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Think Kagawa 賀川豊彦を考える RSSフィード

2014-12-31

黎明55 

  クリスマス・カロル

 雪が降る! 真白い雪が降る! 野山に、河に、雪が降る! 醜い荒地ははみな蔽はれた。風が吹く、寒い冷たい北風が! 魂の髄まで凍ってしまふ。蛙も蛇も穴の底に潜り、梢の葉もみな落ちてしまった。小鳥も餌をあさるために雪の底をほじくる。
 われ等も飢ゑた。われ等は震へてゐる。長い夜が続き、夜寒にわれ等の胸が凍る。おお、魂よ、魂よ! おまへの冬至はいつ明けるのか?
 花は散り、葉はしぼみ、梢は烈風に打ち折られ、おまへの上に太陽の昇らぬ日も長い。おまえは飢ゑ、おまへは傷つき、打ち続く愛の飢饉に魂は骨と皮になってしまった。魂の結氷にロシアは嘆き、北欧は悲しむ。
 ああ山東から苦力が流れ出てくる! 五十万、七十万! 打ち続く戦禍に、捨てられた野犬のやうに、この柔和な国民は五百里の道を跣足で北に流れて行く。赤ん坊を背負ひ、堅パンを片手にし、家財一切を片于に運ぶ、ああ、それは山東の苦力の姿でなくて、私の魂の姿ではないか?
 魂よ、おまへはどこへ行くか? 迷ひ出た魂よ、どこへ行く? 北に、北に、結氷に閉ざされ、吹雪に阻まれた黒龍江へか? ああ、朝目は昇らぬか? 結氷は解けぬか? 神よ、橇を持って彼等を迎へにやって下さい。このさすらひの民のために!
 曙の明星が光った日は東方の博士は沙漠を西にユダヤにたどり着いた。彼等は救主を王宮に探した。しかしそこには新しい「救」が発見できなかった。救はベテレヘムの馬小屋の飼馬桶の中に横はってゐた。その日にも地べたに寝るものの中に至上の光栄が秘められてゐた。光明は黒土に接吻し、彷徨の旅に、脱がざる襤褸に、神の恩寵が啓示せられた。世界の難む日、神もまた難み給ふ! 屈するな、飢ゑた霊よ! おまへの彷徨におまへの両足が血に染まっても、大能の神はまたおまへの足に繃帯をして下さる。
 おお、奉天城外寒風の吹きすさむ朝、私は雪の中に遺棄せられた嬰児の屍を指差された!・ 飢ゑたわれ等の同胞が逐に嬰児を雪の中に捨てたのであった。神よ、神よ、東洋のベテレヘムの星は何処に昇るのですか?
 長春にアヘン吸飲者の凍死体が山の如く積まれる。二百、三百! ここでも人の子は傷ついてゐます。ああ、ベテレヘムの曙よ、おまへは何ゆゑもう少し早く長春の黎明を呼び醒まさないのか?
 鳴れよ、クリスマスの曙の鐘詫! 響けよ、サンタクロースの橇曳く馬の鈴! 無産者の家の煙突には煙もあまり立ってゐないから、サンタクロースも煙突から這入って気易いであらう。忘れないでくれ、たとへおまへが幼児のためには玩具を忘れることがあっても、大人のためにパンの一片を煙突の上から投げ込むことを!
 冬が長い。冬があまりにも長過ぎる。夕闇よ、早く去れよ! 冬至よ、早く行け! 世界の無産者が救はれるために、一刻も早く、ベテレヘムの星よ、馬小屋の上に輝け!
 東は白む。黄金色のオーロラは輝く。仰ぎ見よ。さすらひの旅に泣く飢民の群よ! おまへの上に星が輝くではないか! 徹宵羊を守る牧者の群よ、急げ! 馬小屋の飼馬桶の中に「救主」を探せ! 愛と忍従と労役の馬小屋に、人類の「救」は発見せられるのだ。人類の魂の朽ちた日に、救は却って動物の小屋に探されねばならない。確信せよ! 吹雪の後に空は晴れる。黎明だ。黎明だ! 鐘は嗚る、鈴は響く! 悲しめる者に再生の約束が成就する。鶏が鳴いてゐる。天の使が歌ってゐる。星は瞬き、愛は甦る。大工イエスは馬小屋展に生れた。彼は建て、彼は救ふ。彼に神の種が宿り、彼は神の如く魂を抱擁する。彼の温い胸にわれ等は冬至の寒風を忘れる。ああ、クリスマス! クリスマス! 寒風に喩いて、私は今日も愛と魂の誕生を祝福しよう。

黎明54 認識論に就いての瞑想

  認識論に就いての瞑想

  認識の方法
 認識の方法は心を用ひて宇宙の実体を探らうとするにある。心の中心は、この場合、生命、力、変化、生長、選択、法則、合目的性を綜合したものの中、特に選択、淘汰力を借りるよりほかはない。そして物が実体であるか、物の奥に不変の実体があるかを認識せんと努力するのであるが、実の物体を研究せんとする心の作用そのものを物の外に置くことは出来ない。即ち、認識作用に含まれた選択作用そのものが、物を絶対性と考へた場合にはおのづから含まれてくる。
 すると方法が即ち実体の内容となる。物を実在として認識せんとする場合、心が物の副性として存往することは否定出来ぬ。心を副性として持つ物は、心によって心を知らよりほか道のないことを教へられる。否、宇宙の実在は、認識せられる為には認識的方法そのものの中に示現せねばならなものと考へねばならぬ。
 もし認識主体が、実体と縁もゆかりもないものとすれば、全く不可解なものであって、認識の対象とはなり得ない。そこで、対象を認識し得るものは、認識方法に自ら示現する心に最も近いもの、即ち心そのものであらねばならぬ。

  物質の客観性
 物質は客観性を持ってゐるために、絶対性を持ってゐるやうに考へられるが、客観性を実在性であると考へることは出来ない。客観は存在はしてゐる。しかしそれを宇宙の本質であると考へること出来難い。
 存在のみが宇宙の本質であると考へるには、宇宙には物質の外に存在してゐると考へられるものがあまり多過ぎる。
 空間的に拡がる物質の外に、時間的に拡がる生命、力、変化、生長、淘汰、法則、目的などが存在する。そして、存在を意識するものは生命以外にない。存在の持続性も生命の中に出現する。それは記憶を通してである。否、物質の存在そのものが心の世界を一旦通過した物質であることを否むことが出来ようか?
 物の存在は心の制限を一旦受けた存在である。心が存在するが故に、物が存在する如く見えるとも考へられる。

  物の副性
 物が今日われわれに啓示するものは、単なる空虚な存在でなくて、物が力の変化に従って変形し、法則によって支配せられ、合目的性の為に従的立場に立ち、淘汰せられ、進化せられ、心の世界にまで連絡を保って躍進するといふ事実である。
 かういふ物の世界の変化性は、物だけが自在性を持つ実体であるといふ考へをわれわれから取り除く。

  存在といふこと
 存在といふことは客観性といふことだけではあり得ない。存在といふことは、結局価値といふことを離れては考へられないのだ。価値を離した存在は零の内容しか持たない。価値と存在を併合したものが、価値創造によって存在をも可能となし得る心の世界の肯定である。
 心が宇宙の実体であると考へることによって、われわれは、客観性の物質を考へる際にすら、無理のない世界に到達し得るのである。

黎明53 宇宙一元

   宇宙一元

 宇宙一元の真理を、今日の科学者は、物理学の実験室から説明するやうになった。カリフォルニヤ大学のローレンツ教授の発明によるサイクロトンによって、あらゆる元素水素原子に還元することが可能になった。そしてその水素原子はエネルギーの波に関聯する。
 科学者が、かうした物的宇宙の一元を説明する前に、宇宙を良心といふ内側から覗いた人々は、宇宙一元の原理に早くから目覚めてゐた。ギリシヤの哲学者も物心二元の世界より奥深くは行けなかったが、愛の原理を知ってゐた。キリストとその流れを汲むものは、物心二元の世界をも、愛による一元によって包容し得ると考へた。まことに、愛に気のつかないものは、一元の神を認識することは出来ない。
「愛は神より出づ。凡そ愛あるものは神より生れ、神を知るなり」とヨハネ第一書の著者が云ってゐるが、キリスト的宇宙一元の認識は、論理から來ないで生活から来た。愛による生活を充実したものは、物質の世界が絶対でなく、愛による一元こそ絶対であることを認識し得たのであった。「殊に愛は神より出づ。凡そ愛あるものは神より生れ、神を知るなり」といふことは、キリスト者のみが発見し得る特権であると思ふ。

黎明52 最微者への奉仕

  最微者への奉仕

 今はもう故人となられたが、私が会った多くの日本婦人のうちで私に最も大きな感化を与へてくれたのは、神戸養老院創立者である寺島のぶえ女史であった。彼女は。僅か十三歳のときに結婚を強ひられ、結婚して一晩のうちに逃げ帰って来たといふ妙な経験の持主であった。
 しかし、帰って来たけれども、間もなく妊娠してゐることかわかったので、若くして子を生んだ後、一生独身で死ぬまで一人ぼっちでゐた。
 私が神戸の葺合新川の貧民窟にはひったとき、私が一ばん持てあました老人の世話を全部引きうけてくれたのが、この寺島のぶえ女史あった。
 彼女は看護婦の免状をとって、看護婦会を組織し、自分の同志と共に一切人の寄附を受けないで、自分が看護婦に出た収入で、老人の世話を始めた。その養老院といふのも、看護婦会の近所に一軒の家を借りて、そこに九人の老人を収容してゐたのだ。
 私が教へられたといふのは、この自給自足の養老事業に就いてであった。私はそのころまだ白面の一青年で、彼女の如く、自分が稼いだ収入で救済事業をするといふやうな能力を持ってゐなかった。私は友人の授助でやうやく数人の病人を世話してゐた。それだのに彼女が、その細腕で稼ぎためた収入を全部ささげて、九人の老人を養うてゐることを見て、全く驚かされてしまった。
 彼女は、熱心なキリスト愛の信仰に生きてゐた。そして人がかへりみないよぼよぼの年寄り乞食を、自分の母と同じやうに世話してゐた。
 或る朝のことであった。彼女の留守中に、一人の老人が死んでしまった。留守中のことなので、そのころ貧民窟にゐた私に使ひが来て、
「寺島さんが留守ですから、どうか可哀さうな老人のお葬式をあなたにお願ひします」
 といって来た。
 勿論、私は寺島のぶえ女史の美しい志を知ってゐたから、すぐ神戸養老院に飛んで行って、寺島さんのかはりに、老人の湯灌をし、葬式も出さうとした。
 のぶえ女史は、有馬のキリスト教修養会に行って留守であったが、お葬式までには帰るといふ電報が届いてゐた。しかし出棺の時間が迫ったので、私は看護婦会の人々に手伝ってもらって、宗教的儀式を終り、死骸を火葬場に運ぶために、養老院の小さい戸口から、寝棺を運び出して、表に据ゑた。
 その瞬間に、停車場から車でかけつけだ女史は、車からとび下りるなり、自分の親でも失ったやうな悲しい顔をして、どこで買って来たのか、美しい花束を街路に横はってゐる棺桶の上においた。そして倒れるやうに地べたに跪き、合掌して黙祷し出した。
 私はその厳粛な光景を見て涙を禁じ得なかった。これほどまでに真面目に世界の最微者に奉仕し得る人は、日本にそんなに多くはない。この女こそ、日本に於ける最も美しい女性だと、つくづくと彼女の犠牲的精神に感激したのであった。
 その後女史は間もなく胆石病でこの世を去られたが、死ぬまで、彼女は憐れな老人に仕へ、世の人に認められない一生を送って、天国に帰って行った。
 私は、今でも女史のことを思ひ出すと、キリストの女弟子として、日本にもめづらしい女がゐたものだと、感激の念のおのづから湧くのをおぼえるのである。

黎明51 宇宙精神と日本精神

  宇宙精神と日本精神

 宇宙的日本を作るか、日本的宇宙を作るか、日本は今や迷路に立ってゐる。日本の新聞も雑誌も、日本的宇宙を作ることに急であって、宇宙的日本を忘れてゐるかの観がある。何々教、何々教、何々主義、何々主義はみなその為に忙しい。
 しかし、宇宙の根本真理を無視して、一体何が日本精神であり得ようぞ。万機を公論に決し、真理を宇宙に照らして耻しくないやうにしなければ、その真理は真理のなり損ねである。島国日本だけで通用する真理は、全地球に当て嵌めることは出来ない。日本はもう少し謙遜になって、宇宙の真理に聴かねばならぬ。実なきに自らを称讃するものは自己妄想狂である。日本は世界一、何々も世界一、何々も世界一と、世界一気違ひになることは日本の文明を誤るものである。永遠の求道者は永遠に生長する。
 生長せよ。日本の霊魂よ。宇宙の真理に即して生長せよ。人の批評を喜んで受け入れ、自己内省を怠らずして謙遜の徳を永遠に把持せねばならぬ。

黎明50 魂の芸術家ジョン・バンヤン

  魂の芸術家ジョン・バンヤン

 バンヤンの偉大さは民衆と歩いたところにあります。いや、民衆の為に。良心と共に歩いたところにあります。
 ハンヤンの譬喩は、ほとんど天才的です。板に着いてゐます。キリスト以来、バンヤンほど明瞭に、福音を民衆に解り易く教へた人はないでせう。
 勿論その時代は暗い時代でした。今日のやうに、汽車も汽船も走つてゐませんでした。それで、彼の書いたものは大体に於いて非常に暗い感じがします。けれども、あんなに上手に劇的場面を連ねて、宗教生活の意味を説明してくれた民衆芸術家は、古今絶無といってもいいと思います。
 労働してゐる者には、書物ばかり読んでゐるものと違って、新しい世界と真理が体験として啓示せられて来るものです。バンヤンの創作は、さうした休験から生れました。
 私は、宗教心理学から考へてみて、バンヤンの『天路歴程』ほど宗教心理を劇的に教へてくれたものは無く、あれほど力強くクリスチャンの何ものであるかを教へてくれたものは無いと思ってゐます。
 最初私が『天路歴程』を読んだ時には、それほど感じませんでした。二度目に上巻と下巻を英文で読み通した時、私はその魅力に全く驚いてしまひました。私は読んで行くうちに、針で自分の胸を刺されるやうに思ひました。幼い時に、こんな詰らない書物と思ってゐたものが、人生の旅路を重ねると共に、『天路歴程』の真理を日一日と深く教へられるやうになりました。殊に自分が下手な小説を書き出してから、彼の偉大さを一層深く悟るやうになった訳です。その後私は、彼の自叙伝である『恩寵溢るる記』を繙いて、『天路歴程』の内部的記録を教へて貰ひました。『天路歴程』が表なら、『恩寵溢るるの記』は裏です。『天路歴程』は精神分析を要しますが、『恩寵溢るるの記』はそのままで受け取ることが出来ます。私は、後者を読んで初めて、バンヤンの精神生活の深さを知りました。勿論。『天路歴程』は十七世紀の暗い時代を反映してゐます。それで、今日われわれが考へてゐるやうな、大きな社会愛などに就いて教へてくれてはゐません。彼は、一つの霊魂の歩みだけを指示してゐます。その点が、何だか私には頼りないやうに思へてなりません。あまりに暗いといふのは、そこなのです。恩寵に溢れてゐなからも、まだ暗い影がさしてゐます。それは止むを得ないことであったでせう。クロムエルが王の首を刎ねたり、反教会主義の人が焼き殺された時ですから、「聖戦」の方に力が入れられて。「聖愛」の方に力が入れられないのはあまりに当然でありませう。
 しかし、そこにまた、ジョン・バンヤンの力強さがあります。良心の自由のために、飽くまで戦って行かうとする。その偉大なる魂の歩み、それを表白する彼の不思議にして平易な言葉、私は何度も繰返して、ジョン・バンヤンの『天路歴程』を瞑想し直します。彼の記録はさびしくはあるけれども実際一個の魂の記録としては、あれ以上に出られないものなのです。われわれは永久の旅行者です。われわれは、バンヤンの教へてくれたもの以上ではありません。私は、『天路歴程』を読む時に、自分の魂を読むやうな気がしました。貧民窟に永く住んでゐて、『天路歴程』に語られてゐるやうな事実を、譬喩としてではなく、ほんとに見て来た私です。私はバンヤンの真理を考へ直したことでした。『天路歴程』は新しい福音書です。一種の「典外聖書」といってもいいでせう。あの書物一冊読めば、マタイ伝から黙示録に至る全部の真理を、一つ洩らさず、最も通俗的な言葉で、間違ひなく知ることが出来ます。
 キリストは譬喩を以て教へました。そしてバンヤンは譬喩の天才でした。民衆ほど譬喩に生きてゐるものはありません。この意味に於いて、バンヤンは永久に民衆の魂の中に生きてゐます。

黎明49 聖書の感化力

  聖書の感化力

  浴槽の聖者

 このほど物故せられた内山佐(たすく)氏は、全く奇蹟的な生活を送った人であった。彼は九州帝大の病院で、施療患者として十数年の間、消毒薬の這入った浴槽の中で文字通りの苦行をした。それはかうである。
 或る目、彼の身体に小さい腫物が出来た。それを掻くと全身に拡がった。九大の皮膚科の医者に診てもらふと世界でも珍しい天疱瘡であった。医者はこんなことを云った。「君は消果菜に浸ってゐれ
ば命が続くけれども、上ればすぐに死ぬよ」
 それを訊いた内山氏は絶望の淵に追ひ込まれた。試みに彼が浴槽から出てみると、医者のいふ通り、また腫物が全身に出来て死にさうになった。天疱瘡は全く不治の病であったのだ。絶望の結果彼は自殺の道具を探した。しかし、彼の母は彼の兵古帯をも匿し、すべて自殺を謀るやうな道具は匿してしまった。それで。この苦行者は落胆の結果舌の先を愉みきって死なうと思った。さうして数ケ月経った。

  十銭の聖書

 その時、一人のキリスト教の教師が、その当時一冊十銭で買へた『新約聖書』のロマ書第五章三節に印をつけて。内山佐氏の病室に差し入れた。ロマ書第五章三節といふのはかういふ文句になってゐる。
「然のみならず患難をも喜ぶ。そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり」
 暇で暇で困ってゐた浴槽の苦行者は、その『聖書』を一旦手には収り上げた。しかし「患難をも喜ぶ」といふ文句が瘤にさはってしまった。
「――これは俺を冷かすために印をつけたのぢゃないか」
 などと、わざわざすねて解釈してみたさうであった。それで内山佐氏は一旦収り上げた『新約聖書』をすぐ投げ出してしまった。
「――俺が生れて来たのが間違ってゐたんだ。死んだ方がいいんだ。死なう、死なう」
 さう思ひ詰めた彼は、『聖書』のことなどに気がつかないで、すぐに死んでしまはうと、すべての光に顔を背けた。
 しかし不思議、不思議! 一旦こびりっいた『聖書』の言葉が彼の頭を離れない。「患難をも喜ぶ」――この文句が天来の声のやうに胸底に響いて来た。で、彼は捨てた『新約聖書』をもう一度取り上げて、初めから読んでみることにした。そしてイエスといふ大工が、人のために苦労して十字架にまでかかって死んだといふ事が初めて判った。
「不思議な男もあったもんだ。俺は自分一人のためにこんなに苦しんでゐるに拘らず、世には不思議な男心あったもんだ。人のために苦しんでゐる変っだ男がある。全く贅沢はいへない」
 本を読むといっても、彼は机に向ってよむのではない。動物園の河馬のやうに、浴槽に浸ったまま『聖書』を読むのであった。ページを繰る時には、消毒の薬が、ページにつかないやうに、手拭で一々指を拭き、そして次のページをめくるのであった。さうした苦労をして読んでゐるうちに、自己一人の苦痛のために死を急ぐのは間違ってゐる事に思ひついた。寧ろ苦しむなら人のために苦しむのがほんとだといふことが解っだ。これは精出して『聖書』を読むに限る、と思った彼は、拭き取っても拭き取っても指先に残る消毒薬のためにぼろぼろになった『新約聖書』を繰返し繰返し読んだ。そして読む度に自分が新しい世界に這入って行きつつあることを感じた。彼は、イエス・キリストが凡ての苦難に勝ち得た理由が、人間一個の努力でなく、宇宙の神の力にあることが判った。そして彼も小さい浴槽に浸ってゐながら絶対なる神の恩寵に浸り得ることを徐々に発見したのであった。

  神の発見

 狭い隔離病室は忽ちに神殿と変り、浴槽は祭壇と早変りをした。天井裏には紫の雲が漂ひ、消毒薬の中には黄金の波が立つのではないかと思はれた。
 苦悩は忽ちにして忘れられ、自分自身が、生きなからにして宇宙至高の神の子であることを感じた。神の子の自覚に這入ると共に、内なる霊の歓喜はもはや抑へることが出来なくなった。彼は初めてロマ書第五章三節四節の言葉の意味を理解するに至った。即ち、患難によって忍耐づけられ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生むといふことがよく解った。
 彼はつひに、朽ちゆく肉体の世界に於いてすら、神の恩寵がしとしとと慈雨のやうに降り注いでゐることがわかった。
 かうして『聖書』の行者となりおほせた内山佐氏は、前とは反対に、見舞客を掴まへては神の恩寵を説くやうになった。彼が今年(昭和九年)の夏この世を去って天に帰るまで、十数年の浴槽の生活は全く多くの人に対する慰めの生活であった。

  人殺しの改心

 これに似た話は他にもある。好地由太郎が『聖書』を読んで改心した。彼が日本橋の女主人を殺し、横浜に逃げたのは、丁度彼の十九歳の時であった。しかし逃げた先の横浜でも彼は再び罪悪を犯し、そのために横浜の未決監に繋がれた。その当時はまだ日清戦争前であったので、日本ではキリスト教の話を聞くことさへ稀であった。ところが、基督教の辻説法をしてゐたために未決監に打ち込まれてゐる一人の青年があった。彼は毎朝、好地由太郎の監房の隣で分厚い書物を読んでは呪文のやうな物を唱へてゐた。由太郎が不思議がって、読んでゐる書物の名をきくと、基督教の『聖書』だといふことが解った。
 一週問も経たぬうちに、その男は監獄を出ることになった。で、由太郎はその書物をもらって読むことにした。好地由太郎は『新約聖書』を開いて、第一頁を読んでがっかりしてしまった。そこには、破獄する術が書いてはなくて、博労が読めばよいやうな、馬を太らす伝とも考へられるものが書いてある。それに失望した由太郎は、北海道空知の監獄に移されてからも二度と『聖書』を読まうとはしなかった。それから約七年経った。突然彼は夢の中で、『聖書』をよむやうにとの天よりの声を聞いた。彼は教誨師に『聖書』を借りて読んだ。そしてイエスといふ人物の偉大さを知った。彼は忽ち生れ変った。彼は無期徒刑囚であったが特赦によって、二十五年の鉄窓の生活から許されて再び娑婆に出てきた。しかし、『聖書』を読んだ彼は昔の由太郎ではなかった。彼の感化力は男爵森村市郎左衛門にまで及んだ。森村男は彼によって洗礼を受けたのであった。しかのこの不思議な感化力が、仏教教誨師が彼に貸し与へた五銭の『新約聖書』から来たといふから不思議ではないか。
 宗教文学には昔から不思議な力が残ってゐるが、『聖書』は特に不思議な書物であると私は思ふ。今も日本に於いて不思議な奇蹟を次から次に起しつつあることを思ふと、私は『聖書』の前に自然頭が下る。

  釈迦孔子キリスト

 甲「おい君、キリスト孔子釈迦のなかで、誰が一番偉いんだ?」
 乙「三人とも偉いのだらう。宗教っていふのは、どれでも同じことだらう」
 甲「僕には、ちっともわからないな」
 乙「わけのぼる麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るらん、といふことがあるから、みんな同じだと僕は思ふがね……しかし、×月×日に賀川豊彦宗教講演会があるから、あの人に質問してみようぢゃないか」
 甲「それは面白いね」
 かうした会話のあった後二人は約束したとほり、賀川豊彦講演会に出席した。講演がすんだのち、二人は彼に近づいて質問を発してみた。
 甲「ちよっとお尋ねいたします。キリスト孔子釈迦のうち、誰が一番偉いのですか。ここにゐる僕の友人は、みな同じといふのですけれど、腑におちぬものですから、お尋ねしたいと思ってきたのです」
 それに対して、賀川豊彦の答は、かういふのであった。
釈迦孔子も、神といふことをいってをりません。孔子は現在を説いた人で、釈迦は、その現在をも否定した人です。孔子は大臣で、釈迦は王子でした。二人とも聖人であることに相違ありません。しかし私がみるところでは何だか物足りません。宗教は生きる工夫です。生命を自由自在の境地、つまり神にまで引きあげたいと努力するところに、宗教生活の真剣味があるのです。みな高嶺にむかってゐるのには違ひありませんけれど、孔子は八合目まで、釈迦は九合目まで、キリストは頂上に行つてゐるやうな気がするのです。あくまで現在を肯定し、現在のほかに過去と将来とをみとめ、過去の過ったところを否定することにおいては、釈迦の気持をくみ、将来に対してはキリストの教へた神の子になるつもりで努力すればいいやうに考へます」

黎明48 小説『富士』

  小説『富士』

 それは深い魂の画布に塗られた最高の芸術である。日本の最大の愛の使徒、故岡山孤児院石井十次氏が、嘗て著者蘆花を評して、彼は魂を描くが故に七百年の寿命を保つと云ったことがあるが、誠にその通りである。彼は魂の髄の底を描いた。彼は魂のスクリーンに映るあらゆる暗影、あらゆる風雪、あらゆる波浪に就いて見逃さなかった。彼は神の如く自己を解剖し、神の如く魂を浄化せんとした。『富士』四巻はこの大きな努力の結晶体であり、『富士』は彼であり。彼は『富士』であった。彼は自ら神の如く自己に臨んだ。従って、魂の芸術としてこれ以上のものを要求することは出来ない。それは水晶の如く透徹し、金剛石の如く光ってゐる。『富士』を読んで初めて真実の日本人を知ることが出来る。これは永劫不滅の記念碑である。それは魂の富士山であり、層雲を越えて聳え立つ峻峰である。富士に登らずして日本を語り得ざる如く、小説『富士』を読まずして日本の魂を詔ることは出来ない。登れ、この魂の富士に。

黎明47 愛の常識化

  愛の常識化

 秋の空は晴れてゐた。東京深川区清澄公園の空さへ晴れてゐた。その日丁度教化事業に関する相談会が清澄公園で催されてゐた。その序に、私は一言だけ、浜園町のテントにゐる人々が気の毒だから、この冬床を張ってあげなければならぬことを述べた。話が終って帰らうとすると、一人の紳士が私に近づいて来て、
「賀川さん、あなたはその失業者のテントに床板を張らうと云ってゐられますが、それは容易なことです。深川の本場にYといふ熱心なキリスト教信者がゐて、何かの形で社会奉仕をさせてもらひたいといってゐますから、是非その人に会って下さいませんか」と言った。
 善は急げと思ったものだから、私は早速自動車を飛ばして、深川木場のY商店を訪問した。大きな店の主人公のY氏は、猿股に腹掛をかけたといふ扮装で心持よく私を迎へてくれた。そして、早速万事を引受けて、今からすぐ見に行っでやらうと、待たしておいたタクシーに同乗してくれて、浜園町の市立無料宿泊所まで飛んで来てくれた。そこには約十戸のテントが立ってゐた。そして約百八十数人の気の毒な失業者が入ってゐた。床の出来てゐるのは、その中のただ一つであって。他は凡てアメリカから送られた震災当時のカンバス・ヘッドに寝てゐた。そこの世話を焼いてゐてくれる高橋元一郎君が、失業者と床板を造ることに賛成してくれた主人公とをとりまちがへるほど、材木屋の主人は質素な風をしてゐたが、一通り廻って、すぐ明日材木を送ると引受けてくれた。
 私は、そのまま自動車で、或る新聞社の用事のために丸の内に帰ったが、東京にはわかりのいい人もあることを実際に経験して、ほんとに嬉しく思った。金目にすればほんのわづかな事であるけれど九百八十数人の多人数に上る生活の根本にふれてゐる問題であるのだ。それが、一言洩らしただけで、その日すぐに解決せられ、翌日は全部床板が張れてしまった上に、その材木屋さんから失業者に与へてくれと献金までつけてくれたのには驚いてしまった。社会事業をしてゐても、面白く仕事の運ぶことはさう多くはない。しかし、時代が進歩してきて、愛に関する行為が常識になれば、すべてが簡単にすませるものだと、私はつくづく感じたことであった。

黎明46 貧民窟の女


  貧民窟の女

 貧民窟の女性は、一般的に云って、極めて叛逆性に乏しい。強い意志に向っては、それが善であらうが、悪であらうが、いつも何等の抗争なしに唯々として屈従して行く傾向を彼女たちは多分に持ってゐる。さうした傾向には種々な理由がある。
 貧民窟に落ちてくる大多数の人々は。本質的に、多少欠陥のある人々である。これを生理的に見れば、病気であるとか。負傷してゐるとか、癈疾者であるとかいふ者が多く、心理的に見ても、白痴、発狂、変質者などである。またこれを道徳的に見るならば、犯罪者、博奕打、淫売婦、ごろつき、酔っぱらひ、なまけ者等である。
 かうした不健全な人々がその大部分を占めてゐる貧民窟に住家を探し求めなければならない、世に謂ふ落伍者の多くも、経済的原因の他に、生理的に、心理的に、道徳的に何等かの欠陥を持ってゐるのである。貧民窟の人々と普通一般の社会人とを比べてみるならば、彼等が如何に肉体的にも精神的にも劣ってゐるかといふこと、更にはなはだしくその生活力が去勢されてゐて、全く不具癈疾者同然になってゐるといふことに想ひ到るであらうと思ふ。
 しかるに不思議にも、大体に於いて女性のみは、かうした人々の群の中にあって、不道徳から遠ざかり、賭博場には近よらず、飲酒癖にも割合に囚はれない。貧民窟の男の、最も普通な、野卑な、そして最も誘惑力の強い頽廃的の享楽生活に感染しないで、反対に、多くの子供を教育しつつ、善良な家庭を作って行かうともがいてゐる者が多く見受けられる。つまり。貧民窟の女性には、叛逆する意志さへ失ってしまって、現在の生活状態から一歩を踏み出す欲望もなく、それを甘受してゐるものが多いやうに思はれる。悪く言ふならば、ぐうたら女が多いのである。それであるから、貧民窟に於いては、接近して行く男子に対して、誰彼といはず、肉体を任してしまふといふ女性が比較的多い。東京市深川区猿江裏の貧民窟の調査を見ても分るごとく、五人の子供が一人づつ違ふ継父を持ってゐるといふやうな例は少くない。主人が泥棒であっても、詐欺師であっても、海賊であっても、要するにどんな悪いことを犯してゐやうとも、さうしたことには無神経であるばかりでなく、まったく悪い顔さへしない。私はさう云った女を多く見た。貧民窟の女は、ほとんど、善悪の観念の区別がつかないほど生活難に喘ぎ苦しんでゐるのである。
 大休から見て、貧民窟の人口は、男子より女子の方が多く、それも中年以上の者が多い。といふのは、男子の多くは貧民窟の境遇に甘んじないで、元気に満ちた青年時代を決して貧民窟に送らないからである。それであるから、貧民窟にゐる男子の多くは、子供か老人かである。叛逆性のある男子は、意気地なく貧民窟に止まるやうなことはしない。各自その能力に従って、善い意味に於ても。悪い意味に於いても、とにかく活動するのである。女子も亦同様である。  
 ただ、例外として、変質的な女性と、生活難のどん底に沈んだ女性と、平常柔和な、むしろぐうたらと考へられる女性は一大爆発を演ずることがある。例へば、米騒動のごときはそれである。大正七年で富山県滑川の女房連が騒ぎ出して、二府三十県に蔓延した米騒動の余波が、当時私の住んでゐた貧民窟口も浸入して来た。その時など、貧民窟の玄房連は、平素の純情を捨てて、まったく阿修羅のやうに狂ひたけった。私はその姿を目撃した。大正七年八月十二日の朝、前回の米相場を考へて、五十銭ばかりで一升の米が買へると思って出かけたおかみさんたちは、米屋の店先に来て初めて、一日のうちに十銭騰貴してゐることを、発見して騒ぎ出した。かうした光景は、貧民窟の米屋十数軒のどこでも見られた。この全く計画のない突発的騒動は、これらの女房連から持ち上ったのである。しかもその晩、約七ケ所から火災がもち上って、群衆は恐怖と不安に戦慄した。騒ぎは益々悪化した。それで遂に軍隊の出動を見、辛うじてその暴動を食ひ止め得たといふ始末であった。
 かうした社会的な叛逆は、まことに珍しい現象であるが、人の好い貧民窟のおかみさんたちの中には、変質的に叛逆性を持ってゐると考へられる女がないわけでもない。私の近くにゐた前科二犯の女は、二人の子供を育ててゐたが、いつも彼女の理想としてゐる男は、石川五右衛門であった。
「泥坊になるなら、石川五右衛門のやうな偉い奴になりたいなア」
 と常に口癖のやうに言ってゐた。まさかこの女はバフーフのやうに盗む権利を肯定してゐるわけでもなからうが、泥坊することを何とも思ってゐないところに、貧民窟の女性の本能的叛逆性ともいふべきものが看取されるのである。
 貧民窟の女が淫売婦になってゐる時は、現行法律などに対して、企く叛逆的であって、警察官などに対しては、少しも尊敬の念を抱いてゐない。そして、云ふことが面白い。
「お上では、税金を出すから、前を売ってもよいと鑑札を下げてゐるが、前を売ることは、淫売とちっとも変ってゐやしないではないか。うちら少しも悪いことはしとらない。それに、わしらを警察に拘引して行くのは、間違ってゐる」
 かうした態度は、貧民窟のごろつき仲間には極くありふれたことであって、それが貧民窟の変質的な女性に感染してゐるのである。貧民窟の変質的な女性の間には、性的生活に関しても頗る常規を逸してゐて、近代人の生活以上に超越的なところが多分にある。
 彼女たちは、淫売しながらも、自分の熱愛する恋人を持ってゐてみたり、さうかと思ふと、或る者は、地廻り淫売と称して、一ケ月とか、三ケ月とか、一人の男と一緒に棲んで、その期間が過ぎると、また次の男に移り、転々として男を変へて行って平気な女もゐる。エレン・ケイ女史の『自由結婚論』を読まなくとも、この種の女は自由離合の心理をよく了解してゐるものと見える。彼女たちは、家庭生活に叛逆してゐるといふ点から見れば、徹底的であるが、しかしその内面生活は、どんなに空虚であらう、寂しいことであらう。この点から見れば、彼女たちは近代人以上に深い悩みと悶えとを無意識の上に蔵してゐると云へる。
 貧民窟の娘たちのうちに、多少叛逆的なものが出て来ても、その多くは叛逆性を現さないうちに、八分通りは娼妓に売られてしまふ。そして残りの二分は、十七、八歳にならない前に、既に子供の一人くらゐを抱へてゐるのであるから、彼女たちは、ほとんどその叛逆性を現さずに、といふよりも、現すべき意力と機会とを奪はれて、生涯を終るのである。

