Hatena::ブログ(Diary)

Think Kagawa 賀川豊彦を考える RSSフィード

2012-02-08

世界連邦のイニシアチブを取る意義がある日本人

 昨年11月の日経新聞の「私の履歴書」を書いたのは元米国野村證券会長の寺澤芳男氏だった。最終回に自らWorld Federalistであることを明らかにした。自分のこれからの仕事として「国際人の育成と世界連邦の実現に向けた努力である」と述べ、尾崎行雄について言及した。

 私が尊敬する政治家尾崎行雄(1858−1954年)は憲政擁護運動で有名だが、世界市民が同じ条件で暮らせる連邦思想を持ち、それを理想とした。その構想は選挙区を持つ政治家ではなく、市民によるものとして尾崎行雄記念財団が引き継いだ。キリスト教でもイスラム教でもないヤオヨロズの神をもつ日本人として世界連邦のお膳立てを手伝いたい。特に世界で唯一の核の被爆国として、日本人がそのイニシアチブを取ることに意義がある。

 尾崎は20世紀初め、米タフト大統領夫人の希望で、数千本のサクラの苗木を贈った。こうしてワシントンの名所となったポトマック河畔は来年植樹から100周年を迎え、数々の記念行事が準備されていると聞く。この話は日米興隆にいろいろな手法があると私たちの教えてくれる。

 履歴書第1回で東日本大震災に遭われた方たちと一緒に元気になりたいと書いた。被災者ではなく我々がもっともっと知恵を出し、行動しなくてはと思う。

 ここでドイツの文豪ゲーテの言葉をとくに若い人たちに紹介したい。

 財を失うことは小さく失うことである。
 名誉を失うことは大きく失うことである。
 勇気を失うことはすべてを失うことである。

 これからの人生、何が待ち受けているかわかりませんが、勇気或日々を送りましょう。皆さん、ありがとうございました。

2012-02-06

「新春のつどい」世界連邦運動協会武蔵野支部

世界連邦運動協会武蔵野支部

「新春のつどい」ご案内について

 私達、武蔵野支部は、昭和三十五年六月に創設されて以来、五十余年の歴史を持ち、先人先輩のご指導のもと全国的にハイレベルの活動を展開し、沢山の実績を築きました。中でも「天駆ける女神の像、母子像」を初めとし、平和を目指した数々の年間行事を行ってきました。平成二十四年は、かつての支部会員及び役員体制から新体制に踏み出すべき時と、役員会で方向づけされました。それは、先輩会員のご協力と新たに若手会員の拡大を計ることになります。武蔵野市は、十一月二十四日を「平和の日」と定め、永遠に平和を希求する活動をすることになります。

 また、世界連邦運動協会本部は、昭和二十三年八月六日制定以来、六十余年歴史と共に、会長、役員幹部の指導のもとに全国の支部と連携を持って活動されてきました。その成果として──

1.平成十七年八月二日「核兵器等の廃絶あらゆる戦争の回避、世界連邦の実現への道の探求」を記した国会決議が出されました。世界で初めてです。

2.平成十九年七月十日日本政府国際刑事裁判所設立条約ローマ規程加入が実現しました。

 なお、現在の本部幹部は、平成二十三年五月十四日より、会長海部俊樹氏(元内閣総理大臣)、会長代理森山真弓氏(元文相・法相)、理事長日下部禧代子氏(元参議院議員)によって協会の活動が活発に行われています。まさに、新しい体制になり、世界各国に向かって世界連邦建設、世界平和の実現に歩み始めたと申し上げたいと思います。以上のことを申し上げ、会員のご理解とご協力と、多くの皆様のお力添えをお願いいたします。

 つきましては、左記日程により新年会を開催いたしますので、よろしくご参加くださいますようお願い申し上げます。

               世界連邦運動協会武蔵野支部 支部長 井口秀男

国際刑事裁判所・・・国際社会全体の関心事である最も重大な犯罪(集団殺害犯罪、人道に対する犯罪、戦争犯罪、侵略犯罪)を犯した個人を、国際法に基づいて訴追・処罰するための、歴史上初の常設の国際刑事裁判機関。犯罪の発生を防止し、国際の平和と安全の維持に貢献する。

       記

日時:平成二十四年二月十二日(日曜日)午後一時半より
場所:武蔵境スイングホール レインボーサロン
内容:一、新年のご挨拶
   二、講話「国家を超えた課題には、国家を超えたシステムで」
     ─世界連邦とは何か世界連邦運動協会常務理事 塩浜 修氏
   三、懇親会(会費500円)
     平和についての、意見・情報交換をお願いいたします。
   四、プレゼント交換会(おひとり五百円程度のプレゼントをご持参ください。)

                                   以上

  尚、出欠のお返事は、平成二十四年一月二十日(金)までにお願いいたします。

2012-02-05

僕のThink Kagawa連載について

 僕のThink Kagawaの「(17)コンツェルン−農村時計製作所」は下記で連載しています。

 http://www.yorozubp.com/

 購読のほどお願いします。(伴 武澄)

