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Think Kagawa 賀川豊彦を考える RSSフィード

2014-12-21

颱風は呼吸する36

   黙せる羔羊

 銃丸(たま)は、駿治の頭上を掠(かす)めて飛去った。
『運の強い奴ぢやなア』
 河野はさういひながら、銃丸を取りに事務所の中へ走り込んだ。駿治はその隙を狙へば逃げられたが、もう覚悟してゐたので、不動の姿勢でそこに直立してゐた。
 自警団分隊長は、河野のやり方を見かねて、銃丸を取りにはひった彼の襟をつかまへて怒鳴った。
『無茶をするな、河野! 貴様は、松代を斎藤に隠されたと思って、復讐してゐるんだな!』
 といふなり、河野をそこへ突き倒した。
分隊長! 私は、そんな男と違ぶんですよ!』
 その時、アンナが、河野の女房に背負はれて、裏道から走り出てきた。そして駿治が、往来の真ん中に立ってゐるのを見て、英語で尋ねた。
『シュンジ、あなたはそこで、何してるの?』
 その時、駿治は涙も出さずに冷静にいった。
『今、銃殺される処だ』
『え?』
 河野の女房はたまげた声を出した。
『逃げたらいいぢゃないですか。大将』
 彼女は続けてさういった。
 分隊長は再び出てきた。そしてすぐ、斎藤と他の七名の支那人を、自警団の本部へ連れて行った。
 本部は捕へられてきた便衣隊で、非常に混雑してゐた。絶え間なく砲弾が附近に落下した。人々はいやが上にも昂奮して、冷静を失はずにはゐられなかった。
『そんな者を連れてきたって、仕方がないぢゃないか! 許す者は許し、不正なものはどしどし処分してくれよ。そちらの方で、……」‘
 それを聞いた駿治は、落着いていった。
『お願ひです! 私は銃殺されてもいいが、どうか陳栄芳君だけは助けてやって下さい。実際この人達は、何も悪いことをしてゐないんです。ただ官軍に殺されることを恐れて、日本祖界に逃げてきただけのことなんです』
 時々裏庭で鉄砲の音がした。便衣隊のものが銃殺されてゐるのであった。
 河野の女房が、アンナを背負うたまま、自警団の本部にはひってきた。光三も飛込んできた。そして、分隊長にいうた。
『斎藤さんをどうか許して下さい。陳栄芳君を匿まったのは、或ひは悪かったかも知れませんが、二階から水兵を狙撃したなんてことは、決してないんです。それはみな誤解です』
『ぢゃあ、未だに電話がかかるのはどうしたんだ? 何か支那側と一脈相通ずる処があるに相違ない。あの電話一つにかぎって、いつまでも聞こえるっていふのが、をかしいぢゃないか!』
 分隊長はさういった。表を装甲自動車が通る。機関銃隊が行く。ぐづぐづしてゐるうちに、時間は三十分、一時間と経って行った。
 泣き膨(はら)した顔を隠さうともせず、河野の女房に背負はれて、自警団木部の入口で待ちつくしたアンナは、たうとう、外套を地べたに敷いてその上に坐り込んだ。
 光三はアンナを、あまり可哀さうだと思ったので、昼の二時過ぎ彼女を背負うて、北四川路の斎藤商店へ帰ってきた。斎藤駿治と、七名の支那人は、その晩のうちにどこかに廻されたといふことであったが、その翌日も、またその翌々日も、何等の消息はなかった。
 アンナは、毎日毎日、河野の女房に背負はれて、自警団の本部まで夫の安否を聞きに通った。その後、誰も、斎藤がどうなったかを、知る者はなかった。
 それから三年余りは過ぎた。南京の中山路で、自動車の中に並んでゐる、斎藤駿治とアンナとの幸福さうな姿を見かけたと、どこからともなく聞こえてきた。(終)

颱風は呼吸する35

  スパイ

 便衣隊が次から次につかまった。そして片っ端から銃殺された。
『大将大変です、河野があなたを殺すっっていってゐますよ。早く逃げて下さい!』
 血相を変へて裏口からはひってきた、河野の女房が叫んだ。斎藤は、別に慌てもしなかった。遠藤は相変らず、ヴァイオリンを、暢気さうに弾いてゐた。
『どうして。僕がそんなに憎いんだい?』
『ねえ、大将、河野は、たうとう自警団を除名されたんですって。それはね、河野があまり淫売買ひをして自警団の規律を守らないのと、領事館でもやはり阿片の問題がやかましくなって、河野を罰することになったんですって。だって大将、河野はこのどさくさにつけこんで、支那人町へ阿片を売りに出かけて行ってたんださうですの……そんなこと。私でも少しも知りませんでしたがね、今朝河野の友達が家にきてみんな話してくれたんです。なんでも罰金は二百円くらゐださうですが、河野はあなたが領事館へ訴へたからだといって、かんかんになって怒って、ゐるさうですよ』
 さういってゐる処へ河野がやってきた。
『こら! 斎藤、殺してやるから出てこい! 貴様が便衣隊を隠してゐることを、俺は知ってゐるぞ!』
 その言葉に斎藤はびっくりした。まさか河野が、陳栄芳や他の六名を匿まってゐることを、知ってゐるとは思へなかった。河野の言葉が不思議でならなかった。
『貴様は売国奴だ! 貴様のやうな奴を生かしておけば、帝国の前途が危いよ。さあ、出てこい!』
 その殺気だった言葉を聞いて店から光三が、ヴァイオリンを捨ててとんできた。
『河野君、何いってるんぢゃ、君は?この家に、便衣隊などどうしてはひってくると思ふか、君?』
 と、斎藤の襟をつかんでゐた、河野の手をもぎとって、彼は静かにいった。
『いや、俺は知ってるぞ。俺は一咋日からな、どうもこの家が怪しいと思ってゐたんだ。咋夜、この前で日本水兵が一人便衣隊にやられたのは、確かにここの二階から撃ったに違ひない。俺はそれから徹夜してこの二階を瞥戒してゐたんだ。すると、今までに一向見なれない男が、この二階から覗いたんだ。それに考へてみろ。どうして貴様の家の電話だけが、今でもかかるんだい? 貴様か支那側のスパイであるといふ証拠は。あの電話だけで十分ぢゃないか!』
 といふなり、河野は二階へ跳び上って行かうとした。斎藤はそれを引摺り下ろした。
『よし! 貴様は暴力に訴へたな。今に復讐してやるからみてをれ!』
 さういふが早いか河野は表へ飛出した。
『ちょいとあなた! 無茶なことをしちゃいけませんよ!』
 かなきり声で河野の女房が、大きな腹を抱へながら裏口から叫んだ。
『あいつは何をするかわがらんから、ちょっと僕はみてこよう』
 さういって遠藤光三は、すぐ表へ走り出して、河野の後を追っかけた。
 自警団の事務所に飛込んだ河野竹次郎は、真青な顔をして早口でいうた。
『便衣隊が隠れて居るよ。咋夜水兵を隨撃したのは、斎藤商店の二階からに違ひないよ。今、俺が見届けようと思って。二階へ上らうと、すると斎藤の奴、俺の足をもって引摺り下ろしやがるんだ。どうもあの店は怪しいぜ』

  叛逆者

 河野の日頃の性格を知ってゐる、自警団の第十四分隊事務所の人々は、耳を貸さうともしなかった。光三は、玄関口でそれを見てゐて、気の毒に思ふほどであった。
 徹夜の警備が、こたへると見えて、そこにゐた半数の者は、椅子にもたれたまま居睡りをしてゐた。他の者は、口もきかないでストーヴにあたってゐた。
『たしかに居るよ。日本の陣地をさぐりにきたスパイが、あそこに隠れてゐるよ』
 かう叫んだ河野の声に一人の青年が立上った。
『よしツ! 四、五人、一緒にきてくれんか?』
 さういふが早いか、その青年は、四、五丁離れた、斎藤商店の方へ走り出した。
 大変だとみた光三は、一足先に裏道を駆け出した。光三は家に飛込むなり、駿治にいうた。
『みんな隠さなくちやあ。すぐ銃殺されるよ』
 といひながら、二啼に跳び上って行った。然し、陳栄芳は、もう覚悟をしてゐたらしく、落着いた口調でいうた。
『つかまるなら、つかまった時のことにしませう。どうせ街路をうろうろして居れば、スパイだと見られて、銃殺されるんですから』
 さういってゐる時に、裏口からどやどやと五人の者がはひってき
た。
『どこに居るんだ。どこに?』
『二階だ、二階だ!』
 といふ声が聞えた。誰かが鉄砲を一発放った。抵抗する者は撃つぞ、といふ信号であったのだ。
 自警団の者は、あまり大勢の者がゐるのを見て、びっくりしてゐた。河野は大声で叫んだ。
『陳栄芳が居るな、こいつは共産党親分だぞ。この男は、上海抗日ボイコットの中心人物だぞ』
 河野が昂奮してゐるのに反して、陳栄芳は存外平気であった。
『そりゃ嘘です。僕は抗日ボイコットの煽動なんかしません』
『嘘つけ! 貴様は、スパイの親分だらう』
 河野は続けていった。
『ぢゃあ、貴様は、今頃こんな処で何してるんだ?』
 傍に立ってゐた駿治は、その時初めて言葉をさし挾んだ。
蒋介石軍隊が、左翼文士達を銃殺し始めたものですから、私の家に逃げてこられたんです。決して、スパイぢゃありません。どうかゆるしてやって下さい』
『いや。怪しいぞ。こいつ等は便衣隊の一味かも知れないぞ。だまされるなよ』
 自警団の一人が、戸口の外から大声で叫んだ。
『やっつけちまへ、やっつけちまへ!』
 もう一人の青年が、戸口の敷居の上に立って怒鳴った。
『みな縛っちまヘー 兎に角、みんなこい!』
 分隊長はさう叫んだ。そこにゐた七名の者は全部縛り上げられた。そして河野も駿治を縛り上げようとした。
 その時、駿治は苦笑しながら河野にいった。
『なに? 君が、僕を縛るのか? よし縛ってくれ。君はまるでユダのやうな男だなア』
 八人の者は静かに階段を下りた。隣の部屋からアンナが声高く。
『シュンジ!・ シュンジ!』
 と呼んでゐた。よほど駿治は、彼の捕繩の端を持ってゐる河野に頼
んで、アンナの顔を一目見たいと思ったが、それも男らしくないと考へたので、目頭に涙をためながら。静かに階段を下りて行った。