黎明45 中江藤樹とキリスト教

  中江藤樹キリスト教

 帝大で宗教の講座を受け持つ姉崎博士が、英文の『日本宗教史』を書いてゐられるが、その中、日本の儒教とその関係について書いた処に、中江藤樹のことが出てゐる。そこには、中江藤樹キリスト教の感化を受けたことが書かれてゐる。中江藤樹が大洲にゐた時に、キリシタンから凍傷の薬を貰ったと書いてある。『キリスト教史』のうちに、一六二六年四国の大洲にゐた或る儒者が、キリシタンからキリスト教の感化を受けたらしいことが出てゐるが、それと全く符合して、中江藤樹の思想のうちにキリスト教と余く同じものがあることを姉崎博士が高調してゐられる。
 井上竹次郎氏の「日本陽明学派の哲学」を見ると、やはり中江藤樹が、天地の唯一つの神を信じてゐたことを書いてゐる。それを私は興味ふかく感じるものである。元来、中江藤樹が現存してゐた頃には、キリスト教は厳禁せられてゐた。それを犯して中江藤樹が唯一無二の神を拝んだといふことは、実に勇敢であるし、また中江藤樹を生んだ一つの大きな理由になったと思ふ。中江藤樹の伝記の中に、深く感ずるところがあって、皇上帝を祀るとある。皇上帝とは支那キリスト教でいふ神である。日本では「神」は精神の「神」で、宇宙万物の神の意味がはっきり出て来ない。それを支那では皇上帝といふのである。これがキリスト教でいふ万物の神である。それと考へ合せると、中江藤樹は驚くほど、キリスト教信仰を持ってゐたことがわかる。
 それは、井上氏の言葉にしたがふと、理気である。「……これを上帝とす、即ち万有精神とも称すべき世界の実在なり。然るに世界は理と気の二元より成る。理はその心にして気はその形なり」「然るに藤樹の上帝は決して理気以外にあるものにあらず。分ちてこれをいへば理気なり。合してこれをいへば上帝なり………」即ち中江藤樹は、宇宙の神は唯一つの神であると実にはっきりと考へてゐた。神霊論を読むと、なほはっきりしてゐる。
「藤樹は天地を造り万物を生ずる上帝ありと思惟し。或はこれを天といひ、またこれを皇上帝といひ、また太一尊神といひ、また太上天尊大一神といへり。上帝は世界の実在にして、遠くして天地の外、近くして一身の中、久しくして古今の間、暫くして一息の頃、微にして一塵の内、幽にして隠独の中、上帝のあらざる所なく、一念の善悪、一事の善悪の上帝得てこれを知れり。これを勧懲するに、禍福を以てす。是故に上帝は極めて尊ぶべく、極めて畏るべきもの、然るに世人がこれに出でざるは、これを知らざるによるのみ」
 この神に対する心持から凡ては始まる。この心は「持敬」、即ち今日われわれがいってゐる「敬虔」である。特敬は聖学の始まりであって終りである。
 持敬は聖人の根本である。井上氏キリスト教が嫌ひだから、これに就いては黙ってゐられるが、姉崎博士ははっきりこれをキリスト教からきた思想だといってゐる。
「個人と宇宙との関係が孝行の始まりだ。そして道徳生活は宇宙の神に孝行することから始まる。これが根本原理である。宇宙の凡ての道徳は、宇宙の神に対する孝行を応用したに過ぎない」といってゐるが、この宇宙の神に対する孝行の主張は、藤樹の経験から出たのである。単に彼の説だけでなく、彼の生活と学識のうちにもこの傾向が残ってゐる。そしてそれは王陽明学派の良心説と一致してゐる。藤樹は、実践道徳を無視しなかったが、神からきた良心を離れての単なる道徳は無意味だと考へた。この良心の琢磨は、宇宙の父なる神に対する心尽しと、精神生活の修養とによってのみ達せられる。神を宇宙の父といったところに、中江藤樹孔子学派と違ってゐる点がある。普通の儒教学派であるなら、政治的道徳や知識に力を入れるのであるが、藤樹は、政治や道徳を離れて、宇宙の神を根本にした。そこに普通の儒教と違ふ点がある。藤樹は、だから、宇宙の心に意を注いだのである。そしてキリスト教一神教に近い思想を持ち、仏教に対しては反対した。仏教はあまりに隠遁的だからいけないといふのである。勿論、彼は仏教のためにいろいろと弁護してゐるが、隠遁的仏教には反対してゐるのである。
 中江藤樹キリスト教の感化を受けて、その思想はキリスト教的であったが、母が仏教徒だったので、孝行な彼は母に仏教の経典を読んであげてゐた。中江藤樹のおぢいさんも偉い人で、米子の殿様に仕へてゐたが、伊予の大洲へ行く時に、幼い中江藤材も連れて行った。殿様はおぢいさんを郡長にした。中江藤樹は田舎に行ったが、おぢいさんは字が下手で、本も読めなかったので、おぢいさんは中江藤樹を愛して、勉強さした。
 中江藤樹は、初め、室鳩巣や林羅山の属する朱子学派に熱心であったが、朱子学派では窮屈だ、形ばかりに捉はれてゐては聖人になれないと思ってゐた。父は中江藤樹が十八歳の時死に、母が一人残されたので、母を伊予に連れて行かうとしたが、母は行かうとしなかった。そのうち、おぢいさんが死んだ。中江藤樹は、おぢいさんやお父さんが死んだので、近江小川村に帰って母に孝行しようと思ったが、どうしても帰ることが出来なかった。その時丁度殿様の息子が大名になったので、官を辞して、近江に帰った。時に彼は二十七歳であった。
 私は伊予の大洲にも、近江小川村にも行った。小川村に今日遣ってゐるものは、小さい倉と、粗末な藤樹の書院きりである。琵琶湖畔から一里以上もあったらうか、そこを歩いて行ったのを憶えてゐる。中江藤樹は藤の木が好きだったので、今でもそこには大きな藤の木がある。
 中江藤樹は四十一歳で死んだ。キリスト教の感化は二十四五の時伊予でうけた。村の人はキリスト教には大反対だし、藤樹の学説に就いてあまり考へてゐないし、藤樹がキリスト教から来たといふことを知らなかったので、村の人は中江藤樹を祀らうかといひ出した。
 この陽明学派がキリスト教と一緒になった。が、陽明学といっても、支那陽明学ではなく、日本のキリスト数的陽明学であった。これが熊沢蕃山となり。大塩平八郎となり、西郷隆盛となり、吉田松陰となったのである。
 中江藤樹はかやうに非常に大きな感化を残した人で、日本に於ける動的な聖人の道の開拓者である。日本に於ける陽明学派は中江藤樹から始まつてゐる。日本のキリスト教は迫害を受けたが、中江藤
樹を通じて、神の摂理が働いた。聖人の道はキリスト教によって中江藤樹のうちに伝はった。それは徳川幕府に反対した朱子学派へも伝はった。
 昭和のキリスト教は、ことさら新しい道を歩まないでも、藤樹の道を歩けばいいと私は思ふ。藤樹ははっきりは云はなかったが、私は、彼はキリスト教徒であったといへると思ふ。
 同志社大学教授清水安三氏は、中江藤樹の隣村の人である関係上、数年の長きに亙って、中江藤樹キリスト教との関係を研究せられ、中江藤樹がやはりキリスト教であったことを信じてゐられる。同氏の説によると、中江藤樹は、小西行長の家臣中田某からキリスト教の教へを受けなかったにしても、その当時支那に流布してゐたキリスト教の感化をうけたに違ひないのである。それには詳しい実証があるけれども、私はさうしたことはここには述べない。藤樹の信じてゐた太乙神といふのは、易教に於いては無限絶対を意味する言葉であるが。支那に伝はったキリストは、この太乙神を採用し、その太乙神の信仰中江藤樹に伝はったのである。近江では、安土に太臼といふ処がある。これはラテン語デュースを漢字にあてはめたものであらう。つまり、易教の無限絶対と、ラテン語デュースの両方にかけて、太乙神と云ったのであらうと、清本安三氏は云ってゐられる。しかしその当時、キリスト教は抑圧せられてゐたので、中江藤樹は、床の間に帆柱の十字架を置いて、その帆の上に太乙と書き、それを常に礼拝してゐたことが、弟子たちの記録に残ってゐるといふことである。これは潜伏キリスト教の一つの形であると、私は、清水安三氏から教へられて。今更ながら、中江藤樹信仰と優れた人格が、いづこから来たかを学んだのであった。藤樹先生の弟子熊沢蕃山も、七十三で老死するまで、日本に於いても必ずキリスト教が勝つといふことを絶叫してゐたといふことである。これを見ても、中江藤樹の系統にはキリスト教的感化が多かったことがわかる。

黎明44 人種戦争と宗教

  人種戦争と宗教

  人種の融和点

 私は現実の問題をみつめる。果してこの後、人種間の闘争が経済闘争より大きくなるか? 私はさうは思はない。アブラハム・リンコルン北米の黒人を解放した時に、黒人種の人口は約八百力と推定せられた。これが今日では千三百万までの増加となり、そのうち数百万人が白人と黒人種の雑婚したものの子孫である。
 ニューヨークにおける日本人は、一九二五年の推定によると、五百組以上も白人と結婚してゐるとのことであった。そのうちで最も多いのはスエーデン人と日本人との結婚であった。一方私は南洋における日本人とマレイ人種の雑婚について研究してみた。フィリッピンにおける日本人は各都市において三割乃至四割の土人との混血児を小学校に送ってゐる。マニラにおいては、その程度が少いが、地方に行けば行くほどその程度は甚だしい。こんなことを考へてみると、黄色人種の先端に立ってゐる日本民族は、白色人種とも容易に雑婚し。褐色人節とも自由に混る傾向を持ってゐる。
 コンクリン教授の推定によると、米国における今日の速力で行けば、五千年もすると、世界氏族は相当に混血するだらうとのことである。勿論過去において人種闘争のあったことを私は否定するものではない。北米における東洋民族の排斥は今なほ続いてゐる。
 今度、比島人四万人が比島独立とともに故国に送還せられた。白系アルメニア人とトルコ人との間の猛烈な闘争は、世界の知るところである。最近におけるナチスユダヤ人迫害も世に知れたことである。
 しかしエチオピアとイタリーの問題を人種戦争のみから見ることは間違ってゐると思ふ。その根底に横はるものは資本主義的経済問題である。

  良心宗教による奴隷解放

 インドにおけるブラマ教は、人種的階級制度を宗教的戒律の中に繰り込んだ。それを仏教が破壊せんとした。しかしインド仏教は亡びてブラマ教が今なほ勢力を振ってゐる。ガンヂーは新しい運動を起して、このカスト・システムを破壊せんとしてゐるけれども、ブラマ教の域内において、どれだけ成功するか問題である。
 近代資本主義は十一世紀かかってキリスト教が破壊した西欧の奴隷制度をもう一度復活した。即ち、良心宗教が本能経済に敗れる時、人種的迫害が直ちに復活する。米国において奴隷制度が確立したのは、ピューリタタニズムが繁栄の前に屈服した時であった。今日北米テネシー州の山の中に、初めから奴隷制度に反対して貧乏することに甘んじたピューリタンの団体が残ってゐる。良心宗教を守らうとするものは、繁栄を蔑視せねばならない。一八六五年、アブラハム・リンコルンは国民的にこの良心宗教を回復し、ゲテスブルグの徹夜の祈祷によって、奴隷解放の宣言に著名することの決意をきめた。 
 まことに人種戦争を完全に解脱し得るものは、宇宙意識の拡大、即ち良心宗教の確立のほかにはない。

  宗教意識の混乱と人種憎悪の復活

 宗教運動は意識運動である。勿論全意識に目覚めるまで、人間は意識内容を形成する諸要素を宗教化する傾向を持ってゐるから、一概に宗教といっても、宇宙意識を生活内容とする良心宗教でなければ、決して奴隷解放は出来ない。奴隷解放の出来ないものに人種闘争を絶滅し得る力はない。であるから、延命長寿を祈るアニミスティックな信仰や、武運長久のみを祈る力の宗教や、運勢の吉凶を占う利己的心理宗教、あるひは社会血族の保全のみを祈る低級社会宗教では、人種闘争を絶滅さす力を持ってゐない。これら生命、力、変化、生長等、宇宙に存在する不思議な実在の副性は一つ一つ宗教的の薫りを人間に与へる。
 しかし、われわれはその局部的な薫りのために、全的宇宙意識の存在を見失うてはならない。この全的宇宙意識の認識と把握が、人類歴史に導入せられる時、そこに人類相互の連帯意識が生れ、最微者に対する贖罪愛の感情さへ湧き上るのである。仏陀は消極的にその道をさぐり当てんとし、キリスト積極的に十字架を荷うてエルサレム郊外の露と消えた。

  霊魂力の勝利

 人間は生理的心理的に約束づけられてゐる。そのために宇宙意識に覚醒したものも夜になれば昏睡に陥ってしまふ。これは社会的に云っても同じであって、われわれの意識を混乱せんとするアルコールや梅毒、モルヒネコカインそして機械文明が出生して以来、人類自らが生み出した強い刺激に酔うて、宇宙意識の純粋さに立ち帰る機会を失ってゐる。しかし人類もこの機械的生産に少し馴れて来れば、また少しの落着きを発見するであらう。その時、人間の本能的人種憎悪の観念は、人間が持つべく与へられた贖罪愛の霊力によって整理され得るであらう。
 今アフリカの赤道直下に宗教的救療事業に従事してゐる、ドイツ哲学者アルベルト・シュワイツァーは、彼自らの事業を白人が黒人に対して犯して来た罪悪の贖ひの運動であると云ってゐる。かうした霊魂の覚醒によってのみ、真実の意味における人種闘争は絶滅し得るのである。

  神なき経済革命の悲哀

 悲しくもクロポトキンロシアに関する予言が適中した。ロシアの第一期五箇年計画は見事失敗した。米国の雑誌『カーレソトヒストリー』の報ずるところによると。ロシアの食糧政策は、全然失敗した。最近ロシアの人々は饑饉に苦しみ。五万の列車、百五十万
噸の食糧は掠奪せられ、配給は円満を欠き、全ロシアに食糧騒動が勃発してゐるといふことである。
 クロポトキンが、地方自治を根本にせずして、中央集権的な暴力革命をやれば必ず失敗すると、レーニンに忠告した言葉が思ひ当る。ロシアは人間の心理を無視し、宗教と道徳を迫害した結果、暴力による政治革命には成功したけれども、経済革命には悲しい失敗を見てゐる。ああ、それはあまりに悲しい実験であった。神と良心とを無視したフランス革命が失敗したと同じやうに、ロシアも経済革命に失敗したかと思ふと、ダエエルの予言が思ひ当る。「メネ・メネ・テケル・ウパルシン!」。ロシアの唯物暴力主義的の運命も数へられた。人間の賢さは、神の愚より劣るのだ。ああ、ロシアの運命も数へられた。

  レークスの故郷グロスターを訪ふ

 お伽噺に出て来るやうな小山や牧場を通り抜けて、幾哩も幾哩も続くホーソーンの生垣を打ち見守りながら、ロンドンから西に走って四時間くらゐすると、古い古いグロスターの町に着く。
 そこは、アーサー物語に出て来る多くの騎士たちがゐた処である。そこの一番大きな教会は英国の有名な聖堂の一つに数へられてゐる。その建築の様式も、ウェストンミンスター・アヴェなどに比べて、決して劣るものではない。その教会堂のまん中に十字軍に従って雷鳴をぬかせた英国の王様エドワード二世の寝棺がそのまま横へられてあった。何でも巡礼者は。その聖堂の西木戸から跣足で這入って、その棺のぐるりを一巡するのが一つの行事であったと、案内者は私に話してくれた。
 私かグロスターに行ったのは、そこで、独立労働党の大会が開かれたからであった。しかし私は、労働党の月並の議事より教会堂の建築の方にどれだけ心を惹かれたか知れない。私はグロスターを訪問するまで、英国の聖堂にあまり心をひかれてゐなかった。私は英国人は無器用な国民で、美しいものはあまり残してゐないと思ってゐた。
 実際、英国に行って誰でもが訪問するロンドン塔を見ても、美しいといふ感じを少しも与へてくれない。英国に行くと宮邸までが牢獄に見える。実際、宮邸を牢獄に使ったことが多かったので、一層そんな感じが与へられるのであらう。鎧を見ても、武器を見ても、中世紀の英国の日常生活に美しさを求めることは非常に困難である。
 それで私は教会堂にもあまりいいものは無いだらうと思って馬鹿にしてゐた。西洋建築史などで英国にはゴシック建築が不思議に多く残ってゐることだけは読んでゐた。しかしその多くは、日本でいへば藤原の末期から鎌倉時代にかけての物ばかりであるから、古い古いといっても、東洋に残ってゐる古建築物に比べては、凡て新しいものに属してゐる。それで私は、イギリスの聖堂建築を馬鹿にして、研究する気ではなかった。
 ところが、グロスターに着いて、その聖堂があまり美しいので、グロスターに四日ゐる間、私は毎日、聖堂の中に瞑想するために這入った。或る時などは、一哩も二哩もの遠方から。その美しい聖堂を眺めてみようと思って、郊外まで一人で歩いたことがあった。聖堂は遠くへ離れれば離れるほど美しく見えて、まるで玉のやうであった。
 勿論、聖堂の中に這入ると、何だか真言宗のお寺の中に這入ったやうな気がして。生命が抜けてゐるやうな気がしないでもなかった。
 そんな事を考へながら労働組合員の或る者にぶっかった時、
「この町からどんな人物が出たんだね? 何か面白い歴史的な出来事が、ありましたか?」
 と訊いてみると、彼が躊躇せずに私に答へたのは、日曜学校の創始者ロバート・レークスの事であった。
「この町には、お前さん、ロバート・レークスが最初の日曜学校を創ったんだぜ」
 さう注意せられて案内記を読んでみると、なるほど、レークスの事を町の誇りとして書いてあった。この時の私の心持からいへば、私が訊きたかったのは、レークスの事ではなくて、あの美しい聖堂に関連した伝説であった。私には巡礼といふことが非常に面白い研究の対照であった。群衆心理から考へても、宗教心理から考へても、また人文地理から考へても、キリスト教の巡礼といふことは、日本の巡礼と比べてどれくらゐ私の注意を惹いてゐたか知れない。
 それで私は土地の人から昔の巡礼に関する伝説でも訊きたいと思ってゐたのだった。ところが、その労働組合の会員は、巡礼に関する伝説も教へてくれなければ、英雄に就いても語ってくれず、町の誇としてロバート・レークスを私に教へてくれた。そして私は古い時代の宗教心理や群衆心理を考へる代りに、ロバート・レークスを誇りとしなければならないやうになった、英岡に於ける産業革命時代の宗教思想を考へてみた。
 実際、巡礼とグロスターの聖堂には、神秘と憧憬が遺ってゐる。
けれども、日曜学校とレークスはあまりにも近代的であり、神秘が少いやうに思はれた。だが、私はすぐ私の考へを変へた。どれほど美しい聖堂があっても、生命のぬけた、迷信深い形式宗教の墓のみであったならば、聖堂は叩き毀してしまった方がいいのだ。
 さうだ、レークスは、形式宗教に飽き飽きした多くの家庭の子供等が、産業革命に逢って街上に放り出されてゐるのを見て辛抱しきれなくなった結果、世界最初の日曜学校を始めたのだった。これだ、これだ。そこには神秘の空気が少くても、活宗教の活路があるのだ。今日英国の目曜学校の生徒は、一千百万人を越えてゐる。そして英国の国民教育の最も大事な任務を果してゐる。グロスターの聖堂よりか、この千百万の生ける聖堂こそ、このグロスターから始まった大きな建築運動であると、今更ながら私は新しい考へに打たれたのであった。
 グロスターの町は、オックスフォードによく似た狭苦しい、英国流の町であった。そしてそこには、多くの伝説が町の角毎に残ってゐるやうに私には思はれた。しかし、今なほあちらの跡地から、こちらの長屋から、貧しい子供等が多く集められで。宗教教育の顧みられなかった今から百五十年も前に、このグロスターの一角から、世界的の大事業が知らずして起ったと思へば、全く不思議でならない。グロスターは人口八万くらゐの小さい町ではあったが、その聖堂の蔭から世界の宗教教育上に一大革命が徐ろに起ったと思ふと、神の不思議の摂理を今更ながら思はざるを得ない。

黎明43 キリスト劇について

  キリスト劇について

 最初、佐藤紅緑氏の戯曲キリスト」が『大阪毎日』に出た時、私は佐藤氏の苦心を思うた。佐藤氏は勿諭キリスト研究の専門家ではない。それで研究的にいへば色々と問題になるところもあらうが、キリストについてあれだけの理解をもち、あれだけ戯曲化し得られたとすれば、まづ成功であると考へなければならぬ。キリストの思想をあの短い文句の中にあれだけ生かし得ることは、平凡な戯曲家には出来ない仕業である。時間の関係や、思想的発展についての経過をあの戯曲に要求することは困難であらう。劇として、永久の「愛」と、刹那的愛の区別を明確に現したものとしては、戯曲キリスト」は大成功であらう。
 沢田正二郎氏がその演出に苫心した事についても、私は同情と敬意を払ひたい。私は昨冬十二月の或る晩、本郷座を見に行った。そして、或る程度の満足を感じて帰って来た。私は、終り二幕を見ることが出来なかった。しかしあの種の困難な戯曲をあの程度に演出し得る沢田氏はやはり平凡な人間ではない。キリストが少し堅くなり過ぎると人はいふかも知れない。しかし、あの程度で結構だと思ふ。理窟をいへばいくらでも註文は出てくる。しかし、あの種本をあの程度で演出し得るなら非常な出来栄えだと思ふ。
 私は見なかったが、最後の十字架のシーンを見た私の友人は泣いて帰って来た。或る老牧師は、舞台に飛び上って、代って十字架を担ぎたかったと云った。それだけで、もうこの戯曲は大成功なのだ。もし、この戯曲に欠点がありとすれば、沢田氏に欠点があるのではなく、戯曲の構成そのものが、多少無理をしているのである。それは五幕十二景に(さうだと私は記憶してゐる)あのキリスト一代の出来事をすっかり畳み込まうとしたこと。劇としての要素を豊富にするため、母
マリアと、マグダラのマリアに重大な任務を負はせたことにある。
 マグダラのマリアモダン・ガールのやうだと、或る人が評してゐたが、さういふ気味がないでもない。どうも、松井須磨子の「カチューシャ」を再現させたやうに私に取れた。もう少し落著いたマリアが欲しいやうに思はれる。
 しかし、みんなが、キリストを自分のものと思ってゐるところなどは、劇全休を通じて、一種の倫理観を強く民衆に教へてくれる。
 第三幕は、オスカア・ワイルドのヨカナンを思はせるところである。しかし、王へロデの王宮の後にゲッセマネの祈があるところなどはとても感激的なシーンである。あすこは誰でも感じたと見えて、見たものが、一様に私にさう云ってゐた。
 ただ私に取って耳ざはりになったのは、エルサレムの讃美歌であった。「すすめつはもの」のやうな非芸術的な拙い歌を歌はないで、中世紀のチャントでも歌ってくれるとよいと思った。戯曲にはさう書き入れられてあるが、せめては、賛美歌「四八二」あたりをそのまま歌ってくれるとよいと思った。日本の讃美歌も最近著しく進んだから、二十年前によく歌はれたアメリカの歌は、今ではもうわれわれの耳に雑音として聞えるやうになった。あの荘重な戯曲に、あの雑音を配合さぜられてはたまらぬ。もう少し薫りの高い、メロディーの豊かなものを選んで欲しいものだ。しかしこんなことは劇全体としては小さい問題だ。全体として、私はこの戯曲は成功してゐると思づてゐる。
 キリスト劇にも色々なものがある。キリスト劇と称して、反キリスト的のものも相当にある。それ等に比べて、佐藤氏のものは、キリストを真正面から見てゐるだけに、あまり悪い感じがしない。私は、内観的傾向のあるこの劇が民衆に受けるか否かは知らぬ。しかし、これが演出され得る時代の来たことを心より喜ぶものである。

黎明42 常識による環境の支配

  常識による環境の支配

  知識の限度

 引力の発見者ニュートンは、われわれの知識を、太洋を前にして、岸辺に池を掘る子供等に譬へた。われわれの知識は、その子等が掘る砂の池にも等しいのだ。――小池に這入った僅かの水を、われわれが喜んでゐるうちに、大洋は涯しなく拡がってゆく。ああ、何といふ貧弱さだらう。それを思ふと、われわれは無限の世界を前にして、おのづから頭が下る。
 世界の栄華をといふあのソロモンも、神から、お前の要求は何んでもきいてやるから、思ってゐることを祈れといはれた時、
「神よ、智慧を与へ給ヘ!
 と祈ったさうである。私も同じ祈を。今日も繰返したい。
 私は、天の星のことが知りたい。風の流れと、雲の形の物語る意味と、土と、小石と、砂の教へてくれる地球の雁史に就て学びたい。それよりも、私は、路傍の草木の名が知りたい。その生活様式と、花の進化と、植物進化の方向が知りたい。植物学者は、局部局部を教へてくれるけれども、私の知りたいのは、宇宙の進化の方向に関係を持ってゐる植物進化の雁史である、
 なぜ、ベンペン草は、三味絲の「ばち」のやうな奇妙なものを幾十となくっけてゐるか? なぜ、無心の植物に、花といふ恋愛の表象が現れてきたか? 私は知りたい、知りたい。裸子植物が、なぜ針葉樹に多いか? なぜ或る本に葉が広くて、なぜ或る木は葉が針になってゐるか?

  昆虫の本能

 私は知りたい、知りたい。昆虫は、人間のやうに、機械を発明しないのに、あの小さい身体で飛ぶこと右出来れば、水中にもぐることも出来る。土中にも穴を掘れば、蛹のやうに仮死状態にはひることも出来る。
 或る生物学者は、それらの状態を見て、ただ機械的にのみ解釈せんとしてゐる。しかし私は、源五郎虫が空中に飛び上る翅を利用して、すぐ水中にもぐる潜水設備に変転し得る不思議を、ただ機械的だとは思へない。不思議だ、不思議だ。昆虫の変態は不思議だ。ラボックは、昆虫の変態は地球に関係があると、われわれに暗示する。
 さうかも知れない。地球に大変動があって、毛虫として棲息し難い時代があったために、昆虫は、長く蛹の形態をとったのかも知れない。それにしても、誰が、あのやうな不思議な生命保存の秘訣を教へたらうか?
 なぜ、蜜蜂は、産児制限の方法を知って居り、雄を生む時には、処女懐胎の神秘をそのまま実現し、雌を生む時には、なぜ雄の精虫を交へるだらうか? どうして、蜜蜂の女王は、雄蜂の精虫を、特別な袋に貯蔵する秘訣を憶えたらうか?
 或る学者は昆虫の生活は地球の表面に於いて長いから、本能的に生活を支配する力を知ったのだと云ってゐる。それが私には不思議でたまらない。なぜ、人間には、昆虫の持ってゐる本能が与へられてゐないだらうか? 人間は飛行機を持たなければ飛べないが、昆虫は、翅をもって飛ぶことが出来る。人間の知識より、昆虫の本能の方が、遥かに優れてゐるかの如く見える。なぜ本能といふものは、そんなに賢く芽生えるであらうか?
 昆虫ばかりに限らない。私は、遺伝の法則をもう少し深く知りたい。更に、突発趨移の季節と、方法と、傾向について知りたい。

  絶えざる疑問

 鳥に就いて知りたい、なぜ、孔雀が、あの美しい羽毛を選んだか? なぜ、鳥の卵が、短時間の間に、形のない無生の世界から、有生の世界に甦ってくるか? 私は更に、海の魚について知りたい。うなぎが、どこで育ち、どこからどうして川に上ってくるか? 私は、鰹が産卵する場所を知りたい。鮪と鯔(ぼら)の巣を知りたい。私は魚の心理が知りたい。

  知識慾

 私は、人間が知りたい。なぜ、人間が、こんな沢山の人種になったか? なぜ。経済がかく混乱するか? 私は、人間が耕作する農業につき、人間が発明する工業に就き、知りたいことばかりである。
 しかし、私は、知識だけでは、満足出来ない。私は、過去に就いての知識よりか、未来の鍵を開く智慧が持ちたい。私は、ノートブックに頼らなければ、機械の据附けが出来ないやうな大学式知識は欲しくない。ノートが無くとも、機械の組立てを自由に完成し、速度計を持たなくとも頬に触れる空気の触れ具合で、飛行機の速力が解るやうになる航空者の本能化した智慧が欲しい。ニヂソンは、学問のない人だったけれども、三千の発明をした。彼は、数学は下手糞だったけれども、多くの伝記機械を発明するに困難を感じなかった。エデソンは絶えず常識といふことをやかましく云った。しかし彼のいふ常識は、知識からきた常識ではないのだ。それは。智慧そのものであったのだ。智慧は、内から湧いてくるものだ。不思議なる洞察力、不思議なる予見、それが智慧の泉である。

  知識と常識

 ドイツ哲学者、ウヰルヘルム・カイザリングは、近代科学の与へる知識は、人間を自動車連転手のやうなものにしてしまふと注意した。運転手は、ガソリン・エエンジンの知識を持ってゐる。しかしそれを反覆することによって、何等未来に対する洞察もなければ予見もない。従って発明もなければ。発見もない。
 常識といふものが、唯単に、博覧強記といふことを意味するなら、記憶の悪い人にとっては、要求することは間違ってゐる。けれども、常識といふものは、必ずしも博覧強記を意味しない。それは、エヂソンの如く、大学校を出なくとも、接する事物に対して、洞察力を持っといふことである。
 そのために、われわれば絶えず、接触してゐる周囲の事物に就いて、洞察力を持ってゐなければならない。多くの雑単の名を一々知らなくとも、その雑草の生活様式と、人間に対する効用を、概括的に知らなければならない。それは動物についても、気象に就いても、同じである。

  知慧のない女たち

 嘗て、大阪の社会課で調べたことがある。数千人の労働階級の家庭に於ける乳児死亡率と、女学校出の娘たちの形成してゐる家庭に於ける乳児死亡率の比較研究をしてみると、不幸なことには、高等な教育を受けてゐる家庭の方にかへって乳児死亡率が高かった。そして、子を生んだことの経験のある。知識の進んでゐない、労働階級の家庭の方が子供を死なす率が低かった。それを調べた島村藤人氏が報告して曰く。それは、労働階級の家庭に於いては、子を生ん
だ経験のある祖母がついてゐるに反して、女学校出の家庭は、その両親と別居してゐるためであると。
 ここに、知識と智慧がの差別がある。女学校出の人々は知識を持ってゐるけれども、智慧がない。彼女等は、哀れにも、教科書だけで育児が出来ると思ってゐる。それに反して、知識はないけれども、智慧のある労働階級の家庭に於いては、嘗て子を生んだことのある母が、若き産婦を指導することによって、子供を死なす率が少くなる。
 これは多くの発明家の場合に於いても同じである。多くの機械器具の発明は常識の所産である。無線電信を発明したマルコニーは、大学者であるといふことは出来ない。電気に就いての常識を持つことによって、彼の洞察力が。無線電信へ高飛びさせたのだ。自動車を発明したヘンリー・フォードについても同じことがいへる。彼は常識の持主であったのだ。遺伝の法則を発見したメンデルに就いても同じことがいへる。彼は一種の洞察力を持ってゐたのだ。彼は、ダーウィンのやうな大学者ではない。彼は豌豆を庭に植ゑることによって、赤の花と白の花が、自己媒介の後、代数二次方程式の形であらはれてくることを発見した。それは全く一つの洞察力の賜物である。