2012-01-20

(21)−中野総合病院

 協同組合病院

 購買組合の次に手がけたのが、組合病院でした。賀川が新川の貧民窟で診療所を開設して無料で貧しい人たちの病気を治したことは話しました。当時、貧困と病気は隣り合わせでした。貧しいから無理をする。無理をするから病気になったり、けがをしたりしやすい。でも医者にかかるお金がない。医者にかかれないから病気がひどくなり働けなくなる、そうすると貧しい人はますます窮地に陥る。

そんな連鎖を断ち切るために賀川は組合病院を考えたのです。関東大震災の直後のことです。東京市に申請しましたが、医師会の猛反対に遭います。医療保険という概念すらない時代です。日々の賃金の中から会費のように積み立てておけば、いざという時に安い医療費で医者にかかれるというシステムです。現在の医療保険の先駆け的システムといえましょう。国際連盟事務局次長の職を辞して帰国したばかりの新渡戸稲造も全面的にバックアップしてくれて、1932年にようやく協同組合病院の認可が下り、現在の東京医療生活協同組合中野総合病院が設立されます。

同病院のホームページの沿革には「中野総合病院は、昭和7年5月27日、故新渡戸稲造博士(旧5千円紙幣の肖像)・故賀川豊彦氏等の主唱によって創立された、日本で最初の医療利用組合の病院です」としか紹介されていませんが、労働者の出資金によって設立された病院は世界的にも特異な存在なのです。

農村医療に尽くし2006年に亡くなった佐久総合病院の若月俊先生は『若月俊一の遺言』(家の光協会、2007年)の中で賀川の医療分野での業績を高く評価しています。

1970年の国際協同組合同盟(ICA)のモスクワ大会で元、カナダ協同組合中央会会長のレイドロウ博士が日本の総合農協について高く評価しました。

「日本の農協は、生産資材の供給、農産物の販売をしている。貯蓄信用組織であり、保険の取扱店であり、生活物資のセンターである。さらに医療サービスや、ある地域では、病院での診療や治療なども提供している」

 レイドロウの報告について、若月先生は「わが国の協同組合運動の性格に関して、賀川豊彦の見方『友愛経済学』を高く評価している。これは私どもが産組(産業組合、現在の農協)の『医療運動史』の中で、賀川先生の役割を高く評価しているのとよく一致する」と述べています。

 若月先生は東大医学部を卒業後、戦争が終わる直前に佐久病院に派遣されますが、賀川の生き方に共感していた先生は後に組合病院とし、佐久の赤ひげを目指します。病院で患者の来るのを待つのではなく、医者や看護婦が農村に出向いて健康管理をすることで疾病を未然に防ぐことを目指しました。この方式が長野県一帯に広がって、長野県は有数の長寿県となったばかりでなく、一人当たり医療費においても日本で最低水準とすることを維持しているのです。

 佐久総合病院は理想を求める医学生が目指す病院の一つとなっていますが。経営はJA長野厚生連の傘下にあります。いわゆる医療法人ではありません。一般的に協同組合病院といっても馴染みがないかもしれませんが、JA厚生連傘下の病院は全国に100カ所を超え、日本生活協同組合連合会傘下の医療生協も116団体、76病院を数えます。日本赤十字や済世会病院系列の病院数も100カ所内外であることからみても、協同組合病院が日本の医療を支える一翼を担っているといっても間違いでありません。

 国際的にも評価されているその組合病院を考え出したのが賀川だったのです。

(20)−コープこうべ

 コープこうべの誕生

 賀川豊彦は1914年から1917年にかけてアメリカプリンストン大学に留学します。アメリカから帰国した賀川を余人が真似できないのは神戸の貧民窟に帰るところです。賀川は社会活動を再開するのですが、その活動は質的に大きく変化します。新川の賀川の救霊団はイエス団と名前が変わっていましたが、それまでの「救貧」から「防貧」へと転換します。それまでの慈善的活動からどうしたら貧困から脱出できるか社会を変革する活動です。まずは購買組合、いまの生活協同組合を手掛け、ついで労働運動にのめり込み、農民組合の組織化に転じます。

 賀川の労働組合運動については多くが語られています。川崎三菱造船の争議を指導し、役3万5000人のデモを組織しますが、結局、失敗に終わります。デモが暴動に発展し、賀川が最も嫌った「暴力」につながってしまいます。賀川自身も長期間の拘留を受けることになります。ロシア革命は1917年、ロマノフ王朝を倒します。その勢いは全世界に広がります。日本も例外ではありませんでした。組合運動の指導方針をめぐって穏健派の賀川は革命を目指す実力行使派に敗れてしまいます。その後、賀川は組合運動から農民運動に転じます。共産主義を農村に広げてはならないという危機感が背景にありました。

 1919年、大阪市東区農人橋に有限責任購買組合共益社を設立、1920年には神戸購買組合、21年に灘購買組合を相次いで設立します。神戸購買組合と灘購買組合はそれぞれ消費組合、生活協同組合と名称を変えて、後に合併して現在のコープこうべへと発展します。組合員数140万人、年間売上高2600億円を超える賀川が21世紀に遺した最大の事業です。

 賀川はイギリスロッチデールドイツのライファイゼンにならって、労働者が助け合って販売したり、生産したりすれば搾取のない社会が作れると考えました。日本では1900年にすでに産業組合法が出来ていて、その当時、協同組合が多く設立されていましたが、ほとんどが失敗に終わっています。賀川はもう一度、協同組合に社会改造を託したのです。

