に上げてしまうことだ。聞いているのに、「自分オタクじゃないから、パソコン知らないんだけど」などと馬鹿にしているというような態度もよく目にする。確かにそういう人に対しては、そっけない態度をとる。それはお互い様だ。

学ぶことと、教えることの間には大きな隔たりがある

一見同じようなもののように思える。例えば、勉強などは、理解していれば教えることができると思うだろう。その暗黙の前提条件は、学校で先生によって教わったからだ。先生に教わることで、その知識を学び、またその教え方も学んだのだ。

だからこそ、このような独学のみで学ぶ、広く深い範囲の対象には往々にして今回のような、教える側と教わる側の心理的な乖離が起きてしまうのだろう。学び方は学習しても、教え方は学習していないのだ。必要が無いが故に。名選手が名監督ではないというのも同じなのだろう。

知らないことは恥ずかしくないが、学ぼうとしない態度は恥ずかしい

よく、自分が知らないことに対して「まだ習っていないから」などと一々言い訳をつける人がいる。これはどうなのだろうか。自分が学ばなくていい理由をつけることで、その人は安心するのだろうか。必要でないものはいらないが、必要であるが学びたくないという状況はどうしてできるのだろうか。

自分から見れば、知らないことは別に恥ずかしくはない。でもそれをごまかし、知らなくてよい理由をつけ、学ぼうとしない態度は見ていて恥ずかしい。自分は出来ればこのような態度はとりたくないものだ。

学習のコストと学習スキル

この状況には、3つの要素が考えられる。

1.その分野に対する知識的な器ができていないこと
2.学習するコストがその得る利益よりも小さい
3.学習が必要であることを認めたくない(つまり、無知の無知)

つまり、関連する知識を貯める器ができていないことと、得る知識よりも失う労力の方が大きいということ、さらにはその状況を認めたくないというプライドだ。
自分はまったく興味が無ければ別だが、基本的に恐怖心よりも好奇心の方が勝っている。だから、ある程度はどんなことでも飲み込むし、受け入れる準備ができている。自分自身が変化することも怖くないし、むしろ楽しいと考えている。
だが、保守的な人は自分が変化することを恐れ、新しい知識を求めず、いつまでたっても同じままだ。そして、それがいいと考えている。

知識は教えられても、興味や好奇心は教えられない。教えられないことは無いが、興味を引き出してくれという態度がおかしい。依存に依存することに依存してしまっている。そして、そのことにも気がつかない。自分はそれを見て、もったいないと思うし、つまらないと思う。