宰相のインテリジェンス

宰相のインテリジェンス: 9・11から3・11へ (新潮文庫)

宰相のインテリジェンス: 9・11から3・11へ (新潮文庫)

たとえ「ブッシュの戦争」に十分な大義名分がないとしても,日本は果たしてアメリカに「ノー」と言えたのか.この究極の命題に明確に答えられる者はいまい.枢要な同盟相手が
国益のすべてを賭けて,戦いに突き進もうとしているとき,同盟国を支持しない選択肢など現実にありえるだろうか.もし日本がアメリカに後姿を見せれば,半世紀にわたって日本の安寧を委ねてきた太平洋同盟に深い亀裂が入ったにちがいない.

北朝鮮テロ支援国家と認定している根拠のひとつは,日本から拉致された被害者の存在だった.ならば,テロ支援国家の解除に強く反対している日本の意向に耳を傾けるべきだった.ところが,ライス・ヒルの外交コンビは,これほどの重要案件を東京・ワシントン間の協議に委ねることなく,北朝鮮テロ支援国家の指定から一方的に外してしまった.

鳩山首相自身も,オバマ大統領に「トラスト・ミー」と約束しながら,普天間基地の移設に真摯に取り組もうとしなかった.超大国の大統領にこれほど明確な約束をしながら,解決策を探る素振りすら見せなかったリーダーを私は他に知らない.日本の首相が吐いた「トラスト・ミー」の破壊力は凄まじかった.

鳩山政権は,日米同盟を迷走させ,結果的に中国の影響力を増大させたことにあまりに無自覚だった.新たに政権を担うものがどれだけ苛烈な責任を負うのか,現代史に少しも学んでいない.ソ連邦を崩壊させたエリツィンロシア連邦大統領は,旧政権が締結した国際条約をそのまま継承すると宣言した.それによって正当な後継国家として冷戦後の国際社会に迎え入れられた.民主的な選挙で政権の座に就いた者が,すでに取り交わされた外交上の約束を軽んじていいわけがない.

ロンドンある伝統あるクラブで,老戦略家とランチを共にしていた折,彼がふと漏らした言葉を今も鮮明に覚えている.「眼前の懸案を相手国と手を携えて解決する力を打ちに秘めていない同盟はやがて衰退していく」

愚者は経験に学び,賢者は歴史に学ぶ.愚か者は手痛い経験を味わって初めて教訓を学び取り,賢明な者は歴史の襞に分け入って忍び寄る危機に対処する術を学ぶという.ドイツの鉄血宰相ビスマルクの言葉である.

FUKUSHIMAの惨劇は,事前の想定を超える事態のゆえに起きたのではない.想定を超える事態に向き合おうとしなかった果てに起きたのである.「想像すらできない事態を想定して危機に備えておけ」.核の時代を生きた語り部アルバート・ウォルステッター博士の言葉だ.