 灘購買組合設立では面白いエピソードがあります。初代組合長になった那須善治という人物です。仲買人として第一次大戦で成り金となりますが、本人はいたって質素な生活をしていました。大阪東京海上保険の専務をしていた平生釟三郎に社会に役立ちたいと相談します。平生は岐阜県の出身ですが、甲南学園を創設者し、後に広田弘毅内閣文部大臣にもなります。平生はそれなら新川の賀川に話を聞いたらいいとアドバイスします。那須はさっそく賀川のもとを訪ねます。賀川は那須にこういいました。

那須さん、そのお金を貧しい人々への慈善事業に使うのもいいでしょう。しかし、慈善事業はデキモノに膏薬を貼るようなものです。膏薬を貼ってデキモノは治るかもしれませんが、また別のところにデキモノが出てきます。それよりも、デキモノができないような体質をつくることに使ったらどうでしょう」といって購買組合、つまり生活協同組合設立を勧めます。

 日本の流通産業史からみてもこの二つの生協はユニークな歴史を残しています。発足当時の神戸購買組合は店舗を持ちませんでした。「御用聞き」が組合員の家を回って注文をとっていました。1931年にようやく葺合区塚通の本部に商品陳列室を設けて約30種類500品目の取扱商品を展示して組合員に紹介できるようになりました。本格的な店舗は六甲支部に1933年、百貨店方式の店舗を開設したということです。灘購買組合は1931年、芦屋出張所に日本初のセミ・セルフ店舗を開設し、アメリカで誕生したスーパーストアの形式をいち早く導入したのです。計量も伝票書き込みも組合員任せで商品のロスが出てやむなく中止となりましたが、1950年に神戸生協スーパーマーケット式店舗を開設、1957年に灘生協セルフサービス店「芦屋フードセンター」を開店しました。中内功さんが主婦の店ダイエー1号店となる千林店を始めたのが1957年9月です。ですからスーパーストア方式を日本で最初に導入したのはダイエーではかもしれないのです。

 戦前、日本には多くの生協がありましたが、第二次大戦を乗り越えたのはこの二つの生協福島生協だけだったといわれています。賀川創設した大阪の共益社と本所江東消費組合は戦災で消失し、戦後の復興はなりませんでした。賀川、戦後も協同組合運動に力を入れ、現在の日本生活協同組合連合会の母体となる日本協同組合連盟を設立し、全国的規模での生協設立を促しました。賀川豊彦が「生協の父」といわれるゆえんです。

 同じ流通業界の百貨店とスーパーの2008年度の経営を比較してみましょう。日本百貨店協会統計では90社278店舗で4兆6958億円。日本チェーンストア協会統計では70社8056店舗で13兆1703億円、コンビニの日本フランチャイズチェーン協会の統計では4万7114店舗で7兆8566億円となっています。

 一方、日生協の2008年度の会員数は2532万人、総事業高は3兆4114億円となっています。百貨店やスーパーの売上高と比較して、日生協の売上高は日本の消費の一翼を担っていることが分かると思います。しかし、残念ながら、監督官庁厚生労働省ということで「経済」の範疇としてとらえられていません。生協はあくまで国民の福利厚生でしかないのです。監督官庁農水省であるJAも同じ扱いです。賀川が生きていれば、最も嘆くところでしょう。協同組合は日本の経済統計からすっぽりと抜け落ちていることを指摘せざるを得ません。

 目をヨーロッパに転じてみましょう。組合員数や事業規模でいえば、日本の生協は世界で圧倒的な大きさとなっていますが、ほーロッパ諸国人口や経済規模からいって存在感は日本よりも大きいといえそうです。たとえば、スイスにはミグロとコプスイスという二大生協グループがありますが、食品小売りの45%も占めていて、国民経済と暮らしに占める生協の比率は非常に高いものがあります。イタリア生協の総売上は同国の小売業でトップと抜群の存在感である。グローバル経済の進展で、欧米での生協は流通大手企業にシェアを食われつつあるというのが実態ですが、北欧東欧を中心に中堅の流通業としてまだまだ存在感を失っていません。

 ニューラナークのオーエン

 2004年6月に一週間ほど南スコットランドを歩きました。賀川の協同組合運動のモデルとなったロバート・オーエンの工場経営を学ぶために、グラスゴー郊外のニューラナークを訪ねたのです。いまでは世界遺産に登録されています。

 ニューラナークはスコットランド最大の河川であるクライド川の渓谷沿いの寒村で、200年以上前の当時としてはイギリス最大の紡績工場と従業員の生活をよみがえらせています。いまでは渓谷は緑の木々におおわれ、水の音と鳥のさえずりだけが静寂を破る、空気がとてもおいしい場所でした。

 ニューラナークの歴史は220年前にさかのぼります。紡績機械を発明したリチャード・アークラウトとグラスゴーの銀行家デイビット・デイルがこの地にやってきて「ここほど工場用地として適した場所はない」といって周辺の土地を購入し、1785年に紡績工場を立ち上げました。ワット蒸気機関を発明したのは1765年。狭い渓谷を流れる水流がまだ動力の中心だった時代のことですが、イングランドマンチェスターはすでに繊維産業の町として名を馳せていました。