  エスキモーの常識

 エスキモーが北氷洋に棲息し、ギリヤークやオロチオン族がシベリヤの荒野に生活し得るのは、全く先祖伝来の常識によってゐるのである。
 私は、樺太の博物館や、シカゴ博物館、またカナダトロント博物館で、北極に近い人々が魚の皮で雨合羽を作り、獣の皮で着物を作ってゐる実状を見て、彼等の驚くべき智慧に驚嘆したことがあった。われわれの想像では、北氷洋の近くは誰一人住まない筈だのに、エスキモーの常識は、馴鹿や海豹の皮を着て、平気で零下幾十度の寒い処に耐へてゆく。薄い天幕の上に氷が張り、雪が積もれば、不思議に、室内は一定の温度を保つやうになり、少し油を焚いて部屋を温めると、その温度が。相当に長く続くといふことである。
 私は、ギリヤークの作ったスキーを見て驚いたことがあった。スキーの裏に海豹の皮を張り、どんな雪の積もった坂道でも、どしどし登って行くのである。さうした智慧は、常識が発達してゐなければつくものではない。

  治療の常識

 これは病気の治療などに就いても同じである。ドイツ北欧に林檎療法といふのがある。数ケ月治らない胃腸病の人が、林檎を大根下しで下して、そればかり食ってゐると、二日くらゐで綺麗に治ってしまふ。また、湿布療法が、大底の病気に効くことは、驚くくらゐである。医者が治らないといふ中風を湿布で治した例は、いくらもある。
 光線が肺病に効くといひ出したのは極く最近である。ほとんど嘘のやうな話であるけれども、光線のうちには、黴菌を殺す力もはひってゐれば、栄養になる力もはひってゐる。光線療法といって、近頃は、日光浴をする人が殖えたが、この療法の如きは、常識が医学を引摺ったやうなものである。
 これは空気療法や栄養療法についても同じである。最初、空気療法が米国から伝はってきた時、肺病人は風邪をひくことを怖れた。しかし今日では、それがもう常識になってしまった。人間、空気を吸って生きてゐることはわかってゐるけれども、馬鹿なわれわれは、部屋を閉め切って、炭酸瓦斯を吸ひたがる。その結果、肺結核患者が殖える。
 栄養の場合に於いても、常識が発達すれば病気にかからないものを、御馳走を食って病気する人が多いところを見ると。如何に人間が馬鹿であるかがわかる。腎臓炎を患って私の気がついたことがあるが、尿に効く薬として、日本の大底の毒草でない植物の葉が用ひられてゐるといふことである。灸が効くといって、昔から大勢の人がそれを実験してゐるが、最近灸を研究して博士になった人もある。

  常識は救ふ

 有名な画家高島北海氏の令息三郎氏は、四つの時に疫痢に罹って死んでしまった。医者はこれを見放した。死んで一時間くらゐ経って、産婆さんが飛んで来た。
「では、私にこの死骸を下さいましね。私は。この死骸にからしを貼って、生き返らせてみますから」
 さういって。産婆は子供の身休にぺたぺたとからしを貼り附けた。すると、どうしたことだらう、死んだ病人が生き返ってきた。そして高島三郎君は、その後、三十年以上も長生きをした。
(この話は、私が三郎君の実兄から聞いたことであるから間違ひないと思ふ)
 印度の苦行者は、禅室に入って断食した結果死んでしまふ。しかし、また一ヶ月も死んで死骸を取り出して、からしを全身に貼り付けて、舌を掴み出すと、不思議に蘇生することを、ドイツの生理学者などが報告してゐる。ドイツの有名な生理学者のマクスフェルオルンなどが、これを記載してゐる。からしが、こんな事に用ひられるといふことは不思議なことであるげれども、実際に効くのだから仕方がない。
 瘭疸にかかって外科手術をすると、四十日も五十日も悩む。石油の湿布をして一日括っておけば、そのまま治ってしまふ。嘘のやうだけれども、ほんとだから仕方がない。
 かうした事実は、まだ幾らでもあるだらう。要するに、われわれは常識を持たないために、どれだけ生命を傷附け、どれだけ損をしてゐるかわからないと思ふ。

  非常識船を沈む

 一万噸に近い国際汽船の大福丸が、大平洋で沈没した。大福丸は、小麦を何千噸と積んでゐたが、波に揺られて小麦が一方に偏し、そのまま窓から水がはひって沈没したのであった。これは一九二五年の春の出来事であった。常識のある船長は、小麦を入れる場合に、大底板で仕切りをするのだが、仕切りをしないで、そのまま船に積み荷したために。一万噸に近い船を沈没させたのであった。

  水は火を消す

 大正十二年の震災当時、幾百万の市民は東京から逃げた。その時神田和泉橋の附近の人々は、ポンプを取り出して消防に努めた。それで、あすこだけは火の海の中で離れ小島のやうに助かった。消防すれば火が消えることは誰でも知ってゐる。しかし、誰でも知ってゐるその消防を江戸っ子はしなかったのだ。それで東京は七割四分燃えてしまった。あの時、東京の人々が、もう少し気を落着けて消防にかかってゐれば、東京は救へたらうと私は思ふ。 東京の火事は、いっも、朝は北から南へ(陸から海へ)延焼する。そして晩はその反対になる。徳川時代三百年の’東京の火事の歴史を調べてみると、東西に延焼した火事といふものは一つもない。もしも、この後東京に大きな火事があるとすれば。それは南北に燃える火事であることに決ってゐる。それで私は、震災当時、永田市長に忠告に行って、幾つかの小公園によって、本所深川を東西に区切って欲しいと頼んだ。しかし復興した東京にはさういふことがしてない。この次の東京はまた、安政年間の火事や大正十二年の火事と同じやうに燃えるだらう。
 単なる雑駁な知識でなく、深く宇宙の智慧に徹底して、環境を支配する常識が現代人に欠けてゐることを私は痛感する。私は、国民の一般が、もう少しかういった方面に修養の出来るやうに祈るものである。

黎明41 物質の彼方への信号

  物質の彼方への信号

 魂よ、お前は。どうしてこんな不思議な世界に生きてゐるのだ。お前は、狭い世界に囲まれて、呼吸のつまるやうな生活をつづけてゐるが、目を瞠って、お前の周囲を見よ。そこには、土と。雑草と、松と。笹と、小鳥と、花と、星が、おまへの番をしてゐるではないか。おまへが別に頼みもしないのに、それらのものは。みんな、おまへを取巻いて、おまへに面白い通信をしてゐるではないか。だから、おまへは、おまへ以上の不思議なものがおることを否定出来ないだらう。それらのものは、絶対の可能性によってつくり出されたものである。それどころではない。おまへそれ自身の存在が、絶対の可能者の力によって、生れたことを忘れてはならない。
 言葉で尽せない神秘が、物質といふ扉の向うから信号してゐるやうに、私には響く。ああ、どうして私は、こんな不思議な世界に生れたのだらう。

黎明40 隠れた善事

  隠れた善事

 神戸の新川細民街に私が生活してゐた時、一人の青年労働者と知己になりました。青年は琺瑯鍋の熟練工でありました。父がゐない彼は、まだ丁年に充たないが、既に一家の柱石となって、病身の母と虚弱な弟妹の扶養の責任を負うて居りました。
 細民街だけに、周囲には、犯罪者、無頼漢、酒飲み、不良青年が多いなかに、その青年は全く異彩を放ってゐました。悪習に浸らないのみでなく、進んで他の青年たちに範を垂れてゐました。その中でも、更にその念を強くさせられたのは、彼が誰にも語らずに、その街の貧困な一理髪業者に十円を与へてゐた事でありました。十円といへば、多額な金ではない。しかし彼の半月の給料に近い額である。それを惜し気心なく彼は散髪屋の一家救済のために毎月与へてゐたのです。私は余程後に、恵まれた人からそれをきいて、青年の陰徳を賞讃したのでありました。
 何か、彼にかうした美しい事をなさしめたか。それには一つの動機がありました。彼がまだ少年の時でした。或る冬の朝、彼は工場に通勤の道すがら、あまりの寒気に小さい両手を自分の息で暖めながら歩いてゐました。と、向うからやって来た一人の中年の婦人が、この少年労働者を可哀さうに思ったのでせう。風呂敷に包んでゐた焼きたての芋を彼の小さい掌に与へました。思ひがけなく暖い同情を得て、少年の心は燃えました。苦しい世の中にも、人の情はあるものだと心に深く感銘しました。
 この感激が、あの青年の胸から、社会の下層階級に向って美しい行為として表れるのでありました。
 後年、彼は神戸市の労働紹介所主任となりました。そして十数年後の今日なほ、労働者の福利増進のために、日夜心血を注いでゐます。
 先頃、現職を辞さうとしたとき、彼を慈父の如く慕ふ労働者は、心からその留任を望み、四千の労働者は迪連名調印して嘆願書を提出しました。これに依っても、彼の人格徳望を窺ひ知ることが出来ます。

黎明39 科学的互助愛による自力更生

  科学的互助愛による自力更生

  空地の利用

 遅れてゐる農村の自大更生は、なかなか容易ではない。殊に、土地を持ってゐない地方の自力更生は、三つの方法をとるより仕方がない。第一は、村から少し離れてゐる処でもかまはない。自転車に乗ってそこを開発に行くこと。第二は、労力をもって立つこと。第三は、協同組織によって、立体的に伸び上ることである。
 現に、大阪府三島郡山田村の二十七戸の小作人は、数前年に耕作してゐた土地全部を地主に取上げられた。その時彼等は奮発して養鶏組合を作り、その飼料をつくる畑を数里離れた処に経営してゐる。これなどはその一例である。
 日本の農村には悪い癖があって、元気よく自転車に乗って遠くへ耕しに行かない処が多い。文明の利器を利用して。山でも川縁でも、空いてゐる土地はどんどん耕作する方法を考へたらいいと思ふ。殊に、空地利用を忘れてはならない。蜜柑、柿、胡桃、梨、無花果。杏等はすぐ相当の収益が上るから、かうした樹木収穫を計画し、山では山羊や豚を飼ふやうな方法をとるのが心要だと思ふ。山羊を飼ふことは最も必要なことである。人間が笹を食ふ代りに、山羊に笹を食ってもらって、山羊の乳を絞って飲めば、人間が笹を食ふのと同様である。
 山羊は貧乏人の友達だと昔からいはれてゐる。大いに山羊を利用する必要がある。
 内地でも、まだ漁業なり、山林開拓なり、いくらでも生きてゆく方法はある。どしどし自然を征服するつもりで発展的な努力をする必要がある。海岸の狭い処などでも、少し気長にやれば。深い処にイクボ蛎を養殖し、その水面では海老を、伊豆地方でやってゐるやうな方法でう分養殖が出来る。湾の深い処は適当の工夫によって、鯛の養殖さへ困難でないと考へられる。さういふ風に、常に土地を立体的に利用する工夫を考へなければならぬ。

  科学的相互愛に生きよ

 不良少年が団体を作るやうなつもりで、善良青年或ひは気の合ふ同志数人が。互助組繊をすることを契ひ、経済を共にし、労力を分ち、協同経営をすれば、必ず食ふ道は開けるものである。これは生産方面で特に著しい効果を納めることが出来る。また消費組合に於いても同様であり、信用、販売。共済の各組織に就いても同様のことがいへる。農村に医者がないといって困ってゐるけれども、医療利用組合を作れば、医者などは容易に農村に来て貰ふことが出来る。
 科学的努力と互助愛の精神が、農村にどれくらゐ実現せられるかによって、自力更生の方針は決る。

   支那の移民に学べ

 しかし、土地が得られなければ、労力を惜しまずに働くより道はない。失業時代であるから、人が使ってくれなければ仕方がないが、支那人が移民するやうな方法でやれば、食って行くには困らない筈である。支那人は移民するときには、まづ雄雌の鶏数羽と、豚の雄雌を持って、山へでも何処へでも行って、そこに小屋を造り、玉蜀黍を播き、粟を播き、豚を飼ふ。そしてその間の食糧は毎日鶏が生んでくれる卵を食ひ、玉蜀黍が大きくなる三四ヶ月の間、友人から貸して貰った食糧で饑ゑを凌ぐ。暫くして豚が大きくなり、雛が大きくなると、もう占めたものである。彼等は骨身を惜しまずに原野を開墾して、食ふだけの物を造ってゆく。満洲を開拓してゐる山東の苦力は、多くこの調子で移住した連中である。日本には、三百五十万町歩の原野が、まだ内地だけにでも捨てられてゐるのだから、食ふだけのことが気にかがれば、山東移民の調子で、かうした原野に引越しすればよいと私は思ってゐる。それに対して労力を惜しんではならぬと私は思ふ。
 これは世界の移民が皆経験する初歩のやり方であって、労力を惜しまなければ、決して飢ゑるものではない。
 しかし、金儲けをするためにさうしてはならない。金儲けが出来るやうになるには二少くとも三四年はかかる。
 以上は主として個人的に自力現生する場合であるが、社会的に自力更止しようと思へば、協同組合の道をとるよりほかはない。

黎明38 樹木農業の創始者ラッセル・スミス

  樹木農業の創始者ラッセルスミス

 一九三一年の秋の事であった。私は、ジョン・ラッセルスミス教授に、米国フィラデルフィヤの近郊ペンデルヒルで会った。彼はまだ年若く。四十近い、中背の人であったが、非常に気持のよい印象をうけた。私はその時まで、彼が非戦論で有名なクエーカー派の一団に属する人とは知らなかった。私は偶然食糧問題の研究から、彼の書物を手に入れた。そして彼が、地球の’表面に於ける食糧の凡てに就いて、くはしく知ってゐることに畏敬の念を感じた。その後間もなく、日本に於ける食糧問題が沸騰してきたので、日本の識者階級に訴へようと思って、私は友人の力を借りて彼の書物を翻訳した。その書物の末尾では、食糧問題の最後の解決は、樹本樹物にあることが高調されてゐた。
 しかし、その短い論文では、樹木農業の実際問題について、くはしくわれわれに報告してくれなかった。ところが、最近になって、彼は米国の領土を基礎にして、くはしい樹木作物の調査を発表した。私はその書物を読んで非常に感心した。彼の主張によれば、人間及び家畜の食物としての蛋白、脂肪、ビタミンは、いづれも完全に、栗、胡桃、椎、アルゼローバ、蝗豆、ヒッコリー等の樹木作物によって得られる事を主張してゐる。
 彼は哲学

2014-12-29

黎明36 天の兵車

  天の兵車

 敵の重囲に陥ったエリシヤとその弟子は、武装もせずに立ち竦んだ。エリシヤは祈を知ってゐたが、弟子はこれを解しなかった。慌てたのは弟子であった。どうすればよいかとエリシヤに訴へた。エリシヤは祈った後静かに弟子の目を開かせた。
 見よ、天軍天馬が彼等を見えざるうちに守って、敵の重囲を無意味ならしめてゐるではないか。この超自然的な、宇宙絶対の神の奇蹟は、神に属くもののみ知り得るものである。
 祈っては戦ひ、戦っては祈り、資本主義の重圧に、奸悪なる世界の迫害に、不死身の努力の出来るのは、天の兵車が、われわれを守ってくれるからである。
 くすんだ魂よ、困難を前にして屈するな。汝の前で紅海は左右に分れ、沙漠にはマナが降る。エリコの七周に城壁は戦はずして崩れ、ベテホロンに天よりの石が降る。くすんだ魂よ、エリシヤを守った天の兵車は、今も汝を護ってゐることを記憶せよ。

黎明35 眼と精神美

  眼と精神美

  心理作用と眼

 眼は人間叡智の源泉である。それで心理的努力を払はなければ、眼が死んでしまふ。
 眼には六つの筋肉がある。よく書物を読んだ人の眼の筋肉は非常に発達して、たとへ細眼である人でも不思議に大きく開くことが出来る。それのみならず、瞼が引締ってゐて、書物を読まない者より美しい曲線美を持ってゐる。野蛮人の女の眼は物にびっくりしたやうな据り方をしてゐて、眼球を美しく廻転させることをしない。

  瞼と習性の結晶

 眼球の筋肉と瞼の動き方は、人間の感情を表す上に於いて、特別な働きを持ってゐる。怒る人々の眼が吊り上り、笑ふ人々の眼が尻下りになるのは誰でも知ってゐるが、さうした眼の筋肉は習性を持つために、せっかく娘が美人に生れっいてゐても、結婚後、邪淫の生活を送ったり、悲哀の生活を送ったりすると、眼球の筋肉が習性を持ち、眼の周囲に争はれない邪淫の相や悲哀の相が表れてくるものである。

  鬼のやうな瞼

 中で最もいやなものは、上瞼が三角の形をして、鬼の面とそっくりの輪郭を形成する。また下瞼には特殊な皺が寄って、邪淫の相を表してくる。
 かういふことから考へて、私は眼の美しさを保つために、ただマッサージをしたり、美容術だけを外側に施しても、何の役にも立たないと思ってゐる。精神修養を怠れば、それがすぐ心理作用として眼球に働きかけ、瞼の習性によって実に醜い輪郭を顔面の上に形成するものである。

  瞼の延長

 例へば、芸妓の如きは、髪をあまり気にするために眉を上に吊り上げる。そのために、芸妓を三年もしてゐれば、いつとはなしに眉と眼の間が遠く離れ、上部の眼が長く伸びて、実に醜い形を示すやうになる。その上、性慾生活や飲酒の悪い癖がっくために、瞼の色はだんだん悪くなり、素顔の時には、血液の循環が悪いために、瞼の周囲に黒点が現れてくる。そして一種の毒婦型が出来上ってしまふ。かうした毒婦型の瞼といふものは、爽かな精神生活をすれば、早いものは一週間くらゐ、遅いものでも数年間のうちに全部無くなってしまふものである。
 殊に、夜を更かして性慾生活に耽溺するものは、眼球そのものに艶がなくなり。ややパセドス病のやうに前方に飛び出してくる傾向がある。その上、白眼の部分に充血が起り、或る不安な色彩が眼球そのものの上に起って来る。殊に、かうした生活を繰返してゐると、白く澄み切った白玉の部分が、細かい血管のために純白性を失ひ、一種の濁った形と血管による凹凸を作って。眼に光がなくなってしまふ。

  眼と憂鬱

 悲しいことが続いても、同じことがいへる。悲しい時にはどうしても人間は眼を開き得ない。それで上瞼が下に垂れ、涙管がはれ上り、鼻筋と眼球の間に出来た窪みが、美しい曲線美を破って、厭な気持を人に与へる。その上、睫毛のつけ根が赤く充血して、部分的にふくれ上る。そのために眼は細くなり、顔全休の調和を失ってしまふ。
 それであるから、決活な精神状態を統けてゐなければ、顔全体が悲しみをおびる。そして陰険な顔になる。かうしたことを考へても、如何に精神修養が眼の美に影響するかが解る。
 犯罪学者のロンブロゾーは、殺人犯人の眼は、ライオンの眼のやうに光るといってゐるが、たしかに、人間の持ってゐる神経作用が眼底に影響して特殊な光を持つに違ひないと私は思ってゐる。あまり恐怖したり陰険な精神状態を持続してゐると、すぐ眼球と瞼の上にその表情が表れてくる。瞼は萎縮し、妙な皺が縦横により、陰険そのものの表情や、恐怖そのものの曲線や屈線が瞼の上に沈澱してしまふ。
 これとは別問題であるが、近眼なども、少し心掛けがよければならなくとも済むのであるから、つとめて近眼にならぬやう努力したがよい。眼鏡といふものは決して自然の美を与へるものではない。一種の堅い感じを与へて、その人の本質を匿す傾向がある。

黎明34 物質を凝視する瞬間

  物質を凝視する瞬間

 私にとって、宗教は遠距離にあるものではない。机の隅を凝視してゐる瞬間にも、透明な硝子の表面を見つめてゐる瞬間にも、私は宗教を持つ。物質が宗教になるのではない。物質の存在そのものが私にとっては驚欺すべきものなのである。
 机の板といひ、硝子の平面といひ、私と関係のないものである。関係のないといふことは、私の予想以上のものだといふことである。私の予想以上といふことは、私の意識してゐる世界のほかにもう一つの世界があるといふことである。そのもう一つの世界といふものが、どうして出現したか。私が出現させないのに、物質の世界を出現させたその可能な力に私は驚歎する。私は人類として自分を相当に賢い動物だと思ってゐるのに、その意識以上に驚歎すべき物質を存在せしめ、表現せしめたといふことが、私にとっては既に一つの宗教である。物質を通して、私は驚歎すべき人間意識以上の大きな力を感じる。たしかに、物質は神の智慧そのものを表白してゐるのである。物質を凝視してゐる瞬問にも、私は誠に神を感じる

黎明33 母の力

  母の力

  母スザンナ

 今から百五十年ほど前に、イギリスの国に、大変えらい宗教家がありました。その人の名をジョン・ウェスレーといひました。ウェスレーのお母さんは、大勢子供を生み、ウェスレーはその十五番目の子供でした。お母さんの名はスザンナ・ウェスレーといひ、一人で一々子供の世話を焼き、子供が大きくなって、社会のために立派な仕事が出来るやうにと、毎口気を配ってゐました。
 晩、寝るときなども、大勢の子供を一人一人自分の膝許に呼び寄せて、その日一日、子供が、真直ぐな道を歩いたかどうかを反省させて眠りにつかせたさうであります。果せるかな、ジョン・ウェスレーは、英国を革命暴力から救ふやうな大人物になりました。
 その当時、英国の隣のフランスの国では、革命が起って、大勢の人が殺され、ルイ十六世といふ王様と、その王妃のマリア・アントアネットは、議会の決議によって死刑になりました。何でも、革命のために殺された者が五万人もあったといふことであります。そして、革命におびえた人々は、農業さへせずに逃げてしまったので、饑饉で死んだものが三百五十万人もあったといふことでした、その時、スザンナ・ウェスレーに育てられたジョンは、オックスフォード大学を卒業して、英国の隅々を演説して廻り、みんなの人が不道徳を離れて罪悪から遠ざかり、贅沢をしないで貧乏人を可愛がるやうに、宗教の話をして聞かせました。
 その結果、英国にはウェスレーの説に賛成するものが五万人も出来ました。そして、その中から黒ん坊の解放運動に熱心に働いたウヰルヴア・フォースとか、貧乏な百姓を助けるために奔走したラヴレスとかいふ人が出て来ました。その結果、英国は革命なくしていい国になったのでした。
 ところが、ジョン・ウェスレーの運動が、非常に力強いものになると共に誰ともなしに、ウェスレーもえらいけれども、ウェスレーを生んだお母さんも偉いといひ出しました。今日、英国ロンドンに行ってみると、この偉人ジョン・ウェスレーと、その同志たちの墓が、教会堂の基礎石の上に刻まれてゐます。そして、その教会堂の入口の正面には、このウェスレーを生んだ母スザンナの大きな墓が建てられてあります。それで、教会堂にはひって行く人は、ウェスレーの墓よりか、お母さんの墓を多く見るわけです。
 実際、私は、この偉人ウェスレーを生んだお母さんを、ほんとに偉いと思ひます。

     リソコルンの継母

 今日、アメリカの首府ワシントンに行くと、リソコルン記念館といふ大きな建築物が建ってゐます。それは、丁度、大きな池を越えて、ワシントンの記念塔を見るやうになってゐます。
 なぜ、アメリカの人は、こんなにリソコルンを尊敬するのでせうか。それは今から凡そ六十六年ほど前に、アメリカにゐる約八百万の可哀さうな奴隷を解放したからであります。しかし、この偉人リソコルンも、ブースといふ役者に殺されました。それだけ、アメリカの人は、ワシントンを尊敬するくらゐ、今なほリンコルンを尊敬してゐます。
 ところが、この偉人のかげに、彼を九つの時から育てた偉い継母のあったことを忘れてはなりません。一体日本では、継母といへば、非常に嫌ひますけれども、リンコルンが偉い人になったのは、全くこの継母の力であったと、リソコルンの伝記を書く人は記してゐます。
 その当時、アメリカはまだ開拓が十分出来てゐませんでした。そしてリソコルンのお父さんは、海から何百里と離れた、アメリカのまん中を流れてゐるミシシッピー川のほとりに移住してゐました。そこは、隣へ行くにも、一里も二里も歩かなければならない所でした。そこに。リンコルンのお父さんは、丸木小屋を作って、一生懸命に働いてゐましたが、お母さんはリソコルンが九つの時に死んでしまひました。それでお父さんはまた結婚して、リンコルンの弟や妹が生れたのでした。
 ところが、リソコルンは、学校に行きたくとも学校はないし、本が読みたくとも本はないし、ただ。お母さんが持って来られた一冊の『聖書』を一生懸命に読んださうです。リンコルンは一生の間、学校には、僅か六ヶ月しか行かなかったさうです。リンコルンは、ほとんど学校には行かなかったけれども、四里も五里も歩いて、書物を借りに行き、一生懸命に勉強して、たうとうアメリカ大統領になりました。そして、大統領になった後も、その継母を非常に尊敬してゐたといふことでした。
 日本などでは、継子は、多くいぢけるものですけれども、いぢけないで、大統領に仕立てたリソコルンの継母は、ずゐぶん偉い人だったと。私は思ひます。

  ガーフィールドの母

 リンコルンの後継に、ガーフィールドといふ大統領がありました。この人のお母さんも偉い人であったと見えます。ガーフィールドが、大統領の宣誓式をする時に、幼い頃、お母さんから貰った『聖書』を、内懐のポケットから取り出して、男子として最も光栄のある大統領の宣誓を行ったさうです。
 ガーフィールドは苦学した人で、或る時は大工になり、或る時は川蒸汽のボーイとなり、ずゐぶん苦心して、小学校の先生やら弁護士やらをして、たうとう大統領になることが出来たのです。けれども、かうした苦学のなかでも、彼は決してお母さんの形見の『聖書』を身体から離さなかったのでした。苦しい時には母のことを思ひ。悲しい時には母の形見の『聖書』を思ひ出しては読み、たうとう大統領まで出世することが出来ました。アメリカ大統領になった人には、貧乏人はあまりありませんが、ガーフィールドは全く先輩のリンコルンと等しく、貧乏のどん底から叩き上げた人でした。そして、こんなに偉い人になったのも、全くお母さんのお蔭でありました。

  母の偉大

 こんな話をしてゆけば、まだまだ沢山偉いお母さんの話をせねばなりません。しかしさうしても限りがおりませんから、私は、さうした話はしません。ただ、今の日本人が忘れてゐることを、少し話しませう。
 日本の多くの人々は、村々に鎮守の神として祀られてゐる八幡宮が、男の神様だと思ってゐますが、あれは間違ひです。八幡宮は、
元来、女の神様を祀ったのです。八幡宮の最初といはれてゐる九州宇佐八幡宮に行くと、正面に祀ってあるのは市杵姫命他二人の女の神様、その左に祀ってあるのが神功皇后、その右に祀ってあるのが応神天皇です。
 これは、なぜでせうか? 九州に宗像神社といふ官幣大社があります。日本全国には八干から宗像神社があるさうです。この宗像神社にも、宇佐八幡宮と同じ女神様を祀ってあるのです。つまり、九州の古い神社には、大抵女の神様を祀ってあります。これは大昔、日本に母親を中心とした文明があったことを現してゐるのです。それを母長時代ともいひます。
 今日、エジプトの国へ行って、カイロ博物館を見ると、エジプトの王様は、みんな、自分の肖像よりか十倍も十五倍も大きな母親の肖像を、必ず自分の肖像の後へ彫刻してくっつけてゐます。なぜこんなに母親を尊敬して、王様の肖像の十倍も十五倍も大きなものにしたのでせうか。それは今から四千年ほど前には、父親より母親の方をずっと尊敬したからです。財産も、位も、母よりその娘に、娘からその孫娘に譲られたものなのです。おそらく日本の九州に遣ってゐる女神様は、多分、この母親を尊敬する傾向からきたものだと私には考へられます。
 実際、国を平和に保ち、善き子供を育てるためには、どうしても母親の世話にならなければなりませぬ。男子は外に出て忙しいですから、子供の世話はみんな母親がします。それで、昔は、母親をとても尊敬したものなのです。今でこそ、母親は父親より地位が低いやうに思はれてゐますけれども、昔はその反対であったのです。 もちろん、私は極端に考へて、母親は父親より偉いといふ必要は少しもないと思ひます。しかし、父親が偉いくらゐ母親も偉いのです。それで、私たちは、あくまで母親を尊敬し、母親を大事にしなければならないと思ひます。

黎明32 夫婦の苦闘の跡

  夫婦の苦闘の跡

 自分の妻に感謝したことを人の前に話すことは何だか手前味噌であまり面白く思ひませんが、感謝してゐることは嘘ではないのですから、正直にいひませう。
 元来、私は肺病であったので、正式には結婚できる筈もなく、その上、無理をして貧民窟生活を送ってゐたものですから、ほとんど寝るところさへない貧民長屋に嫁いで来てくれるといふ人は、よほど思ひきった女か、冒険好きな女性でなければなりません。生活の安定でもあればいいのですが、入った金はすべて貧しい近所の人に分け与へてゐたものですから、生活は脅され通しでした。勿論学問のある人が私のところに来てくれる道理もないだらうし、それで私も高等教育のある女性と結婚しようとは思ひませんでした。
 私は、自分の小説にも書きましたが、ファースト・ラブの女性もあったのです。しかし私が貧乏なのと、肺病にかかったのとで、先方が煮え切らないものですから、七年以上も文通したりしなかったりして交際を続けてゐたものが、友人の直接の談判で駄目だといふことがわかったのです。それで私は別に女のことも考へず、一生懸命に貧民窟の不良児童の感化事業や病人の保護に没頭してゐました。私は、どん底の悲哀のなかを歩いて、きよい宗教生活の法悦を楽しんでゐました。
 もし私が、貧民窟に事業を続けて行かないとすれば、女の力を借りることも少かったでせうが、淫売婦の仲間に混って、救済事業に努力してゐると性慾生活を全く忘れてゐる私でも、さうした淪落の女を救済するに当って、或るデリケートな点にまで触れてやらなければならない。実際、女にできる仕事で、男にできない仕事はあまりに沢山あります。病人の世話が第一それです。
 そのころの私はおみちといふ全身不随の三十女を私の家で世話してゐました。私は丸山兵吉といふ老人と二人でそのおみちの尿の世話までしなければならなかったのです。丸山兵吉はその後私の家に世話してゐた乞食の女と一絲になって一家を構へました。そして煙管の羅宇すげ換へを商売にしてゐた岸本の老夫婦が、もう目が見えないから世話してくれと頼んで来ました。二人とも胃癌にかかって苦しんでゐたのですが、そればかりではありません。次から次へと肺病の男も来れば、脚気ののも来るし、梅毒の男も来る。尿病の男も這入って来る。それはそれは大変でした。
 大掃除の特には、貧民窟にあまり病人を集めるといって警察から叱られたことがあったほどでした。その頃でした、私が、私と一心同体になってこれらの病人を世話し、隣近所にゐる淫売婦を救済してくれる、最も健康な、意志の強固な婦人の出現を祈ってゐたのは。
 その頃、妻は、神戸の福音印刷会社の女工の取締をしてゐました。私はその工場が妻の叔父によって経営せられてゐることを知りませんでした。私はただその工場が変った工場で、『聖書』の印刷と西洋人向きの活版を沢山扱ってゐることを知ってゐました。そして私は毎月曜日そこへ賛美歌を教へるやうに頼まれて、二十分くらゐ二、三年続けて行きました。しかしそこの女工と親しくしたことは一遍もありませんでした。その女工の中に、妻の顔も見えてゐました。
 妻はそのころ非常に老けて見えて、姐さんらしく製本女工を監督してゐました。ところが、ふとした事から、多分路傍説教の帰りについて来たのが引掛りでせう。しげしげ貧民窟の路地の奥にあるみすぼらしい集会所に来るやうになり、それから一年くらゐ経って、私は妻と結婚することになったのです。
 その頃、妻は頗る肥ってゐて。実に健康でした。それが貧民窟に来て無理な生活を送ったものですから、見る見るうちに痩せてしまひました。そのとき私は、済まないといふ感じがしました。普通の事業と違って、被救済者が総て姑に当るので、何十人と出入りする被救護者は総て姑のやうな口調で私の足らないところを妻にまで持って行くのが普通でした。金でもあればけちにもせずに済んだでせうが、その頃私は夫婦で月給十七円貰ってゐました。
 それでは大勢の人を助けることができないので、キリスト教の女子神学校ラムバス保姆伝習所の二つを教へに行って、両方から十五円宛貰ひ、夫婦の生活を一ヶ月約一人前五円と定め、絶対に菜食主義にして肉を一切食はぬことにしました。妻は私のいふことに頗る従順ですから、肉を食はないといふ約束も、完全な夫婦生活ができないといふ約束も、甘んじて聞いてくれました。実際最初の一年くらゐは、妻があまり従順なので泣けたことも屡々ありました。あまり痩せ方がひどいので妻のために菜食を止めてしまはうかと思ったことも屡々ありました。しかし不思議なもので、菜食してゐる間は下痢するやうなことも少しもありませんでした。
 それから間もなく私は妻を毎朝五時から一時間だけ中等程度の学課について教へることになりました。その仲間もあったのです。今神戸の労働紹介所の所長をしてゐる武内勝君は私の貧民窟の家に泊りこんで、私の個人教授を毎朝五時から受けてゐました。それで私は妻をその組に入れようと思って毎朝代数と算術を教へました。そして晩の六時から八時まで、幾何も、動物学、植物学も教へました。そのうちに姿の妹もこれに参加しました。妻の妹はそれから女学校に入り、吉岡さんの医学校を卒業して。今神戸の診療所を経営してくれてゐます。そして私は二年間ばかりアメリカプリンストン大学で勉強しようと思って出発し、妻は三年の予定で横浜の共立女子神学校に学ぶことになりました。
 大正七年の春、私はアメリカから帰って来たのですが、妻は約六ヶ月遅れて学校を卒業することになりました。少し留守にした間貧民窟には恐ろしい眼病が流行してゐました。それで妻は私のいひつけ通り、簡単な目薬を持って毎朝貧民窟を廻って、限病にかかってゐる人たちに点眼するのを日課にしました。よくよく注意したのですけれど、たうとう妻も悪性の眼病に伝染しました。そして数回県立病院で手術を受けているうちに、眼球が爆発して、血管が丁度瞳の上に葡萄腫のやうに流れ出して来ました。
 その時、私はほんとに済まないといふ気がしました。幸ひ大阪医大の宮下博士の世話で、僅か四日問でその葡萄腫を切りとることができましたが、そのために妻は一眼を失ってしまひました。その手術を受けた時でも、私は
丁度九州へ伝道旅行に行くことに約束してゐたので、たうとう取消すことができず、妻を大阪医大の三等病室に送り込んでおき、金がないので附添人も附けず、宣伝の旅に立ちました。
 かうした無理な生活を妻はずっと忍んで来てくれました。一番可哀さうだったのは、最初の子供の妊娠中でした。世話した破落戸には苛められるし、つわりには苦しむし、たうとう私は臨時に妻をその当時病んで
ゐた妻の父の家に隠したこともありました。子供が生れてから貧民窟の表側に小さい家を借りて、初めて二階建ての家で子供を育てることにしました。しかし私から金を取らうとする破落戸の脅迫は止まず、妻は随分苦心しました。