  断末魔

『どうも怪しいなア……』
 自警団第十四分隊のストーブの前の、椅子に腰を下ろしながら、分隊長は陳栄芳の顔を見てさういった。
『すると君は、日本の軍隊が、街路に鉄条網を張ってから、租界内にはひったんだな。よくはひれたなア……その目的はなんだったんだ?』
 散切(ざんぎり)頭に細腰の分隊長は、酒に焼けた顔を陳の方に向けて目を瞠った。陳は別にわるびれもせず、至極冷静を保って明確に答へた。
『私は、斎藤さんの家に働いていた遠藤幸子といふ娘さんを、よく知ってゐたものですから。その兄さんに頼らうと思って、租界内にはひってきたんです』
『うまいこといふない!』
 河野は得意になって、声を荒だてて陳の頬を一つ殴りつけた。
『こんな奴は、容赦なく、銃殺したらいいぢゃないか!』
 一人の青年が分隊長にさういった。
 また大砲の弾が、すぐ前の街路の上に、落ちて、作裂した。
『やあ、あぶないぞ!』
『どうも敵の照準が、少しうまくいきすぎるなア。こりゃきっと、こちらに信号してゐる者があるにちがひないぞ』
 と、色の黒い四十恰好の男がいった。その時、河野はすかさず、その男の言葉を受次いだ。
『だってこんな男が、租界内に潜入してきてゐるんだもの。大砲の弾がよくあたるのは、当り前だよ……然し、かういふ者を匿まふ斎藤が怪しからぬよ……分隊長、私がいったのはほんとでせう? 私だって、まるっきり信用の出来ない男ぢゃないでせう。私が阿片を支那街へ売りに行ったのも、敵情を視察しに行ったんですよ。それを誤解されたんです。僕は初めから斎藤の電話が怪しいと思ってゐた。果してさうだったんですからなア。分隊長! こいっはほんとに憎い奴ですから、私に銃殺させて下さい』
 分隊長は、苦笑しながら、小声に答へた。
『さう急(せ)くなよ。まづ自警団の本部に報告して、取調べてもらはうぢゃないか』
 大砲の弾が、どすんどすん、租界の中に落ちてきた。硝子戸が振動した。近所の屋根が打抜かれ。器物が破壊される音が響き亙った。
『今はそんな時ぢゃないですよ。容赦なく撃ち殺しもやった方が早いですよ』
 河野はロを尖らかせた。
『いや、そんな無茶なことをしちゃあいかん。まづ団長に報告して、よく取調べて貰った方がいいだらう』
 気の早い河野は斎藤だけを表に引張り出して、すぐその場で銃殺しようとした。
『こら、斎藤! 貴様のやうな売国奴を生かしておくことは出来ん。俺が貴様を、国家に代って処刑してやるからさう思ヘ!』
 斎藤はその時、大声でからからっと笑った。
『なに! 生意気な!』
 いふなり、河野は、十歩ばかり後退りして、駿治を一発のもとに、銃殺しようとした。駿治は、なほも笑ひ続けた。
『俺は売国奴ぢゃないよ。狭量な愛国心だけでは、日本を救ふことは出来ないよ。俺は、大亜細亜のために、支那と日本がもう少し、仲好くしなければならぬと思ってゐるんだよ』
 といった瞬間に復讐の一心に、燃え狂った河野は、どすんと一発放した。

颱風は呼吸する34

  日の丸と阿片

 松代を、アメリカ人経営の婦人ホームに収容してもらった駿治は、すぐその足で、気になつてゐた、ヴァイオリニストの遠藤光三の長屋を訪問した。そして、彼の居ることは、遠くからでも、よく聞こえるヴァイオリンの音色でわかった。
 光三は、支那街の貧民窟にはひっても、まだヴァイオリンと縁を切らなかった。駿治が、もと、幸子の借りてゐた家から奥へ三軒目を覗くと、五人の子供に囲まれて光三は、我を忘れてヴァイオリンを弾いてゐた。
 そしてその傍には、阿片喫煙者や、モルヒネ患者の成れの果て、と思はれる者が、五、六人地べたの上に、死骸のやうになって寝てゐた。
 駿治は、まづ、その死骸のやうな病人に目を留めていった。
『君はこの人達を世話してるの?』
 光三は、つとヴァイオリンを弾く手をやめて、彼の方に向き直った。
『よう! 誰かと思ったら斎藤さんですか………ええ、あまり可哀さうですからね、路傍に寝てゐた人を家まで連れてきたんです。然し、斎藤さん、世の中には悪い奴もありますなア。こんな餓鬼のやうになった男から、まだ金を捲上げようとする日本人があるんですからなア。私は、もうびっくりしましたよ』
 いつもあまり昂奮したことのない光三が、ヴァイオリンを竹の椅子の上に置いて、立上りながら目を吊り上げた。駿治は、珍しい客を熱心にみつめてゐる、少年の頭の上に手を置いていうた。
『そりゃ、君、どこに居る日本人だね』
『どこに居るって。あなたの家に居る男ですよ』
 あまり話が突飛なので、駿治は苦笑しながら、それが誰であるかを尋ねた。
『河野ですよ。あいつは悪い奴ですなア。このあたりの苦力はみなあの男の家へ、阿片や。モルヒネを買ひに行くんです。僕はあんなに裏表のある男を知りません。あんな男は全く日本民族の恥辱です。この長屋で日本の評判が悪いのは、日本人が、阿片やモルヒネを売って、支那の金を持って帰るんだと思ってゐるからですよ……あんな奴は総領事にいって、日本へ送還することは出来ないですかなア』
 光三はさういって拳(こぶし)を前へつき出した。
『そりゃなんでもないぢゃないか、君。僕は領事館へ行くついでがあるから、そのことを、総領事に会ってきいてみてもいいよ』
『あなたは、領事館に用事かおりますか?』
『うム、南昌に出した荷物のことで是非頼みたいことがあるから、そのついでに話ししよう』
『ぢゃあさうして下さい。こんなことをして居れば日本民族は亡びますよ。他人に毒を売って儲けたところで、仕方がないぢゃありませんか。しかし、きゃっ等は実に巧妙な手段で、阿片を密輸入してゐるんだからなア。全く驚きますよ。しかもその背後には、日本の財閥が附いてゐるといふから、厭になってしまひますね。私は日本の国旗を阿片の煙で汚したくないのです』
 さういった、光三の限には、憂国の熱情が溢れてゐた。
 阿片患者が眼を醒ましたらしい。幽霊を見てゐるやうな眼をして、地べたの上に半身を起した。モルヒネが切れたと見えて、その隣に寝てゐた三十恰好の男が、苦悶を始めた。
 それを見た駿治は厳かにいった。
『よし、俺はこれから領事館に行ってくる!』
 さういって彼の姿はすぐ長屋から消えた。

  抗日

 抗日ボイコットが極端になった。左翼右翼も一緒になって、日本品を売ってゐる自国民の商店を、所嫌はず襲撃した。さうした運動が、上海は勿論のこと、北は天津から、南は香港、広東、さては南洋まで波及した。
 日本行きの船は船室に満員札を掲げ、避難民を乗せて相次いで上海を出帆した。然し、排日ボイコットに馴れた共同租界の日本人は、暢気にかまへこんで、朝から麻雀ばかりしてゐる者もあった。
 幸ひ、東京代田橋の駿治の姉、伊原漾子から、十二月の年の暮おし詰って、アンナヘの見舞金として百円送ってきたのと、千鶴子の親類から、彼女に借りてゐた金の利子として百五十円を送ってきたのとで、駿治はその年のクリスマスをのんびりした気持で迎へることが出来た。
 正月も平凡に送った。然し一月五日の朝であった。酔っ払った河野竹次郎は、眼を真赤にして、朋輩五、六人を連れて斎藤商店に怒鳴り込んだ。
『おい、斎藤! 貴様は、売国奴のやうな真似をしてもいいのか! 貴様は、俺が阿片を売ってゐるといって、領事館に訴へて行ったな。阿片を売るのが、なんで悪いんだ! 買ひたいものがあれば、売ってもいいぢゃないか。イギリス人を見てみろ! 香港シンガポールを経営してゐる金は、みな阿片で儲けた金ぢゃないか! 妨害するな、妨害を。貴様は、日本帝国の発展を妨害するつもりか!』
 さういってゐる処へ電話がかかってきた。その電話に耳を澄ました河野は、
『おい、斎藤、今の電話は、あれは誰からかかったんぢゃ。あの声は松代と違ふか?……さては松代を隠したのは貴様ぢゃな。俺は承知せんぞ。おい! 松代の居る処を教へろ!』
 さういったけれども、駿治は返事さへしなかった。それは彼があまりにも酔払ってゐて、相手になっても仕方がないと思ったからであった。すると、
『よし俺にも覚悟がある。俺は婦女誘拐の告訴を、領事館に提起してやるから。覚えてをれ』
 さういって河野が表へ出かけると。彼についてきてゐた青年の一人が、また電話を不思議がった。
『この電話は、通じるんだなア。これから用事があったら、ここへ借りにこよう』
 さういって、みんな帰って行ってしまった。
 そんなことがあってから十三日目であった。松代に届いた、日本からの小包を持ってフランス租界に近い、婦人ホームに行った帰り道、道順もよかったので、また、苦力長屋の遠藤光三を訪問してみた。
 丁度、光三はいつも勤めてゐる活動写真館へ、ヴァイオリンを弾きに出かける処であった。(光三は。活動写真館で働いて儲けた金を、憐れな阿片患者や、モルヒネ患者にみんな与へてゐた)それで長屋の路地で出会った駿治は、ポケットから支那の一円紙幣を五枚つかみ出して光三にいった。
『君、僕は二人の病人を抱へてゐるために、君のやうな立派な仕事は出来ないが、これは僕の真心から捧げる金だから、これで君の養ってゐるモルヒネ患者に、饅頭(支那下層階級の常食物)の一つでも買ってやってくれ給へ』
 真面目な光三は、それを受取って心をこめてお辞儀をした。さういってゐる瞬間に、長屋の奥から半裸の苦力達十数人が、
『喧嘩だ! 喧嘩だ!』
といって飛出してきた。喧嘩は別に珍しくなかったけれども、光三が活動写真館へ行かなければならなかったので、駿治はすぐ彼と並んで表に出た。