 ニューラナークが世界的に知られるようになったのはデイルの娘婿となったロバート・オーエンが1800年に事業を引き継いでからです。オーエンはまず従業員の福利厚生のために工場内に病院を建設しました。賃金の60分の1を拠出することで完全無料の医療を受けることができました。現在の医療保険のような制度をスコットランドの片隅で考え出したのです。

 19世紀の繊維工場は蒸気とほこりにまみれ、労働と疾病は隣り合わせでした。日本でも初期の倉敷紡績が東洋最大の病院を工場に併設したことはいまも語り継がれていますが、その100年も前にオーエンは従業員の福利厚生という発想を取り入れていました。

 次いで取り組んだのが児童への教育でした。当時の多くの紡績工場では単純作業が多く安い賃金雇用できる子どもたちが労働力の中心だったのです。子どもといっても6歳だとか7歳の小学校低学年の児童も含まれていました。オーエンは10歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばん初等教育をさずけました。

 1816年の記録では、学校に14人の教師と274人の生徒がいて、朝7時半から夕方5時までを授業時間としました。家族そろって工場で働いていた時代ですから、学校に子どもたちを預けることによって母親たちは家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もありましたが、当時、児童の就労禁止を打ち出したことでさえ画期的なことでした。

 オーエンの教育でユニークだったのは、当時のスコットランドで当たり前だった体罰を禁じたことでした。さらに五感を育むために歌やダンスなども取り入れました。当時、音楽などを教えていたジェームス・ブキャナン先生はニューラナークでの教職について「人生の大きな転機をもたらしてくれた。金持ちや偉人になるといった欲求を捨てて、誰かの役に立つことで満足するようになった」と語っています。オーエンの学校にそういう雰囲気があり、教師たちも感化されたのでしょう。

 オーエンはイギリス各地で起きていた労働者(特に児童)の搾取や悲惨な労働環境を目の当たりにし、「そうした環境では、不平を抱いた効率の悪い労働力しか生まれない。優れた住環境や教育、規則正しい組織、思いやりある労働環境からこそ、有能な労働者が生まれる」という考えにたどり着きました。19世紀の弱肉強食の時代に、福祉の向上こそが経済効率につながるという理念に到達していたのでした。

 それから100年以上もたった1925年にロンドンの町を訪れた社会改革者の賀川豊彦は工場労働者が劣悪な環境で働いているのに驚きました。日本と変わらないスラムが町外れに多く形成されていました。日本でもロンドンでもスラムは貧困と不衛生、そして犯罪の巣窟となっていたのです。

 チャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』や『二都物語』の世界が20世紀のロンドンにも厳然として残っていました。

 オーエンはニューラナークでの実践活動を理論化した『新社会観−人間性形成論』を書き、国内外を回り、議会や教会関係者から経済学者まで広く工場の労働条件改善の必要を説きました。またニューラナークでの「実践」を通して国内外で多くの理解者を得ました。そして彼の経済理論は1820年の『ラナーク住民への講演』で社会主義的発想へと一気に昇華したのです。この講演でオーエンは「生産者自らが生み出したすべての富について、公平で一定の割合の配分を受けられる必要がある」と語りかけました。工場の福利厚生の改善だけでは満足できず「社会変革」の必要性まで打ち出したのでした。

 オーエンがその後、あまた排出する思想家経済学者たちと一線を画し、200年後のわれわれに感動を与えるのは彼が「偉大な実践者」であったということです。賀川豊彦が100年前にスラムに飛び込み貧困と病気、さらに犯罪と戦いながら、貧困救済事業を立ち上げて名声を勝ち取った経緯と重なる部分が多くあるのです。

 ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残しました。地域通貨労働組合などもそうですが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営です。

 協同組合は1844年代にマンチェスター郊外のロッチデールで始まったものとばかり思っていましたが、ロッチデールの人々が参考にしたのは実は、ニューラナークにあった企業内店舗の在り方だったのです。

 200年前の商人たちはどこでも相当にあこぎだったようです。オーエンによれば、村の店で売っていた商品といえば「高くて質が劣悪。肉だったら骨と皮に毛の生えた程度のものばかり」だったのです。村民の人たちはほかに店がないことをいいことに劣悪な品質のものを高い価格で買わされていました。しかも多くの商いが掛け売りだったため、村の人々の借金はたまる一方でした。

 そうした状況は100年前の日本でも同じでした。日本の文学にはそうしたあこぎな商売というものはあまりでて来ませんが、賀川豊彦の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても対価に見合った商品が販売されていないことがこと細かく書かれています。オーエンや賀川が昨今の流通業界の価格破壊の状況を見たら卒倒するに違いありません。

 ニューラナークの人々を救済するためのオーエンの答えは工場内に自らの購買部設立することでした。そして「生活必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も必要」と考えました。お酒についてオーエンは比較的寛容でした。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったのですが、適度の飲酒は生活のぜいたくの一つと考えていたようでした。

 1813年、オーエンは工場敷地内のほぼ真ん中に三階建ての店舗を開設。工場経営者としての地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ2割安の価格で販売しました。販売したのは、食料や調味料、野菜、果物といった生活必需品だけでなく、食器や石鹸、石炭、洋服、ろうそくなどなんでもありました。