黎明31 黙想断片

  黙想断片

 この程度以上に世界を不思議に造ることは困難である。天国に行っても、この世界以上の奇蹟を見ることは不可能だ。眼を開いて見よ。真理は足下にある。

 平凡が私には奇蹟だ。一つの林檎、一つの雑草、それが私には不思議だ。法則に縛られてゐるもの、発生するもの、無生物、生物、その凡てが私には奇蹟だ。

 よくもまあ、こんな不思議な世界に、私は生れ合せたものだ。一片の土塊、一箇のバクテリア、それすら、私には全く予想外の出来栄えである。これ以上の不思議な世界が、偶然に出来るとは思はれぬ。

 背後にあるものの姿が見えなくと大宇宙の神秘は、その現象によって十分知ることが出来る。運命づけられたものさへ、運命づけられざるものの役に立ってゐる。それが私には不思議でならない。

 運命づけられたものが、運命づけられぬもののために役立ってゐることを見ると、世界は全体としての使命を持ってゐるのだ。箇々の使命が判明しなくとも、全体のために、神のために、生くべきだ。

 私が一つの神であったにしても、私は地球のやうな不思議な世界をよう造らない。地球は造っても植物はよう造らぬ。植物は造っても動物はよう造らぬ。動物は造っても魂はよう造らぬ。霊魂はやはり神が造ったに違ひない。

 よくもまあ『記憶』といふやうなものを人間の脳髄に造ったものだ。十年前、五十年前、百年前のことすら憶えさせ、思ひ出させる仕掛の巧妙さには、如何なる科学者も兜を脱ぐべきだ。

 あまりに機械的な決定的生活であっても、これを何もない世界から造り出すとすれば、普通の骨折では出来ない。最大の自由を持つものが、或る種の決定を与へたものとしか私には考へられない。その背後に造物者が秘密を守ってゐるのだ。

 人生の苦痛は、視点によって変る。或る高い目的のために苦しんでゐると思へば、病気すらが愉快になる。神は人間の苦痛を『意識』といふ不思議な力で救はうと、初めから設計してゐる。その企ての妙に私は驚く。

 存在そのもの、生きてゐるそのこと、意識を持つことそのことが、三重の神秘として私に迫る。私自身が、存在と生命と意識より一歩離れて観照的態度を取る瞬間に、世界には神秘の舞台が開く。

 神秘は、心の扉の開きやうによって定まる。自己のために思ひ悩むものに神秘はない。他人のために思ひ悩むものには半分の神秘が与へられ、神の如く宇宙の為に思ひ悩むものには全幅の神秘が与へられる。

 自己生活に閉ぢ籠る者は自己決定の世界に生き、自己決定の世界に生きるものは、宇宙の発展と調子を合はさない。これを罪悪とも云ひ、迷ひともいふ。自己の城壁を打ち破って、宇宙精神をしてのびのびと自己の衷に生え上らしむるところに、歓喜は湧く。

黎明30 徳富蘆花氏の思ひ出

  徳富蘆花氏の思ひ出

   一
 私は粕谷の櫟林が好きであった。上高井戸の停留場から、村の広い道を行くとさうも感じないが、松沢村から八幡山を通り抜けて粕谷の鎮守に差しかかると、武蔵野でなければ感ぜられない美しい印象を受けるのが常であった。セピア色の肌の細かな土、ものさびた鎮守の鳥居、繊細な雑木林の線、四季を通じて柔かな感じを与へる森の色彩、澄み切った美しい小溝の流れ、それは関西の何処にも発見せられない本当に柔かな感覚を与へてくれる。一体に関西の森は蔦と茨が多くて、森の中にもなかなか這入れないが、武蔵野の雑木
林は無造作に潜り込むことが出来るものだから、栗を拾ふにしても柿を取るにしても、勝手な事が出来る。それだけでも武蔵野の森は私たちにとって面白いのに、武蔵野では、欅でも、椋でも、樫でも、すぐ大きくなる。関西では一抱へもあるやうな樫の木を見ることは珍しいが、武蔵野ではそれが到る処にある。
 蘆花氏の棲んでゐた家は。粕谷の高台の上にあった。東から近づくと、美しい鎮守の鳥居の前を通って、上高井戸から来る大きな道と一つになって、蘆花式の高く葺いた萱屋根の母屋の前に導かれて行くが、南から行くと、青山街道から五六丁北に這入ってなだらかな丘に登る狭い道を伝って蘆花氏の家の柴折戸の前に導かれる。一等美しいのは、東からのアプローチで、南側から来ると非常に野趣があるが、すぐ蘆花氏の屋敷の前に出るので、何だか森に深みがないやうに考へられて、美しく感じない。
 尾敷はあまり広くはなかった。それでも都会の家に比べると、あれで随分広い方であらう。大ざっぱな人であっただけに、家の手入れなどは少しもしなかったものと見えて、人の棲み得る裏の離れなどは古いがらくた道具で一杯になってゐた。蘆花さんは広い処に狭く棲む人であると私は感じたことであった。私などは狭い家に十四五年も棲んで来たものだから、蘆花さんの家などは不便に考へられて、同情したくらゐであった。何時も棲んでゐた家は丁字形になってゐた。それを長い廊下でつないでゐた。私が一等好きなのは、その長い廊下であった。廊下は田舎の禅寺によくあるやうな極く粗末なもので、その片側は、多くの書物で一杯になってゐた。つまり、この廊下は。蘆花氏にとっては唯一の宝庫であり、世界であり。脳細胞の排列せられた処であったのである。内側を白く塗って、処々に窓がつけてあった。何だか床しくて、蘆花氏その人を表徴するやうな印象を与へた。
 私は実際この廊下を通ることが一番好きであった。フローレンスのデ・メデチの廊下は、一哩半も続いた長いものであるが、その両側にはフローレンスそのものの上に生きた数干の著名な人物の肖像画がかかってゐる。それは私が世界中で見た廊下のうちで最も神秘的なものである。
 蘆花氏の住宅の三つの家を繋ぐ幅広い粗末な廊下は、蘆花氏に取っては、このフローレンスのデ・メデチの廊下でもあったらう。丁字形の上の両端にある家は母屋と書斎で、中央の端にあったものが、先づ応接間といったところであらう。三軒とも武蔵野の大きな旧家に比べると極く粗末なもので、別に美しいものではなかった。大体に於いて。武蔵野の旧家といふものは箆棒に大きな家で、私が長く住んでゐた松沢村の鈴木一族の家の如きは、何でも足利時代から続いてゐるさうであるが、実に美事なものであった。蘆花氏は、その貧弱な小さい家にあまり手入れせずに棲んでゐた。
 日本の藁小屋は手入れをせぬと馬鹿に穢くなるもので、多少禅味を発揮して、拭き掃除しないとひどいものになる。蘆花氏は、あまり家のことなどは構はなかったと見えて、部屋の中まで、自然の空気を浸み込ませてはゐなかった。また何だか西洋流の生活振りと東洋流の生活振りとが一致しない処にゐるやうに私にはうけ取られた。
みみずのたはこと』や『新春』の終りの方では輝かしい自然生活が、溌刺として描かれてゐるが、蘆花氏は日常の本能生活さへ自然化しようとはしなかったらしい。そこにまだ武蔵野にそぐはない或るものが残ってゐた。それはおそらく自分で鋸をとったり、自分で鉋をかけたり、釘を打たなかった関係でもあらう。それであるから、自然生活を楽しんだ割合に、生活そのものは自然的生涯の部分が比較的少く見えた。そこになると、アメリカのジョン・バアローや、フランスのジャン・アンリー・ファブル翁などとは多少距離があったやうである。
 その人の生活振りを見ると、脳髄の動き方がよく解るものである。巣を見ると烏の精神状態が解り、穴を見ると獣の習性が解るやうに、著作者の部屋に這入ると、その人の習性がよく解る。蘆花氏の部屋に這入って、あの美しい自然詩人の面影をうかがふことはまことに困難である。彼の書斎は、西洋と東洋との間に立ってゐる。富士でいふならば、胸突八丁にさしかかってゐる人の書斎であった。まだ頂上を究めないところに、蘆花氏その人の本領があったのであった。
 彼は永遠に胸突八丁に棲んでゐた。彼の性格は険しかった。少し手のかけ処が悪いと上から大きな石がころがり落ちて来た。それは彼が噴火山性の激烈な詩人的性格を持たされてゐた為であったらうけれども、一つは彼が真剣な為であった。それで、蘆花氏に近づく人たちは何時もよく注意せねばならなかった。弟の性格をよく知ってゐるあの聡明な蘇峰氏は、敢てその胸突八丁に近づかうとしなかった。それだけよく人間の心理を知ってゐた。
 私も、この胸突八丁を知ってゐたから、何時も近づくのに梯子を準備して行った。胸八丁にいい梯子は何といっても愛子夫人であった。世界に多くの聡明な賢夫人はあるだらうけれども、あの繊細な感情の持主である、胸突八丁の天才――噴火山的性格の持主である蘆花氏をして彼の落ちつくべき処に落ちつかしめた女性こそは、さう世界に多く類のある女性ではない。愛子夫人は体こそ小さいけれども、実に聡明な、叡智の結晶であるやうに私には見えた。蘆花氏は本当に愛子夫人を愛してゐた。あれだけ年寄って、あれほど露骨に夫人に対する愛を私の前に物語った人は多く無い。実際私は蘆花氏ほど幸福な人はないと度々思った。そして二人が永遠に若いのに私は何時も驚いてゐた。愛子夫人は本当に剣ヶ峰にかけられた梯子であった。
 私は、蘆花氏に話をする時に何時も言葉をよく注意して使はねばならなかった。詩人であるだけに、ちよっとした事がすぐ感情にさはることを私は感じた。併し彼は本当に深切な人であった。彼は人を愛したくてたまらなかったやうであった。「子が欲しくたまらないよ」と度々私に云った。それで私を何時も羨んだ。そして私を子供のやうに愛しようと努力した。涙を流して私を抱擁してくれた。私も亦手を握って彼と共に祈った。西瓜時分にはたらふく西瓜を御馳走するし、栗のある時には自から裏の栗林に這入って私たちの為に栗を一升も二升も拾って来てくれた。
「蘆花さんの裏には栗が地べたの上に落ちて腐りかかってるよ。拾ひに行かうぢゃないか」
 さういって、松沢の私の小屋に棲んでゐた青年たちは、十七八丁もあるところを、寵を持って蘆花さんの家の裏まで栗を拾ひに行ったこともあった。
 第二の聖地旅行から帰って来て、瀧花さんは全く耕作を打っちゃってしまった風だった。畑は荒れるに委されてゐた。あまり荒れてゐて弓場を探すにも骨が折れるくらゐであった。しかし蘆花さんは敢てそれを小作に出す元気も無かったやうだった。前庭は頗る広かった。寝室の前庭には朝鮮芝が植ゑられてゐて、私の為に屡々そこへ食卓を持ち出して御馳走してくれた。しかし私は寝室の前の植込みよりか、とっつきの母屋の前の雑草園が好きであった。蘆花さんが自分の庭の植物の雁史に就いて詳しいのには、本当に驚くくらゐであった。『聖地順礼』の中にもパレスチナの植物のことがスケッチ体に美しく描かれてゐる。蘆花さんはその程度に於いて庭の植物の一つ一つに就いて美しい言葉で私に物語ってくれた。
 私は、日本の田園文学のうちで、『みみずのたはこと』の如きは、最も傑出したものの一つだと思ってゐるが、蘆花氏の自然は深い瞑想と凝視を
持ってゐた。蘆花氏は純粋のトルストイアンであった。初めは多少トルストイに模倣するところもあったであらう。しかし終り頃には、ユニークな、そして純粋な自然詩人徳常蘆花が出来上ってゐた。
 実を云ふと、私は『不如帰』があんまり好きではない。私はあまり有名であるから読んだものの、作品に出てゐる主人公は、私たちの生活や境遇よりあまりかけ離れた人物でもある為か、共鳴する点が非常に少かった。「華族の坊ちやんや嬢ちゃんがどんなに煩悶したところで、それは御勝手だ」といったやうな感じで私はそれを読んだ。私はあまりに大衆が喧しく云ふから、群衆心理の研究の為に読んだのであって、読んだ後で、それは浪子と武男の恋愛のプロセスの上に日清戦争時代の棋型的な描写かおるからだと気づいた。
 つまり『不如帰』の時代の人々は、個性の煩悶や内部的性格の進展に就いては、さう深く考へてはゐなかったので、恋愛といふものの受くべき迫害とその奇妙な運命に就いて。ロミオとジュリエットの場合以上のものを予期してはゐなかったのだ。私たちのやうに、もう少し哲学的に考へる悪いくせのある人間には、『不如帰』は詰らなかった。しかしつまらなく書いたところに、蘆花さんの傑いところがあったのかも知れない。あまり下手に哲学臭く書いて、群衆心理をつかみ得ない拙い作品のある中に、蘆花さんは。日清戦争時代の大衆をよく理解して、「少しく哲学的に、多く感傷的に」書き上げた。そこに蘆花さんの手際があったとも云へよう。
 しかし、若しも『不如帰』のうちに美しい処があるとすれば、やはり自然詩人としての若い蘆花さんの気持である。逗子の浪きり不動や、伊香保の美しい松林が、あの若い血を吐くやうな日清戦争時代の束髪美人の浪子さんと相並んで、初めて日本の自然に人間的交渉を持つやうにしてくれたことは、何と云っても蘆花さんの一大勲功でなければならない。
「美しい自然の中では恋がしたいものである」モーパッサンは、そんな意味のことを或る短篇小説に書いてゐる。蘆花さんは、日本の美しい自然と美しい恋愛をごっちゃにして、若い青年の胸の中にはふり込んでくれた。そこに彼の尊さがあった。
 淡い自然と馬鹿に美しい恋愛との諧調が蘆花さんの使命であったらう。蘆花さんの自然は友禅染めである。島崎藤村氏の自然はより東洋的であり、より芭蕉的である。それでも、『若菜集』などを見てみると、『不如帰』の著者と全く同じ感情のあふれてゐることに気がつく。おそらく、あの時代の日本の青年は、英国詩人でいへばセレーやバイロンの持ってゐたやうな情熱で日本の自然を見ようとしたものらしい。若々しくて、感傷的で、今日から考へると、実に単純で気持がいい。恋愛もあんな時代の恋愛が純真でいい。今時のやうに。ダダイズムで恋愛したり、キュービズムの恋愛だとか。マルクス派的恋愛などいひ出すと、むづかしくて仕方がない。『若菜集』や『不如帰』は実際、日本の恋愛史の黄金時代であったのだ。蘆花さんは、この恋愛の黄金時代に、最も幸福な作品を世に送り出した。そして一躍日本の文豪となってしまった。
   二
 私は幼い時から社会主義の理論が好きであった。一つはトルストイの感化にもよるであらうが、社会主義の中に秘められた人道主義がイエスの教へた高い道徳と一致してゐた為でもあらう。私は安部磯雄氏の書いた『瑞西』や。堺氏や幸徳氏の書いた論文をむさぼり読んだものであった。それで私は初めから精神主義的傾向を持ってゐたので、唯物社会主義といふ名が嫌ひだった。唯物主義では社会主義になれないやうな気がしてゐた。
 今も同じやうなことを考へてゐる。理想的な社会主義がどうして非精神主義的であり得ようぞと考へてゐる。そんな時に私は木下尚江氏の『良人の自白』を読んだ。泣きながら夜寝ずにあの長い小説を読み通したものであった。そして精神主義的なキリスト教社会主義の一派と、所謂柏木派と称せられた、唯物主義的社会主義派が分裂した後、私は、蘆花さんが木下尚江氏を授けて『新紀元』を出された時に、徳富さんや木下さんの運動に心から共鳴したのであった。その後『新紀元』がつぶれて私は頗るさみしかった。蘆花さんはその後直ぐ本間俊平氏と一緒に『黒潮』といふ新聞体の雑誌を出されたことがあった。確か四号までしかつづかなかったやうに記偕するが、私はあの新聞体の雑誌の出るのをどんなに毎日待ちわびたことであったらう。
 蘆花氏は勿論理論家ではなかった。だから哲学的慰安を彼に発見することはほとんど出来なかった。私は随分理窟っぽい青年で、その頃もうプラトンカントやへIゲルなどの主な著作を飛び飛びであるけれども英語で読んでゐた。殊にへーゲルだけはその歴史哲学を英語で初めから終りまで読み、へーゲル派のプフライダラー博士の書いた四巻ものの宗教哲学史を英語で読み切ってゐた時であるから、頭が如何にも理窟っぽくなってゐたが、蘆花さんの信仰的な文章には何時も共鳴するのであった。
 私は、蘆花さんが聖地巡礼から帰られて、粕谷の村に引っ込んだ時には非常に退嬰的であると考へた。私は、何時も戦闘的態度をキリスト精神であると考へてゐた為であったが、田園に引き籠って独り楽しむことはキリスト教的でないやうに考へられてならなかった。それで。蘆花さんの粕谷入りをあんまり嬉しいとは思はなかった。社会には、自然にも見捨てられ、職にさへっけない者が沢山あるのに、それ等の人々を見捨てて自然に立て籠ることはあまり我儘であると考へられてならなかった。
 それで私は、『みみずのたはこと』を読んでも、美しくあるとは考へたものの、キリスト的闘争を欠いたものとして、心の底より共鳴することは出来なかった。その後、私は貧民窟に這入ってしまった。そして自然に憧れつつも、自然に見捨てられた長屋の子供たちの兄貴になってしまった。私が再び自然に接近せねばならないやうになったのは、農民運動を始めてから後のことである。今度は自然が恐ろしい姿をもって私に迫って来た。自然にとりまかれてゐる
農民は自然を愛してはゐなかった。私は「如何に自然を愛すべきか」を農民に教へねばならなかった。それで蘆花さんの自然的作品をもう一度読みなほしてみた。そして蘆花さんが完全な自然詩人であることを知って、日本の農民に、もう一度徳富蘆花を読みなほすやうに奨めるやうになった。
 蘆花さんが自然に就いて書いてゐるものはさう多くはない。しかし彼は自然に就いて瞑想し、自然を凝視した。彼はそれを人間ときり離さずに考へてくれた。『みみずのたはこと』に出てゐる不浄の一文の如きは実に深切な瞑想であって、私はあの文章を読んで有難くて泣いたくらゐであった。あれだけでも、蘆花さんは魂の使徒行伝の続きを書いた人であるともいひ得よう。世界の人は蘆花さんをあまり多くは理解してゐない。彼は魂の煩悶の為に後半生はほとんど門を閉ざして外に出なかった。一面からいへば随分我儘である。しかし、私のやうに彼の心理を多少なりとも理解したと思ってゐる者には、彼の煩悶は故の無い煩悶ではなかった。
 彼は高く昇らんが為に煩悶した。そして、彼はその煩悶を匡(ただ)す唯一の工夫として『自然の途』を選んだ。彼は狭い柴折戸の奥に住んで、世界でも最も美しい平原の一つである武蔵野の美を胸の奥まで吸ひ込んだ。私は彼に戦闘的精神の欠けてゐたことをとがめまい。私は寧ろ悩める魂にとって自然がかくも慰め得る大きな力を持ってゐることを蘆花氏の作品について学ぼう。蘆花氏は永遠に私に物語ってゐてくれる。日本の農民は、自然の環境の内に住んでゐて、自然を見失ひつつある。心の閉ざされた彼等は、自然の懐に住んでゐて、自然を視る眼が無い。私は『みみずのたはこと』を開きながら、日本の村々に於ける自然美を観照する人たちがだんだん無くなって行きつつあることを悲しむ。せめては、『みみずのたはごと』にだけでも耳を貸すだけの余裕を村の人々に与へてやりたいものである。

黎明29 魂の芸術

  魂の芸術

  国家の存亡と国民精神

 一八七一年、独逸がフランスと戦争して勝った時、独逸は奢って国全体に贅沢な気風が漲ったことがあった。その時、ワンダーフォーゲルといふ、渡鳥とでも読すべき、質実剛健なる風を尊び、自然に帰ることを主張した青年男女の団体が生れて、衣食住はもちろん、すべて質素にすべきことを宣伝して、戦捷気分を一時抑へた。
 その次に起った世界大戦で独逸が負けるや否や、この剛健なる精神は更に深刻味を加へて、汽車は四等で藁蒲団もなく、板だけのものになり、学生は苦学して大学に行くといふやうに、国全体に元気をそそった。かくして目醒めた独逸の青年男女は、質実剛健な気風を作って国を導いた。これは全く精神力による。
 日本人は維新当時の元気もなく、少し気抜けしてゐる。戦争でもあれば元気が復活するであらうが、平和な時代が続くと、腰をひっからげてやらうといふ元気がぬけてしまふ。ジョン・ラスキンはいった。「時によると、戦争をやってでもいいから、元気を出さう。ギリシヤが興ったのは戦争によってであった。戦争がなければ、国民に元気が起って来ない。だから戦争によって元気を返せる」と。しかし、これは一面の真理である。質実剛健の気が衰へたときに、戦争によってでも振ひたたす方がいいとは、昔からよくいはれたことである。
 日本人は、寒い処で戦ふ適応性を欠いてゐる。零下何度といふ処でも、温かい処にゐるのと同じ生活をして、寒さに震へてゐる。満洲などへ行っても、支那人は一日十三銭で、大きな豆粕を四枚も五枚もかついでゐるが、日本人は理窟ばかりいって。発展する勇猛心を欠いてゐる。大正七八年の好景気の夢が、国民精神に浸潤して、しっかりやらうといふ精神がない。藤田東湖はこれを精気といったが、士気といってもよく、最近ではモラルといってゐる。丁度噴水の力のやうなものであるが、日本人にはこの元気がぬけてゐる。わが国の震災の傷手は、経済的に考へてもさう大したものでなく、僅かに百十億円であった。然るに独逸は戦争によって千五百億円の損害をうけ、僅か二億円をアメリカから貰っただけであるのに、マークの相場がどんどん上った。日本は独逸の十分の一も失ってゐないのに、独逸に比べて元気がない。国家の存亡は。政治とか経済によるのでなく、国家全体の元気による。その元気を欠いてゐるならば、日本は恐ろしい運命に陥る。

  生活に対する製作的態度

 しかし、われわれは或る心理的の元気によって外界の境遇に打ち勝って行ける。それか精気であり、士気である。印度のガンヂーはSoul forceといった。このSoul forceをわれわれは持だなければならぬ。この力を持ちさへすれば、惰弱に流れようとするあらゆるものを打ち貫いて、前に進む勇気が出る。これを如何に用ひるかといふことを、私は魂の芸術といってゐる。
 日露戦争以後、日本人は麦を食べなくなった。それまでは人口の六割まで麦を食べてゐたのであるが、四五年前から麦を食べないで、食糧が足りないといってゐる。大体日本人は、一年に一人一石あれば足りるのであるが、今までに米が余ったといふことは四回しかなかった。最近になって、日本の食糧問題は益々窮してきたが、第一白米でなければ食べないといふのは、国民全体が贅沢だからである。米を食べる習慣がついて、自分の家で麦をパンにして食べるとか、支那のやうに高梁をポイにして食べるとかいふ工夫をしない。そして日本は、世界で一番物価が高い国になった。
 着物や住宅についても同じ事がいへる。日本ほど住宅費の高い、着物の値段の高い国を知らない。満洲では、煉瓦造りの家が日本の木造建築と同じくらゐの価格で出来る。ところが。日本では東京本所深川あたりへ行っても、畳一畳が二円五十銭もする。三年前、ロンドンでは、物価の高い時であったが、部屋が十七あって、月百
円で貸してくれた。ロンドンでは住宅のためなら地価を上げないことになってゐる。また建築材料に対しても、政府は便宜を計ってゐる。だから月に一ポンド出せば、大きな家が借りられ、四円も出せば十畳二問くらゐある家が借りられる。
 日本の婦人は着物を着るのに、六、七本の紐を胸と腰のあたりに巻きつける。そして、走れば、きものの美術的な処が崩れてくる。もう少しこれに対する発見はないだらうか? 私はそこに、生活に対する創作的態度が必要であると思ふ。小説だけが創作ではない。彫刻や絵だけが創作ではない。生活全体に対して創作的でなければならぬ。人がああいふ着物を着てゐるから、自分も着ようといふのは模倣である。

  魂の創作と簡潔美

 一体に日本人は、簡潔で美しいものを好む。「古池や蛙飛び込む水の音」といふ俳句など、外国人には理解出来ない。私は、日本の美しさはそこにあると思ふ。実に簡潔で要を得てゐる。桃山時代の婀娜っぽいものであっても、アメリカ式のものとはちがふ。日本の精神は、農家の藁葺屋根に現れ、茶道に現れ、生花の上にあらはれ、着物の上に、或は床の間の上に、あらゆる方面に現れてゐる。これは美の奥義である。キリスト教ゴチック建築がやはりさうである。余計な部分を省くところに、深い印象があると思ふ。きたない芥箱の中にも、美しい蜜柑の皮がはひってゐる。蜜柑の皮だけを引張り出せば美しいものである。今和次郎氏は、中産階級の婦人の箪笥の中には、何年か前に流行った櫛ピン、指輪、ブローチなど、今必要でない品物が貯へられてゐるといった。つまり、中産階級箪笥とは、要らないものを入れておく一種の塵箱である。さういったものを省いて、簡潔で要を得たものを作りたい。即ち生命の芸術を工夫したい。それには余計なものを省く大胆な態度が必要である。

  二百デナリの香油と緋色のマント

 かつて、マグダラのマリアが、キリストの足に二百デナリの香水を塗った時に、弟子はそれを贅沢だといって馬鹿にした。キリストはそのことを弁護して、私の葬式のためだといはれた。エリザベス女王の小姓サー・ウォター・ラレーといふ人が、女王と一緒に歩いてゐた時、水溜りがあったので、小姓は直に自分の緋色のマントを脱いで、その水溜りの上に敷いた。女王はにこにこ笑ひながらその上を通られたといふ。後にその小姓は、アメリカ全体の総督にせられたといふことである。
 われわれは、美といふものに対する憧れを持つ必要はない。さうかといって、わざわざ爺臭い風をする必要もないが、やるなら思ひきりやって欲しい。かうすれば人が非難するだらう、などと心配しないで持ち込む者は持ちこみ、棄てるものは棄て、使ふ時には二百円くらゐの香水を使ふ。そして創作的態度をもって、やる時にはうんとやるといふやうにしたい。国のために凡てを棄てるといふやり方は、戦争の時でなくとも、平常から心掛けてゐなければならない。たとへ金持であっても、精気を前方に進めて行かなくては、国民の士気は上らない。紙凧は微風には上らないが、強風に上る。文化もそれと同じである。

  道徳的士気と内部的工夫

 徳富蘇峰氏は、「日本人は朝鮮人支那人に比べて元気がある」といたれたが、朝鮮人は少し儲けると、煙草ばかり飲んでぢっとしてゐる。支那人は長い爪をはやして、その先に金の莢(さや)をはめるが、これは金持の証拠にするためである。彼等は纏足してゐる。孫逸仙の時代には纏足することも止ってゐたが、この風習は全くぬけきらない。阿片をすら公営にしようとしてゐるくらゐで、全く道徳的士気が衰へてゐる。日本の場合でもさうである。大正七年に巻煙草の生産高が七倍になった。淀橋の専売局では、二百名くらゐのものが巻煙草の箱詰をしてゐる。これが一年間に七倍も増進した時、間に合はないからといって、一日に何万本と入れる訓練をした。また遊廓に遊びに行く延人員が、大正六年に千六百万人、大正九年に二千七百万人、三年間に六割方増してゐる。これを見ても日本人は道徳的規則を欠いてゐる。魂の工夫を欠き、士気を欠いてゐる。最近日本人の犯罪傾向がひどくなった。大正五年頃から多少減ってきたやうに見えるのは、執行猶予を多くした結果である。しかし、殺人、放火、強盗などは、不景気のため十年間の後戻りをした。日本には衰頽の徴がみえる。もっと宗教的になり、余計なものを省き、外側のことを考へないで、内側に注意を注ぎ、「やる!」といふ勇気を出さなければならない。

  魂の落著きと信仰

 第一に、独居の練習をしたい。独房に入れられると、淋しいので発狂する人があるが、神と共にゐるといふ考へになれば少しも淋しくない。私は肺病を患った時。一漁村で一人きりで生活してゐたが、案外淋しがらなかった。私はまた、アメリカユタの沙漠にゐた時、あまり長いこと話をしなかったので、話がしたくてたまらなくなり、自分で自分に話しかけたことがあった。淋しいと思へば淋しいが、慰めもあった。
 われわれはまた大胆になる修養を積まなければならない。心をゆるし合った仲であっても、やはり自分は自分である。自分のうちに神がゐるといふことを信じなければ、病気になった場合淋しいものである。一人でこの世を去って行くときも、動じない沈勇の練習をしたい。沈勇は魂の芸術である。内側の工夫は人に見えるものではないから、自分一人で気をつけなければならない。
 神戸の或る金持の人が病気で死んだ時、医者はいった。「この人は死ぬ筈ぢゃなかった。呼吸と動悸は、大抵平衡してゐるものなのに、この人は呼吸が遅くなって、動悸が速い。この人は何か心配事で死んだ」と。その人は心配が無くなるなら、胸の動悸もをさまって。死なずにすんだかも知れない。魂の工夫が出来て居り、神に頼る信仰があれば、その人は生きることが出来たのである。この神による落著きがありさへすれば、病気は必ず治るものである。
 私は疲れない工夫を知ってゐる。私は全国の宗教運動をずっと続けてゐるために、夜などあまり寝ないのであるが、落署く工夫を知ってゐて心配しないから、いつも元気である。気合がさうである。
「えいツー」といふ懸声で、相手の肚がきまってゐるか、ゐないかがわかる。創道四段くらゐになると、ほんとの剣で試合をするのであるが、気合をかける声の強さで段をつけるさうである。つまり、魂を集中してやってゐるか、どうかを見るのである。
 魂の工夫ができてゐる者は、どんな時にも静かに考へることができる。この工夫を知ってゐる者には、眠らなくとも眠ったと同じ作用がある。身体をぢっとさせてゐるとか、性問題に煩悶しなければ、落著いた気持になれる。