  颱風一過

 表に出た光三は、独言のやうにいった。
『こりゃ、いかん! 助けてやらんといかん!』
 さういふなり、駿治にヴアイオリンを持たしておいて、一町程先の群集目かけて駆け出した。
 駿治もヴアイオリンを持った儘走ったが、人垣を分けて遠藤光三は真一文字に飛込んで行った。
 駿治には、なぜ、光三がそんなに真剣になったかわからなかった。然し傍にあった人力車の上に立ちあがって、初めてその理由がわかった。今支那の苦力が、四人の日蓮宗の行者を襲撃してゐる処であった。四人の行者は、一人一人支那の苦力と争ってゐた。
 それを光三が、和解させようと努力してゐるのだ。然し行者の一人が苦力を殴りつけた。それから混乱は一層烈しくなった。石が飛んだ。木片が飛んだ。罵りの声は高くなった。
『やっつけちまヘー』
『殺せ! 殺せ!』
倭人をやっつけろ!』
 呪咀(じゅそ)の旋風は颱風に変り、忽ち数千の浅葱(あさぎ)の労働服を着た苦力で、街路は寿司詰めになった。
 それで駿治は、もう人力車の上に立ってゐることが危険になった。彼自身が襲撃の目標になると思ったからであった。
 支那の騎馬巡査がやってきた。然し群衆はなかなか通路を開かなかった。駿治は、よほど、ヴァイオリンをどこかに匿しておいて、その日蓮宗の行者と光三を助けにはひらうと思ったが、光三が命より大事にしてゐたヴァイオリンだと思ふと、どこにでも匿す訳にいかなかった。で、彼は大急ぎにそのヴァイオリンを、光三の長屋へ持って帰って行くことにした。
 然し、群衆が狭い街路に押し詰まったので、どうすることも出来なくなった。それで、彼はまた人力車の上に立ちあがって、行者が立ってゐた方角を見つめた。しかしそこには、もう、四人の白衣の行者の姿も見えなければ、光三も見えなかった。
(さてはやられたかな。行者は仕方ないとしても、なんとしても、あの純粋な光三を殺すのは惜しい)
 と思ったので彼は、もう、ヴァイオリンの番などどうでもいいと思った。で、人力車の腰かけの下にヴァイオリンを匿して、すぐ群衆の中にをどり込んだ。
 支那の苦力はみな背が高い。彼が初めの人垣を分けてもその次にまた人垣がある。二人くらゐ押分けて進んで行っても、群衆が押寄せてくると、すぐ三歩くらゐ後に追ひやらられる。ぐんぐん、周囲から人体が圧迫してくる。そしてこんどは駿治自らの五体が、圧し潰されさうになった。
 彼はその時に、初めて、肉弾といふことを思った。
(……こんなに人間が詰まると、人間も、牛肉や豚肉とあまり変りはない。重力が凡てを支配するのだア。重力が人間を支配して、精神力が人間から、逃げ出したら人まもそもそも末だなア)
 肉体の圧縮機械に挾まれた駿治は、そんなことを考へた。彼は十五分問くらゐも揉まれてゐたらうか? その上にもう五分問も続いたら、彼は脳貧血を起して、倒れるかも知れないと思った。
 その瞬間群衆の喚声が変った。支那の騎馬巡査がピストルを空中に向って放った。群衆は散った。そして、四人の白衣の死んだやうな五体と、光三の打ちのめされた肉体とだけそこに残ってゐた。

  闖入

 駿治は泣きながら。光三の肉体にすがりついた。彼は大声で叫んだ。
『遠藤君! 遠藤君! 遠藤光三君!』
 すると、光三は、少し、わかったと見えて、大きな眼を開いた。
『うれしい、生きてゐる!』
 さう叫んだ駿治は、半丁ばかり離れて立ってゐた人力車夫を招いて、すぐ、光三を日本人病院に送らせることにした。
 機会(をり)も機会、どうして聞いたか、日本租界の自警団の一分隊が鉄砲を持って駆けつけてきた。そして、すぐ駿治と協力して。日蓮宗行者の救護にとりかかった。幸ひその中の三人は命に別条はなかたっ。然し、一人の行者は致命的な傷を受けてゐた。そして、たうとう、その男は一月二十四日に死んでしまった。
 光三と他の三人は辛うじて命を拾ったが、颱風は一層拡大した。一月二十九日つひに上海は鉄と血の戦場と化した。
 アンナの寝てゐる屋根も敵弾にぶちぬかれた。そして、危く彼女も、命を落すところであった。然し、不思議にそんな時でも。まだ斎藤商店の電話は止まらなかった。それで近所の者は誰でもみなそれを利用するので、朝から晩までベルが鳴り続けた。
 土嚢が、街路の上に積上げられた。然し、共同租界であるのをいいことにして、多数の便衣隊がはひりこんだ。そして思はざる処から日本の陸戦隊を狙撃した。自警団は奮闘した。日本人の居留地帯にはひってくるものは誰でも、一々身体検査をされるやうになった。
 支那側も塹壕を掘り、鉄条網を張って。日本軍に挑戦した。それのみならず、戦争を好機会として、革命を起す惧れのある共産党狩りが開始された。困ったのは陳栄芳一味の左翼の分子であった。彼等もまた亡命しなければ、命が無いといふやうな羽目になった。
 幸ひ、陳栄芳は日本語がよく出来たので、崔女史ともう一人の青年を連れて、日本租界内の斎藤商店の二階に隠れようと、大胆にも戒厳令を犯して租界内へ闖入(ちんにゅう)した。
 それは朝の九時頃であった。斎藤の店も雨戸を閉め、入口の戸を閉して企く叢務を休んでゐた。引ききりなしに、大砲の弾丸は、怖ろしい響をたてて、租界に落ちて作裂した。その響の少し遏(や)まった時、駿治は、激しく表を叩く物音が間こえたので、戸を開いてみると、それが陳栄芳とその仲間であったのでなほ驚いた。
『頼ぬ! 斎藤さん頼む! 僕は、あなたの家よりほかに頼る処はないんだから、あなたには気の毒か知れんが助けて下さい』
 駿治も男である。
『よろしい!』
 一言さういって、三人を、アンナの隣の部屋に隠した。
『隣の部屋には砲弾が落ちたんだからね、君が僕の処に逃げてきて、君の頭に弾丸があたって死んでも僕は責任を持たんよ。わはははは。然し、三度三度の食物は二階へ運んであげるから、君等は階下に下りてこないやうにし給へ。もしも、自警団の人にでも見附かったら、大変だよ、君も僕も、命はないよ』
 陳栄芳は両手を組合せて、長上の者にするやうな、支那式の最敬礼をした。
 その日の午後、日本人病院から退院した遠藤光三は、どこから集めてきたか四人の支那人を連れてきた。
『斎藤さんお願ひです。この人達は、官憲に狙はれてゐる共産党の連中なんです。病院まで訪ねてきて、隠してくれとせがまれたんですが、私には家がないので、あなたにお願ひにきたんです』
 駿治はまた軽く頷いた。

颱風は呼吸する33


   窮乏

 支那人の阿媽(アマ)は、ボイコットして帰って行ってしまった。河野竹次郎の女房は、妊娠の悪阻(つわり)とかで店には顔を出さなかった。大勢の避難者が止宿してゐるのに、千鶴子は風邪ひきで寝ついてしまった。
 そのため。駿治は朝早く起きて、炊事から店の掃除まで、自分でやらなければならなくなった。こんな時に、人のよい遠藤光三が居れば、大いに手助けになるのだがと思った。然し、光三は幸子が銃殺されたと聞いてから、殆ど、発狂者のやうになって平和運動を始めてゐた。そして、もと幸子が借りてゐた、苦力長屋の一軒かがあいてゐたので、そこへはひり、もう斎藤の店とは縁を切ってしまった。
 さうしたことのために駿治は、寝てゐるアンナの食事のことから、屎尿の心配までも、自分ひとりでしなければならなくなった。
 また、運悪く千鶴子は風邪で寝ついた日から、三日目に両眼が見えなくなったといひ出した。
 日本人病院の医者に診てもらったが、梅毒性の白内障(そこひ)だと診断した。駿治は驚いて千鶴子をすぐ入院させた。医者は駿治にいった。
『多分、早川さんの。なくなられた夫の方が梅毒を持っていらしって、早川さんに感染さしたんだと僕は思ひますよ』
 千鶴子は、それを肯定した。
『しかし、それは六年ほど前ですからね、私はもう治りきったもの
と思ってゐたんですの。さうですかね、そんなに梅毒は恐ろしいものですかね。五年も、六年も潜伏してゐて、突然、両眼を犯すものですかね』
 千鶴子は、明るい輪郭をした顔を曇らせて、ハンカチで鼻の上の膏を拭いた。
 尿の検査をしてみると、彼女の腎臓もよほど悪かった。さうしたことから医者は、千鶴子に絶対安静をすすめた。
 満洲の戦況は、いやが上にも支那抗日感情を高めた。そして長江筋の商売は全く止まってしまった。で。今まで買ってくれてゐたアメリカ人やフランス人までが、斎藤商店に註文してくれなくなった。そして送った品物に対する代金が、一万円近くもとれなくなった。
 千鶴子の入院科は要る。人手がない上に、自警団に河野竹次郎は徴発される。銀行の使ひまで駿治自身が行かねばならなかった。そして預金帳の残額も、もうあと僅かに百円足らずになってゐた。
(幸子の送ってきた金などは、関東電機に送金してとっくの昔になくなってゐた)
 幸ひ、泊ってゐる避難客も、どっと一塊になって日本へ帰ってしまったので、少しは落着いたが、駿治はその月に払ふべき家賃と千鶴子の入院料を、どうして支払はうかと肝胆を砕いた。
 日本に電報を打った。越谷の兄から少しでも送金してもらはうと待った。然し、その返事は、かへって駿治を悲観せしめた。
『イヘハサンシタ カネオクレヌ』
 どうして破産したか知れないか、越谷の本家がいよいよ没落したかと思ふと、悲しくなった。悲観して二階のアンナの部屋にはひると彼女は、いつもの通りにこにこして、どこに戦争があるかといふやうな、顔附をしてゐた。
 いつもの通り寝たままで、忙しく編針を動かし、女子青年会のアメリカ婦人のためにスエターを編んでゐるのだといって、彼女は一瞬だって手を休めなかった。