 この建物は現存していますが、当時の一般的な消費動向や2500人という工場の人口からすればとてつもなくおおきな店舗だったはずです。

 ニューラナークでの賃金はほかと比べて高いというわけではありませんでしたが、当時、村を訪れたロバート・サウジーの報告によると「一家で週2ポンド(40シリング)稼いだとしてラナークで住むことによって10シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのです。つまりお金の価値を高めたのです。

 やがて、村人の借金はなくなり、あこぎな店も村からなくなくなりました。そして店舗であがった利益は前回書いた児童教育に注ぎ込まれました。

 労働者の生活改善というオーエンの発想は、多くの人々に刺激を与えました。そして彼の協同組合的考え方を発展させた人々をオーエニーズと呼ばれたのです。ロッチデールの織物労働者によって1830年から試行錯誤が続けられ、1844年、13人のメンバーによってようやく「ロッチデール・エクィタブル・パイオニア・ソサエティー」設立にこぎつけました。彼らは毎週2ペンスずつを1年間にわたって貯蓄して28ポンドの資金を集めました。

 10ポンドで10坪ほどの店舗を3年間契約で借り受け、16ポンド11シリングオートミール小麦粉、バター、砂糖、ろうそくを仕入れ、商いを始めました。初日の商いが終わってみると彼らは22ポンドの利益を手にしていました。

 彼らの当初の目的は、普通の人々がお金の価値に見合った商品を購入できることにありました。そして彼らはこの新しい購買組織の5原則を約束し合ったのです。この時決まった(1)入・脱会の自由(2)一人一票という民主的組織運営(3)出資金への利子制限(4)剰余金の分配(5)教育の重視−

という5原則は現在の生協運動でも掲げられているものです。

 ロッチデールで始まった小さな試みはやがてイギリス全土に広がり、国境を越えて拡大しました。

(19)−農村の若者がつくった龍水時計

7 農村の若者がつくった龍水時計

 リズム時計の源流は賀川豊彦が戦後、埼玉県葛飾郡桜井村(当時)に創業した農村時計製作所だったと話すと誰もがびっくりします。

 現在の農協の原形をつくったのは賀川豊彦だった。1922年、福島県キリスト教の伝道の傍ら農業指導をしていた杉山元治郎と日本農民組合を大阪で結成した。小作料の引き下げなど農民の立場から団結して地主に対抗。250人で始まった運動は3年後には7万人以上の組織へと成長した。

 賀川は農民の社会的自覚を促す目的で農民福音学校を経営した。デンマークのフォルケ・ホイスコーレに倣ったもので、農閑期に農村青年を集めて教育した。賀川が主張したのは「立体農業」だった。地球上の1割5分しかない平地にしがみついていたらやがて食料が不足する。米麦穀物は中心にするが、残り8割5分を立体的、つまり山に依存すべきだと主張した。つまり、シイタケを育て、クリやクルミを植え、ヤギやヒツジを飼って乳をとる。農閑期の田んぼではコイなど淡水魚を飼えば農村経済は相当に充実するという。いまでも通用するかもしれない“理論”だった。


1946年、桜井村にあった旧陸軍信管工場跡地をGHQから譲り受け、時計工場と技術者養成機関としての「時計技術講習所」を設立しました。賀川の夢に手を差し伸べたのが全国農業会(全農=現在の農協中央会、全購連、全販連、共済連)でした。資本金350万円は全農が八割出資。会長には全農会長の柳川宗左衛門、賀川は相談役。講習所長は服部時計店技術者、古川源一郎が就任しました。

 19万坪の工場敷地には2万坪の工場建屋と2000台の工作機械がすでにありました。同年3月28日、従業員1500人で月産3万個の目覚まし時計製造を目標にスタートしたのです。

約半年後の8月に第1号の3・5インチの目覚まし10個が完成しました。みんな抱き合って喜びましたが、売れませんでした。バリカン、電気開閉器にも手を出しましたがこちらも満足できるものはつくれません。1年足らずで3000万円もの損失が出たのです。

 そこへ大口出資者の全農に対するGHQの解散命令が出て、農村時計は満身創痍。経営は全農の農村工業部長に就任したばかりの谷碧(たに・きよし=後のリズム時計社長)に任され、なんとか生き残った。

 日本時計学会の雑誌『時計』昭和24年7月号表紙にはセイコーシチズンなどを押しのけて農村時計の目覚まし時計「Rhythm」が載っている。会社発足して2年の農村時計が存在感を示している。以下のような説明が書かれていた。

 「表紙写真はNOSON 3 1/2吋目覚時計Rhythmを示す。Rhythmは日本業界最高級品として内地は勿論、世界各地---特に印度パキスタンシンガポールメキシコ、バンコック等から註文があり毎月15,000個の輸出を目標に生産を進めている。株式会社農村時計製作所は終戦後興った時計工場としては最も整備された一貫作業工場であり・・・尤もこれは戦時中服部精工舎南櫻井工場として創られたものを技術者設備共其の儘同社が引継いだものであり・・・今後の進展を注目されている」

 苦難の連続だった農村時計は設立4年半で遂に行き詰まり倒産。昭和25年11月3日に発足した新会社「リズム時計工業株式会社」に継承され、シチズンが大株主となったのです。