  透明なる魂

 人に気づかれなくとも、自分の魂を整理して行く。それが魂の芸術である。生花や絵に力を注ぐばかりが芸術ではない。魂の御殿で神を礼拝することが、最も大きな芸術である。瞑想の工夫といはうか、静座の工夫といはうか、兎に角、われわれの魂が静かにしてゐるか、魂が透明であるか、人に見られた場合に恥しくないか、人ばかりでなく、神に見られた時に恥しくないかを考へてみなければならぬ。たとひ一人の時でも、いつも怠けず、先駆者として立つ覚悟がなければならない。さういふ人が多ければ多いほど、国民の精気が高まると思ふ。
 であるから、われわれはまづ、自分の魂の押入を掃除することから練習しなければならぬ。外側だけ綺麗にしておけば、魂の奥でどんな淫猥なことを考へてもかまはないといふやうでは実に恥しい。魂は透明にならなければならない。そこから国民の元気が出てくる。われわれには徹底した魂の透明性が欠けてゐる。
レ・ミゼラブル』のやうな立派な創作は、透明な魂の持主でなければ書けない。ミリエル僧正の如き美しい清い魂こそ、魂の芸術といひたい。うるはしい魂の持主は、大罪人をも悔い改めさせる。画布の上の芸術ばかりでは国は亡びる。深い内省のある、俳句の気持をもつ人であれば、外側はどうあってもいい。われわれは独逸民族の質実剛健な気持を学びたい。イエスのやうに、カルヴァリ山の十字架上で人の軽蔑と悪口とを身に浴びて、遂には殺されるやうな場合にも、決して慌てない落着いた魂をもちたいものである。

黎明28 英文『日本宗教史』を読む

  英文『日本宗教史』を読む

 書かれなくてはならないもので、書かれなかったのは、日本人みづからの書いた日本宗教史であった。こんど姉崎正治博士がロンドンで出版せられた『英文日本宗教史』は、今まで西洋人が書いたものに比べて、更に意味深いものであると私は思ふ。貪るやうに私はこれを読み、日本文で読む日本宗教史より何だか新しい気持で。日本に於ける宗教思想の変遷を知ることが出来て非常に嬉しく思った。
 全篇二十二篇から成り立つ、米国ハーバード大学の講義が骨子になってゐるやうだが、まづ私は、英文の流暢なのに感心させられた。この書の中で特にすぐれてゐるのは、仏教史とキリスト教史の部分であると私は思ふ。勿論、序文になってゐる日本民族元祖一般論などでも、ごく正当な学者的立場で書かれてゐるので、一々うなづかせられる。天台及び真言に開すら平明な記述にしても、私は一一うなづくことが出来た。また封建時代の宗教的発達に関しても実に要領を得てゐる。
 姉崎博士にとって得意ではないと思はれる儒教の発達史に於いても、私は大いに教へられるところがあった。例へば、日本に於ける王陽明学派の鼻祖といはれてゐる中江藤樹先生とキリスト教との関係を明かにせられた如きは、やはり姉崎博士でなければ出来ない研究だと私は思った。井上哲次郎博士の『日本陽明学派の哲学』を見ても、近江聖人が、その根本信仰に於いてキリストの感化を受けたことが明かであるに拘らず、井上哲次郎博士は、強ひて藤樹先生とキリスト教とを区別せんとせられた如きは、如何にも苦しい書き方である。それを姉崎博士は西洋のキリスト教の文献から、藤樹が四国で或るキリシタンより霜焼の薬を貰ったことがあるだらうといふ註までして、面白い報告を書いてゐられるが、客観的に見て、姉崎
氏の方が正当のやうに私は思ふ。
 明治以後の宗教思想発達史に就いても、この書は頗る詳しく記述してゐる。特に私が愉快に読んだのは、高山樗牛の思想変遷に関する姉崎氏の記述である。文章もよく書けてゐるし、あの時代の思想の流れを熟知してゐられる氏としては、感慨深く書かれたことと私は思ふ。明治、大正以後の部分は随分苦心して書かれたやうであるが、記述を急がれた点もあるやう
だ。それでもあれだけに纏められたことは容易でなかったらうと私は思ふ。
 詳しく書けばきりがないだらうが、大掴みに書かれた日本宗教史としては、これ以上を期待することは困難であらう。しかも、各章の終りに、宗教思想が社会的に表現を持った各方面の感化を面白く並べられてあるだけに、読んでゐて非常に愉快な気がする。勿論、姉崎博士は、日本宗教史を出来るだけ明るく美しく見ようとせられたと思はれる節々もないではない。陽明学派が、仏教排撃に力を尽した理由などは少しも記述してゐられない。しかし、それらの点は別として、この書は、日本を思想的に紹介する上に於いて、実に重大な使命を持ってゐると私は思ふ。ただ難をいへば、もう少し写真版を多くして、眼に訴へる工夫があって欲しかった。例へば、仏教各宗の開祖の写真を入れるとか、その本山の写真を挿入してもらふことが出来たらと思った次第であった。
 それは兎に角として、日本に於ける権威者が、かうした努力を払はれたことを私は心より感謝するものである。

黎明27 西大阪は歎く

  西大阪は歎く

  東半球の氷河中間時代

 災厄が始まるとそれが続くものである。米国カリフォルニアにあるヨセミテ国立公園博物館で、年輪の週期律的研究を見た時、私は冷気が三十年くらゐ続いて、またその後で三十年くらゐのよき天候の季節のあることを教へて貰った。そして、天災が続くと人心が動揺し、人心が動揺すると、戦争や暴動が頻発するものである。
 最近日本では、大正十二年からほとんど毎年災厄がつづいてゐる。大正十四年には但馬大地震があり、昭和二年には奥丹後震災があり、次の年には伊豆の大震災、昭和八年には三陸の海嘯、昭和九年の三月には函館の大火、昭和九年九月二十一日には、関西の大風水害が起った。
 その上、北緯三十五度から北の日本は、冷害のために凶作であり、北緯三十五度以南の土地は、干害のために凶作で困ってゐる。私は最近北海道及び東北を旅行したので、各地の雨量の増加率をきいて廻ったが、函館小樽札幌旭川の各測候所は、四十年前と比べて二割以上降雨量が多くなってゐる。
 私がこの事に注意し出したのは、西半球に於ける氷河時代の到来を学者がみんな喧しくいひ出したので、東半球はその逆を示してゐはしないかと考へついたからであった。哺乳動物の歴史からいふと、われわれは氷河の第四期と五期の間に挾まってゐる訳なのである。そして西半球は第五期の氷河時代に這入らうとしてゐる。反対に、東半球はこれから暖流が北までさし込み、シベリアの氷が溶け、五万年前の生物であったマンモスの生肉が、そのまま松花江に流れ出るといふやうな奇妙な現象を示してきてゐる。
 こんな事から、私は北緯三十五度以北の日本は、これから益々降雨量が加はり、洪水が週期的に起り、悪くゆくと、太陽熱の欠乏のために相当に長い期間凶作の来襲を見るのではないかと案じてゐる。そしてそれとは逆に、北緯三十五度以南は、降雨量に変化を生じ、それより北とは全く異った状勢を呈するのではないかと思ってゐる。こんなことに就いて、私はアマチュアであるから確かなことはいへないけれども、いつも旅行しがちな私は、各地の気候を比較研究してみて、近頃、そんな事が頭に浮かんでゐるのである。

  北太平洋低気圧地図

 昭和九年二月、私はフィリッピンに行く途中の船の中で、偶然にも、北太平洋低気圧の進路地図が神戸海洋気象台の手で作成されてゐることを知った。それは実に貴重な資料であると思ったので、私はわざわざ神戸海洋気象台に貰ひに行った。何でも北大西洋米国が責任を持ち、北太平洋は日本が責任を持ってゐるのだと聞かされたが、私はその十年間の平均低気圧進路図を見て、風にも道があるのだなと感心したのであった。それによって、私は三月に函館に大火が起る理由も知ることが出来た。その頃函館には漁夫仲間で『大西風』といはれてゐる風が必ず吹いてゐる。その地図によって、私は、八月九月に紀州から大阪方面が意地悪く苛められることを了解してゐたのであった。九月二十日の晩の夕刊で、私は、暴風が沖繩に現れたことを読んだ。そしてそれが、神戸気象台の低気圧進路図によって、九州の南から和歌山県を掠めて、東京まで東海道を直線に北東に走ることをよく理解してゐた。それが八月であれば玄海灘に出て日本海荒し青森県の上を西から東に横切って、太平洋に出るべき性質のものだといふことも考へてゐた。しかし、九月であるので、必ず土佐沖から和歌山県田辺地方を荒して、東海道五十三次を北上するだらうと予測してゐた。
 ところが、あとになると、そのコースはやや北に寄って、大阪京都方面を襲うて。日本アルプスで三分したと聞いたが、私は、心構へしてゐただけに少しも慌てなかった。だか、あんな大きな損害を大阪方面に与へるとも予期してゐなかった。

  西大阪の津浪

 白状するが、私は、九月二十一日の災厄が甚だしいといっても、それは軍需品工場や粗悪な小学校建築に致命的な損害を与へただけであって、西大阪が浸水したといっても少しばかりの風水害であらうと思ってゐた。
 その日、東京府北多摩郡千歳村上祖師谷の、私の関係してゐる農民福音学校の校舎の一部分が屋根を吹き飛ばされたので、大阪の被害もその程度であらうと思ってゐた。それが、大阪に帰ってみて、風害もひどかったけれども、そのために起った津浪の災厄の方が、更に深刻であったことを聞いて全くびっくりした次第である。
 一体、こんどの関西の風水害の記事は、大阪に関係のある新聞のほか、東京ではほとんど馬鹿にしてあまり書いてゐない。殊に、津浪の記事などは全く無視してゐるといふやうな傾きがあった。それもその筈、大阪にゐる者でさへ津浪のあったことに気がつかなかったといふことである。しかし、大阪で聞いてみると、この度の津浪はとても大きなものであったらしい。自動車が二十分かかる距離の処を、大きな津浪が十七分くらゐで走って来たので、運転手などで自動車諸共溺れて死んだものが多数あったとのことである。
 私は、大阪此花区四貫島にセッツルメントを持ってゐるので、電文を見ただけでは、ただ水害があったのだと思ってゐた。大正十四年に四貫島にセッツルメントを開いた時、そのあたりが低いので、私は新築する時、街路より約三尺ばかり床板を上げて家を建築したが、それでも床の上約二尺三寸くらゐ浸水して、書棚を下二つ濡らしてしまった。潮があんまり速かったので。書物を上の棚に上げる暇も全くなかったといふことであった。
 私の処から約六丁ばかり海に近い(海岸からは約小一里離れてゐる)恩貴島町方面では、「あ、水だ!」といった瞬間に、もう床の下に浸水し、私の友人などはカナリヤの箱を持って二階に上った瞬間に、床の上二尺ばかり水が覆うて、畳がぶくぶく浮き出したといふことであった。
 それから更に、恩貴島橋を渡って、住友の経営してゐる北港の住宅地に行くと、その附近の津浪は一戸深刻なものがあった。そこにも私たちはセッツルメントの分館を持ってゐて、小さい木造家屋を保育所のために建てて置いたが、僅か五分間のうちに、軒まで高潮がやって来て、ピアノが璽覆し、風に遊戯室の屋根は吹き飛ばされ、主任保姆の住んでゐた家では、浪に壁を打ち破られ、大きなピアノが流されて行方不明になるといふ始末であった。それもその筈である。その裏には浚渫船が、海岸から十四五丁も押し流されて。住宅地の裏の畑のまん中にぽかんとしてゐる有様であったから。

  権蔵ケ原の漁夫

 しかし、まだこれより気の毒なのは、新淀川の南岸の提の下で、古トタンを張って十八家族が、小屋掛けの中に避難してゐる漁夫たちである。私はその人たちの気の毒な話を聞いた。
 朝早く。小松さんは――私はこの人から一時間半くらゐ新淀川の堤の上で話を聞いた――浜に立った。どうも浪の打ち方が普通と違ふので、をかしいと思った。そのうちに風は激しくなり、見る見るうちに十八戸の家は全く崩壊し、命からがら堤防まで逃げた。松の樹が三百五十本ばかり生えてゐたが、見る見るうちに半分くらゐ折れたり倒れたりしてしまった。その松の樹は大抵百年以上も経った大きなものぽかりであったから、折れたものに撃ぢ登って、浪の押し寄せてくるのを目の下に見ながら、大丈夫だらうと思ってゐたが、浪は見る見るうちに、一間半くらゐ高い堤防の上に生えてゐる一丈五尺もある松の樹に登ってゐても、まだ頭を七八尺も越えて行くので、松の樹に登ってゐた老は 一人として助かると思ったもの
はなかったとのことであった。
 松の樹の上で約一時間戦った後、風の方向が変ったので、漸く潮が退き出したさうである。奇路的に、小松さんも妻も子供も一家族五人とも凡てが助かり、船は錨とも完全に残り、どうしたことか、自分と息子の自転車が二台とも浪打際に真直ぐに立ったまま置かれてあったことを発見したと、小松さんは不思議がってゐた。小松さんは平素から人に親切にしてゐたので、その報いがきたのだと喜んでゐた。しかし、十八軒の中三十数人浪に溺れて死んでしまったので、同じトタンの下に寝てゐる者の中に、火葬場から持って帰ってきたお骨を五つも抱へてゐる気の毒な漁夫もあった。私はさういふ人を見るにっけても全く気の毒でならなかった。

  船山に登る

 新淀川の堤防から西北を見ると、そこに大きな汽船が海岸に坐礁してゐた。私の弟が勤務してゐた尼ヶ崎市初島附近などでは、大きな三千噸級の汽船が、海岸から六丁も丘の上に吹き上げられて、文字通り船が山に上ってゐた。それを曳き下すには、運河を六丁ばかり掘って、汽船を水に浮かさなければならない。何でも、さうするためには、約七万円くらゐかかるだらうとのことであった。
 武庫川尻の住宅地はほとんど全滅で、見る影もないほどの気の毒な状態であった。阪神電車の浜川には、海岸から流れてきた生活用具が、幾百幾千となく、十日間くらゐ引懸ってゐた。そして、何十町歩といふ広い川野が、潮水のために真紅になって、稲が実ってもゐないのに、十一月の収穫を待つやうな色彩を見せてゐた。何でも、あまり被害が大きいのと、そのあたりが別荘地なので、地主たちは、それが新聞に喧伝せられると地価が下ることを恐れて、被害をあまり新聞に報告させないといふことであった。
 桜島の海岸に出ると、そこらにあった家も、浸水して押し流されたものが少くはなかった。天保山の波船場に出ると、大きな三本マストの帆船が沈没して、ガソリン・ボートの渡航船が、それに引懸りはしないかと思はれるほどで、真直ぐに帆柱だけ出して沈んでゐた。
 築港桟橋に出てみた。ここでも全く驚いた。昔、ここに数干噸の船が横着けになった時の面影はなく、桟橋の根附はでんぐり返り、その傍に瑞鳳丸が海の方に傾いて乗り上げてゐた。嘘か真実か知らないが――これは人から聞いた話なので――この附近にあった肥料の食庫は、約二千噸の在庫品を入れたまま、浪と風に押し流されて、約三十間ばかり陸の方へずってゐるさうである。私はそれがどの倉庫かと捜してみたが、見当らなかった。

  三宝村の全滅

 大和川尻の三宝村は一層悲惨であった。これは、三宝村から辛うじて逃げ出してきた私の友人、大阪愛染園園長富目象吉氏に聞いたことであるから、間違ひないことである。
 九月二十一日の朝八時頃、隣の中根さんの家の子供が、富田氏の息子と一緒に、学校へ行かうと誘ひに来てゐた。その瞬間忽ち水が表通りに一杯になった。そこは海岸から十数丁も離れた処であるので、富田氏はすぐ津浪だと感づいた。それで、早速妻子と隣の嬢ちゃんと女中の四人に、一々流れてきた大きな板を持たせて、奥地へ逃がすことに決心した。しかし、僅か一分間くらゐ後に、もう表の水は背がただなくなるほど高くなったので、一緒に出た妻子の姿をすぐ見失ってしまった。富田氏は、裏の深い堀を泳ぎ渡って。二階建の窓から二階へ避難したが、そこも危険とみたので、女と子供ばかりのその家庭に、板を持って逃げることを勤めた。しかし彼等は、子供が小さいからといって、逃げることを肯じなかった。それで富田氏は、すぐまた濁水の中に飛び込んだ。そして、大和川の堤防まで浪に押されながら、辛うじて泳ぎ著いた。
 しかし、丸裸なので、大阪市内に這入ることも出来ず、そこに流れてきた箪笥の中から女の長襦袢一枚を引き出して、それを着たまま、妻子がどのあたりに漂流してゐるかを堤防の上から見てゐたさうである。しかし、いくら待っても妻子はやって来ない。それで彼はもう妻子が全く溺れて死んでしまったことと思ひ込んだ。彼は流れてきた溺死体を一々調べて、これが自分の妻ではないか。あれが我子ではないかと、何時間も見てゐたさうである。
 話変って、富田夫人は夫に別れた後数時間浪にもまれて、断ち切れた電線の下を潜りながら、やっと大和川の堤防に逃げてきた。そして、そこに出来てゐた救護船に救ひ上げられて、労働者の着る印袢纏一枚を貰って、午後四時過ぎ大阪天王寺区愛染橋際の石井十次記念保育園まで辿り着いた。すると間もなく、肥料船に乗り移って助かった子供と女中が、愛染園まで帰ってきた。それからすぐ、女の長襦袢を着た富田象吉氏も、保育院に、妻子は死んだことと思って帰ってきた。しかし、彼よりも妻子の方が早く帰ってゐるのを見て、狂喜したといふことであった。
 しかし気の毒なのは三宝村の住民で、三百五十戸の中、残った家は僅かの農家と、最近建った家の極く僅かの部分で、他の八九割は全部木端微塵になってしまひ、どの木材が自分の家のものか全く見当がつかないほど、他の建築物の材料とごっちゃになって。阪堺電車の線路まで流れ着いてゐたといふことであった。そこでは、死亡者約三百五十人で、富田氏の隣の中根夫妻は勿論、裏の堀を越えて一度泳ぎ著いた一家族六人も、全滅したといふことを私は聞いた。

  西大阪は嘆く

 四貫島方面では、日本染料会社の浸水のために、約一万五千人の住宅地が、全部藍色に染まってしまった。染料が水に浸った箪笥まで浸み込んでしまったので、せっかく水がひいても、罹災者は着る着物一枚無いといふ悲喜劇が行はれた。それになほ気の毒なのは、正宗土地会社が、四貫島を地上げしない前から、借家を借りて住んでゐた人々の家は、河の脇にあって、満潮時分は、水面より床が低い処にあった。堤防が欠損したために、勿論これらの家も水浸りになったが、水が引いて、四貫鳥方面の水がそこから河に流れ出した時、染料の水がそれらの家を総て染めてしまひ、九月二十六日頃まで、染料を溶かした壷の中に、これ等の家がわざわざ漬けられたやうな形になってゐた。そのために、彼等は、家々に再び帰る勇気もなく。恩貴島小学校に収容せられたまま、机の上で夜具もなしに数日を送った。辛うじて、『大阪朝日』、『大阪毎日』の親切によって、毛布や蒲団が廻ったが、それも十日目に蒲団は五家族に一枚、毛布は一家族に二枚くらゐの比例で給せられた程度であった。
 あまり長く着のみ着のままで小学校の机の上に寝たものだから、大抵のものは一通り風邪をひいてしまった。それに茶碗を持ってゐるものが少かった。一戸あたり二箇くらゐしかない家庭もあった。
 十月一日に、彼等はもう辛抱しきれなくなって、河岸に流れついた流木を拾って、バラックを建ててしまほうと決心した。それを警察では許さなかった。大阪市に泣きついたが、大阪市バラックの必要を認めないと考へたらしい。なほ十日間待てと彼等に云った。そこで私は、その方面の代表者と三人で、大阪府の当局にあたってみた。府当局はバラックを建てる意志を持ってゐた。その足でわれらは更に市庁に廻ったが、市社会部は取り合ってくれなかった。
 私は『大阪朝日新聞社』社会事業部の浜田光雄氏を通して、市の意向をきいて貰った。ところが、市は内務省の意向だと云ってゐると教へてくれた。で、私は内務省社会局に当ってみた。すると内務省社会局では、そんな指令を出した覚えはないとのことであった。私は思ひあたることがあった。大阪市の社会事業の執務方針が罹災者救護にまであらはれてゐるのであった。

  経済的不経済

 今日まで大阪市は、社会事業にあまり金のかからぬことをもって誇りとしてゐる処である。無料宿泊所を見てもよくわかる。大阪市今宮の無料宿泊所は、最初土間の上に蓆を敷いただけであった。後に板の台を作り、土間より少しましになった。しかし今でも被擁護者が固著しないやうに、出来るだけ粗末な設備がせられてゐる。この精神がこの度の罹災者救助にも現れてゐる。つまり、出来るだけ罹災者に依頼心を起させないやうな方針をとってゐる。そのため、テントに雨が洩らうと、机の上に十日間寝ようと。市は幾百万円の寄附金を受け取ってゐながら知らぬ顔の半兵衛をきめこんでゐる。おそらく、市は最も経済的に救護事業をやってのけた後、幾百万円か残して、この前、堂島の大火の時、弘済会をつくったやうな調子で、こんども、市の経常費から出すべきものを、他人の寄附金で賄ふことであらう。罹災者こそ迷惑な次第である。
 大阪市の当局者の一人は、罹災者の一人にこんなことを云った。
「君は、住友の職工ぢゃないか。会社の共済組合からなぜ金を貰はんのだ?」
 すると職工は悲しげに答へた。
「日給一円四十銭や一円五十銭貰って、子供を四人も抱へてゐれば、会社にゐたところで決して楽ではないのです。それに、会社も大きな損害で、動力も止まってゐるんです。三ヶ月の間だけ、バラックに居らせて下さい。それより以上は決してお願ひしません」
「考へておく」
 市の当事者はさう云ったきりで、つき離してしまった。この当事者は、失業救済についても、同じ意見を持ってゐる人で、「失業者自殺する者なんか一人もないから、失業保険なんか絶対に要らない」と。私に言明したことがあった。新聞を見ると翌日大阪市のまん中で失業者が縊死してゐた。
 市の当局者がこれであるから、こんどの罹災事業が人間味豊かに運ばれる道理がない。或る場所の罹災者は相変らず古トタンの下に蹲り、雨の日は合羽を蒲団の上に置いて寝なければならぬといふ状態であった。もし、大阪市の当事者がもう少し罹災民を思ふ心が多ければ、東京市民は、災厄の後、漸く二週間目に募金運動をするやうなヘマなことはしてゐなかったらう。あまりに救護費を出し渋るケチな考へが、こんな時に禍ひして、義金を惜しみもなく放り出した同情者の志にどれだけ背いたかしれないと私は思ふ。
 大阪の当事者は、バラックの後片附が大変だと心配してゐるらしかった。しかし、町会が責任を持つからやらしてくれと懇願した。それをすげなく追ひ返す勇気のある当事者こそ、税金を出して養ふには、あまりに官僚的な存在だと私は思った。
 函館の火災は数万の罹災者を出した。この時にも。バラックに固著せられては困るといふ理由で、六十坪の広さに仕切一つないバラックを幾十も作り、出来るだけ居辛くして、バラック民を早く追ひたてることに当局者は苦心してゐた。私はそれを見た時、「まあ何といふ情ないことであらう、彼等は、雨露だけを凌がせさへすれば、児童の心理など無視してのよいと思ってゐるのか」と憤慨した。そして、こんどもまた、大阪の当局は、この同じバラックの問題で躓いてゐる。彼等は罹災者を救ふ前から、如何に早く罹災者を追ひ立てればよいかを考へてゐる。あまりに冷酷なその態度に、私は悲しくなった。
 社会事業は、あまり冷酷な態度をとり過ぎると、かへって不経済に終るものである。仕切のないバラックは不良少年を生み、地べたの上に寝かされるルンペンは叛逆心を生む。ただその時だけ早く追ひ立てればよいといふ気持が、大局に於いて経済的であり得る社会事業を、却って不経済に終らせてゐるのではないかと、私は考へさせられた。もしも大阪市がほんとに経済的社会事業をやりたければ、協同組合を基礎にする社会事業を、うんとやればいいではないか。その勇気も持ち合せなくて。ただ最少限度の罹災救助費を誇るやうなことでは、二百五十万の市民を持つ大阪市としては、あまりにも時代離れがしてゐる。徳川時代の社会事業ならいざ知らず、いくらルンペンだからといって、今なほ地べたの上に寝さすやうな無料宿泊所は、人間と豚とを混同してゐるのではあるまいか。

  物質に対する新しい考へ方

 私は言葉を持たない。私が今感じてゐる宇宙の不思議を表白するには、たうてい私の言葉は足りない。
 私は感ずる――私自身が不思議な存在であることを。それは私が意識する存在であることの不思議である。障子に硝子が切り込んであると同じやうに、意識を通して、内と外とが同時に見える。過ぎ去った過去と、まだ来ない未来が、意識を隔てて窺ひ知られる。客観の世界が主観に吸収され、主観の世界が客観の世界に通告出来る。意識の世界に於いては、実在はまことに不思議な形をとる。そこには物があるだけではなく。法則も実在であれば、目的も実在である。選択も実在なれば、変化性も生長性も実在である。
 存在の哲学から見れば、物質の如きも、法則や目的と同一に取扱はるべき実在であると考へてよからう。
 かう考へると、目的が実現性を持つ実在である如く、物質も実現性を持つ実在であると云ってよからう。実際、物質は実現せられたものである。それは不思議な意味をもって、われわれに物語る言葉であると考へてよからう。悟り得ないけれども、すべての物質は、神秘な世界から、われわれに物語る言葉である。

2014-12-28

黎明26 天文学から見た新天地創造論

  天文学から見た新天地創造論

  宇宙の突然変異

 進化論天地創造との比較論を少しばかり、主としてジーンズ博士の天文学の立場から考へてみたいと思ふ。今から約六十年ほど前のチャールス・ダーウィンなどの説によると、自然界は順序をたてて進化発展してきたといふ。カントラプラスなどいふ人もさういふ考へを根本にしてゐた。つまり、宇宙は星雲からだんだん固まって、しまひには太陽から地球が出来、地球から月が飛び出して出来たのだと考へてゐた。ところが、最近、突然変異があるといふ説を新しい地質学者、天文学者がいひ出した。
 私はフィリッピンヘ行ってゐる間に、地質学の立場から、岩層の順序が進化論的になってゐないことに気がついた。普通なら、地球上では古いものほど下にあり、新しいものが上になってゐる筈だのに、ヨーロッパではさうなってゐない。さういふ処が地球上に沢山ある。そこで、どうも地球の表面が順序よく行ってゐない。われわれの想像もつかぬ激変的事件が起ったに違ひないといふことを研究発表した書物『我等をめぐる宇宙』をよんで、私は感心した。
 それは実際驚くべきことである。普通の進化論からいへば順序よく重なってゐる筈なのに、実際はさうなってゐない。かういふことを最近地質学者がいひ出したのである。なぜ地球に皺がよってゐるか? おそらく、月や地球が出来た瞬間に何か激変があったのであらう。その激変が確かに地球上に残ってゐるだらうと思ふ。
 ジーンス博士は、天地は神が創ったと主張する天文学者であるが、かうはっきり説明し得たのはジーンズ博士が初めてである。なぜかう云ふかといふと、まづ第一に地球の話から始めなければならない。地球は遊星であり、遊星は太陽系に属してゐる。そしてこの太陽系は、最も珍しい星だといふ。太陽系は宇宙の真中にあるのではない。それは銀河系統に属するものである。何百万といふ銀河系があるだらう。その一部分の隅っこに属してゐる太陽系は、星の中でいふと、実に不思議な星で、あれだけの熱を持ってゐるものはほかにない。大抵のものは弱りつつある。しかし多くの星は太陽と同時刻に出来たので、決して進化的な径路は見えない。人間の目にうつるだけでも三千の星があり、望遠鏡で見ると何億とある。その星の中で、特別古いとか新しいとかいふ星はない。大体に於いて、恒星は太陽と同じ頃に出来たらうと考へられてゐる。宇宙の外側から或る働きで宇宙に特別な力を注ぎ込んだと考へなければならない。そして1.3×13/10の熱で空間に注ぎ込んだほどの力で、物質のやうなものを造ったと考へなければならぬ。ジーンズ博士はさう思ひきって書いてゐる。

  ただ一度の機会

 宇宙の星には必ず初めがあった。そして終りもある。無限から無限に読くなどといふことは考へられないとも書いてある。物質の中から光が出て、物質がだんだん変ってゆくと考へるなら、ラヂウムの如きは消えてしまふ。凡ての物質はラヂウムのやうなものだから、太陽も消えてしまふ。丁度ラムプの油が絶えて、光が消えてしまふやうに、太陽の光も消えてしまふ。だか、最初ラムプの中に油が一度に注ぎ込まれたやうに、宇宙にもさうやって何か特別なものが一度に注ぎ込まれた時があったに違ひない。だから、終ひにはその油が切れて消えてしまふのだと、はっきり天文学的に説明してゐる。
 ジーンズ博士は、引力の研究を二十数年間してゐるくらゐの人だから、その云ふ事が面白い。宇宙に太陽のやうな存在か稀なやうに、地球のやうな面白いものも珍しい。遊星といふものが大体少い。遊星のある星は太陽系以外に見つからない。あったところで、地球のやうなものとは違ふ。星には光ってゐるものが多くて、光ってゐないものは少い。そして地球のやうな光ってゐないものは、何百億年も続くだらう。といふのは、地球はラヂウムのやうな元素を持ってゐることは少くて、大抵の元素は固まってゐるからである。
 太陽は一分間に三千六百億噸に近い熱を出してゐるのだから、一分後には三千六百億噸の熱が減ってゐる訳である。地球は一分間に九十ポンドくらゐしか減ってゐないから、地球はなかなか収縮しない。収縮しても、目につかないくらゐである。だから。千万年経っても、人間の住所に適しないといふことはないと計算してゐる。なほ面白いのは、この太陽系の構造が水素原子の構造と全く等しいことである。
 遊星は、太陽に近いものからいふと、水星金星、小遊星、地球火星木星天王星海王星冥王星の順で、太陽と水星との距離は一、水星金星との距離は二、金星と小遊星との距離は四、小遊星と地球との距離は八といふやうに、二倍づつにし、その各々を三倍し、更に四を加へると、遊星問の大体の距離が出てくる。さういふやうに計算して最近発見されたのが冥王星である。原子もやはりさうであって、原子の構造は太陽系の組織と全く同じである。
 そこで、太陽から地球が出てくるのは、自分の力ではねとばしたのでなく、一つの星がすぐ側を通過して、その引力にひかれ、引かれた部分がとび出してしまったのである。だが、二万三千年の週期で太陽が銀河を廻ってゐる。その銀河の中を或る星が何百万年か前に通過した瞬間があった。その形跡があるのは大熊星やアンドロメダ星座等で。明かに銀河の中を一度通過したと思はれる点がある(が、その時に地球から月を離したとは、云ってゐない)。かういふ機会は実に珍しい。宇宙の星は宇宙全体からいふなら、全欧洲に六匹の蜂を放ったやうなもので、互に衝突するやうなことはない。

  天地の創造

 さういふ風に考へてみると、神が或る目的をもって太陽から地球を引き出したやうに考へられる。世界が始まってから、かういふ事があったのは只一度である。何千人かの人間が、一生懸命星を覗いた結果、どうしてこんな地球が出来たかはわからないにしても、とにかく地球のやうな不思議な珍しいものは他にはなく、また地球上に住む生物のやうなものもなく、地球は結局生物をつくるために太陽系の中に造られたものだと考へるやうになった。更に、この地球も永遠に亡びないのではない。何百億年かの後には、地球もばらばらになってしまふ。丁度土星の輪のやうに。土星の輪は三重になってゐるが、なぜあの輪が出来たか? あれは瓦斯体であらうか? いや、さうではなくて、初めあれは土星衛星だった。それが地球の半径の二倍半くらゐの近くになった時に、ばらばらに砕けて、ああいふものになったといふことである。月にひかれて地球上の水が干満を示してゐるが、しまひには、月が砕けて地球の輪になり、地球それ自身も太陽にひかれて、さういふものになると、ジーンス博士は計算してゐる。慧星は星のばらばらになったものが空間を飛んでゐるのだといふ。
 かやうに考へると。ジーンス博士の宇宙創造論は、必ずしも根拠のない説ではないと思ふ。今から六十年も前の学者は天地は神がつくったといふと嗤ったものであるが、今ではそれに反対する理由はなくなった。新しい天文学では、宇宙は神が創ったものである。「神元始に天地を創り給へり」といふ創世記第一章の言葉はその儘事実であることを説明せんとしてゐる。地質学チェンバレンが、字宙は決して漸進的に進化しない、突然出来たと云ってゐるが、星も決して順序よく進化したものでなく、或る一定の時に、花火が爆発するやうに一度に出来たものだといふ。さうすると、神は確かにあるのである。
 この不思議な宇宙の存在を考へると、ますます不思議である。これを造ったのは神であり、神が太陽系をつくり、地球をつくり、生物の存在を可能ならしめたのであると、私は信じてゐる。