  病床の天使

『千鶴子さんの入院料が払へないんだがどうしよう?』
 いひたくはなかったがあんまり苦しかったので、寝てゐるアンナに打明話をした。するとアンナは存外平気な顔をして、
『お祈りしませうよ。神様は正しい者の祈を、必ずきいて下さるから……』
 さういって、彼女は病床に横たはった継、瞑目して合掌した。それが、十一月の三十日の朝であった。
 病院から、千鶴子の入院料百七十円五十銭の附けを持って会計係が、朝早くやってきた。然しそんな大金があらうはずかない。それで体よく猶余してもらった。昼過ぎに家賃を取りにきた。それも、払ひを五日まで延ばしてもらった。
 音楽家の遠藤光三は、昼過ぎにひょっくりはひってきて、パンを買ふ金を貸してくれと十円ねだった。それで、無い財布の中から五円を彼に渡した。窮乏してくると、西洋人と結婚したことの悲しさを、沁々と考へた。
 彼は帳場の机を前にして。どこか顧客先の中で、金を融通してくれる所があるかと探し始めた。然し帳簿を幾百遍ひっくり返しても、そのやうな相談ができる処は一軒もなかった。貸金は二万円近くにもなってゐた。しかし、それらは皆交通が杜絶して、何箇月後か、何箇年後かでなければ、とれる見込はつかなかった。
 悒鬱になってしまってさすがの駿治も、生を疑ひ始めた。その時、また突然に彼はサクラメントの大通で、自動車の下から逼ひ出したことを思ひ出した。
『……さうだ、さうだ俺はあの時、死んでゐるはずだったのだ。俺があの時命を拾ったのは、神が俺に何かの使命を残して、おいて下さったからだ。よし! 窮乏がなんだ! 俺の使命は、日本と支那、日本と米国とを親善に導く、三角形の頂点におかれてゐるのだ。よし! 俺は、言然起って自己の使命に生きよう! 今まで、自分のことだけ思うて、あまりにも汲々としてゐたから、こんなにまで窮乏したのだ。これから俺は丸裸になって、太平洋民族の親和のために努力しよう。よし、俺の店はもう用事がないのだから、俺は日本の避難民と支那避難民とを区別しないで、どちらも一生懸命に助けることにしよう』
 そんなことを考へ込んでゐた時に、アンナと親しくしてゐる、ミス・クックといふ女子青年会の幹事がはひってきた。
『お困りでせうね、ずゐぶん。上海では当分御商法はいけませんでせうね』
 さういひながら二階に上った。そして、アンナが作ったスエーターの紙包を持ってすぐ下りてきた。
 夕方アンナの食物を運んでゆくと。アンナは百ドルの小切手を彼に手渡した。
『ミス・クックがね、お困りでせうからこれをお使ひなさい、ってくれたのよ。千鶴子さんの入院料に払ってあげて下さいな』
 それを握った駿治は、すぐ日本人病院に飛んで行った。そして一文も残らず支払ってしまった。
 会計をすまして千鶴子の病室にゆくと、看護婦は、彼女が尿毒症の傾向を持ってゐることを彼に告げた。それでも彼女は元気だけは確かであった。
『なあに、私はきっと治りますから、そしてこんどはうんと働きますよ』
 と、見えない眼を駿治の方に向けてさういった。

  霜

 共同祖界は日が暮れると、もう通行するものなどは一人も無かった。どの家も早く戸を閉して。大きな声さへたてる者がなくなった。
 然し、そんな無気味なうちにも。ひとり淫売婦だけは、街路で大声を立てたり、流行歌を唄って、弾丸を少しも恐れてゐないやうだった。
 そして。北四川路の斎藤の店先が、また特別に淫売婦の群の佇む場所になった。それは、彼の店の横丁に曖味屋か出来てゐたためであった。
 十二月にはひってからのことだ。河野の細君が、或る朝髪を振り
乱して、泣きながら斎藤の店に駈けこんできた。
『ねえ、大将。うちの人を叱って下さいましよ。今朝もね、あの人は私を踏んだり蹴ったりして、出て行けっていふんですもの』
 さういひながら彼女は、ストーヴの前で椅子にもたれて泣き崩れた。
『どうしたの?』
 駿治が、河野の細君の肩を叩いて。元気をつけてやると、彼女はまた泣き濡れた顔を。ハンカチで拭いて甲走った声でいった。
『あなた御存じですか?……ほら、この前にいつも立っている、別殯の淫売があるでせうが、なんでももとダンサーをしてゐたとかいふ、ハイカラな女ですよ』
『それがどうした?』
『その女にですよ、うちの人が惚れましてね。近頃は何をするにもうはの空で手がつかず、自警団の方もすっぽかしにして、朝から晩まで、その女に入り浸って酒ばかり飲んでるんですの。見るに見かねて私が少しいったんですよ。すると離縁してやるから出て行けっていふんですの』
 彼女は、またハンカチを目に持っていった。
 そんなことがあって。間もなくであった。駿治が千鶴子を見舞って、日本人病院から出てくる時、突然派手な東(あずま)コートを着た日本婦人に出会った。
 駿治が、碌々彼女の顔も見ないで、行き過ぎようとすると、先方から軽く挨拶をした。それで、初めて彼女に注意すると、実に不思議だ! 三年前、東京新宿のカフェ鈴蘭で、よく酒の相手になってくれた女給の松代であった。
『やあ! 誰かと思ったら君か!』
 駿治が、昔に返ったやうな気持で無造作にいふと、松代はいかにもしをらしく慇懃な挨拶をした。
「いつも御無沙汰いたして居ります、お変りもございませんで、……この頃は非常に御発展だと承って居ります……』
 さうした挨拶をする処を見ると、彼女には少しの毒気さへなかった。然し、容色はめっきり衰へて、三年前の美はしさは無かった。額に、頬に、所々吹出物が出来、顔はうんと痩せて髪には艶がなかった。
『御病気ですか?』
『ええ』
 さういった彼女の声は嗄(しやが)れてゐた。
『いつ上海にこられたんですか?』
『私、満洲事変の起るちょっと前に、ダンサーに雇はれてまゐったんですの。けれど、その後ずつと下が悪いもんですからね、こちらの病院に毎日通って居るんでございますの』
 彼女の様子にも言葉にも、いかにも元気がなかった。

  「時」の審判

 いつになく、松代が馬鹿にはにかんでゐるので、珍しいことだと思った。
 三年前に新宿のカフェ街で、女王のやうにふるまって、全盛を極
めてゐた彼女が、梅毒性の吹出物を出してゐるのを見て。駿治は、運命の厳粛な批判を考へざるを得なかった。
『どこに住んでゐるんです、今?』
『北四川路の。お宅のごく近くに居るんでございますよ』
『さうですか! そりゃどこです?』
『あまり御近所で。お店とは目と鼻のやうな処ですの。お宅の横の路地をはひって三軒目の。西洋館の一室を借りて居りますの』
 さういはれて駿治は。そこが新しく出来た曖昧屋であることを、思ひ出した。
(さては。河野竹次郎の追廻してゐる女は、この松代のことであったのか)
 と、駿治はわかった。それで彼は、すぐさぐりを入れた。
『ぢゃあ、うちの河野君は、よくあなたの処へ行きますか?』
ときくと、松代は苦笑して顔を背(そむ)けてしまった。
 それで、駿治はすかさず突込んだ。
『あそこは、ちゃぶ屋にでもなってゐるんですか?』
『ええ。ちゃぶ屋なんです』
 松代は、はっきりした口調で、答へた。
『あなた、また、どうしてちゃぶ屋などにゐるんです!』
『それには深い事情もありましてね。こんな処ではお話も出来ませんが、もしお聞き下さるんでしたら、あなたのお力をお借りしたいこともありますから、是非、お伺ひさせて戴きますわ。結婚してやらうといふ人があった時に、私も嫁いて居ればよかったものをと、今夏思ひますわ。けれどその時は、あんまり浮気だったもんですからね。もう、取返しのつかないやうになってしまひましたの』
 それから先、松代は顔を背けて話をしようとはしなかった。そしてまた患者が四、五人病院の入口を出入りしたので、駿治も精しいことが聞けなかった。
 その目昼過ぎであった。斎藤が店で、手紙を書いてゐると、松代がひとりはひってきた。
『お邪魔してもいいでせうか?』
 といった彼女は、いかにもやさしい人妻のやうに見えた。
『いいですとも、いいですとも。まあ、こちらにいらっしやい』
 昔、彼を冷遇した彼女の失敬な態度を忘れて、駿治は彼女をもてなした。
『ほんとに東京では失礼いたしましたわ。私もあの当時はまだ苦労が足りませんでしたし、世間知らずでしたから、ずゐぶんあなたに失礼なことを申したと思って、今更後悔してゐるんですの……実は今日お伺ひしましたのは、ほかでもございませんがね。お店に働いていらっしやる、河野竹次郎さんのことに就てですわ。ちよっと御相談にのって戴きたいと思ひましてね……あの方には、奥様も、子供さんも、お有りになるんですってね。それだのに、あの方は私と夫婦にならうといって、うるさく附き纏はれましてね。私ほんとに弱ってゐるんですの。私は、ああいふ方と結婚する意志は毛頭ありませんしね。私のやうに全身の腐ってしまったものは、結婚する資格がないと思ってゐますのよ。それでね、私、もう、日本へ帰らうと思ふんですが。少し貯めてゐたお金も、河野さんが貸してくれといはれたのでみんなお貸ししましてね、私は病院へ行く金さへ無くて困ってゐるんですの』

  不思議な電話

 松代の事情を聞いて。駿治は全く彼女に同情した。然し、彼には彼女を助けて日本へ帰すだけの金がなかった。そして、彼女も日本へ帰るなら、病気を治してからにしたいといった。
 彼女は、どこか無料病院に入れてくれと、駿治にせがんだ。それで駿泊は、アンナから聞いてゐた、アメリカ婦人達が経営してゐる、フランス租界内にある婦人ホームに聞いてみようと電話をかけた。
 不思議に電話がかかった。
『あら。お宅の電話はかかりますのね』
 松代は不思議がってゐた。
『この辺の電話は、みんな不通なんですよ、妙ですね』
 その言葉を聞いて駿治もびっくりした。
 そこへ、河野竹次郎が入ってきた。彼は自警団の団服に、分隊長のマークをつけて。ピストルを斜に肩から腰に吊してゐた。片手には何か大きな風呂敷包を持ってゐた。
 河野は松代がゐることに気がついて怪訝さうに、松代と斎藤との二人を交る交る見つめてゐた。そして、駿治が英語で。外国人と電話にかかってゐるのを聞いて、不思議さうに電話の方も見てゐた。
 電話がすんで駿治は、ストーヴの処へ帰ってきたが、河野がそこにゐたので遠慮して、婦人ホームの問題を持出さなかった。
 三人の間には、いやないやな、沈黙が続いた。
 そこへまた河野の女房が、黒のスエターを洋服の上からひっかけて飛込んできた。彼女は、唇を噛みしめて怨めしさうな眼つきで、松代と河野との二人を睨みつけてゐた。そして河野にいった。
『あなた、お昼御飯は?』
『…………』
 河野は、怫然と色をなし、それに対して返事さへしなかった。彼は突然大きな声で駿治にいった。
『大将、長らく御厄介になりましたが、僕ちょっと考へたいことがありますので、日本へ帰ってこようと思ふんですがね。それでお店をやめさせて貰ひたいのです。自分の荷物は、かうして持って帰ります……まことに申しかねますが。日本行きの旅費と、少し余分にお金を貸して戴きたいのですが、どんなものでせうかね』
 駿治は、ストーブの火をみつめながら頭を傾けた。
『すると、君は、自分ひとりで日本に帰るつもりなんかね。細君と子供さんは。どうする考へなんだ?』
 駿治は急所を圧(おさ)へた。松代はすっかり面を伏せてしをれかへってしまった。
『女房って、あなたは、誰のことをいってらっしやるんです?』
『この人のことをいってゐるんだよ』
 駿治は、河野と反対側に立ってゐた。河野の玄房を指さした。
 その言葉を聞いて河野は、頬の筋肉を慄はせながら、野犬が吠えるやうにいった。
『あいつは、もう、私の女房ぢゃありませんよ。昨夜離縁状を渡し
ちゃったんです。あいつは私の目を盗んで、他の若い男と姦通してゐるやうな悪い女ですから……』
 そこまでいふと河野の女房は、雷が落ちるやうな声で怒鳴った。
『嘘をおつしやい! いつ私が姦通しましたか? その若い男といふのは誰です? ……ああくやしい! あなたこそこの女の所へ、毎日入りびたりに流連(いつづけ)ばかりして、妻子にはこの九月から、小遣を一銭さへ渡してくれないぢやありませんか!』
 松代は、二人の喧嘩が始まったので。たまらなくなって、そっと戸を開けて出て行ってしまった。
 また、例の日蓮宗の行者が、けたたましく、太鼓を叩いてお題目を唱へながら、大通を四馬路の方へねり歩いて行った。