 日本の時計史に見え隠れするのが社会運動家賀川豊彦なのです。賀川の時計づくりには後日談もあります。

賀川には全国から農業青年を集めて、時計製作の技術を学ばせ、それぞれの故郷で時計工業を興す夢がありました。宗教革命の折、パリの手工業者たちがジュネーブに逃れ、後に世界的な時計産業の基礎をつくったことは早くから知っていました。精密工業は大規模な資本が不必要な上、部品さえあれば、どこでも組立が可能です。「農村に精密工業を」「日本を東洋のスイスに」という賀川の想いはやがて長野県の北伊那で実現することになります。

 小説『幻の兵車』(1934年、改造社)で登場人物の三好克彦に岐阜県で時計工場をつくる夢を語らせる場面があります。

 三好は主人公、木村蔵像の故郷、岐阜県美濃で語っています。

「木村君、この付近は土地も広いから農村工業を作るには持ってこいだね。僕は年来の理想を、この付近で実現しようと思っている」

「僕は、懐中時計の部分品を、農村の青年の副業にしたいと思っているんだが、この付近なら出来そうだね」

 賀川は農村改革のため、立体農業を推進したが、一方で農家の次男、三男が現金収入を得る場として「農村工業」が不可欠だと考えていました。そのころの工場はすべて都市部に集中し、農村から都市に労働力が流れる結果、スラムが増殖していたのです。

 賀川は長年スラムに住み付き、貧しい人々の生活ぶりを見ていましたから、その実態をつぶさに知っていました。農村に工場ができれば、彼らは都市に流れ出てスラムに住む必要はない。賀川にとって、農村工業という概念はスラム街の防貧対策のひとつでもあったのです。

 時計技術講習所の第一期の入学生は昭和21年4月から、桜井村に集められました。脱落者もあったということですが、2年後に彼らは故郷に帰りました。講習所には長野県の青年が多かったのです。岡谷工業という学校の果たした役割が大きかったとされています。その卒業生によって千曲川時計、龍水時計という二つの時計メーカーが生まれました。千曲川は長くは続きませんでしたが、龍水時計は上伊那で雄々しく立ち上がったのです。

 北伊那辰野町に近代時計博物館があります。1996年に野沢和敏さんが自費で建設したのです。2008年9月、その博物館を訪ねました。

 野沢さんはリズム時計の役員でサラリーマン生活を終えましたが、実は時計技術講習所の第一期生でもあり、龍水時計の「創業者」の一人だったのです。岡谷工業高校の3年の秋、父親から講習所の話を聞かされたそうです。父親は地元の農協の幹部でした。北伊那では養蚕が盛んで、伝統的に製糸業は協同組合的に運営されていましたから、賀川の研修生募集に積極的に応募したということのようです。

 北伊那農協は龍水社といって、製糸工場も経営していました。賀川豊彦の影響を受けていた当時の北原金平社長は本気で時計製造に乗り出す覚悟でいたらしい。野沢さんらが研修を終えて帰郷すると養蚕の建物の一角が「時計工場」としてあてがわれました。

昭和23年11月、時計づくりが始まりました。素人軍団が2年、時計づくりを学び、さっそく生産に取り掛かるのですから、夢多きスタートといっていい。

野沢さんによれば「工業高校を出たのは僕だけだったから、僕がリーダーになりました。工場長のようなものです」。生産の準備を段取りする一方で、掛け時計の「設計」が続けられ、部品づくりのため近隣に10の工場を立ち上げました。

 時計の部品をつくるため、伸銅が必要です。銅がないので高射砲の薬莢を「くず屋」から買ってきたのです。これを近くの伸銅工場に持っていって「銅板」にしてもらいました。機械類は桜井の工場からの払い下げが主で、足りない分は野沢さんらが東京で調達しました。すべての作業が手作りでした。

「講習所の先生たちは東大の先生だったり、精工舎の元技術者たちでしたから、講義のレベルは相当高かったはず。われわれは恵まれていたのです。単なる座学ではなく、隣の工場で実地に研修もしたから時計づくりにな自信がありました」

 野沢さんの回顧によると「時計はできた。動くには動いたが、日常的使用には耐えられなかった。北原さんには『故障する時計は売るな』と厳命された。だから商品になるのに結局2年もかかった。北原さんはよく我慢してくれたのもだと思う」

「われわれは意気盛んだったから、どこにもない時計とつくろうと励んだ。中三針方式の時計はまだ日本にはなかったから、これを目指した。時針、分針、秒針の3本が重なったものだ。次は30日巻。これはセイコー愛知時計と龍水社しかつくれなかったが、難しすぎて試作品はお蔵入りとなった」

 昭和30年には龍水時計の生産した掛け時計が通産大臣賞に輝きました。役人が工場見学にやってきて「土間でのままの工場にびっくりしていた」そうです。賀川はこれを海外「東南アジア協同組合会議」にまで持って行き、「これは日本の農民がつくりあげた時計だ!」と演説して廻りました。

 そんな龍水時計の試行錯誤が20年以上続いた後、龍水時計リズム時計の傘下に入りました。経営が悪化したからではありません。海外進出を決断したものの、北伊那には人材が不足していたのです。北伊那での生産は2007年まで続き、生産は中国に移管されて工場の役割は終わりました。