黎明25 奮闘の人・繁栄の村

  奮闘の人・繁栄の村

  林檎で救はれた村

 青森県は去年も今年も饑饉と洪水の災害に見舞はれたが、幸ひに、林檎で村の会計をつけてゐる地方は比較的困ってゐない。これは、佐藤勝三郎氏の林檎栽培に対する偉大な貢献の結果である。
 今から約五十年も前のこと、佐藤氏はクリスマスの時に、西洋人の宣教師から妙な果物を一つ貰った。後で分ったことであるが、それは林檎であった。彼は他の人が食ってゐるのに食はないで、そのまま自宅に持ち帰り、庭に埋めて置いた。ところが不思議にも、翌年の春、それが芽生えて生長して来た。そこで佐藤氏は。アップルと称する西洋種の林檎が、日本に於いても栽培せられることを知り、種々研究の結果、岩木山の東側、主として岩木山はよって強い西風を防ぎ得る地方だけに、日本に於ける最も良き林檎が栽培出来ることを発見した。
 この林檎は毎年、宮中に差上げられる青森県特産の林檎で、名をインドと呼ばれてゐる。それを最初にくれた宣教師が、北米合衆国インディヤナ州の出身であったが故に、土地の人はこれを省略してインドインドと呼びならして来たのである。それが青森県に最も豊富にある林檎であって、今日では年産額約五百万円に達するやうになった。そのうちに。青森県庁は林檎が青森県に適することを知って、県自らが林檎の苗木を北米合衆国より、輸入するやうになり佐藤勝三郎氏も自分の庭を林檎畑に作り変へて、更に良き林檎の栽培に貢献したのであった。
 この貢献に依って、氏は藍綬褒章を戴いたのであった。それ以来、青森県津軽半島などでは饑饉の憂ひは非常に少くなった。微細な点に努力しても、それが村を救ふ端緒になることがあるのである。

  牛乳と信用組合で更生

 北海道石狩川方面は凶作と洪水で悩んでゐるが、不思議に北見方面の諸村は饑饉の憂ひから免れてゐる。その主な理由は、村が一致して乳牛の飼育と養鶏貯蓄組合に依って信用組合を作ったことにある。
 北見国遠軽町北海道に於いても比較的気候に恵まれない地方であるが、その方面の農村が饑饉に窮乏しなかった一つの理由は、乳牛組合に依って経済的に余裕があったためである。その背景には、北海道酪農組合長宇都宮仙太郎氏の隠れた努力があった。
 宇都宮仙太郎氏は、早くから北海道に適する乳牛の輪入に努力し、生産組合並に販売組合の組織に努力した。そして、自分の家族の者をデンマークに送って、デンマーク農業の経営方法を学んだ。そしてほとんど全財産を投げ出して酪農組合の組織に着手し、友人等に助けられて、日本に於ける最も大きな販売組合を組織するに至ったのである。北海道の製酪の八九割までは、宇都宮氏を組合長とする酪農組合に依って統制されてゐるのである。
 資本家側の、営利を基礎とする牛乳の会社は、最近の恐慌と不景気のために農民に迷惑を掛けて、農村から退却した。その後を受けて、宇都宮氏を中心とする酪農組合は献身的の努力を払ひ、農産物の価格の暴落の際にも、農民の生活費を補ひ得る程度に価格を維持し、穀類の取れなかった昭和六年の冬にさへ牛乳を生産し、これを北海道酪農組合に納めた者に対しては、冬期間の生活費を全部保障した。この為に、北海道の農民はどんなに救はれたか知れない。遠軽附近の農民の一人が「乳牛組合のあったお蔭で、私たちは饑饉から逃れた」と私に話してゐた。私は、日本の荒地を利用する方法を知り、これを共同組合の力に依って維持するならば、饑饉或は凶作の場合にも農村は決して困憊(こんはい)しないことを知ったのである。
 なほ、遠軽地方で私が感心したのは、同地の人々が、信用組合を作る資金が無かったので、約一年間、鶏を飼ひ、その卵の代金を全部貯畜し、一万円以上の貯畜が出来たので、それを基金として信用組合を作ったことであった。これによって、農村の金融は非常に円滑になり、その附近の農民の潤ひは非常なものであったとのことである。

  養鶏組合で繁栄した村

 大阪府三島郡山田村には、二十七戸の小作農があったが、或る横暴な地主の為に五年ほど前全部土地を取り上げられてしまった。
 当時私に相談があったので、私は養鶏組合を作って生活を維持することを奨めたところ、彼等は直にその実行に移り、二里近くもある追い所に荒地を買ひ入れ、鶏の飼料を作り、其処で協同耕作をし、良き種卵を買ひ入れ、棄てて置いてあった養鶏場復興し、二十七家族が一団となって養鶏組合を始め、好成績を挙げた。しかるに卵の値段が暴落したため、一時非常な困難に陥った。そこで、二十七軒の人々が卵の卸問屋に卵を送らないで、自ら小売りすることを思ひつき、毎日、その日その目の卵を持って大阪京都方面へ出かけ、一一小売りして廻った。その為に卸問屋に卸す倍くらゐの値段で卵が捌けるやうになったのであった。
 やがて卵の品種が非常に良いことが知れ渡り、大阪方面の各村及びその附近の養鶏組合から、進んでこの種を取寄せるべく、この養鶏組合に申込むやうになって来た。その為に、今日二十七軒の小作農は愉快な生活が出来、なほ余裕を生じてゐる。これなどは、小作農が土地を離れた場合、如何にすべきかの一つの良き暗示だらうと思ふ。

  最初の組合診療所

 今から十年前、島根県八束郡秋鹿村に、加藤佳吉といふ青年がゐた。
 彼は貧乏な農家に医者の来てくれない事を憤慨し、断然意を決して産業組合に依る組合診療所を経営することを思ひ立った。郡の医師会は猛烈に反対したが、知事が同情したので、小さいながらにも、日本で最初の組合診療所を開設することに成功した。今は内科の医者と歯科の医者の二人に依頼して、約千二百戸の農家に、組合に依る診療を続行してゐるが、これに倣って全国的に拡まったのが、今日の医療利用組合運動である。私はこの組合診療所を訪問して、平和の村から病気に依る貧乏が一掃されたことを見て喜んだのであった。
 この運動が鳥取県倉吉に飛び火して、今日倉吉町を中心とする産業組合に、約五千戸の人々か。僅か一日二十五銭の入院料で診療を、受けることが出来るやうになったことは、実に嬉しい事である。約十三万円の費用を投じて、倉吉町に大きな組合病院を設立し、院長には有力な医学博士を迎へ、病室に一等二等三等の区別を廃して、或ひは休養室、或は安静室といふやうな美しい名前を付けて、数人雑居する部屋には部屋料として一日僅か二十五銭を課し、食事は全部自炊するやうになってゐて、一ヶ月病気しても僅か七円五十銭位の金を払ひさへすれば、手術料の外は何等憂ふることなしに入院出来るやうになってゐる。これなどは、一人の青年が一村を救ひ得る方法を案出した結果、更に他の村の救済の途が開かれた好模範である。

  籾殼を焼く器具

 宮城県亘理町に近い農村に、森孫太郎といふ老人が住んでゐる。この人は、宮城県の南部の農村が疲弊してゐるのは、土地の改良の出来ない為であることを知って、自ら籾殻を焚いて灰にする器具を考案し。籾殼を焼いてそれを土に混ぜ、多くの膠質を造り、これに依ってこの地方の米殼の収入を約倍加することに成功したのであった。
 今日、森老人は官城県に於いて有名な篤農家の一人になってゐるが、土の性質を研究して、必ずしも西洋農法に依らず、日本従来の農耕法を用ひて村を改良し、貧しき村を救ふ一つの方法を編み出した。今日では、森氏の考案した。籾殻を燃焼せしめる器具は全国的に拡まってゐるが、その器具を誰が発明したかを知ってゐる人は極く少いであらう。

  琵琶湖畔の出来事

 滋賀県東浅井郡朝日村海老江北陸本線の虎姫駅に近い農村であるが、琶琵湖との関係で、冬期にはこれまでほとんど裏作をしなかった。
 そこに酒井良次といふ一人の青年があった。
 彼は基督教的信仰に燃えた優秀な愛郷的青年であるが、断然、湿気の多い冬期間の田圃の隅に、一坪余の深い池を作り、畝を高く積み上げて、そこに大麦を植ゑることに成功した。彼等の同志が村に二十七人くらゐあったが、皆彼に見習って、幾百年間棄てて顧みなかった豊饒な琵琶湖畔の田圃に、冬期大麦栽培を始めることに成功した。これに依って、たとへ夏期に洪水で稲が全部流れても、食物は絶対に不足しないやうな方法が講ぜられたのである。
 なほ同君は、青年会の会長をしてゐた時、率先して奉仕的協同耕作方法を始め、ガソリン・エンヂン二台を買ひ入れて、農家の籾摺を全部青年団で奉仕的にすることにした。その外、彼は田の周囲を利用して樹木を植ゑ、或は琵琶湖畔の小溝を利用して雛鯉の養殖を始め、雑草を利用して山羊を飼育し、これまで使はなかった牛を琵琶湖畔の農業に使用することを始めた。
 更に彼は、嘗て考へられなかった、農村の日用品を取扱ふ消費組合を、青年団の幹部達と相図って始め、同志と共に農繁期の託児場を創設し、保健組合と称する団体を組織して、青年の理髪を相互的にやって理髪屋に払ふ金を貯蓄し、それを村の衛生運動に使用することにした。
 かうして、一つの小さい部落であるけれども、彼の指導に依って、如何なる災厄があっても、村民が饑饉に苦しむといふことは絶対に無くなった。彼は僅か二十六歳であるが、彼の如き青年が次々にあらはれるならば、農村の自力更生は容易であると私は信ずるのである。

  忠犬パピー

 関東の大震災のすぐ後、私は神戸から上京して、震災で不幸になった人々を救ふために働きました。そのために疲れたのでせうか、翌年三月、病気になって、静養のため東京市内から少し離れた松沢村に住むことになり、四月の上旬、家族とともに移ったのでありました。
 その時、知人から小犬を一疋おくられました。白に茶のぶちのある可愛い小犬でありました。名前もそのままパピーと呼んでゐました。
 その時分、私の長男は三歳でしたので、パピーは全くよい遊び友達でありました。
 又パピーはよく家の番をしました。あの時は、鳥籠の文鳥を、大きな青大将がねらってゐるのをパピーが見つけて、吠えて家人に注意したので、危く呑まれようとした小鳥が、助かることが出来たのでありました。
 鶏も四五十羽飼ってゐたのですが、パピーがゐるので鼬に捕られることもなかったのでした。
 パピーは、その後度々、可愛い小犬を産みました。パピーに似た茶色や白黒のぶちなどの小犬が、ころころ歩き出すのを見て、長男は大よろこびでありました。
 二年目の十月、私たちは東京の救済事業も一まづすんだので、家族全部が東京を引き上げて神戸に帰ることになりました。今まで住んでゐた家へは、引き続き友人が来ることになったので、パピーはその友人にあづけて行きました。
 すると、パピーは十人家族の私たちに別れて、非常なさびしさを感じたのでありませう。毎日二町ばかり隔った京王電車の停留場へ、帰りもしない私たちを迎へに行くやうになりました。一日中待ち続けても、私たちの姿が見えませんので、打ちしほれながらパピーはとぼとぼと夕方帰って来て、縁の下の自分の寝床に寝ます。けれども、迎へに行くことはやめず、来る日も、来る日も、パピーの日課は変りませんでした。
 新しい飼主は、初めのうちは気づかなかったのでありますが、おひおひパピーの美しい毛並は艶がなくなり、元気は衰へ、痛ましくやつれて行きました。そして私たちが恋しさに、食事もしないで、
一日中停留場で私たちを待ちつづけるわけが戸も友人にも明かになりました。
 パピーはだんだん衰弱が増して行きました。そして、可哀さうに、再び私たちが私沢村に帰る日を待たないで死にました。
 際立った忠義をし、大きな手柄を立てたといふのではありませんが、これほどまでに主人をおもふハピーの美しく優しい愛情に対しては、私たちは心から感謝してゐます。

  武蔵野の魂の記録

 武蔵野の空は高い。そこを飾る欅、椋、樫の森は、青空を彩る自然の刺繍だ。黒土の底から、薄、女郎花十二単衣、風蘭草が出てくる。火山灰の上に作り上げられた、日本で最も詩的なこの平野は、また多くの詩人を生んだ。そしてその詩人の中、『みみずのたはこと』の作者は、おそらく、彼みづからみみずであることを意識してゐただけに、最も深く武蔵野の土壌の精を吸ひ込んだであらう。
 私は、十数年前初めて『みみずのたはこと』が出た時に、一気にそれを読みきった。或る処は歓喜にひたりつつ、また或る処は、自然の慈愛に感激の涙を流しつつ、私は、武蔵野の精が物語るままに読んだ。
 徳富蘆花は、武蔵野みみずである。彼は一旦武蔵野に這入ってから、ほとんどそこを出なかった。折々他処に出ることがあっても、再びその草葉の蔭に帰って行った。私は度々彼を誘ひ出しに行った。しかし、この土の精は武蔵野の土のかをりを捨てようとはしなかった。そしてたうとう武蔵野の土となってしまった。武蔵野の土は、蘆花をはらみ、蘆花として物語り、蘆花として死んだ。彼は武蔵野の精である。
 科学者は、武蔵野の土を分析する。しかし、土の精には触れない。
 詩人蘆花は武蔵野みみずであったがゆゑに、土の精を物語る。彼が土について報告する事は、全く顕微鏡的である。彼は、庭にのび上る一本の草花の歴史をよく知ってゐた。『みみずのたはこと』を読む者は、如何に彼が丁寧に何年何月何日に、何々の草が何々の地より武蔵野に到着したかといふことを、詳しく報告してゐることに気がつくだらう。彼は、一本の雑草の誕生日をもよく記憶してゐた。まことに彼は武蔵野みみずであったがゆゑに、狭くはあり、窮屈ではあり、人に踏み附けられることに甘んじたけれども、そこに彼は、彼の運命を発見したのであった。
 彼はなかい論文は書かなかった。彼は、土から発散する蜉蝣(かげろう)のやうに、断片的に『たはこと』を書き附けた。このみみず日記帳が、みみずの魂の日記であり、武蔵野の精の自叔伝であるのだ。ほんとに、よくまあ、こんなに真剣な、そして深刻な土の記録がのこされたものだ。この作は、断片的手記であるだけに、武蔵野の生命の総てに触れることが出来た。しかし、断片的に書かれたこの『たはこと』は賢人の哲学よりも深い真理をわれわれに教へてくれる。神の愚は人の智慧よりも賢いと、昔の人はよくも云ったものだ。
 『みみずのたはこと』は、近代に書かれた日本の多くの哲学書にも勝って深く宇宙の真理を啓示してくれる。あの平凡に書かれた『草とり』や『不浄』の記事の如き、まあ何といふ深い真理をわれわれに教へてくれることだらう。彼は自然淘汰の苦しい戦ひの中に、強い宇宙救済の意志が働いてゐることを決して見のがさなかった。これを彼は、理論として記録しないで、不浄物の始末において見たのであった。
 彼、土から生れたものの中に、人の子をも数へる、武蔵野みみずは、彼の頭の上を踏んで通った、多くの、土で製造された人間の消息についても、観察を怠らなかった。しかし、そこにも彼は、みみずとしての尺度を忘れない。彼の見た『土の子』はやはり土臭い香がしてゐる。このみみずは、七千三百マイルの直径を持つ土のかたまりを基礎にして、土にわいた『人間虫』の観測を怠らなかった。それが毛虫に類するものであっても、それが乞食の安さんであっても、かれは見のがしはしなかった。安さんは土の上を歩いた。そして歩き廻っただけでも、みみず自身よりも多く歩いたかも知れない。しかし、武蔵野みみずは、土で出来た乞食の安さんを、武蔵野の産物の一つに数へてゐる。乞食のラザロをも天国に送り込んだ。天の親父の消息が見える。武蔵野みみず蘆花は、土の下から天の親父の気持で総てを記録した。そのためであらう、彼の記載する総ての自然は、実に温かい自然であり、情の深い自然である。天空にかかる、直径七千三百マイルの土のかたまりは、宇宙の心臓であり、神の顔であったのだ。
 『みみずのたはこと』は、永遠の真理を私に物語ってくれる。

黎明24 神と永遠への思慕

  神と永遠への思慕

  ピラミッドの窓

 ピラミッドの北に而した斜面に一つの窓がある。その窓は永久に変らぬ北斗星に向って剛いてゐる。つまり、屍になったミイラが、永久に変らぬ北極光を見てゐたいといふ意味から、ミイラの為に特にその窓を開いたのである。人間は永遠を離れては安住の地を発見出来ない。それを現代人は、ただ物質と性慾の、ごく変り易いものに変へてしまはうとしてゐる。殊に、永遠或ひは無限の神について考へることは、馬鹿らしい愚かな事であるとして、それを侮辱する人がある。けれどその人でも、最後の瞬間が来ると急に目醒める。
 昭和四年の暮、私が、神戸宗教講演をして出て来ると、一人の紳士が追っかけて来て、
「賀川さん、君に聞いて貰ひたいことがある。外でもないが、高畠素之君のことを知ってゐるか。あの高畠は死ぬ時一週間くらゐ続けて、涙を流して『聖書』を読み、大声で讃美歌を歌った。彼は死ぬ時になって急に神が恋しくなったのだ」
 と話してくれた。われわれも、高畠氏が日本に於けるマルクス学者の第一人者であったことを知ってゐる。彼は、マルクス資本論が今日のやうに読まれない時から『資本論』や『唯物史観』を翻訳した。その人が永遠に就いて考へる前に、マルクスの『唯物史観』を読めといはずに、自ら、永年棄ててあった『聖書』を開き、忘れて歌はなかった讃美歌を、涙を流して歌ったといふ。これは一体何を意味してゐるだらうか。
 福田徳三博士は、たしか大正九年一月の雑誌『解放』に宗教は無用だといふ論文を言いたことがあった。たしか題は『神よりの解放』だったと記憶してゐる。
 その博士も、死の床で、マタイ伝第五章を読んでくれと云って、弟子が読んでゐるうちに、安らかにこの世を去られたといふことである。人も知るやうに、福田博士は、日本ばかりでなく、フランス、独逸に於ける経済学界の名誉会員で、世界的の学者だった。その人が、宗教に対して否定的の気持を持ってゐるときもあったが、永遠に就いて考へなければならぬといふ瞬間が来ると、やはりマタイ伝第五章に帰ったのである。

  永遠は果して蹂躙し得るか?

 ロシアは昭和四年五月から十二月迄にキリスト教会を五百四十も破壊した。宗教は阿片だ、そんな馬鹿なものを信ずるのは迷信だ、といふ態度をとってゐる。しかし、果してそれが、永遠を考へるものにとって、いくらか効目があったらうか。教会組織がなくても、永遠への思慕は、鹿が谿川の水を喘ぎ慕ふ如くに、われわれの本性であるから、破壊出来るものではない。いくらわれわれが麦の芽を踏み躙っても、真直ぐに下から上に出て来る。踏みつけるほど、一本の茎であるものが、五つになり、十になり、二十になって上に伸びる。永遠への思慕、それは恰も値物の茎が太陽に向って伸び上る如く、人間の本能である。われわれは物質で満足し得ることは絶対にない。
 十九世紀に於いて、永遠と神につく思想を蹂躙しようとした社会科学者が相当にあった。英田の国のロバート・オーエン、フランスのオーグスト・コント等がさうであって、彼等は世界の注目をひいた。オーグスト・コントの弟子は今日マルクスとなり、レニンとなり、クロポトキンとなって宗教に反対してゐるが、才ーグスト・コント自身は、最初こそ宗敦に反対してゐたが、晩年になって、宗教に反対出来ない事を発見した。而も後にはカトリックの形式を模倣した宗教を作って礼拝した。彼はこれを人道教といった。しかしコントの系統を継いだものが今目の無神諭的社会科学者となった。コント自らが途中で悔い改めても、その後を継いだ人たちは、悔改めぬ前のコントの思想を継承した。英国もさうである。ロバート・オーエンが一八二〇年代から社会主義の運動をした。彼は理屈一点張り、唯理論一点張りで通した。が、その運動は成功しなかった。彼が宗教反対の演説会を開くと、五千人、一万人の人が彼の演説を聞きに来た。だからオーエンは宗教反対の運動が必ず成功すると思ってゐた。そしてこの有様では、六ヶ月そこいらで、宗教も無用になり、機械文明のみが英国を蔽ってしまふと思ってゐた。しかし、それは瞬く間に敗北に帰した。オーエンは年老いてから、自分の宗教反対は間違ってゐた、自分の魂の中にはどうしても神が必要であると云って。もう一唆方向転換して神に帰った。さうして彼が貧民階級に奉仕しようとした協同組合運動は生長した。
 彼の行った社会運動英国に残ってゐるが、英国で彼が考へた無神論宗教無用論は、彼自らが悔改めたことによって、その後を継ぐものが多くは出なかった。
 婦人参政権の先駆者パンカースト女史は、その出発点に於いては宗教に反対した。あの賢い女が宗教の無用を説いた。が、彼女が死ぬ時は有神論者になってゐた。かういふ例は幾らもある。その最も著しい者は、パピニーであった。パピニーはイタリーの無政府主義者であった。彼はあらゆる努力を払って神と宗教に反対し。寺院に反対した。だが、社会哲学を研究し、社会運動に就いて内省をしてゐるうちに、神を中心にしない、そして愛の社会性に就いて考へない運動は人類を祝福しないことを知って、断然『山上の垂訓』にたち帰った。

  永遠性なき偶像の退却

 神といっても永遠性を持たない神がある。日本にも神と呼ばれるものが相当にあるから、神にはっきりした意識をつける必要がある。で、私は永遠への思慕といひたい。ところが、近代の人はその永遠を破壊しようとする。「そんな馬鹿らしいことはない。われわれは嘘のやうな話はききたくない。われわれは有限で結構だ。いや、有限なんかいはなくても、この瞬間でいい。瞬間瞬間に、本能を満足させればいい」といふ人がある。しかし、一休いつの時代に、さうした反宗教の運動が成功したか、人間は絶対に物質だけでは満足出来ない。歴史を見ても、それが成功したためしがなく、地理的に云っても、あらゆる民族が宗教を持ってゐる。何故ならば、宗教は人間が発明したものでなく、われわれの生命は人間の発明によって出来たものではない。宗教は生命とともに牛えたものである。われわれは生きてゐる間は、永久に無限への憧憬、神への憧れを持たされてゐる。
 曾て進化論の創始者チャールス・ダーウィンが、宗教を持たない民族があることを報告した。ダーウィンオックスフォードの二年生をやめて、ビーグルといふ海軍探検隊の船に乗り、南アフリカのテル・デル・フューゴ鳥に行った。そこには動物と人間の間子(あいのこ)に近い種族がゐた。彼は尾を持ってゐた。それで彼等には恐らく宗教がないだらうと彼は探検記の中に書いてゐる。彼はそのやうに或る民族に宗教があって、或る民族にはないと思ってゐた。しかし何ぞ知らん、後に宣教師が行ってみると、最も進んだ形の、目に見えない宗教を彼等が信じてゐたことがわかった。この事を知ったチャールス・ダーウィンは、宣教師に二百円の献金をして、謝罪状を書いたといふことである。
 宗教は、人間の生命とともに、われわれの生活に生えてゐるものである。ロシアが五百四十の教会堂をぶち壊しても、そんな事でロシア全体の生命が潰せる訳がない。宗教は生えて来る。宗教が暴圧されると迷信が出て来る。神を否定しても宗教はある。一例を挙げれば、仏教の如きは、出発点に於いて、珍しく神を持たなかった。仏法だから、非人格的な法を認めるが、宇宙に神のあることを前提としなかった。それでも日本にきた或る不滅性を持つ宗教は永遠に残る。人格的な神を信じないまでも、無限へと不滅に対する憧れは否定出来ない。だから、神を否定しても、不滅に就いての宗教は残る。皮肉にも、或る人は、ロシアのソヴィエットは仏教に似てゐる、神は認めないが信仰を持ってゐる、あれは、唯物的マホメット教だといった。最近ロシアではレニンが御神体のやうに祀られてゐる。私はレニンが宗教化されることを恐れるものであるが、生命が絶滅しない間は宗教は永久に残る。永遠への憧憬――単に物質に満足せず、より自由になり、より自在性を待ちたいといふ憧憬、宗教のあらゆる変化に接し霊に接したいといふ気持は、人閣の生命がある間否定出来ない。が、それを忘れて性慾と物質に走る人がある。或る人は物質が不滅だと思ふ。しかし、今日の科学では、物質が不滅でないことが判って来た。

  物質の崩壊

 凡ての物質は電気で出来てゐるから、忽ち崩壊する。われわれはこの空間を占める物の幅は絶対だと思ふが、物のもつ幅は絶対ではない。それは速力をつけると収縮する。だから物は決して絶対ではない。それを間違へて、唯物論だけで人を導かうとするのは、大きな錯覚を与へるものである。地震がない範囲内に於いては安心してゐるが、われわれは天文学によって地球の運行が一秒間に十九哩走ってゐることを知ってゐる。そんな事は嘘だらうと聞き直すほど、われわれは錯覚を持ってゐる。宇宙は大きく、宇宙の目的は大きいから、われわれのやうなものには理解出来ない。永遠といっても、その永遠は見当がつかない。
 仮に、人間をこの大宇宙に比べるなら、人間を蟻と比べることが出来る。人間の身体を蟻が這ひ上る場合に、蟻は頭まで来て、口を噴火口と見、眼を結氷した池と見、髪の毛の中に迷ひ込んで密林に来たと、云ふであらう。この蟻は唯物論者である。蟻は詩や小説を知らない。蟻は物のみを見るだらう。われわれが宇宙を見るのもこれに似てゐて、あまり大きいから見当がつかない。その奥に不滅の法があり、不滅の力があり、不滅の目的があることに気附かない。蟻が人間を理解しないと同様に、われわれは近眼的である。しかし、われわれは物だけでは満足出来ない。

  ギリシヤ宗教推移の跡

 今日の唯物論は、紀元前四世紀のデモクリトス哲学を見るとわかるが、その当時の唯物論とあまり変ってゐない。古代ギリシヤには無限の神をキリストがはっきり地上に示すまで、日本の神道とよく似た宗教があった。そして永遠への生命を発見するまで、ギリシヤは宗教から宗教へ四度も変った。ジュースの神、アポロの神、オルヒィアス、デオニソスといふ風に変ったが、最後にはキリストへの信仰に帰った。永遠の愛、永遠の救ひ、永遠の人格を保証する永遠の宗教が、キリストによって示されたのに、古代ギリシヤの宗教的動揺は止った。その後ギリシヤはい九世紀間変ってゐない。キリストを発見するまで、ソクラテスの運動、デモクリトスの思想を持ってゐたのである。これは今日考へると、驚くべきである、けれどデモクリトスでは人間の良心が満足しない。良心が人間の失敗を憶えてゐる。幾ら忘れようとしても。記憶が承知しない。そこで、外部を見てゐた物力が内側に向いてきた。即ち、聖人ソクラテスの良心運動が起った。しかし良心運動だけでも満足出来ない。既に作った罪や失敗や姦通は、それを償ふ方法がない。そこでジュースやア
ポロの信仰を持ったが、それも駄目だった。今度はオルフィアスの信仰に来て山の上で夜通し祈ったけれど、間に合はなかった。それからデオユソスの信仰に入って、赤ん坊のやうに生れ変りたい気持になったが、生れ変りたいばかりでは駄目だった。再生宗教を教へられるまで、彼等は満足しなかった。
 そこヘキリストの尊い無限愛の運動が起った。人間の中に無限が覗き込んだ為に、ギリシヤ人は。ソクラテスデモクリトスを忘れて、キリストに全部を捧げた。近代になって或る人は、ギリシヤ主義の勝利、ヘブライ主義の敗北を説くが、人間の実験室は歴史である。人類の試験管は歴史である。歴史に於いては、デモクリトスソクラテス哲学も成功しなかった。神と永遠がわれわれの心に覗き込んで来るまでは、人間の煩悶は止らなかった。もし人間が神を蹴飛ばすなら、二十年や三十年は辛抱もしようが、長い間は辛抱出来ない。必ず煩悶が起って来る。

  神と永遠の潜伏

 ローマでは、約二十人の王が、神の愛を地上に現さうといふ運動に反対して、キリスト教信者を獅子に食はせたり、松明のやうに燃やしたり、十字架にかけたり、酷い暴虐をして、三百年間迫害を継続した。だが、武力や暴力では絶対の神は蹂躙出来なかった。彼等は地下に、カタコムと云って、四百哩のトンネルを掘り、神に憧れて死んだ約四百万の屍を埋めた。彼等は教会も持たず、礼拝すべき場所もなかったので、その地下の墓場に行って、もぐらもちのやうに屍の傍で祈ったのであった。ピラミッドの窓は北斗星に向って開いてゐたが、彼等はカタコムの中で祈り続けた。そして、三一三年に、キリスト教の厳禁が雪の如くに解かれ、クリスチャンの解放が叫ばれた。もしもロシアが三百年も迫害を続ければ、クリスチャンは二百年間残るわけである。徳川幕府は二百五十年間クリスチャンを迫害したが、明治二年に禁制が解かれたとき、二万五千人のクリスチャンが忽ち長崎に現れた。われわれは二百五十年間の潜勢力を持ってゐた。だから、神と永見への思慕は生命とともに生えてゐると私はいふ。単なる唯物史観ではない。物で生命は出来てゐない。われわれは、神への憧れを持たされて生れたのである。
 赤ん坊は眼を持って生れた。そして赤ん坊の眼は光の方へ向く。われわれの霊魂は神を見なければならぬやうに作られてゐる。それを圧迫するから迷信が起り、種々雑多な形式が現れて来る。しかしわれわれの霊魂は承知しない。歴史を見ても、純粋な良心宗教の続いたときはない。『旧約聖言』から『新約聖書』への二千年の歴史を見ても、ユダヤ人で真の宗教を信じてゐた者は、僅かであった。
 殊にイスラエル民族が三百年間、一つの独立国を建ててゐた間、真剣に宗教を信じてゐたのは四人か五人で、その他は、バールやアシタビアの神を祀って、無限の宗教はいつも負けてゐた。バールやアシタビアは一つの宗教的迷信であった。バールはパンを意味し、アシタビアは色慾を意味してゐる。だから礼拝のときは、いつも無限の神の反対側に立ってゐた。今でもこの三つが真の宗教に反対してゐる。ロシアの唯物主義はバール宗教を意味し、アメリカのエロチシズムはアシタビア礼拝と等しい。そしてこのパンと色慾の礼拝は、いつも霊魂の無限への憧れを蹂躙する。だが、われわれは神を発見するまでそれに満足出来ない。

  不変の道徳と不変の良心

 或る人は、良心は変る、不滅ではないといふ。そして道徳可変論を説く。時によると、道徳も不便だ、人を殺すのは当りまへだと主張する。フランスの、バフーフは、資本家労働者から、盗みとるなら労働者も泥棒する権利があるといった。神戸ストライキがあった時、Iといふ青年が私の処に来た。そしていふには「われわれは負けた。実に惨めだ。きゃつ等は搾取を続けてゐる。きゃつ等が掠奪する権利があるならわれわれも盗む権利がある」といった。
 それから労働組合神戸聯合会では帽子がなくなる、書物がなくなる、
オーヴァがなくなるといふ訳で、盗む権利が流行した。そしてあまりみんなが盗むので、しまひに誰も寄りつかなくたった。われわれが可変道徳を考へると、結局そこまで堕ちるのである。われわれは変化の中に変らぬものがあることを見なければならぬ。本を落すことは上から下に変ることであるが、引力の法則は変らない。
 人間の道徳も変るものと変らないものとある。変らないものは生命である。生命を尊重しない道徳はない。戦争に行くと討死が尊重されるではないかと人はいふかも知れない。しかし、個人は死んでも民族の生命を尊重する。民族のために個人の生命を軽んずるだけのことである。また嘘をいふ場合もある。妻が身投げしようとする時には。嘘をいっても止める。その場合にも生命の尊重がある。
 また人を愛して行かうといふ場合にも、変って行くものの中に変らぬものがある。泥坊でも自分の子供は可愛い。愛は時と場所によって違ふ。しかし愛は無くなることはない。妻が可愛くなければ、娼妓が可愛い。何処かに愛は現れてゐる。
 生蕃は、姦通するな、嘘をつくな、盗むな、貪るな、殺すな、といふ約束を守ってゐる。だが、日本人は毎年何万人かが姦通で訴へられてゐる。日本人が生蕃の間に行ってから姦通があるやうになったといふことである。台湾の生蕃には泥坊が殆んどなかった。日本人が行ってから泥坊が始まったといふことである。彼等の間では畑の傍に小舎を作って穀物を入れて置くが、盗む人はゐなかったといはれてゐる。
 生蕃は。十以上の数を知らない。二十歳くらゐの人に、年は幾つかと尋ねると、十といふ。四十くらゐの人も十と答へる。彼らには十が一番上である。彼等には十以上の数はないのである。
 タイヤール人を初め、八種類くらゐの野蛮人の大部分が、殺すな、姦通するな、博突うつな、盗むな、嘘をつくなといふことを完全に守ってゐる。殺すなといふことは生命の尊重を意味し、姦通するなは、生命の生長に混乱を起さぬこと、賭博するなは、人の財産を乱さぬこと、盗むなは、生命に必要な衣食住を荒さぬこと、嘘をつくなは、真理を乱さぬことを意味する。(1)生命、(2)真理、(3)愛に関しては、人間は大体に於いて変って行かない。変るのは生長する時である。野蛮人と文明人との違ひはそこにある。可変は生長する為の可変である。生命と真理と愛の生長の軸に於いては変らない。だから、われわれは良心は変るといふことにだまされてはならない。「なあに、一夫一婦なんて変へたらいい。好きな女があれば愛してもいい。友愛結婚も自由結婚もいいぢゃないか。キリスト教のやうにいって居れば窮屈で仕方がない」といふ人があるが、これは間違ってゐる。
 私が、キリスト・イエスの宗教を信ずる理由は、全く神と永遠に属ける思想が不変であるためである。この思想がヨーロッパに入って以来、ヨーロッパ宗教思想は変ってゐない。男女の愛に於いては変ってゐない。ここで、何故私か愛の宗教キリスト信仰に入ったかを告白しなければならない。