颱風は呼吸する32

  ビーズ模様

 月日は、赦容なく経った。
 新公園の桜が散ってあやめが咲き、アンナの病室の窓硝子に、六月梅雨ビーズ模様を飾り、それも間もなく消え失せて炎熱の夏がきた。
 然し、アンナは少しも淋しからないで、修道尼のやうに隠棲(いんせい)を愛した。病床に横たはる日が長くなると共に、友人も日に日に殖えていった。そしてアンナの病室は国際的になった。
 そこへはアメリカ人は勿論のこと、イギリス人もくれば、支那人もくる。そしてたまには朝鮮人までが見舞ひにきた。それはアンナがいつもにこにこして、朝早くから晩おそくまで、寝てゐながら手を動かして編物を仕上げ、それを、みんなに贈物としたためでもあった。
 そして有難いことには、さうした事情を知ったアメリカの母は、彼女の結婚を正式に許してきたのみならず。小遣にせよと、お金を百ドルまで送ってきた。
 アンナの静かな感化は、斎藤駿治の商売にまで影響した。今までアメリカ人などには殆ど売れなかったものが、長江筋のアメリカ人の関係してゐるミッション・スクールの発電所から、または四川省アメリカ人の経営してゐる工場から、思ひもよらぬ註文がくるやうになった。その、またアメリカ人の言葉を信じて、フランス人が電球を註文してきた。
『愛といふものはえらいものだなア』
 遠藤光三は註文の手紙を開く度毎に、駿治とアンナの不思議な愛が、妙な処にまで影響のあることを見て感心した。
 さういふ遠藤光三も。非常に変った純情の人であった。彼の婚約者であった菅井花子が死んでから、彼女の命日には彼は必ず断食をして、水ばかり飲んでゐた。その日になると。彼の部屋には恋人の写真が飾られ、硝子のコップに花を挿して、その写真に捧げられてあった。
 また、光三の左の薬指には、菅井花子の死んだ日から、ゴム・テープが巻きつけられてゐた。お昼休みの時間でも、光三はベートーヴェンショパンの、葬送曲を多く奏した。
 音楽に多少心得のあるアンナは、その、またベートーヴェンの葬送曲が大好きで、毎日のやうにそれを繰返して聞かせてもらった。
 それを見た千鶴子は笑ひながら。アンナの部屋にはひってきていった。
『もう少し陽気になりませうよ。ねえ、遠藤さん、シューベルトのフモレスクでも弾いてあげて頂戴よ』
 さういってゐる処へ、
『号外! 号外!』
とけたたましく、腰につけた鈴を嗚らしながら、日本字新聞の号外が配達された。駿治は、その号外を拾ひ上げて読み、すぐ、アンナの部屋に上ってきた。
『遠藤君、大変なことが起ったよ。満洲は大騒動だ。日本軍がたうとう、奉天を占領したらしいね……もう、支那では商売が出来なくなるぜ。こりゃ!』
 果して、揚子江沿岸には、猛烈に抗日ボイコットが起った。そして斎藤の店もその余波を免れることは出来なかった。然しさうした窮乏の中にも、アメリカ人とフランス人がひき続き註文してくれたので、辛うじて店を開けることか出来た。

  荒地に咲く花

 日本海軍の陸戦隊が上陸した。在留日本人の自衛団が組繊せられた。北四川路を、毎日砲車が新公園の方へ引かれて行った。装甲自動車が通った。着剣した水兵が、五人、十人と、隊を組んで巡羅し始めた。
 斎藤商店の前には、戦争気分が十二分に漂うた。その混乱の真最中に、田代万吉が突然やってきた。
『えらいことになったなア、君』
 田代は、相変らず、ソフト・カラーに派手なネクタイをくっつけて、白髪まじりの髪を撫で上げながら、重っ苦しい口調でさういった。
 田代の言葉によると、彼が満洲から北京に出て、漢口に着いた時、事件が勃発し、イギリスの船に乗せてもらって、やっと、揚子江を下ってきたといふことであった。
『どうなるかちょっと見当がつかんなア。君、僕の考へでは支那と仲好くした方がいいやうに思ふけれどなア。人にはそれぞれ意見がちって違った見方もするから、わしらのやうな東洋の事情に暗い者にはわからぬけれども、兎に角えらいことになったなア』
 そんな話から田代万吉は、共産党が、長江一帯に大勢力を得たこと、そして支那はつひに共産化する運命にあることを、斎藤に力説した。
『○○人が多数支那共産軍の中にはひって、指揮してゐるさうだ
なア。この間、大冶鉄山にやってきた共産軍の中には、日本の女が参謀としてついてきたさうだ。なんでも、その女はもと上海ダンサーをしてゐたとか、いってゐたよ。とても美人だってね。なかなか日本の女も勇気があるね』
 田代は千鶴子の汲んできた紅茶をすすりながら、そんな噂話をした。それを聞いた駿治は。すぐ、それは遠藤幸子のことに違ひないと思った。然し、彼は彼女との関係を田代に話しすることが面倒くさかったので、黙って話を聞き続けた。
『……長沙で暴れてゐる共産党首領は○○人だってね。とても農民の信望を集めてゐるさうな……さうさう、その男のことを君が知ってゐるかも知れぬといって、漢口の日清汽船の支店長が、いってゐたよ。先方では君をよく知つてゐるさうな』
 田代が、あまり突飛なことをいひ出すので、斎藤はびっくりした。
『なに? 共産党首領が僕を知ってる?』
 田代はポケットから手帳を出して、あちらこちらとペーヂを繰った。
『君は太田友蔵といふ男を知らんか? もと蔵前の高工にゐた男ださうな』
『そら、知ってゐますよ。その男は、私と一緒に関東電機に勤めてゐたことかあったんです。その男がどうしたんです?』
『それが君、今、長沙の共産軍の首領をしてゐるんださうな』
 その言葉を闘いて駿治はたまげてしまった。
『へえ! 太田が、支那の共賊軍首領になってゐますかなア。世の中は変れば変るものですなア、あいつは淫蕩な男で、そんな元気は無いと思ってゐましたがなア。然し、共産党は女を何人持ってもいいんだから、そりゃその男には持ってこいだらう、あははは』
 そんな話をしてゐる処へ、支那服を着た立派な紳士がやってきた。それは。誰であらう? 今、噂してゐた太田友蔵その人であった。
『噂をすれば影とやら、今、君の噂をしてゐた処だったんだよ!』
と、駿治は、まづ太田の方へ手を伸ばして、彼に握手を求めた。

  木枯

 太田が上海にやってきた最大の目的は、武器を日本から密輸入したいといふためであった。彼はその密輸入を、斎藤にやってくれないかと依頼にきたのであった。
『金はいくらでも出すから。君、少し尽力してくれ給へよ。こんなどさくさの最中に儲けなければ、いつ儲けるんぢゃ、君』
 さういったけれども、斎藤は頭を左右に振って、『うム』といはなかった。
 太田は、思ひ出したやうにいった。
『実はね、君、白状するがね、かういふ智慧は、もと君の店に働いてゐたといふ女から授かってきたんだよ。さうさう、僕は、その女からのことづけを君に話すことを忘れてゐた。えらう、その女は君に謝罪してゐたよ』
 さういふと、彼は内懐から外国銀行の小切手を取出した。
『君。斎藤君、この金はね、遠藤幸子女史から、預ってきたんだよ。なんでも、この正月とかに。君に、迷惑をかけたことがあったさうだなア。その弁償にこれをあげてくれといふことだったよ。今でも、君、遠藤女史はとても君を慕ってゐるよ。実はね、或る人がね、あの人に結婚を申込んだんだよ。すると即座にはねつけられて赤恥をかきよったんだよ』
 駿治が、その外国小切手を受取って見ると、米貨で五百ドルと書いてあった。
 電話がかかった。それは、南昌に送った五千円ばかりの電動機を、共産軍に掠奪せられたといふことを、女子青年会の外人が知らせてきたのであった。
 その電話にがっかりした駿治は、席に帰って太田にいった。
『困ったことが出来たよ、君どうかしてくれんか。南昌に送ったうちの電動機を、共産軍が持って行ってしまったさうな』
『そりゃ、どうもならんよ。君。それが、みな共産軍の兵糧になるんだからなア』
 表を、重々しい装甲自動車が、恐ろしい物音を立てて走って行った。それを顧みて太田友蔵は笑ひながらいった。
『おい、斎藤君、ああいふ奴を二、三台、どこかで手に入れてくれんか。君。さうすりゃ、長江一帯をすぐ席巻してみせるがなア。あはははは』
 そこへまた、表から、紺サージの洋服を着た陳栄芳が、人力車でかけつけてきた。
 彼ははひってくるなり、すぐ斎藤に向って大声でいった。
『遠藤幸子さんのお兄さんは居られませんか?』
 黙々と帳簿の整理をしてゐた遠藤光三が、すぐ机の蔭から出てきた。
『陳さん、今日は。なにか、御用ですか?』
 陳は、黙って一通の支那文で書いた電報を光三に示しながら、声を落していった。
『これは間違ひないと思ひますがね、これがほんとだとすると、お気の毒なことです。あなたのお妹さんは、官軍につかまってすぐ銃殺されたといふことを、私に知らしてきたんです』
 光三の顔は忽ち曇った。彼はさもたまらなささうに。二つの眼瞼(まぐた)を伏せて、陳に顔を見られないやうに俯向いてしまった。
 それを聞いて、第一にびっくりしたのは太田友蔵であった。
 『えツ? 僕は、一週間前に武昌で会ったんだがなア。さうですかね。どこでやられたんだらう?………いや、我々は、まるで、草の葉の露のやうなものだ。俺の命も、いつどこでどうなることかなア』
 さういふなり太田友蔵は、挨拶もしないで店を出て行ってしまった。表にはものすごく木枯が、猛りに猛って荒れ狂ってゐた。