 野沢さんになぜ信州に精密工業が集積したのか理由を聞きました。龍水時計の役割は決して小さくないが、機械工業技術者を育てた岡谷工業高校の存在は大きいと答えていました。学校と協同組合思想、そして向上心の高い農民が「日本のスイス」を育てた。もう一つ忘れて成らないのが賀川豊彦の熱意だったのです。

(18)−協同組合が示す持続可能な経営

 次に私がJA職員向けの雑誌「教育と文化」2009年9月号に書いたムハマド・ユヌスさんと賀川に関するコラムを紹介します。

 協同組合が示す持続可能な経営

 2009年3月、賀川豊彦献身100年でノーベル平和賞受賞者のバングラデシュムハマド・ユヌスさんを神戸市で開いたシンポジウムに招きました。2008年9月のニューヨーク発の経済危機以降、ユヌスさんのマイクロファイナンスソーシャルビズネスがにわかに注目を集めています。利益の最大化を求めてきた資本主義の対極にあった社会主義はすでにほとんど消滅しており、人々が新たな経済パラダイムを模索し始めているからです。

 マイクロファイナンスは1970年代、ユヌスさんがバングラデシュのチッタゴン郊外の農村で始めた小規模金融です。貧しさゆえに高利貸の犠牲になっていた農村婦人に千円単位の金を貸しました。バングラデシュには雇用という概念がありません。特に農村は自ら機織りをしたり、鶏を飼って卵を売ったりしなければ生活ができないのです。せっかくの売り上げが高い利子に消えていました。ユヌスさんは低利でお金を貸しました。条件は子どもを学校に行かせるなど生活の向上を目指すことでした。

 小さな村から始めたマイクロファイナンスは今ではグラミン(農村)銀行となり、その発想は途上国だけでなく先進国でも広がりを見せています。ユヌスさんの最近の関心は、ソーシャルビズネスです。配当のない会社だ。「見返りのないものに誰が投資するか」と反対された。ユヌスさんの考えは違いました。

「金持ちや企業は社会貢献と称して多額の寄付をしている。尊いことだが、寄付は1回限り。その金額を投資すれば利潤が上がり、その利潤を再投資することで資金は持続性を持つのだ」

 数年前、フランスの食品会社ダノンが興味を示し、バングラデシュで貧しい子どもたちの栄養食としてヨーグルトの合弁製造が始ましました。会社の目的は子どもたちの健康です。続いて仏ヴィオリアとミネラルウオーターの製造販売が始まっています。この会社も健康が目的。独フォルクスワーゲンには洪水時にエンジンを船に乗せ替えたり、乾期にポンプに使えたりするグラミン車を開発してほしいと要請しています。目的は災害復帰である。金もうけでないそれぞれの目的を持つのがソーシャルビジネスなのです。

賀川が90年前に那須善治に話したこととそっくりです。ソーシャルビジネスと協同組合とは法人のあり方も違いますが、貧困からの脱却を目的とし、助け合いを手段とすることにおいて変わりはありません。

賀川の協同組合神戸新川の貧民窟や関東大震災後の本所から生まれました。購買組合(生協)を創設し、組合の資金で質屋金融)を起こし、学校を経営し、病院を建てました。戦後のJAの共済事業や全労災も賀川に端を発する。人々の出資金は直接の配当として個人には還元さませんが、何倍もの価値となって社会や地域に還元されるのです。

経済を金もうけの手段にせず、利益は社会の福利厚生のために使うべきだというのが、賀川の持論であり哲学です。

今、協同組合に求められるのは賀川やユヌスさんの発想です。日本ではかつてのような貧困はなくなりましたが、逆に「助け合い精神」はどんどん退化しています。協同組合は元々、「一人は万人のために、万人は一人のために」というロッチデールの精神から生まれています。弱肉強食の時代でもありましたから、人々は官に頼らず助け合って自分たちの生活を守る必要があったのです。自助と互助です。今は国や自治体の責任が問われるだけで、地域が自助する精神を忘れてはいないでしょうか。

2008年来、再び「貧困」が社会を象徴するキーワードになっています。かつての貧困ではありませんが、少子高齢化で日本経済が縮小に向かい、この10年で勤労者所得は2割も減少、格差もかつてなく広がりつつあるのです。

しかし、日本には農協300万世帯、生協2200万世帯といわれる層の厚い協同組合地盤が残っています。信用事業、共済事業を含めれば巨大な資金も抱えています。協同組合が本来持っているはずの目的を忘れ、ヒト・モノ・カネが眠ったままでいることです。監督官庁があるとはいえ、それぞれの組織が縦割りであってはいけない。生産から流通、消費、教育、医療、保険まで生活に関わるあらゆる事業が互いに協力しあえばいい。企業や官依存ではなく、地域の協同組合こそが経済の立て直しの主役を果たさなくてはならないのです。

大原孫三郎の社会経営

 ユヌスさんや賀川と似た観点から企業を経営していた事業家がかつて倉敷にいました。大原孫三郎(1880−1943)です。倉敷紡績を有数の繊維企業に育てる一方で、利益を社会貢献活動の面でも傑出していた人物でした。3000人の孤児を岡山で育てたことで有名な石井十次の事業を生涯、支え続けました。賀川より8歳年上で、関西で活躍しましたから賀川との接点は必ずあったはずですが、まだ見つけることができません。