  私の懺悔

 私は何故日本の宗教があるのに西洋から来た宗教を信じたか? 私の父は阿波の人であった。私の家は阿波板野郡の十九ケ村の大庄屋だった。父の正妻には子がなかった。私は妾の子で、私の母は芸者だった。私は妾から貰はれて来て、父の正妻の子になった。戸籍の表面はきれいで、私は公民権を持っているが、私は小さい時から日蔭者として育った。私は母の事を聞かされると胸の中が疼いた。私は義理の母から、お前の母は芸者だよといはれた。
 人間は不思議なもので、自分の子供に自分の長所も短所も現れる。不思議に、人間は子、孫、曾孫の系統に対して、魂のトンネルを堀ってゐる。自分の魂と子の魂に聯絡がある。私は母の系図を知らない。私はさういふ家庭に育ったから、純潔に就いては特別に感じた。私には、父の放蕩と母の芸者だったことが遺伝してゐるだらう。だから自分もその道に行くだらうと思ってゐた。十一歳の時、禅宗の寺に毎日通はされて、『論語』と『孟子』の教へを聞かされた。そして聖人になれ、君子になれと教へられた。が、私の血の中には君子の血筋はない。これ等の書物は実に厭な感じを私に与へた。家は淋しいし、蔵の中には文化文政時代の淫本が沢山ある。さういふ家庭にあって、神聖な教育を受けなかった、私には『論語』と『孟子』の教へは役に立たなかった。これは駄目だと思った。私の兄は十六の時から妾狂ひを始めた。兄は七人の妾を持って多淫な生活をしてゐた。私は中学へ行くのに芸者の家から通った。兄は放蕩だし、私も芸者の家から学校へ行ってゐたくらゐだから、私もまた沈没するだらうと思ってゐた。芸者の家には仏壇もあり、神棚もあって、朝々塩をまき、盆には美しく飾るが、さういふことは別に魂に関係がなかった。私の魂はいつも泣いてゐた。孔子は何千年か前に出たが、私には関係がないと思ってゐた。その時に『聖書』が私の手に入った。『凡て労する者、重荷を負ふ者われわれに来れ、われ、汝らを休ません』とか、『健かなる者は医者を要せず。ただ病める者これを要す』とか記されてゐた。私は医者の救を要求してゐた。キリストは罪人の医者だった。神の力をもって魂の中に傷いた者を癒してくれた。『女を見て心の中に色情を起すものは姦通したのと同じだ』と『聖書』に書かれてゐた。自分も罪人だ、どうしたらけがれざる者になれるかと考へた。日本の学校生活をどうしたらきよめ得るか、今も私はそれを考へてゐる。     ヽ
 私に英語を勉強することを勧めた兄は、耶蘇教だけにはなるなよと注意した。そして兄はたうとう芸者を家に入れた。イプセンの『幽霊』といふ峨曲を読むと、父が妻を棄て、女中と一緒になった。息子もさういう道を辿って、罪悪が幽霊のやうになって呪ってゐることが書いてあるが、私も、罪悪の幽霊が自分を悩ましてゐる。いつになったら私は救はれるかと思ってゐた。
 ところが、キリスト宗教は、何と高く、また広いことだらう。
私は『聖書』を読んで。さうだ、野の百合のやうに天真爛漫にかへらなければならないと思った。私を生かしてくれてゐる生命の神を私は信じ、草木の花を生かし給ふ神を私は信じようと決心した。それから毎晩私は床の中に這入ってお祈りした。「私にきよい生活を送らして下さい。父や兄貴の道を踏ませないやうにして下さい。どうか日本を娼妓のない国にして下さい」と祈った。
 今でもその時蒲団の中でこっそり祈った祈を私は忘れてはゐない。そしてこの祈が私の一生を支配してゐる。日本の多くの青年にこれと同じ煩悶があるのを私は知ってゐる。『聖書』に出てゐるこの純潔さを忘れて何の人間であらう! 私はこの宗教を一時だって忘れることは出来ない。私がキリスト教になったといへば家を追ひ出されるから、私は黙って蒲団の中でお祈を続けた。明治三十七年一月三十一日に、私は西洋人の先生の処にキリスト教の本を借りに行った。
 その先生は
「賀川さん、あなた神があると思い立すか?」ときいた。
「はい、あると思います」
「祈ってゐますか?」
「祈ってゐます」
「何処で祈ってゐますか?」
蒲団の中で祈ってゐます]
「ではあなたはキリストを信じてゐるんですね」
「はい、信じてゐます」
「では洗礼を受けませんか?」
「洗礼を受けると家を追ひ出されます」
「卑怯ですね」
「卑怯? それなら私は洗礼を受けます」
 それから私は洗礼を受けた。父も祖父も歴代放蕩であった私の家は、四代の間妾の子が家を継いだが、私の代になって初めて消えたのである。これはキリスト・イエスの力である。無限の神を地上に引き下して、神のやうに地上を歩いた、けがれのないイエス・キリストの血によって守られたのである。
  物質革命と精神革命

 いくら物質だけで富んでも物質の富ほどつまらないものはない。百万円持つてゐる金持でも首くくって死ぬ。アメリカあたりの百万長者の場合でも、富は一朝にして亡びる。そして性に対する満足はない。また性が満足しても良心が満足しない。われわれは生命につき、愛につき、真理について思想の安定が出来るまで魂は安定しない。精神の奥から解放されなければ、日本の改造運動は出来ない。
 ローマは革命を四度しか、グラッカスの革命、スピリアン、スラ・マリアスの革命があった。だが、暴力革命をやらず、精神革命をやったキリストは、良心の運動として千九百年問不滅の真理を示してゐる。良心に関係しない外なるものは変る。良心の中に不滅なる神が彫り附けたものだけが勝利を得る。独逸のコーエンがいった。いろんな社会主義があり、社会運動もあらうが、神を中心としないものは駄目だと。あらゆる性質の運動も、絶対無限をあらはす神がなければ駄目である。何々といふ人間のみを基礎にする修養団も駄目である。不滅なるものは絶対無限の神を基礎にしたものでなければならぬ。

  科学としての宗教

 宗教は却って退歩する傾向かあるといふ人があるが、それは間違っててゐる。
 人間に関する学問でも進むものと遅れるものとある。電気学が一番早く進歩して居り、土に関する学問はまだ七十年くらゐしか経ってゐない。宗教の学問は最近二三十年のことで、まだよく発達しない。しかし宗教の力は絶大である。それがわれわれに関係があることを学問の上に発揮するには、大分かかるが、それは電気の学問ほど大事だといふ人がある。電気の発明、テレヴィジョンの発明も不思議だが、人間の脳髄の仕掛の方がまだ不思議である。人が物をいへば耳にきこえる。これほど不思議な事はない。この力を更に進める必要がある。
 この精神力を人間は十分応用してゐない。われわれは或る処で止まってゐる。昔は、雷が嗚れば桑原桑原といってゐたのであるが、今は雷を応用してわれわれの部屋に持って来てゐる。それだのに、人間の精神力を馬鹿にする人がゐる。「生命? 生命なんてものは、水索と窒素と、硫黄と何々で出来てゐるものだ」といってしまふ。しかし、進めば進むほど、人間の精神力を九十二の元素に還元するのみでなく、宇宙に於ける精神力を活躍させ、テレヴィジョン以上の精神力をもつ時が来るであらう。
 その時こそ良心宗教が確立するであらう。ロシア支那も貧乏人を愛するために、良心を破壊する必要がなくなるであらう。それで、われわれはもう少し宇宙全体に溢れてゐる宇宙精神の力を握りたいと思ふあこがれ、それに就いて瞑想し、その力を認めるやうに力めなければならぬ。

  世界苦に打ち勝つ力

 宗教といふものが解らぬ人があっても、宗教の事実は否定出来ない。その力は認め得る。宗教は他の凡てでなくとも、少くとも一つの力である。それは物を作り出す力、救はんとする力、悪に打ち勝つ力である。独逸のルドルフ・オイケンは、「哲学的に見て何故世界に悪があるか、私はその現出を知らない。然し悪に勝つ力、それが宗教であることを知ってゐる」と云った。
 福岡にある九州大学の病院に内山君といふ人がゐる。内山君は天然痘にかかってから、消毒薬の風呂の中に、かれこれ十四年間浸って、亀のやうな生活を送ってゐる。彼はその生活があまり苦しいので、舌を噛みきって死なうと思ったことが?々あった。
 数年前にキリスト教の伝道師から『聖書』を貰って、ロマ書五章三節を読んでから、神の愛に臨んでどんな患難も恐ろしくなくなった。それからその人は全く生れ変り、消毒薬の中で亀のやうな生活をしてゐるが、嬉しくてたまらないといってゐる。その頃二十銭の『聖書』を買って天井から糸で吊り上げ、手を拭いては『聖書』を読んだ。が、すぐぼろぼろになる。われわれから見れば呪はしい生活であるが、その劇薬に浸ってゐる人は却って喜んでゐて、見舞ひに行く人を逆に慰めた。
 神の愛を呪ふ人があり、神の愛を嘘だといふ人があると、手を叩いて喜ぶ人がある。しかし内山君は、神は愛だ、自分は呼吸してゐる、眼が見える、まだ耳が聞える、生きてゐる、神は愛だといって喜んでゐる。それを宗教といふ。無限の神の愛が内側に覗き込むと、苦しい生活が喜びに変る。個人のみならず、社会がやはりさうである。
 四十年前、岡山に医学校の生徒がゐた。石井十次といって、二人の乞食に感じて、大きな孤児院を建てた人である。後に彼は神の愛が自分に宿ってゐる事を信じ、千百余人の孤児を世話するやうになった。一人の人間が神と永遠を孕むと、孤児を救ふ力が出て来る。
 私はここで岩谷小梅の話をしなければならない。岩谷小梅は、木戸孝允の友人中川柳太郎の妾をしてゐる芸者であった。が、開国主義の中川がキリスト教を輸入した時、彼女は真先にキリスト教を信じた。小梅は中川の怒りに触れて仕送りを断たれたが、彼女はそれから神戸女学院に学んで、そこを卒業した。日本の浄瑠璃界の第一人者豊竹呂昇をキリストに導いたのはこの小梅だった。
 この小梅の信仰伝言は花柳界の女を次から次に救って行った。この小梅に感化された者の一人に安部磯雄氏がある。安部氏自身がこのことを告白してゐられる。安部氏が二十歳の時岡山に伝道に行き、後に社民党の党首となっても、愛と正義の運動を棄てないのは、一部分は小梅の感化のためであると告白してゐられる。神と永遠が覗き込むと、日本の無産者は救はれる。石井十次は、孤児ために食べさせるものがなくなると、毎朝赤毛布を被って山に祈をしに行った。その姿を見るとすぐ岩谷小梅は街へ行って金を集めて来たといふことである。かうして石井十次の事業は小梅から偉大なる後援をうけてゐた。
 私がいふ神と永遠の運動は理屈ではない。それは力である。地上に於ける最も虐げられた醜い罪人をも、憐れな無産者をも救ふ力である。大工イエスは神の子として地上を歩いた。そして神が世界を創ったのだから、どんな醜いものも神のもの、それを救はなければならぬといふ意識を起した。神の救に入らなければ真の生活はない。宇宙意識、更に神の意識、神の子の意識、絶対意識を持たなければ、決して真の社会改造はあり得ない。この意識が常識になると国はよくなる。

  社会改造の原動力

 六十年前デンマークは世界の貧乏国であった。それが今日最も富める国になったのは、その根本に、神の永遠といふ意識がグルンドウェッヒといふ一青年の精神から流れ出たからであった。そして、土を愛し、国を愛する運動がデンマークを富める国にした。
 日本の現状は農村も都会もなげき、失業者が巷に溢れてゐる。その反面に十五億円の酒を飲み、十億円の放蕩をし、到る処に不道徳が行はれ、一部の特権階級が貪り、蹂躙された者は自暴になり、神を忘れた人間はさ迷ひ歩き、地獄に行く人の如く煩悶して行くべき道を知らない。この時に、まづわれわれは、神と永遠をはっきり体験し、キリストのやうに永遠への道を行かなければならない。さうしなければ。真の日本の行くべき道は発見出来ない。教育運動も経済運動も速かに神と永遠への思路を基礎としなければならない。

  フランス流とイギリス

 フランスで革命が起る都度、英国宗教運動によって救はれて来た。ウェスレーや、キングスレーや、フレデリック・モーリス。或ひはブース大将の神と永遠への運動が英国を救ったのである。フランスはその間に革命を三度した。ロシアの革命は一八七一年のフ
ランス革命の模倣であった。日本は何れの道を選ぶべきか? 革命か、神と永遠の運動か? 物質革命か、精神革命か? われわれは内側から永遠への道を歩まなければならぬ。その責任は若き青年の上に懸ってゐる。青年は気が早いからぶち壊したがるが、永遠への道を決定する方法がある。ウェスレーが十六人の同志と一緒に、迫害、圧迫に耐へた如く、われわれの中にも十六人の者はゐないか?
 私は日本の将来を思ふから、消費組合運動、無産者解放運動共済組合運動、あらゆる互助組合の運動をして、それを基礎として日本の精神運動を確立しなければならないと考へてゐる。いまだに無産政党は合同出来ないでゐる。神のやうな太腹な精神がないからである。西洋ではキリストの精神的基礎があるから、これが出来る。
 日本にはさういふ精神的基礎がないから、小学校へ行けば先生と生徒との間に距離があり、役所へ行けば。上役と下役の間に冷たい感じがある。これでは日本に不景気が来るのはあたりまへである。われわれはまづ自分の内を省み、神の前に恥しくない生活を送ってゐるか否かを考へる必要がある。そして神の前に恥しくないやうにわれわれの行くべき道を決定しなければならない。
 私は日本の時代相に鑑みて、青年の奮起を促したい。独逸がフランスナポレオンに蹂躙されたときに、フリドリッヒ・フォン・フィヒテがが『独逸の青年に訴へる』といふパンフレットを出した。日本に神を孕む精神がある間、日本は不景気を突破し得る。英国の強みは無産運動の基調として精神運巡があることである。英国は百七十万の失業者を持ってゐても、その国策は揺がない。神を基礎にする民族は永遠への道を歩む。日本に於ける社会改造も、神と永遠の道を基礎として進んで行かねばならない。勿論われわれは自己の貪慾を弁護する為に、精神主義に隠れたり、自己の地位を守る為に、修養を用ひてはならぬ。大胆に神の前に懺悔し、赤裸々になって自らを社会の前に投げ出し、日本を神と永遠の道に送り出さなければならない。

黎明23 海を故郷として

  海を故郷として

 海はすべての動物の故郷である。ハーバード大学の教授カノン博士は、人類をも水棲動物の巾に数へてゐる。人体は要するに八十パーセントまで水である。人間は水を盛った水ぶくろに過ぎず、血管を流れるものは、塩水に近いものである。かう希へると、海は生物の故郷であるといってもよい。
 地球の表面に、陸地の二倍の面積をもつものは海である。海の広いことを嘆いてはならない。かうしなければ地球の表面に生命が保てないのである。生命を保つためには、陸地を広くしても、その上に水をふり注がせる必要がある。そんなら、海を広くして、陸地をやや乾いた狭いところに造ったがよいではないか。結局、人類は海の世話にならなければ、一日も生命を保つことは出来ないのだ。
 さうだ、生物の故郷は海であり、人間の生活も海に依存してゐるのだ。
 私は、スイツランドやトランスバールの人々が、ひどく咽喉を腫らしてゐるのを見たことがある。理由を尋ねると、海草を食べないために、咽喉が腫れるのだといふ。人類は海草に近いところにその出生地を持ってゐたに違ひない。結局、海は吾々の故郷なのだ。
 地中海を征服したものは、古代世界の覇権を握った。大西洋覇権を握ったものは、十九世紀を支配した。そして、太平洋を支配するものは、二十一世紀を支配するであらう。
 何故に、日本の領土の狭いことをかこつのだ。陸地に境界線はあっても、海に境界線はないではないか。満洲国の発展を万里の長城が喰ひ止めても、太平洋上には万里の長城は見当らない。海に金鉱のないことをかこち、海に畠の出来ないことを心配する必要はない。鯨の牧場を夢見、鮪、かじきの養殖を思ふものは、狭い陸地の養豚事業や、養蚕業の衰退を少しも悲しまない。海には象の数十倍大きい鯨が跳ねてゐるではないか。
 海に行かう! 海に行かう! 鯨のどてッ腹にくひついて、太平洋を北から南に馳けめぐらうではないか。
 暴風がこはい? 赤道の南北、各十度の閥は無風帯ではないか。そして北太平洋の暴風の進路は陸地に沿うて進行し、アリューシャン列島に、そしてまたアラスカに北進することを知ってゐる私は、太平洋の真中に、却ってわれわれの安息所のあることを知る。
 何、波がこはい? 波は表面にあるものであって、水面下四十尺のところには波はない筈だ。魚さへ住んでゐるものを、人間が住めないといふ筈はないではないか。かじきや鮪のやうな動物でさへ、波に対する適応性を知ってゐるのに、人間が波に適応し得ないなどとは不思議である。
 新しい海洋飛行場は、円錐形の棒の上に平面を設けようとしてゐる。円錐形の棒は、波動に対して安定性を持ってゐると考へられてゐるからである。
 波が恐ろしければ、円錐形の棒を船にして海に浮ぶがよい。たとへそんな方法をとらなくとも、海にもぐる工夫を知ればよい。その時、暴風はわれわれの頭上を過ぎ去って行くではないか。狭い窮屈な陸地を離れて、鮫や鱶(ふか)の如く海上に勇躍するがよい。
 ころ鮫の勇ましい姿を見よ! 鰭をはり、おびれを振って、静かに暖流に添うて遊戈(ゆうよく)する勇姿を見よ! 幾万の鰹はその後に従ひ、幾百の鴎は彼の偉容に辟易してゐるではないか。ころ鮫が海に安息所を発見するなら、何故日本男子に太平洋が安息所であり得ないのだ。
 伊予向灘の漁夫は、うたせ船で日本からメキシコまでも平気で往復する。五噸の帆掛船で、一水夫は太平洋を無造作に横切って行くではないか。海は故郷だ。われわれの祖先はそこから来たのだ。
 本平洋上に黒潮がある。黒潮日本民族の揺籃だ。黒潮を忘れることは日本民族を忘れることに等しい。黒潮こそ日本民族の生命線であり、民族始源の溌祥地である。
 黒潮を忘れるな、海洋の子等よ! 薫り高き南風に、黒潮が何を日本に運ぶかを知らねばならぬ。黒潮のわくところ、幾億万の鰯が頭を並べて日本の烏々に群がって来る。大国主命は鰐の頭を踏んで瑞穂国に渉って来たといふが、目本近海に鰐のゐない日はあっても、鰯の群のゐない日はない。鰯の集まるところに鯨が集まり、鯨の集まるところに限りなき魚群を見る。
 日本人よ! 米が食へないことを悲しむな。何時の日か鯨の乳を搾って飲む時の来るを楽しむがよい。
 ああ、私はもう蝸牛角上の争ひに飽いた。私は静かに逃れて鯨の乳を吸ひたい。海ならばこそ巨大な鯨ものびのびと生活が出来るのだ。巨大な民族は、陸上にのみ生活は出来ない。
 さうだ、海だ! 海だ! 海にのみわれわれは安息所を発見し、海にのみわれわれの故郷を求めることが出来る。海はわれわれを待ってゐる。日本の青年よ。海に帰らうではないか。
 もう一度、このはなさくや姫の故郷に帰らう。彼女の故郷は南の海にあった。ああ、海だ、海だ!

黎明23 無人島の王者

  無人島の王者

『苦心三十年の結晶、癩の予防注射愈々完成の途ヘ!』といふ標題で、過日新聞紙上に報ぜられた、国立癩療養所長光田健輔氏の偉業は、その信念の博大高邁の点に於いて、その研究心の不撓不屈な点に於いて、私か最も敬服するところ、私が世に絶賞推薦したいところである。
 知る人も数多いことだらうが、この光田氏は前村山全生病院の院長であった。その後、岡山県邑久郡長島の国立癩療養所長に転ぜられた。名をきいただけで世人は面を背ける、不幸な天刑病者に半生を捧げた光田氏の博愛心は、実に偉大な人類愛の求道者として、特筆大書さるべきものであるが、ここでは氏の絶大なる事業の一端を紹介するにとどめよう。
 光田氏のゐられる岡山県の長島といふ島は、周囲七里、実に風光明媚瀬戸内海の一小島である。私の近著『東雲は瞬く』の中でも、氏の本名と共にその風景が描写してあるが、氏がこの小鳥を発見するまでに払った苦心、更に発見後の苦心は並大抵のものではなかった。
 光田氏はどうにかして適当な癩療良地を発見せんものと、常々苦慮惨憺してゐられた。
 ある時は、遠い小笠原の海まで探検にゆき、ある時は北海道台湾の涯まで探し求められた。そして遂に発見したのが、この長島である。
 風光といひ位置といひ、申分のない島ではあるが、光田氏がこの島に癩病院を建設するといふ話をきくと、近海の住民の反対は凄じいものがあった。氏は今までも幾度か、せっかく発見した島を、涙を呑んで放棄したことがあった。
 しかしこの度は断乎として所信に邁進した。
 氏が発見した当時の長島は。完全な無人島であった。氏はそこへ千百人の患者を収容する計画を立て、先づ十坪住宅を一戸宛五百円の見当で、多数建てることから着手した。
 この住宅は、患者の財力によって、無料又は有料(十五円)で貸す計画だったが、着手痢后覆修Δ修Α砲忙餠發良埖に悩んだ。
 政府の補助金もあるにはあるが、これはあまりに小額である。そこで、氏は同志を募って、資金集めに狂奔された。
 この時にもよく氏の真面目は発揮されたのであるが、理想家や信仰家の中には往々実行力や経済観念に乏しい人がある。いや、むしろそれが多過ぎて、立派な理想も空想に終ることが多い。しかるに、光田氏はさうでない。
 氏は信念の人、研究の人であると同心に、実に稀なる事業経営家でもあった。その事は、以後設立された愛生園の経営などを見てもはっきり分るのであるが、実に敬服せざるを得ない。
 氏が苦心の末設立したこの愛生園を少し紹介しよう。愛生園は、職業別の自治的部落制厦によって成り立ってゐる。
 何しろ千余人の患者だから、中には大工もゐれば呉服屋もゐる。それらを職業別に統制し、園長自ら命令を出す。畠は勿論耕すし、牛馬の飼育、家屋の建築、すべて造作なく出来る制度になってゐる。かういふ制度を作り、この統制がうまく行くやうになったので、今度は、この部落内に氏は消費組合を作って、労働切符を発行した。勿論、これは貨幣に附著し癩菌が、島の外に散布する危険を防ぐためで、切符は銅で作り、これが貨幣の代用をするのである。
 研究人としての氏には、驚くべき問題が多々ある。さきには、アジェクトミー両方を患者に施して成功した。これは輸精管を切断する治療で、これによって、患者は、病児を生んで癩菌を次代へ伝へる憂ひがなく、自由に結婚しうることになったのである。
 最近の氏の偉大な研究は、癩ワクチンによる予防注射の完成である。
 最初、氏は、人間にはすべて癩に対する或る程度の抵抗力(即ち免疫性)があり、なほこの免疫性は、徴菌との適当な接触によって、一層強いものになるといふ医学上の重大な事実を発見した。この発見はすでに遠い過去の事で、当時の学界を驚かせたものだが、爾来、三十年の長年月に亙って、氏は懸命にこれが完成に没頭し尽した。いかなる学者が研究しても究めることの出来なかった癩ワクチンを。光田氏がこの度発見したのである。この大発見が人類にもたらす福音の偉大さは云ふに及ばないか。発見者光田氏はまだ博士にもならない。もとより氏は学位など眼中にないのであるが、氏の弟子の中から、もう三十人を超える医博を出してゐるのは、ちょっと面白い話ではなからうか。
 患者の施療に当る時の氏の慈愛、努力、真摯、博愛は、正に神の姿である。氏が、全島民から慈父と仰がれてゐるのも、少しもふしぎな事ではない。
 最後に、今一人私は世に推賞したい人がある。
 それは光田氏の令閨である。令閏は前台湾総督上山満之進氏の令妹であるが、光田氏の偉業の半ばは、令閨の力に負ふといっても過言ではあるまい。
 人類の悩みを悩みとし、全生涯を天刑病者の柱として投げ出された光田氏夫妻ほどの人は、滅多に見ることが出来まい。

2014-12-27

黎明22 新天文学の方向

   新天文学の方向

 新しい天文学の立場からケムブリッヂ大学の教授ジーンズ博士は、その著『我等をめぐる宇宙』の中で、宇宙は神によって創造されたといふことを論じてゐる。彼は、凡ての恒星の年齢を研究しても、大体同一時刻から出発してゐると考へる。また恒星の運動の方向、距離、年齢、太陽系の構造等から考へでも、どうしても天地宇宙は神が創ったものであることを、ジーンズ博士は主張してゐる。
 不思議なのは、太陽系の諸遊星の間隔が、水素原子やその他の原子の中に軌道を持つ電子のそれに等しいことである。それは全く偶
然ではない。そこに秩序整然たる約束のあることをわれわれは考へさせられる。殊に地球の生れ出た時期と方法を考へても、ただぼんやり星雲から進化したのではない。不思議な運命があって、幾十億年に一回しかない機会に地球は創出されたのだと、ジーンズ博士はいってゐる。新しい科学が、もう一度『旧約聖書』の第一頁に還りつつあることを私は不思議に思ふ。

2014-12-26

黎明21 支那に於ける太平天国運動

  支那に於ける太平天国運動

  洪秀全の夢

 私は東洋に於けるキリストの使命を考へるにあたって、支那太平天国運動とキリスト教との関係を少し検べてみたい。
 今から約百年前、支那阿片戦争が起った。支那はわれわれの知る如く、三つの河から成り立ってゐる。北から云って、黄河揚子江、珠江の三つで、珠江の流域が広東の文明である。その珠江の附近にイギリスが根拠を下して、印度の阿片を売り出した。ところが、どうしても支那イギリスの商売人に負けて、つひに香港を分譲しなければならなくなった。香港は河の近くにある島である。イギリスは極く最近、河に近い処を租借した。この附近は、東洋の宗教に関係のある処であり、ダルマが南方仏教印度から運んで来たり、ポルトガル人がキリスト教を最初伝へた処である。フランシス・ザベリヨの墓もこの附近にある。太平天国運動もここから起った。
 太平天国の創始者は洪秀全といふ人であるが、この人は面白い因縁でキリスト教を知った。元来が、広東から少し離れた処にある小学校の先生であった。或る時病んで発熱して夢を見た。天から使が来て、お前上って来いといはれて、天に吊り上げられ、天から地上を見せられた。すると、支那政府の役人が賄賂をとってゐることが判った。その時、天子が「あの国をとってしまへ、お前に太平天国をつくらしめる。お前は宇宙の神を信じて努力せよ」といった。それから数年経った。その夢がいつ実現してくるかと不思議に思ってゐた。さうしてゐるうちに突然広東に出て、バプテスト派宣教師からリーフレットを貰った。読んでみると、それは、自分が数年前に夢で見た宗教と符合してゐる。これは疎かにしてはならないと思った。そして、その話を弟に聞かせた。弟は自分の友達に話した。すると友達は、それは大変だ、神の命令通りにしなければならぬといふので、この三人が秘密に宗教運動を始めた。そこに実に支那人的な初心なところがある。上帝を信ずる運動を、彼等三人はこっそり始めたのである。
 その当時。馬賊の形をとった、共産党とも違ふが、一種の政府反対の運動が拡まった。それにその友人が関係をつけた。が、洪秀全は自分の家にゐて、大きな運動に参加しなかった。ところがその匪賊の連中は必ずしも匪賊でありたくなく、どうしても民の政治を打破したい考へであったから、友人を通して、是非洪秀全に来てくれといふ使が度々きた。が、洪秀全は行きたくなかった。そして約一年経ってから、友人は成功して、えらい勢力を広西省の方につくった。この最初の運動は広西省から始まったのである。洪秀全が行くや否や、この運動は熾烈な大運動に変った。即ち、反政府熱と反欧主義と、そして今までの反伝統主義が一緒になって、天からの宗教であるところのキリスト教ではあるが、十字架が全然ない。旧約聖書キリスト運動が始まったのである。そして、洪秀全キリストを敬ってはゐるが、キリストと自分とは兄弟で、キリストは自分の兄さんであるといふ思想を持つやうになった。
 この面白い、十字架をぬかした宗教運動が大きな勢力を持ち、熾烈化したのは、ヨーロッパが革命化した真最中であった(共産党宣言は一八四八人年に発表された)。最初は三千人ほどの小さい団体であったが、如何なる者も神を信ずればいいといって、集まってくるものに共産主義のやうな思想を宣伝した。この運動は、広西省から始まって、南京まで拡がり、そこを中心として太平天国といふ国家組織が生れたのである。この当時の報告書は、支那語で書かれたものより英語で書かれたものの方が非常に多い。宗教社会生活とを一緒にするものは、これによって非常に教へられる。

  妥協した宗教運動

 洪秀全は、北京にある支那政府と相対峙して二十五年間国を持ってゐた。彼は五つの国の王を作った。自分がその中の一国の王となり、その外に四つの国の王をつくって治めた。しかし、彼は政治にうとい上に、南京に著いてからは、妙な神秘主義と、マホメット教にあるやうな妾制度に捉はれてしまった。そして自分は神の子だといって、南方の御殿の中に這入ると、決して人に顔を見せなかった。さうなってからはこの運動はだんだん衰へ始めて、曾国藩ゴルドン将軍などによって四散され、太平天国は全くの夢と化してしまった。だが、今なほ、この運動の勢力は相当支那にある。
 彼等は『聖書』を読まない。この運動は非聖書的であって、彼等は主としてキリスト教支那化につとめた。そして初めはキリスト教の運動であったが、後には『礼記』『易経』『四書五経』の中にある天の思想と神とを一つにしようといふ考へを持った。そこで孔子の教へとキリストの教へとを全く調和さす運動がおこった。そこに、パリサイ宗の如き信仰の階級制度が出来た。ゼズヰットが階級を持ってゐるやうに、政治的階級が、信仰の階段と同じだと考へて、信仰によって政冷的発表をした。読んでみると、馬鹿らしい事が書いてある。その出発点は例の夢である。この超自然的経験は、彼を小学校の先生から二十五年問の王にした。ただ困ったことには。彼は十誠のキリスト教を信じてゐるので、モーゼの十誡を一々暗誦し、しかも強制的に信仰を命令する。一々参加の形式があって、十誡を暗誦したり、お唱へをしたりする。日本でいふなら修養団の形式とよく似てゐて、政治だか宗教だか判らない。むしろ、説教より礼拝の部分が多く、詩や歌があるが、それも変なので、十字架がないから、犠牲献身の歌がない。王に従ふことが一番いいといふ、政治即ち宗教といふ妙な運動であった。
 従って、個人の純潔は何処へ行っても見附からない。洪秀全自身は三十数人の妾を置いてゐたので、これがだんだん不平の原因になり、内部的に分裂しだし、彼の下にゐた四人の王も反対しだした。そして宗教教育といふものがなかったので、次の時代には廃滅した。殊に排他的だから、全部の宗教を排斥した。かういふ状態であったから、支那政府は恐れをなした。そこヘゴルドン将軍、曾国藩などが出てきたため、兵火に没したのである。

  非倫理的神秘主義の末路

 かういふことは、われわれのやうな、宗教運動並に宗教的社会運動をする者にとって非常な教訓になる。先づ第一に、非聖書宗教運動が極端な形をとるといふこと、即ち歴史的発展を無視する宗教運動は感心しないといふことが判った。
聖書』に現れてゐる歴史的流れがあるのに、『聖書』を全然教へず、幻を受けたから、その通りにしなければならぬといふやうな非宗教的神秘主義は脱線する。
 アメリカで幻を受け、御神旗といふのを掲げて、私の処に来た人があった。その御神旗を一針づつでも出来るだけ多くの女の人に縫って貰って歩いたといふのであるが、それのみを宗教の主体とすることは間違ってゐる。宗教が超自然的黙示を持つことはあるが、ただ黙示だけではいけない。最近日本では。特別に神秘を高調する宗教もあるが、われわれはただ一つの幻のみで判断してはならない。
(1)自然の中に、(2)芸術的なものの中に、(3)良心の中に、(4)歴史、即ち『聖書』の中に、(5)愛と、(6)労作の中に、(7)人格生活の中に現れるものを見る必要がある。人間が目や耳や鼻や触覚を通して、初めてここに友達がゐるに違ひないとたしかめる如く。黙示を見る方法は幻一つによらない。神秘主義的に宗数を見ることはいいが、客観的保証をうけなければほんとのものではない。あまりに主観的に見る
と間違ひをきたしやすい。グループ運動は、指導をうける時に間違ひがないといふ証拠を与へなければならぬ。私がいふ七つの方面から見て間違ひがないといふことが判ってからでないと、幻は突飛なものになる。
 一例を挙げれば、十数年前神戸にHといふ、神からの幻をうけたといふ人がゐたが、その予言の力を相場の方面に使ひ出してからは、せっかくの予言者が、たうとう駄目になった。超自然的なものは、目で見ても手で触ってみてもないことがあるから、七つの方面から見た上に、聖書に照らし合せて見て、間違ひがないといふことを確かめてから取りかからなければ。太平天国運動の如く失敗してしまふ。