  混乱

 妹が銃殺されたと聞いた遠藤光三は、恰もその日が、彼の恋人の命日にあたってゐたので、朝から断食をして何も食ってゐなかったが、瓢然と帽子も被らないで家を出て行ってしまった。
 河野竹次郎が帰ってきて、支那人街の抗日気分を詳かに駿治に報告した。
『こりゃ、困ったことになりましたなア。もう、店を畳んで内地に引揚げた方が、一番よいかも知れませんぜ』
 その店の前を。相変らず白装束日蓮宗行者の一団が、物狂はしく団扇太鼓をたたき、吼え立てるやうにお題目を唱へながら、大通を新公園の方へ歩いて行った。
『城内では、あの人達をとても怖れてゐますなア。支那人は、白頭巾に、白衣姿の行者は呪ひをする魔術使ひとして、非常にこはがってゐるんですからなア。こんな時には、ねり歩くことを止した方がいいんですがね。領事館にいって止めさしたらどうでせう』
 また装甲自動車が、すさまじい音を立てて通過する。
 台所から、鼻をくすくすいはせながら出てきた千鶴子は、装甲自動車に目をとめて河野竹次郎にいうた。
『いよいよ。上海でも戦争が始まるのかいな。もう、電話も今日は半分以上通じなくなったのね。支那の交換手が意地悪してゐるらしいわね』
 それに対して。河野は、
『早川さんこの辺はまだいい方ですよ。日本人倶楽部のあたりは、もう殆ど一度だってかからんさうです。支那の交換手が怒っちゃって、つながんらしいですなア。日本からきた汽船も、荷揚げか出来ないので、そのまま帰ってゐますよ』
 そんな話をしてゐる処へ、カーキ色の運動服を着た自警団員が、銃を持って店にはひってきた。
支那人が、日本租界を焼打ちしようといふ噂がありますから、みな警戒して下さい。自警団員が足りませんから、今夜から、男子は全部、交替で夜警に出て下さい。ここには男子の方が何名ゐますか?』
 彼は銃をテーブルにもたせかけて、手帳に店で働いてゐる男子の名前を記した。
『夜警の事務所には、その日その日の当番の名が出ますから、一々いってこなくても、必ず当番に当った者は、出て下さいよ』
 さういって。自警団の男は帰って行ってしまった。
 また号外が出た。それは北満に於ける、戦況を報じたものであった。一旦、表に出てゐた田代万吉が帰ってきた。
『こりゃ、益々形勢が悪いぞ、早く日本に帰らんと。汽船が無くなるかも知れんから、僕はもう失敬するよ』
 さういって、彼はすぐ帰って行った。
 長江筋から引揚げてきた人々が、次から次に訪問してくる。漢口で斎藤商店の品物を扱ってゐた、鈴本といふ店の一家族も引揚げてきた。そして旅館が満員だといふので、日本に帰るまで寝させてくれ、と申込んだ。
 すると一時間も経たないうちに、長沙(チャンシャ)の雑貨商が、これまた一家眷属七人を連れて、斎藤の所に頼ってきた。自分も嘗て泊る所がなくて困ったことのある放治は、千鶴子の部屋をあけて貰って、その二家族を一先づそこに入れた。

颱風は呼吸する31


  狂風怒濤

『あなたは、この女を娶り、病める時も、苦しめる時も、あなたの妻として愛しますか?』
 米山牧師は、厳粛に、斎藤駿治に尋ねた。今、アンナの病室で、二人の結婚式が挙げられてゐるのだ。アンナは、病床に横たはったまま、その左の手を伸ばした。そして駿治は、その右の手を伸ばして、堅い握手を牧師の祝福のもとに交した。
 そこに立会った者は。千鶴子と、遠藤光三と、河野竹次郎夫妻、並びに上海キリスト教女子青年会アメリカ婦人三名であった。幸子は、この二、三日店にさへ顔を見せないで。行方を晦ましてゐた。
 式が済んでみんなが解散した後、駿治は日本領事館へ結婚届を持って行った。すると書記生の一人が、妙な顔をして彼の顔を覗き込んだ。
『あなたは、斎藤電機商会の御主人でしたね? お家に遠藤幸子といふ女が居りましたか?』
 突飛な質問に駿治は面くらった。
『ええ、現在居りますよ』
『この二、三日、お店に出てきますか?』
『いや、出てきませんがね』
『その女はもとダンサーでしたでせう?』
『ええ、さうです』
『あの女は三日前から、支那の官憲に共産党員としてつかまってゐるんですがね、あなたの方でお引取りになりますか? お引取りになるんでしたら。領事館の方でも尽力しますがね。放っておくとすぐ銃殺されてしまひます。あなたがあの女を他所へ出さない。といふ約束をなさるのなら、私がこれからあなたについて行って、もらってきてあげませう』
 駿治は書記生の好意を感謝した。届けもそこそこにすまして、すぐ領事館自動車に宗せてもらって、上海で一番賑かな、四馬路の讐察署へ飛んで行った。
 大きな、背の高い巡査は、上司の命令通りすぐ遠藤幸子を、署長の前に引出した。署長は書記生に尋ねた。
『この女ですか?』
 斎藤駿治は明確に答へた。
『この女に違ひありません』
『再び共産党の間に加はって煽動すると、この次は銃殺しますからね。この女に、もう、民国の共産党員に交らないやうに、よくいひ聞かせて下さい』
 斎藤駿治は、英語ではっきり答へた。
『必ず、さうさせます。どうかこの度は、これで赦してやって下さい。きっとこれから注意させますから』
 その答へを聞いて、大きな椅子に凭りかかってゐた署長は、指で幸子を連れて行ってもよい、と合図をした。然し、幸子は領事館の書記生を目の前に置いて。存外平気で日本語でこんなことをいひ放った。
『今に、あのわからずやの署長を銃殺してやるから……』
 その声はいかにも怒気を含んでゐた。そして、再び領事館へ帰って行く途中でも、彼女は何度自動車の扉を開いて、飛下りようとしたか知れなかった。
 彼女には、夏前のやうなおどけなさが全く失はれてゐた。瞳は据わり脣の隅は下に垂れ、すべての人に食ってかかった。駿治が、
『少し店に引籠って、おとなしくしてくれない?』
 といふと、彼女は俯向いたまま答へた。
『私は殺されても、あなたの家なんかに帰りませんよ。あなたはブルジョアの番犬ぢゃありませんか!』
 さういって彼女は、断髪にした髪の毛を耳の後へ撫でっけた。

  兄と妹

『幸子さん。あなたは、もう少し気を落着かせることは出来ないの? あなたは、近頃男のやうになってしまったのね。言葉遣ひは荒くなるわ、断髪はするわ……そんなにしたければ、もう一つついでに男の洋服を着てはどう?』
 電話で事情を知った千鶴子は、領事館まで駆けつけ、すぐたしなめるやうにさういった。
『ええ、男装もしますよ、必要があれば、私は、その日のために、生れてきたんだから。見(みえ)も人の非難もみんな蹂躙するんです』
 さうはいったものの、彼女はやはり千鶴子の親切にほだされて一先づ、北四川路の斎藤の店まで帰ることになった。
 然し、幸子は店に着くと直ちに、流暢な支那語で陳栄芳に電話をかけた。すると、すぐ陳栄芳初め、五、六人の者が斎藤の家へ押しかけてきた。
 幸子は。駿治のいつも寝てゐる、二階の一番広い部屋を占領して、そこでシガレットを煉らせながら。何かひそひそと計画をめぐらしてゐるらしかった。
 それを千鶴子は二階から下りてきて。事務をとってゐた斎藤にいった。
『あんなに変るもんですかね。あのやさし娘が、まるで夜叉のやうに威張りちらしてるぢゃないの』
 さういうて、彼女は幸子が威張ってゐる真似をして見せた。
『まあ、それでもうちに居てくれるなら。銃殺されないで済むか
ら。出歩かれるよりずっと安心だわ』
 と千鶴子がいってゐる処へ、領事館の高等刑事がはひってきた。
支那共産党の連中が、大勢集まってきたやうですなア。陣栄芳もきましたか?』
 その刑事の質問に対して、千鶴子は要領を得ない返事をした。
『陳さんってどんな人です?』
『あの医者ですよ。あの男は、日本にも留学して居たことのある。なかなか秀才ですがね。上海プロレタリア芸術家の仲間では、まづ第一人者でせうね……然し、遠藤幸子もあまり無茶をやりよると、領事館から退去命令が出て、上海にはもう居れなくなるがなア』
 刑事が、そんなことをいってゐる処へ、結婚式が済んでからフランス租界の家庭まで個人教授に行ってゐた、人の好い音楽家の遠藤光三が帰ってきた。
『遠藤さん、さあちゃんは仕方がないのよ。あなたは少しも知らないでせうが、今の先まで四馬路の支那の警察に検東されてゐたんですよ』
 光三は、黙って、千鶴子のいふことを聞いてゐた。
『…………』
 千鶴子は、なほも言葉を続けた。
『この方は、領事館の高等刑事の方ですがね、さあちゃんが転向しなければ、領事館の方で退去命令を出すかも知れないと、いっていらっしやるんですよ』
 さういったけれども、彼は何も答へなかった。また相も変らず同じ机に向いて。こつこつと簿記帳を繰り始めた。
 そこへ、遠藤光三に宛てて、一通の電報が配達せられた。それによって、彼と長く婚約してゐた、神奈川県の高等女学校に奉職してゐた女教員、菅井花子が永眠したといふことがわかった。
『あなたに許婚者があったんですか。この人は、ヴァイオリンばかり弾いてゐて、何も人にいはないもんだから。ちっとも事情がわからないわ……改めておくやみいひませうね、ほんとにお気の毒でしたわね』
 千鶴子がおくやみをいふと、光三は、静かにハンカチで眼を拭きながら。表に出て行ってしまった。