大原は女工さんたちが病気になった時のために病院(現倉敷中央病院)を建設しました。孫三郎は東洋一の病院を作れといいます。病院のホールには熱帯植物を植え、患者たちのやすらぎのためにコンサートホールも兼ね備えた建物でした。水密桃やブドウマスカットを生んだことで有名な大原奨農会農業研究所(現岡山大学資源生物化学研究所)も大原がつくらせました。20世紀を通じて労働問題シンクタンクとなって問題提起をしてきた大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所や市立倉敷商業補習学校(現岡山倉敷商業高等学校)、そして大原美術館。面白いところでは民芸運動を興した柳宗悦の夢実現のために日本民芸館を世に送り出します。つまり農業振興やシンクタンク、文化・教育分野に投資したのです。今なら、国や自治体が行うべき事業を会社と自分の資産から支出して社会に還元したといえます。企業家の立場から防貧に乗り出したと考えれば、それなりの共感が得られるのではないでしょうか。

 株式会社は事業経営して生まれた利潤を持ち株数に応じて株主に還元するシステムです。協同組合は違います。日本の協同組合法ではどちらかといえば「非営利」ですが、配当を禁じているわけではありません。ロッチデール原則では「配当」も認めていますが、まず「教育」への投資を勧めているのです。

営利」「非営利」の違いは「儲ける」「儲けない」の話ではありません。勘違いしないようにお願いします。正確にいうと、「分配」を「する」「しない」の話なのです。日本で配当を禁じているのは社団法人財団法人、そしてNPO法人です。ですから、株式会社が「悪」で、協同組合が「善」だと一概にはいえないのです。すべからく経営する人の問題となるのでしょう。大原孫三郎はまさしく協同組合的経営を実践した事業家の一人といえるのだと思います。その点でユヌスさんのソーシャルビジネスという概念は非常に分かりやすいといえましょう。

2012-01-19

国連の国際協同組合イヤーに何を考えるか

 協同組合といっても普段は生協ぐらいしか頭に浮ばない人が多いと思う。農協漁協林業組合も実は非営利協同組合によって成り立っている。原則の「自助共助」精神」はどこへ行ったか。農協漁協も国への依存度が高いだけでない。自民党の強力な支持団体だった。逆に生協左翼勢力の生きる糧と化している。ロッチデール原則は政治の排除だったのではないか。

 そもそも協同組合行政ができないことから運動をスタートさせた。義務教育がない時代に教育を支えた資金は協同組合の収益だった。公的医療保険がない時代に賀川豊彦医療協同組合の必要性を強調し自ら中野総合病院を設立した。

 その後、国家が教育や社会福祉を自らの仕事とするようになって、協同組合の影が薄れてしまった。今年2012年は国連協同組合年である。各国で多彩な行事が予定されている。日本でもJA全中が中心になってロゴマークをつくりシンポジウムも計画されている。11月には神戸アジア大会が開かれることになっている。

 しかし、いま考えるべきはお祭り騒ぎではない。国家と協同組合のあり方に眼を開くべきである。世界的に国家財政が破綻している。その背景には社会福祉など本来、住民の自助共助で賄われるべき分野にまで国家の力が浸透したからにほかならない。国家財政が破綻したからといって、もはや教育や社会福祉が後退することは許されないが、国家によって協同組合精神が失われたのは事実である。

 いま一度、自助共助の精神を復活させ、国家への依存心をあらためなければ、人々の教育や社会福祉が壊れてしまう。そんな危機感を持つ必要があると考える。増税を阻止するにも自助共助の分野を住民の手に取り戻さなくては空念仏に終わる。

生協2600万人、農協950万人、信金信組1200万人、労金1000万人、医療生協2700万人。組合員数を眺めるだけで、われわれはどれほど協同組合に依存しているかが分かる。世界には人口が1000万人に満たない国家がどれほどあるか考えれば、これだけの人々が協働すれば、国家にできないことですら実現可能であると考えなくてはならない。自助共助が必要なのは教育や社会福祉だけではない。環境や食の問題も協同組合の仕事である。

 特に3.11以降、関心を呼んでいるのがエネルギー分野である。実はエネルギーの自給は過疎の地である方が有利なのである。まず支えるべき人口が少ない。次いで水と森林というエネルギー源を背後に抱えるのが過疎の山間地なのである。

生協    組合員数2621万人

農協    組合員数 949万人

漁協    組合員数 36万人

森林組合 組合員数 157万人

医療生協 組合員数2710万人

労金    構成員数 999万人(会員数57,886人)

信用金庫  会員数 931万人

信用組合 組合員数276万人

(2010年度、農協は2008年度、漁協は2009年度)

 そんな自助共助の先にあるのが、協同組合の国際的な連帯である。国家の枠組みを超えたところで教育、社会福祉、環境、食、エネルギーを考えていけばどうなるか。わくわくするではないか。世界連邦が先にあるのではない。国境を超えた協働の果てに世界連邦は自然に発生するはずだ。(世界連邦運動協会四国ブロック長・高知支部長 伴 武澄)