  キリスト教の日本化

 最近、キリスト教の日本化を唱へる人がある。それは悪くはない。日本人としての宗教的体験が与へられるのは当りまへである。そこで考へなければならぬ。宇宙万有の神がそれを通して考へられ、それがわれわれのものとなるならいいが、宇宙をぬかして神を日本化しようとなると間違ひがある。
 一例を挙げれば、天の御中主命がエホバの神と同じだといひ出したことがあった。死んだ石井十次氏の如きがやはりその思想を持ってゐた。徳川時代にもその傾向があった。たとへば、日本に於ける農政学の泰斗佐藤信淵、或は平田篤胤の如きがさうであった。渡辺華山は耶蘇伝を書いてゐる。それは勿諭幕府の忌憚にふれて、彼は自殺したが。それにしても三河田原藩は一番進んでゐたと思ふ。彼等は報民倉といふ社会事業を始めた。その日本化したキリスト教が、佐藤信淵の古祗神道となり、それが最近の『神ながらの道』となった。この『神ながらの道』は、キリスト教であるべきところのものが歪曲されてしまって、妥協的な態度に出たことを私は悲しむものである。
 天の御中主命はキリスト教から来たに違ひないと思ふが、宇宙のみいつからきた神が隠れてゐる。さうなるなら、キリストのあらはした十字架の信仰が隠れてしまふ。あまりに支那化したキリスト教の間違ひがそこにあった。或る人々は、それは洪秀全が悪いのでなく、宣教師が悪いのだといふ。洪秀全キリスト教マホメット教と同じである。松村介石の『道』の如きは十字架のないキリスト教である。天理教では最近教師の数が倍になったが、これは宇宙の神を日本化しようという焦慮からきてゐる。これらに対して、我々ははっきりした判断をとりたいものである。

  階級化した信仰

 支那洪秀全の運動は、あまりに妥協した道であったが、次の問題は信仰の階級化である。これは間違ひである。俗人と然らざるもの、牧師と然らざるものといふやうに、信仰に階段をつけることは誤りである。ルーテルが最も力を与へたものは信仰の民衆化であった。キリストは最も信仰を民衆化した人であった。キリストの教へは赤ん坊にも判るものであった。洪秀金にはそれがなかった。キリストは花嫁のきた時の花婿の態度のやうに明るい宗教を説いた。だが、支那キリスト教の歪曲されたものは、支那化を本領としたために、儒教のやうになってしまった。儒教信仰に階段をつけてゐる。苦難を喜んで、大乗的気持で、神の胸にすがるといふ点が少い。些細な点で信仰に区別をつける。これはほんとの意味のキリスト教ではない。ほんとのキリスト教は花婿の気持である。つまり、中世紀のキリスト教の、フランシスや、協同生活をした兄弟団のやうな民衆化したものでなく、法王のやうなものであった。これは嘆かはしい点である。十誡のキリスト教に止まってゐて、まだ十字架がわからない。ごく幼稚な倫理宗教であって、ほんとのキリスト教がわかってゐない。それだけ知ってゐれば、すぐに洗礼を授け、政府から命令をうけたものが司式をして、祝祷の代りに、神より遣はされた太平天国のつくり主万歳といはせた。終りは全然キリスト教でない。
 十字架といふものを非常にいやがる時期がある。血なまぐさいとか、判らないとか云って、十字架のわからない時がある。従って聖霊がわからない。また聖霊のわからない人に十字架のわかる筈はない。聖霊と十字架とは裏表になってゐる。無限の神の血がわからなければ聖霊は判らない。従って、宇宙全体の神の気持になって、宇宙のために働かうといふ気持になれない。これらがばらばらになって、意識キリスト教が分解すると、教義キリスト教になる。すると、形式宗教、公式宗教になる。民衆は無意識だが、かうかうせよといって引張る洪秀金の運動は無到矢理にキリスト教を強ひたのである。無理をして運動すると。さうなる。長くかかって、ゆっくりやらうといふのでなければ駄目だ。愛が中心になり、団結本位で行きたいものである。公式によって導いてはいけない。自分がキリスト教だから人にも『聖書』を読ますといふのでなく、愛の行動によって解らせることが必要である。
 今の神学者にもこの点が解らない。彼等のは公式キリスト教である。『げに信仰と希望と愛と、この三つのものは限りなく残らん、而してそのうち最も大なるは愛なり』といふ意味が解ってゐない。

  強制と純潔の無視

 また彼等には強制があった。支那では学問のある人は少く、広東のやうな処でも、十九人に一人しか字の読める人がないほどである。馮玉祥も何万人かの部下を強制した。日本のキリスト教は今足ぶみしてゐるといはれてゐるが、それでも構はない。我々は決して無理をしてはならない。修養団では、伊勢神宮遙拝、皇室遥拝、国旗最敬礼をしてゐるが、三年前まではさういふことがなかった。さういふことを無理強ひすると悪化しはせぬかと思ふ。洪秀全太平天国をつくって、家来に信仰を押しつけたことは間違ってゐる。殊に政治と宗教を混同したことは間違ってゐる。政治は秩序を中心とするものである。が、人間には秩序を破って或る目的のために進まうといふ希望がある。だから無理をせず、凡ての人を尊敬してかからなければならぬ。
 私は、キリスト運動が、強制を教へると、ほんとの宗教運動にならぬと思ふ。ドイツキリスト教が生長しないのは国教だからで、そのために成功しないのだと私は思ふ。イギリスの国教も発達せず、寧ろスコットランドの方に真のキリスト教徒が多い。ロシアキリスト教を国教としてゐなかったら、あれほどに反宗教運動は起らなかったと思ふ。
 次に考へなければならないことは。個人の純潔を無視した点である。太平天国運動が反抗運動に始まり、形式的になり、遂に反革命運動のために滅びてしまったが、洪秀全が三十何人かの妾を持ってゐたといふところに、支那としてはあたりまへかも知れないが、そこに誤謬がある。日本の共産運動がやはりさうである。個人の純潔を重んじないところに、共産運動失敗の原因がある。
 五本の指を例にとって考へても、連絡をとることが愛の運動であり、それを組織化してゆくのが組合運動である。コリント前書十二章で、われわれは組合運動の理論を教へられてゐる。それを怠ってゐるから失敗するのである。われわれは、個人の純潔と社会の純潔とを同じくらゐ重んじなければならぬ。太平天国運動が、あんなぶざまな終末を遂げたことは、今更ながら嘆かはしいことである。
 彼等はまた、非常に排他的であった。自分の信ずるほかは全部を殺してしまった。思想運動は思想運動にすればよいのに、自分に反対するものは皆殺しにした。それが既に敗北の原囚であった。キリスト教の愛の運動に誰が反対しよう。公式キリスト教には反対するが、愛には反対出来ない。そこに愛の勝利がある。キリスト運動は絶対的に愛の勝利だといふことを考へたい。日本の神の国運動は今年で終りだと考へられてゐるが、神の国運動は終ってゐるのではない。日本を全部キリストの愛によって包まなければ、キリスト運動は止められない。ただ、太平天国のやうな突飛なやり方でやるか、十字架をはっきりさせて、ゆっくりやるかである。
 十字架の運動をもう一度われわれは反省しよう。公式宗教の中にゐる人は、この際転向しなければならぬ。十字架宗教は永遠の転向を要求してゐる。神についての意識を受けてゐないなら、もう一度聖霊を受ける必要がある。まづわれわれは自らを反省しなければならぬ。『読売』の社説欄に、クリスチャンの反省を促した文章が載ってゐたが、それだけわれわれクリスチャンは眠ってゐることになる。眠ってゐることは十字架を負ってゐないことを意味する。公式キリスト教ではなく、愛のキリスト教が村々に徹底しなければならぬ。そのためにわれわれは励む必要がある。その道は遅いけれども必ず勝利を約束されてゐる。クリスチャンの一人一人が、十字架の道を歩むことを私は望んでやまない。

黎明20 『良人の自白』の感想

  『良人の自白』の感想

 日本がロシアに勝って後、青年の多くはロシアの思想に傾いた。しかしその頃、日本の土から生えた一種の郷土文学ともいふべきものが、藤村やその他の人々によって試みられた。その頃はまた、小栗風葉真山青果女学生情緒を濃厚に描かうとしてゐる時であった。
 またその時であった。木下尚江氏の『良人の自白』が『東京毎日新聞』に連載されて、青年子女の胸ををどらせたのは。
 木下尚江氏は弁護士である。しかもその当時は、安部磯雄堺枯川、幸徳伝次郎などと肩をならべて無産者解放の急先鋒を承ってゐた。この解放運動者が、それまでの専門家の遊戯的文学の気持から解放せられ、解放への武器として文筆を手にしたことは、非常に意味が深かった。しかし。木下尚江氏の小説は、単なる宣伝文学とは趣きを異にする。彼は深い人間愛から、社会生活の悲惨と魂の問題を観照しようとした。『火の柱』ではまだ魂の髄まで食ひ込まなかった尚江氏の筆は、『良人の自白』において魂の内側を描き出さうとした。そこに木下氏の勝利があり、プロレタリア文学の行くべき道があった。
 今日のプロレタリア文学は、徒らに境遇と物質のみを描いて、魂の実在を忘れてしまふ。しかし主観芸術としての小説は、魂の実在を忘れては何ものでもない。単なる宣伝小説に飽きが来るのはその為である。尚江氏の『良人の自白』が永久性の価値を持ってゐるのは、主観芸術としての要素を最大極量まで持ってゐるからである。
『良人の自白』の主人公は日本において無産運動をせんとするインテリゲンチャを永久に代表する。赤門出の銀時計、地方の素封家の入婿、恋人と正妻との三角関係、家族制度と個性主義への板挾み、これ等の渦巻はここ五十年や百年の間日本では解けさうにもない。尚江氏は、この解け難い日本の謎を主題として、『良人の自白』を書いたのであった。
 背景は、日本アルプスの秀でる信州の松本平、時は鉄道が漸く開通し始めた混沌期、都会には貧民が群がり、村には小作人が悩んでゐる時である。尚江氏は、その混沌たる社会を病理学者の如く丁寧に解剖せんと試みた。『良人の自白』は、だから二重の意味を持ってゐる。家族制度の良人として、家長政治の良人として、恋愛を虐殺せられた青年が、新しき時代を生み出し得ないで、封建制度搾取生活を続けて行かなければならないといふ二つの悩みを持ってゐた。その二つの悩みが。恰もパノラマでも見てゐるかのやうに、最も美しく描かれてゐた。
 実際、『良人の自白』が、無産者の諸問題を収扱った手腕は敬服に価する。少しもわざとらしくなく。貧乏な農村に囲まれた小さい都会に起りさうな社会苫のすべてを描き出してゐる作者の態度は、日露戦役以後稀に見る大きなコンポジションを我等の前に提供する。淫売婦弁天お玉に対する主人公白井俊三の愛と同情は、ドストイエフスキーの小説にでも出て来さうな人道主義的の香があり、小作人野間与三郎一族の生活難を描いた処などは何ともいへない味がある。殊に信州の自然と、土俗の方言を一致せしめて、農民の悶えを如実に描いてゐるところは、日本の農民文学の間に、尚江の名を永遠に記憶させる。しかしこれだけに止まるなら、『良人の自白』は単なるプロレタリア文学に終ってしまふのである。尚江氏の使命はもう少し高い処にあった。
 封建家族と虐げられた公民や淫売婦の開に挾まれて、あまり望ましくもない裁判事務に当ってゐる青年が、青春期にありかちな抑へ難い情熱に負けて行く本能を最も直截に描かねばならなかった。本書の使命は全くここにある。作者は謹厳な態度でこの問題を取扱った。近頃の作者はこれを遊戯的に取扱ふ。単なる唯物史観論者は、これを唯物論的に解剖する。しかし『良人の自白』の作者は、単なる唯物論者でもなければ。恋愛遊戯の讃美者でもない。彼は最も厳粛な態度で、良心の崩れて行く姿を眺めた。そして以後に、真の社会改造が、単なる外部的改造にのみよらないで、内部的改造をも必要とする結論に達した。この結論は、『良人の自白』の著者自らを社会運動そのものより隔離したやうに私には考へられる。その後著者が書いた『飢渇』『乞食』『野人語』などを読むと。これがよく窺はれる。
 私は、十七八歳の頃から二十一二歳の頃まで、木下尚江氏の作品のほとんど総てを読んだやうに記憶してゐる。哲学的であったその頃の私には、思想的に多少満たされないものがあったにしても、その感激と明るさと人間愛と、厳粛な社会苦に対する題材の取扱ひ方に接して。いつも涙なしに尚江氏の作品を読み切ることが出来なかった。そして、私が、木下尚江氏の最後の論文を読んだのは。幸徳秋水の『キリスト抹殺論』に対する反駁論であった。そして、この『キリスト抹殺論』に反対した理想主義者の木下尚江氏も、官憲の目には最も恐ろしい思想の持主として睨まれた。その為に尚江氏の作品のほとんど全部は、焚書の刑に処せられた。
 そして、もうかれこれ十八九年も経ち、その頃、夢想だもしなかった大きな労働組合が日本各地に組織せられ。安部磯雄氏が代議士になり、堺枯川氏が東京市会の椅子に坐るやうになった。そして多くのプロレタリア文学者も相当の地位を保つやうになった。しかし私としてなつかしいのは。新紀元派として知られた理想主義者の作品である。尚江氏は、日本の社会圭義史上に有名な赤旗事件の前後から、柏木派と呼ばれた唯物的社会主義者の一団と対立して、理想主義的一団を結成して来た。後者は、雑誌『新紀元』を発刊して、徳冨蘆花石川三四郎などと共に、理想主義的立場から新しき世界の創造を我等に指示した。そして『良人の自白』はその『新紀元』一派の代表的作品であると私は考へてゐる。今度新たに改訂版が出たのを見て、私は長く会はなかった旧友に久し振りで会ったやうな気がして嬉しくて堪らない。私は日本の社会文学の為に此書の再現を心より喜ぶものである。

黎明19 『死線を越えて』を書いた動機

  『死線を越えて』を書いた動機

 H様――
死線を越えて』を書いた動機を話せとの御言葉ですが、困ってしまひました。明治四十年の五月だったと思ひます――さうです。もう丁度二十年も前になりますね、私が肺病で明石の病院から三河蒲郡の漁師の離れに移った頃、独りぽっちであまり淋しいものですから、私は小説を毎日書き綴ったのでした。誰も訪ねてくれる人は無し、知ってゐる人と云ふのは村に誰も無いものですから、幻の中で過去の人間を小説として想ひ浮べてみたのです。さうでした、その前の年だったと記憶します。私は小説が書きたかったので、古雑誌の上に小説を書き綴ったことがありました。あまり貧乏で原稿用紙が買へなかったものですから、古雑誌を原稿用紙代りに使用したのでした。そんなに私が小説を書きたかった理由は、私の小さい胸に、過去の悲しい経験があまりに深刻に響いたことと、私が宗教的になって行くことに依って非常に気持が変って来たことを、どうしても小説体に書きたかったからです。書き上げた小説を、私は島崎藤村先生に一度見て頂いたことがありました。すると先生は。丁寧
な手紙を添へて、数年間筐底に横へて自分がよく判るやうになってから世間に発表せよと云はれたのでした。
 その後肺病はだんだんよくなって、私は貧民窟に入りました。それから十三年経ちました。十三年目に改造社の山本実彦氏が、貧民窟の私の事務所にやって来て、その小説を出さうぢやないか、と云はれたので、私は、『死線を越えて』上巻の後の三分の一を新しく書き加へたのでした。その時に。前の三分の二の文章があまりにごつごつしてゐて拙いと思ったのですが、妙なもので、一つ直さうと思へば、全部直さなければならなくなるし、十三年後の私の筆は、よほど昔よりは上手になってゐるやうでしたけれども、何だか血を喀いた頃に書いた物は、ほんとに厳粛で、その頃の私の気持が最も真面目に出てゐるものですから、私は文章よりか気持を取りたいと思って、文章の拙いことを全く見逃すことにして、厳粛な血を喀いた時の気持を全部保存することにしたのでした。そのために『死線を越えて』上巻の前半には実にごつごつした所もありますが、加筆を許さない強い調子が残ってゐることも。また事実であります。
 モデルのことですか? それは私の周囲の人々に聞いて下さい。私の心の生活をあれに書かうとした時に、モデルに就いては云へない多くの事情があるのです。
 何時かも有島武郎氏が云ってゐたやうに、小説は小説であるけれども、事実以上の真実さがあるものださうです。私も有馬君の流儀で、このあたりは許して頂きませう。
 私は、あの小説を必ずしも成功した小説だとは思ひません。それが雑誌『改造』に出た時に。あまり拙いので自分ながらはらはらしました。ですから、本になった時にあんなによく売れたのを、自分ながらも驚いたのでした。けれども、今になって考へてみると、読者はやはり私か考へた通り、拙い文章を見逃してくれて、私が書かうと思った心の歴史――つまり心持の変り方――を全体として読んでくれたのだと思って感謝してゐるのです。私はあの本で、文章の拙いことを読まないで、心持の変って行く順序を読んで下さる方は、私の最もよき友達であると愛読者諸君にいつも感謝してゐるのです。それと共に私は、あの本を読まれた人の前には頭が上らぬやうな気がするのです。それと云ふのも、あの拙い文章を辛抱して読んでくれ、その上私の心の生活を全部知り抜いた読者は、預言者のやうに私を批判する力を持ってゐるのであると、いつも思ふからです。

黎明18 現代人と信仰

  現代人と信仰

  神に孕まれたるもの

 あんまり馴れ易いわれわれの心は、宇宙の驚異に驚かなくなってしまふ。そして宇宙の可能性に対する信仰よりか、決定的の運命観が人を支配する。彼等は貝殼にはひって天が見えないといふ。天がないのではない。天を見ないのである。
 ここに、母の胎に孕まれてゐる赤ん坊があるとする。その赤ん坊が、孕まれてからもう間近く十ヶ月になるけれども、母の顔は一度も見たことがない。われわれが神を見ないといふのも、その赤ん坊と母の関係にひとしい。母の胎は赤ん坊にとっての宇宙であり、赤ん坊の不可知論を生む理由にもなる。しかしそれだけで、赤ん坊が母の存在を疑ふなら、その赤ん坊は妙な赤ん坊であるといはなければならぬ。
 今日唯物論者が、人間の眼の感覚にうつる物だけを見て、神は存在せぬといふことは、母の胎内の赤ん坊が、胎壁に触れて母がないといふのにひといし。母がないのではない。現在赤ん坊が生きてゐることは母のある証拠ではないか。同様に宇宙に神がないのではない。われわれが生きてゐるのはその証拠ではないか。胎内の赤ん坊はへその緒によって母にっながってゐる如く、われわれ人間は生命によって神につながってゐる。生命を疑ふものは疑へ。それは人間以上の力がわれわれにそそぎ込んで来る新しい力である。その力は感ずることによってのみ認識せられるのであって、概念によって持ちきたらされるものではない。宇宙の神の場合においても同様である。神は直観によって知り得るものであって、概念によって組み立てられたものは、その影に過ぎない。
 私は不思議な生命を感ずるが故に宇宙に神があることを信ずる。

  物質は神の言葉である

 現代人には悪いくせがあって、物質とエネルギーと、物質と生命と、物質と変化性と、物質と生長性と、物質と選択性と、物質と法則性と、物質と目的性とを混同するくせがある。
 近代物理学が、漸くこれらの点の区別をし出したことはうれしいことである。新物理学は物質がエネルギーから成り立ってゐて、人間の感覚に対して、物として映るのだと教へてくれる。宇宙の本体は物質ではない。それは力であり、生命であり、変化性を持つものであり、生長性と淘汰性と、法則と目的をもって力を動かしてゐるものである。
 宇宙を物の集合休のやうにしか見ない不徹底な人間には、生命と、力と、変化と、生長と、選択と、法則と、目的が統一なくしてばらばらに存在するものの如く見える。それはわれわれがあまりに限られた局部的な生活をしてゐるからである。しかし局部的な生活をしてゐるものでも、内に省みれば意識は一つしか持ってゐない。その意識のうちには、エネルギーと目的と、変化と法則と、選択と生長性が、生命といふものの中に完全に統一体を組織してゐる。つまり一つの焦点を持ってゐる訳である。そしてこの統一的意識を我我は心と呼んでゐる。この心の出現が可能な世界には。必ず大宇宙に心の源があるに違ひないと私は思ふ。それを神と呼ぶに何の誤謬があらうぞ。
 物質の世界を見る時に、私にとってはそれは不思議な神の言葉であるとしか考へられない。自然は神の衣であり、神の衣裳に縫ひつけられた裾模様であると私かいふのは、かうした意味である。私はどうしてこんな不思議な世界に住んでゐるだらうか? 私が感じるやうに、なぜ世界の人は感じないかと自分ながら不思議に思ってゐる。
  宗教と道徳との差

 人間は多くの場合、一日に三つの生活を繰返してゐる。八時問は眠って無意識状態に陥り、八時問は本能的に生活して半意識状態を続け、残りの八時間を目的ある労作に消費してゐるのだ。
 宗教とは、この無意識及び半意識の生活から全意識の生活によみがへって、宇宙の目的に添ふ生活をすることである。宇宙の目的は神のみしか知らない。それでわれわれは、神の目的を学んで自分の小さい生活を神にゆだねようとしてゐるのである。
 この宇宙の目的を離れた人間の心の生活ほど悲惨なものはない。すべての倫理的悪は、この人間個々の我儘から起ってゐる。階級闘争本位の生活がしばしば社会を誤るのも、ここに原因がある。彼等は宇宙の目的を根本にせずして神を否定し、宇宙全体の幸福を忘れ、時には極端な利己的団体や自己の心から出発して、社会全体の幸福を忘れることがある。
 この間違ひのために社会に混乱が起る。昔のローマの譬ではないけれども、人体において、足が階級意識から頭を排斥した場合どうなるだらうか。われわれは先づ全体意識に目覚める必要がある。全身をめぐる血は全体のために犠牲の生活を続けてゐる。キリストが指差した血の贖罪愛といふのは、全くかうした全体意識――否、宇宙意識から湧いたものであると考へてよい。かうした意味において、宇宙の神の意識にはひらなければ、最も高い贖罪愛の道徳意識にわれわれははひれない訳である。
 道徳は。人間の世界だけしか考へない。敵をも愛し、罪人をも救ふ愛は道徳から生れない。そこから先に宇宙全体の神意識から生れるのである。日本は今宇宙を忘れて日本だけしか考へない。それで日本人には悲しいかな、この贖罪愛の秘密がわからない。

  知識と信仰

 知識があれば信仰はいらぬといふ人がある。これらの人々は、過去があれば未来はいらぬといふだらうか。決定があれば可能性はなくてもよいといふのだらうか。
 人間の生活において知識は常に過去の経験から与へられてゐる。そして未来はその過去の傾向の延長に加へて、新しい可能性が含まれてゐる。その傾向と可能性は、まだ知識の範囲内にはひってゐない。『明日』はまだ無い。しかしまだない『明日』が、傾向と可能性によって来る『だらう』との信仰を持ち得る。信仰の世界はこの可能性の世界を意味してゐる。それを宗教では奇蹟の可能性として信じて来た。奇蹟を笑ってはならない。それは人間を通しての可能性を意味してゐるのだ。いや、目的の世界と法則の世界が、決して衝突しないことを意味してゐるのだ。傾向と可能性が衝突してゐないことを意味してゐるのだ。いや、法則と決定すら、可能性の世界から見れば、宇宙にさういふ法則を作る可能性があったから出来たと信ずるほかはない。
 可能性の世界を見れば、世界は実に不思議である。物質の法則と信ぜられるものすら世界に可能になったのだ。この事実を見ただけで、われわれは宇宙の神秘に昏倒する。私は次の世界に行った時、宇宙の神に、私が地球の表面で見た不思議な物としての現象の世界と法則の世界を報告しようと思ってゐる。

  将棋の駒

 運命と自由を、私は将棋の駒の使ひ方にたとへよう。歩は前方に一つしか行けない。香車は一本道にしか行けない。桂馬は前方に一つ、そして斜に一つ。銀は両脇と後へ真直ぐによれず、角は斜にしか飛べない。これが定められた運命である。この変化性には階級があり、規則かがあ、決定せられた範囲がある。王といへども飛車のやうに飛ぶことは出来ない。しかし飛車は角のやうに斜に動けぬ。
 決定論者はかうした限定の世界だけを見る。しかし、歩でも前進する可能性を持ち、敵の陣地にはひれば、金将と同じ変化の可能性を授けられるから、その使命たるや実に重大である。名人は歩だけを持って詰め手を知ってゐる。決定論的にのみ人生を見て、人生を機械視するものは将棋の駒を見るがよい。駒は決定せられた領域を限定されつつも、なほ使命に生きて活躍するではないか。動かぬ飛車より、動く歩の方がどれだけ多くの使命を持ってゐるか知れない。歩であることを悲観してはならない。われわれは決定に泣く前に、われわれの使命に生きなければならぬ。歩の力量しか与へられてゐない者も、歩だけの孤立した生活を考へないで、全体の局面と聯絡さして自分を考へられる。
 使命といふものは、常に全体から割り出された言葉である。自己
中心に考へる場合に、世界は限界的に決定せられたものであり、全体的に見た場合に、その決定的個性も大きな使命を持ってゐることを忘れてはならぬ。将棋桂馬ほど偏した決定を持ってゐるものはない。しかしまた桂馬ほど重宝な駒もない。決定が使命であることを意識しようとするものは、桂馬を見るがよい。近世決定論が擡頭し、人類の使命を忘れるものが多いのは宇宙全体の目的――即ち神の目的を忘れたからである。

  不思議な世界

 神の意識が内に目醍める。気がついてみれば、私の存在も、宇宙の存在も、不思議で不思議で仕方がない。
 私は第一に、自分の意識に制限のあることに気がつく。第二に、その意識が、だんだん広く、高く、深くなることを意識する。さうやって拡がってゆく私の意識の限界に、理窟ではなく、私がいかに詰らないものであるかといふことを直覚させられる。蝋燭の先に焔が燃えてゐるやうに、『私』といふものは、肉体の先に、ちょっぴり点った燈火である。その不思議な世界に私は住んでゐる。その意識の世界には。神と人間が両側から覗き込んでゐる。その意識の世界に、過去と現在と未来が不思議に畳み込まれてゐる。意識ほど不思議なものはない。
 宗教は意識の運動である。われわれが神を意識し、神と共に在り、神の使命を意識して活動するところに聖霊の生活が始まる。
 どう考へても、限りある私が、限りなく永遠と絶対を意識し得ることが不思議でたまらない。木も、草も、土も、雨も、太陽も、私の身体の一部分であることを私は意識する。それにも拘らず、私はそのすべてを親しく知ることが出来る。大宇宙は私の魂の内容を形作る。それがまた神秘である。なぜ私はこんな不思識な世界に生れ出たらうか? 私は近頃そればかり考へてゐる。

黎明17 民衆芸術に就いて

   民衆芸術に就いて

 勿論私は、トルストイの云ふやうに、民衆的のものでなければ芸術でないとは考へてゐません。しかし、ある芸術家のやうに、民衆の解しないものでなければ、芸術でないと考へるやうな、一人よがりの議論も変だと思ひます。
 民衆に解るから下等だと考へたり、民衆が悦ぶから浅薄だと考へることは、自我狂の芸術論です。
 民衆芸術が喧しく云はれて来たのには、社会的に大きな原因があります。十九世紀の中頃までは、個人主義が跋扈してゐて、総ての社会に分解作用が行はれました。フランスの大革命すら、組合主義に反対しました。その精神を受けて、ナポレオン皇帝は、ギルド組合を解体させてしまったくらゐです。極端な自由主義は、民衆を一種の下等なものと考へました。これが芸術の上にも現れてゐます。
 ところが。十九世紀の半頃から、再び協同組合が、その必要を感ぜられ、大都市に大群衆が群がるやうになって来ました。それで、中世紀の民衆芸術とは、異った意味に於いて、民衆が芸術を要求するやうになって来ました。中世紀には、文字の読める人がなかったものですから、説明的の意味に於いて、民衆芸術が利用せられたのですが、新しき民衆は、群集意識と、意志表現としての芸術を要求するやうになってきました。
 それですから、二十世紀の民衆芸術は。或る止むに止まれない群集の意志を表白する気持から出発してゐます。中世紀の民衆芸術は、宣伝が中心でした。けれども、二十世紀の民衆芸術は生活が中心です。勿論、生活中心から離れて、中世紀式宣伝本位の民衆芸術を考へる連中も無いではありません。しかし、さうした芸術は、あまり気持のいいものではありません。或る止むに止まれない気持から出発した、民衆の意志の表白といふものは、フランス国歌マルセイユ』の行進曲のやうに、流行らすものがなくとも、自然と民衆的なものになります。民衆は自分の選ぶべきものをよく知ってゐます。真正の民衆芸術は単なる宣伝で出来上るものではありません。その時代の精神とぴったりしなければ、決して民衆的のものになるものではありません。
 この点に於いて、民衆は、言葉は少し悪いですが。非常に宗教的です。悪に向っても、善に向っても、民衆は宗教的です。破壊的な戦争に対しても、建設的な憂国運動に対しても、例外はありません。
 民衆は、個人に比べて、常に神秘的です。懐古的です。情熱的で
す。ローマンチックです。ですから、群衆は、密室で読む頽廃文学などとは、全然形の異った講談趣味のやうなものや、剣劇的なものを愛する傾向を持ってゐますが、それには、民衆の昂奮性が常に加はってゐるからです。民衆は衝動的で、しかも表白的です。民衆は感覚の全部が一致しなければ承知しません。民衆は視て、聴いて、歌って、飲んで、触れて、踊って、最後の石を投げなければ、承知するものではありません。
 それですから、よく芝公園などで行はれる示威運動などを見ても、凡てが劇的に運びます。旗を立てて、太鼓を叩いて。演説し且つ拍手をして、四斗樽の鏡をぬいて、大勢で飲んだ上で、踊りつつ躍進を始め、警官と取組合ひをして、最後の石を投じなければ承知しません。この劇的な要素を、オペラ劇とページェントが持ってゐます。
 それで昔から、民衆の最後の娯楽には、いつも演劇が最高の催し物として演出されてきました。古代ギリシヤのオリンピア時代から、今日武蔵野の秋祭に見る神楽芝居の催し物に至るまで、仝く同
一の民衆心理が支配してゐると云って、差支へないでせう。
 この意味に於いて、民衆芸術を本位とする演劇の如きは、実に重要な使命を持ってゐます。沢正の新国劇が、或る堅実さを持ってゐるのは、この民衆の道を行かうとしてゐるからだと私は思ってゐます。沢正も天分を持った人でせうが、大正及び昭和の民衆も、彼を創作するのに大きな役目を持ってゐたことを考へねばなりません。演劇は民衆意志の或る種の噴火口です。沢正は民衆の持ってゐる意志と感情の噴火口の直径を示してゐます。それで、私は絶えず彼の行動に注意して、民衆の動き方を測量してゐる訳です。沢正を民衆感情の『ゲーヂ』に用ひては、誠に済まないが、彼の役目はそんなに重要なものです。彼は、煽動家以上の大きな役割を務めてゐると云へませう。

黎明16 静思断片

  静思断片

 私は次の世界に移った行先づ神に、自然があまりに不思議に造られてゐること、私がそれを見ていつも驚いたことを報告しようと思ふ。
 放浪四年、私は日本の隅から隅まで歩いた。そして人間の住む世界が、自然に比べてあまりに平凡なのに驚いた。

 慌てるな、霊よ、少し鎮まって、神の可能性の方向に従って進路を決定するがよい。慌てて戸口を間違へないやうにせよ。

 今日も朝日の出る前に、曙の森を眺め、かすむ眼に大きな世界の開展を覗いた。もうこれだけで、私は宗教といふ言葉に盛れる以上のものを見た。
 峰より峰に私は飛ぶ。それは最も近い途である。低迷の世界に私は用事はない。

 茶褐色に、染まった茅の根に、二三日前に降った雪がまだ残ってゐる。雀が瓦屋根の軒先から地べたを覗いてゐる。欅が洋傘の骨ばかりをさしたやうに天空にひろがる。そんなことがあって少しすると、霞が森に帰り、たんぽぽが野路に舞ひ戻る。その時だ、私が裏の小溝にめだかの群の游いでゐるのを発見するのは、早速私もめだかになって流れの中を游いでみたくなる。