  静かなる影

 そんなことでごたごたしてゐるうちに、その年は過ぎてしまった。駿治は儲けた金を、殆ど全部。アンナの入院料に支払ってしまひ、その年は辛うじて早川千鶴子の出資金に対して、六朱の利子が払へた。
 然し今日まで相当に苦しんできた駿治は、まだ千鶴子に対して利息が払へただけ、うれしかった。
 一月五日の朝七百二十円の小切手を。彼が笑ひながら千鶴子に手波すと、彼女はそれをぽいと彼の机の上に投出していった。
『要りませんよ、こんなお金なんか。私は、利息をもらはうと思って、店に出資してゐるのと違ひますよ。ただ、皆仲好くして、その日その日の糧に困らなければいいぢゃないですか』
 彼女はどうしても、その金を受取らうとはしなかった。
 それを台所で聞いてゐた幸子は、つかっかと店に出てきてその小切手をつかんだ。
『お姉さん、そんなに要らなきや。私、貰っときますわ』
 さういって、外套も着ないで表に飛出してしまった。それを兄の光三が追駆けたけれども、つかまへることは出来なかった。
『仕方がないね、はんたうに、さあちゃんには困ってしまふわね』
 千鶴子がさういふと、
共産党資金に要るんでせうよ。よほど、あの子は、共産党に深入りしてゐますからね』
 と、斎藤は半泣きになっていった。
 その日、光三は平身低頭して二人に謝罪した。
『どうか私の月給から、毎月三十円なり四十円なり、引きさって下さって、弁償させて頂きませう』
 然し、斎藤も失恋した時の狂的態度を、自らも経験したことがあるので、幸子には充分同情出来た。
『いや、君が悪いんぢゃないんだから、そんなにしなくてもいいですよ』
 その翌日駿治は、アンナを日本人病院から退院させて、みんなと同居させることにした。それは、金が無くなったのも一つの理由だったが、親切な千鶴子が自ら看護するといひ出したためでもあった。
 店の二階に帰ってきたアンナは、いつも輝いた顔をしてゐた。半身不随であったけれども両手を動かすことか出来たので、彼女は寝たまま駿治のために、スエターを編んだり靴下を編んで、少しも休むといふことをしなかった。
 そして、千鶴子は。また姉妹も及ばぬやうな親切さを示して、アンナの屎尿の世話から入浴の世話までした。アンナはそれを非常に喜んで、
『あなたは天の使ね』
と、千鶴子に顔を合はせるたびに繰返した。
 駿治も、どこから千鶴子のやうに親切な無私の愛が生れてくるのかと、不思議に思ふほどであった。
 新年になっても、商況は非常に悪かった。けれども家の中にはいつも春風が吹いて、これ以上の幸福はない、と感謝されるほどであった。
『あなたは、やはりいい人と結婚したのね。アンナさんのやうな立派な婦人も、ちよっとないわ。あれだけ不自由してゐても腹一つ立てないんだから、全くアンナさんは聖人よ。私はアンナさんに接近するごとに清められるやうな気がするわ。えらい人は寝てゐても人を感化する力があるものね』
 千鶴子は、さういってアンナの優しい心を讃芙した。

颱風は呼吸する30

  長い睫

 その混乱の中に。アンナは、上海に着いた。駿治は勿論、千鶴子も、河野夫妻も彼女を埠頭に出迎へた。
 税関に下りてきたアンナは、赤ん坊のやうな皮膚をして。長い睫(まつげ)のついた眼瞼をぱちくりさせてゐた。数箇月前にくらべて非常に健康さうに見えた。
 彼女は、よほど駿治に会ふことが出来たのかうれしかったと見えて、人目も憚らず飛附いてきて、駿治の頬ぺたに接吻した。
 それで、駿治はアンナと一緒に、北四川路の店に引返さうとしたが、彼女はどうしても、キリスト教女子青年会の寄宿舎に行くといって、きかなかった。
 アンナの性質を知ってゐる駿治は。決してそれに反対しなかった。彼女は教会で正式に結婚するまで、駿治と同じ家に住みたくないといふ意見を、持ってゐたのであった。
『西洋の人はかたいわね』
 アメリカの事情に通じてゐる千鶴子は、河野竹次郎を顧みてさういうた。
『しかし感心な人ね、態々恋人を慕うて、遠いアメリカからやってくるなど。よほど斎藤さんを愛してゐないと出来ませんね。斎藤さんも、アメリカではずゐぶん道楽せられたさうですが、あの娘さんは斎藤さんのどこかえらい処を、見附けてゐるとみえますなア』
 河野は千鶴子にさう答へた。
 駿治はアンナの荷物を税関吏に検査してもらはうと。忙しくしてゐた。
 税関がすんでアンナは、すぐ駿治と二人で女子青年会を訪ねて、そこの寄宿舎にはひった。そして、結婚しても、どこかの商店のタイピストに出ると、彼女は意気込んでゐた。
 アンナは、東洋にきたことを非常に喜んでゐた。そして上海にきたことを、生涯の幸福の一つに数へてゐた。彼女は、日曜学校の先生の感化を多分に受けたと見えて、支那人宗教の宣伝の出来ることを楽しみにしてゐた。彼女は支那宣教師になってきたっもりでゐるらしかった。
 駿治としても、アンナの高潔な志を知ってゐたので、彼女のいふことに一々賛成した。そして、二、三日のうちに、二人で牧師の処に行って。教会の結婚の司式をしてもらふ手筈をきめた。
 そして。駿治は女子青年会の寄宿舎を出て、真直に自分の家に帰ったが、家に着くとすぐ、女子青年会から電話がかがってきて。アンナが怪我したからすぐきてくれ、といふ知らせがあった。
 びっくりした駿治はタクシーを飛ばして、フランス租界に近い女子青年会の寄宿舎へ飛んで行った。そして、彼女の寝室になってゐる三階の部屋まで、狭い廻転式階段を上って行った。
 これは驚いた! 一時間前のアンナの元気はどこへか行ってしまって、彼女は物もいはないで。ベッドの中で苦痛を訴へ寝返りばかりしてゐた。
 部屋まで案内してくれた、アメリカ婦人の言葉によると、アンナは、階段から墜落して、負傷したといふことであった。三階の自分の部屋から。階下に下りようとしたアンナは、廻転式になってゐる階段を下りる際、足を辷(すべ)らして脊椎をしたたか撲ったらしく、そのまま物がいへなくなったのであった。
 要領のいい駿治は。すぐ幸子の入院してゐる日本人病院に、電話をかけて一等室をあけさせて。その病院の寝台附の自動車で、アンナを入院させた。

  複数の世界

 駿治は、苦しがるアンナを背負うて、険しい廻転式の狭い階段を階下に下りた。そして彼もまたもう少しのところで、アンナを背負うたままたり落ちさうになった。
 アンナは、全然、物をいはない。ただ、苦しむばかりで。両足は全く、庫れてゐるらしかった。病院に着いて、モルヒネを注射してから、少し楽になったらしく、彼女は、すやすや眠り出した。
 千鶴子も、河野夫妻も驚いて。病院に飛んできた。
『縁起が悪いわね。これが、結婚式を挙げて後でもあれば、またといふこともあるけれど、花嫁さんがアメリカから着いて、まだ結婚式も挙げないうちに、こんな大怪我をせられたんぢゃ、たまらないわね。……二階から落ちただけで、あんなに、ひどい怪我をするものでせうかね』
 千鶴子は、幸子の部屋にはひってきた、駿治の顔を見るなりさういうた。
『お怪我が。軽ければいいですがね』
 河野の細君は、眉をひそめて彼に見舞ひをいった。
 寝てゐる幸子も。非常に心配してゐた。
『ほんとにお気の毒でしたわわ。早く治していい花嫁さんにしてあげたいわ』
 熱が全くひいて。もうあと二、三日で退院出来るといふ幸子は、ベットの中でさういった。
 それを聞いた河野は、苦笑しながら幸子を冷かした。
『さあちゃんはそんなことをいふけれども。アンナさんが死んでしまって、斎藤さんがあんたと、結婚してくれるやうになれば、それが一番いいんだらうなア。うふふふふ』
『河野さんひどいわ! あなたは、私がそんな悪い女だと思っていらっしゃるの? 私だって、恋人を人に譲るくらゐの元気は持ってゐますよ』
 さういって幸子は、自分の顔をシーツで隠した。河野の細君は、すぐ、幸子の手を両手で握った。
『えらい、えらい。ほんとに幸子さんはえらいわ。今いった気持を忘れないでいらっしゃいよ。あなたは、斎藤さんが西洋人と結婚する、と発表したそのロから、やれ頭が痛いとか、やれ風邪をひいたとか、いって、自暴気味になってゐたんぢゃないの。あなたが苦力の長屋にはひったのも失恋した腹いせに行ったんでせう? ちゃんと見とほして知ってんのよ。私にみんな白状してしまひなさいよ。白状すれば斎藤さんはあなたと、結婚してくれるかも知れないわよ』
 斎藤は、河野の細君のいふことを聞くいてゐて、くすくす笑ひ出した。
『無茶をいっちゃあいかんぜ。僕とアンナとはもう完全に夫婦なんだから。今更、第二の女と結婚するなんぞ、僕には出来やしないよ』
 河野はそれを聞いて、幸子に同情してゐるらしく。眼を細くして真面目になっていった。
『私だったら、日本の女と結婚しますなア。アンナさんも、えらいかも知れんけれども、さあちゃんだって、あなたに尽してきてゐるんですからね』

