努力しない生き方

努力しない生き方 (集英社新書)

努力しない生き方 (集英社新書)

麻雀だって「頑張った」という思いはまったくない.「努力」して上手くなったという感覚がまったくないのだ.こういうふうにすれば面白いなとか,こんなふうにやれば上手くいくんだなとか,ただ,そんな感覚で麻雀の牌をいつもいじっていた.むしろ自分がどこまで可能性を持っているか試してやろうと,挑むような気持で向かっていった.そうしているうちに,それは遊びのような感覚になっていくのである.そこにあったのはいつも「努力」ではなく,「工夫」だったと思う.「工夫」があれば何事も楽しくできるのだ.「努力」しようとすればかならず余計な力が入る.練習して上達を続けるには力が入っていてはだめだ.

仕事や人生で現れる壁も越えようとは思わないで,まずは上に乗っかってみればいいのだ.乗っかれば視界が開けてそこからヒントとなる何かが見えてくるはずだ.ともかく,壁にぶつかったら,壁の上に乗ってひとまず一息つくことだ.そしてしばらく遊んでみようというくらいの気持ちでいることである.

身体が柔らかいと身体全部を使うような動きになる.硬い人は身体を部分的にしか使わない.体は全部を使うと単に部分を足した以上の大きな力になる.また全体を使うことで偏りがなくなりバランスのいい動きになるのだ.心と体は表裏一体のものなので,身体が柔らかければ心もおのずと柔らかくなるものだ.
柔らかければ,どんな状況になっても素早く対応できる.つまり,ミスをしても修正が速くなるのだ.硬いとそうはいかない.頑張りすぎると人は息が詰まってくる.それが激しくなるとあたかも息を止めたような状態になる.息を吐くと身体も心もゆるむが,息を止めれば身体は硬くなる.頑張りすぎている人は息が止まったような硬い身体になっている.頑張る気持ちで心がパンパンになっていると思ったら,ゆっくりと息を吐くといい.息と一緒に「頑張りの精神」を少しは吐き出されるだろうから.

「たいしたことない」と「知ったこっちゃない」,この二つを私はよく念仏のように口にするのだが,そんなふうに思っていると辛いなというときでもその気分が次第にやわらいでいくのである.

遊びながらやっているのである.何も取材だけでなく,他の仕事でもすべてこんな遊びの感覚をいつも入れてやってしまう.しかつめらしく仕事をするのが嫌な性分なのだ.だが,そんな感覚でしたほうが,ノリがよくなるので結果的にいい仕事もできるのだ.

仕事で相手が「絶対」という言葉を使ったときは,たいてい疑ってかかったほうがいい.詐欺的な商売をしたり,自分を過信している輩ほど「絶対」という言葉を連発したがるものである.人が絶対という言葉を使うときは,相手を騙そうとしている動機でなければ,自分の分析に過大な自信を持っているか,強い思い込みをしているか,おかしな妄想を抱いているか,おおよそおんな理由だからである.面白いもので,文章となると喋り言葉に比べて「絶対」という言葉に触れる機会が少ないように思う.
「絶対」はこのように禁句と言ってもいいような言葉である.「だいたい」や「なんとなく」は適度な”あそび”がある感覚である.そのほうがブレることなく安定するし,正確に前へ進めるのである.

熱血漢タイプの人は,「俺に任せてください」と自信たっぷりに言ったりしていかにも頼りになりそうに見えるが,最後まで信用できるということが私の経験から言ってほとんどないのである.熱血漢の情熱は長続きしないのだ.だから熱血漢が意気こんでいる姿なんかを見ると危なっかしくて仕方がない.むしろ熱血漢とは正反対のタイプ,たとえば一見,おとなしくて淡々とした人なんかのほうが,一つのことを粘り強くやる遂げたりするものだ.

麻雀でもスポーツでも勝負というのは軸の奪い合いである.軸を取られるとどんなに強い人でも押さえられてしまう.しかし,強い人は軸が回転してあちこちに軸が生まれるので,いったん軸をおさえられてもそれを跳ね返す力を持っている.360度回転する自在な軸をもってはじめて軸があると言えるのである.