  死骸との結婚

 アンナの傷は不治的であった。入院二箇月の後、医者はたうとう彼女の下肢の麻痺は、一生とれないかも知れないといひ出した。
 それでアンナも諦めたと見えて、ベッドに寝たまま。アメリカに帰る旅費をくれ、もう結婚しないで帰るからといひ出した。然し駿治は彼女にいった。
『アンナ。僕はもう結婚式をこの部屋で、挙げることにきめてゐるんだよ。日本人教会の米山さんに頼んで、いつでも、式が出来るやうになってゐるんだよ。あなたが承諾してくれさへすれば、私はあなたを連れて、一生幸福な家庭を作りたいと思ってゐるんだ』
『一生幸福な家庭? シュンジ、不具な女を妻にして、どうして、幸福に送れるものですか。もう私に早く諦めをつけて、あなたは日本の美しいお嬢さんと結婚して下さい。ねえ、お頼みだから』
 アンナは。ハンカチを眼のところに持っていった。
『諦める? アンナ、あなたは、僕がどん底まで阻落してゐた時にも、僕に諦めをつけなかったぢゃないかね。そして太平洋を越えて、上海までやってきてくれたぢゃないの。僕は、今あなたが病気にかかったからといって諦めることなんか出来ないよ。僕は。あなたが僕に諦めをつけなかったから、僕も決してあなたに諦めをつけないんだよ』
 さういった時、駿治も泣いてゐた。
『しかし、シュンジ、二人の結婚は神様のみこころに適はないのかも知れないわね。だって、アメリカで結婚しようとしてゐるといろいろ迫害が起るし、支那で結婚しようと思ふと私が怪我したでせう。今、私があなたと結婚したとしても、一生、あなたの足手纏ひになるだけのことですからね、いっそ、私はあの時脳でも打って、死んでしまへばよかったわわ』
『アンナ、なにをいふの、あなたは。純潔な愛が、なぜ神さまのみこころに適はないっていふことがあるの。僕のやうな値打のない者を徹底的に愛してくれた女を、病気したからといって国に帰らせることなんか、僕には出来やしないよ。……ねえ、お願ひだから。この部屋で結婚式を挙げさせて下さいよ』
『半身不随の私と?』
『ええ』
『まるで、死骸と結婚するやうなものぢゃないの』
『いいよ、あなたでありさへすればいいの。それが、死骸であらうと、半身不随であらうと……』
 アソナは大声をあげて。駿治の頸を抱き締めながら激しく激しく泣きいった。
『シュンジ、然し。それはあなたには、幸福ぢゃないわよ……その上、私もお母さんにも叛き、兄弟の反対も押切って、太平洋を渡ってきたんだから、今更、怪我をしたからといって国へ帰っても、誰も世話してくれる人はないわ。私に一番いいことは自殺することだわ。シュンジ、自殺することは罪悪でせうか?』
 駿治は彼のハンカチを、ポケットから抜き出して、アンナの顔中の涙を拭きとった。そしていった。
『アンナ、私がね、あなたと結婚しようといふのは。あなたの身体と結婚しようといふのぢゃないのよ。あなたが居なければとっくの昔に死んでゐた私なんだ。その。あなたの潔い愛が私を蘇生させてくれたんだよ。その、あなたの魂に惚れきってゐるんだよ。その潔い魂と私が結婚することはなぜ出来ないのかねえ?』
 さう駿治がいった時、アソナは深く頷いた。

颱風は呼吸する29

  失恋

『まあ幸子さん、今頃までどこへ行ってゐたの?』
 幸子の姿を見るなり、千鶴子は甲高い声でさういった。彼女が晩の十二時過ぎになっても帰ってこないので、千鶴子は表の床几に腰をかけてひとり淋しく、幸子の帰ってくるのを待ってゐた。
『私? 内外紡績の裏手の苦力の長屋へ行ってたんですの。あすこを通りかかったら、たしかコレラ病患者でせう。突然、私の前で吐瀉(としゃ)をし始めたものですからね、医者を呼んできて世話をしてあげてゐ
たんですの。あの辺はずゐぶんひどいのね。私、あまり可哀さうだから、あそこに住込んで世話してあげたいと、思ったりなどしてるんですよ』
 幸子は、失恋した痛手をかくすために、わざと平気な顔をしてさういった。
『さう! そりゃあなた、いいことをしてきたのね。しかし、コレラの人を世話してきたのなら、消毒しなくちやいけないから、その着物をお脱ぎなさいよ。すぐお湯をわかして消毒しませう……しかし、あなたも、ずゐぶん冒険好きね』
 さういひながら千鶴子は、幸子の浴衣を取りにはひった。
 もう一時過ぎであったので。通には人の姿は見えなかった。ただ、近頃支那人街で非常に厭がられてゐる、白衣姿の日蓮宗の行者が真夜中であるに拘らず団扇太鼓を叩いてお題目を唱へながら、過ぎ去って行く声が聞こえるのみであった。
『まあ、今頃、あんなに大騒ぎして、大きな声で、お題目を唱へてゆくのね。あれぢゃあ支那人が怒るのもあたり前だわ。ね、……』
 千鶴子は、まづ、幸子のドレスを脱がせ、肌着の上に浴衣を着せてやりながらさういった。
『お姉様(幸子は千鶴子を、いつもかう呼んでゐた)今日、私の行った処は、可哀さうにモルヒネ患者ばかりなんですよ。私はね、この前上海にゐた時、ヘロイン中毒で、ずゐぶん困ったものですから、支那モルヒネ患者に、ほんとに心から同情するんですの。どうかしてあげたいわ』
 浴衣に着替へた幸子はさういひながら、台所へはひって消毒薬のはひった、バケツを表に持ち出した。そしてコレラ病患者に接近したドレスを、バケツの中に放り込んだ。
 再び、幸子が店にはひってきた時、入口の錠を下ろしながら千鶴子は、幸子を顧みていった。
『あなた。失望したの?』
失望って、なあに?』
失望っていへば、失望よ。斎藤さんに西洋人のお嫁さんがくるこ
とを聞いて、あなたは少しがっかりしてるのね』
 今まで隠してゐた幸子は、急所を突かれだのではっと顔色を変へて、広い袂を自分の顔に持っていった。然し、彼女はそれを払ひのけて、元気よく千鶴子にいった。
『私のやうな汚れた者は、斎藤さんと結婚する資格なんかありゃしませんわ。ですから私は、初めから諦めてゐたんですの』
 二階の寝室の方へ階段を上りながら、千鶴子はまたいった。
『また、いいこともありますよ。あまりがっかりしないでおきなさいよ』
『だけれど。私はもう結婚しようなどといふ意志はありませんわ。だって……』
 二階へ上りかけた千鶴子は、また台所へとって返して、瓦斯で湯を沸かし始めた。
『あなたの肌着もおぬぎなさいよ、それも熱湯で消毒しませうよ』

  心境の変化

 きかぬ気の幸子は、だうとう内外紡績の裏手にあたる苦力長屋に、住み込むことになった。彼女は服装まで支那服に着替へ、そこから、二十四、五丁も離れた、北四川路の店まで毎朝通ってきた。
 彼女の心境の変化が、何に原因してゐたかをよく知ってゐた斎藤駿治は、彼女に心から同情した。然し、いくら彼女が失恋しても他にとるべき方法もないので、千鶴子に頼んで、彼女があまり極端な行為に出ないやうに、忠告した。
 兄の光三は、幸子が左翼にでも走らなければよいが、と心配してゐた。
『大丈夫よ、幸子さんはそんな人と違ふわ』
 千鶴子はさういって弁護した。
 明日、アンナが上海に着くといふ前の日であった。幸子が昨日から激しい下痢にやられて倒れてゐると、苦力の一人が知らせてきたので、駿治は千鶴子と二人で幸子の処へ自動車を飛ばせた。そして駿治も千鶴子も、支那の苦力街の悲惨な状態を見て、全くびっくりしてしまった。
 十幾棟と立並んだ石造の長屋は、大きな石塀の裏に、隠れてゐたので、外を通る者には少しもわからないけれども、一旦、長屋の内部にはひるとその汚いことは、言葉に尽すことか出来なかった。
 水道の処まで共同便所の汚物が溢れ出てゐる。その側に豚が寝てゐる。幾十万となく金色をした蝿が群れ飛んでゐる。そのなかを苦力の子供が裸体で走り廻ってゐる。日蔭には地獄の餓鬼のやうな姿をして、モルヒネ患者が四、五人、折重なって寝てゐる。枕にすがった年寄の乞食が、この貧民窟をまた一軒、一軒這ひ歩いてゐた。駿治と千鶴子が洋服を着てゐたので、子供等はすぐ二、三十人集まってきた。そして。何かしきりに口汚なく罵ってゐる様子だった。彼等は幸子の借りてゐる家の戸口までついてきた。
 幸子の借りてゐる家といふのは戸がなくて。幸子は、地べたの上に竹の寝台を置いたまま、顔の処だけを風呂敷でかくして横臥してゐた。それは全く想像以上なので、駿治はたまげてしまった。
『よくまあ辛抱してるね』
 彼はさう大声で叫んだ。
 子供等は遠慮会釈もあったもんぢゃない。二人の客が家にはひるなり、すぐ幸子の家へついてはひった。そして、
倭人ウォンレン)の馬鹿野郎』
 を繰返した。
『うるさいね、この人たちは! どうしてこんなに、しつこく私たちにつき纏ふんだらうね。幸子さん、この子供等は何をいってるの』
 子供等があまり喧しいので、千鶴子は病人に見舞ひをいふよりさきに、子供等の叫んでゐる言葉の意味を幸子に尋ねた。
『ああ、あの今いってること? 日本人の馬鹿っていってるんですよ。支那では、苦力の間にまで排日が徹底してゐますからね。日本租界でこそ日本人排斥の言葉をあまり聞かないけれども、租界から一歩踏み出すとこの通りなんですの』
『しかし、あなたには悪口をいひませんか?』
『いいえ。少しも。私を支那人だと思ってゐるのでせう、きっと広東(カントン)人くらゐに思ってるんでせう。広東人も上海語は出来ないから』
『さうですか』
 駿治は今更ながら、支那に於ける排日の真相に徹底したやうな気がした。

  長屋の人々

下痢は止まった?』
 駿泊は、案じながら、幸子に尋ねた。
『少しは楽になったやうですわ。しかし便所が遠いですからね、ほんとに弱ってしまひますわ』
 さういってゐる所へ、支那の青年が二人はひってきた。そして、
『医者、すぐ、くるよ』
と、下手糞な目本語でいった。
 それで、千鶴子は汚い処を少し片附けてゐた。五分も経たぬうちに医者がはひってきた。その医者といふのも支那人で、背の高い立派な紳士であった。
 駿治が英語で、
『サンキュ、サンキュ』
 と繰返すと、医者は流暢な英語で挨拶をした。そして丁寧に名刺を出して駿治に渡した。
 名刺には陳栄芳と書いてあった。その名で思ひ出しだのは。彼が上海に於ける左翼文壇の第一人者であるといふことであった。で。彼は喜んで貧民窟に接近してくるのだ、といふことがわかった。
 陳栄芳は、丁寧に診察してすぐ帰って行ってしまった。あとに残った二人の民国の青年は支那語で、
『すぐ、なほるよ』
 と幸子にいった。そして、
『薬を貰ひに行ってくるから、バス代をくれ』
 と続けていってゐた。千鶴子はすぐそれと察して、二人に大洋(ターヤン)を一元づつ渡した。二人の青年は微笑しながら出て行った。二人を見送った幸子は干鶴子にいうた。

2014-12-20

颱風は呼吸する25

  病床

 病床のシーツは白かった。絨毯は紺色に染めてあった。壁は卵色で、ベッドの頭の擬宝珠は金色に光ってゐた。
 走り廻ってゐるうちは、アメリカがよいとは少しも思はなかった。なんだかせかせかして気持か悪かった。然し病床に落着いてみると、アメリカといふ処が、馬鹿にいい処だとわかった。
 無口だけれども、看護婦は非常に親切だし、医者の間には、人種的偏見があるやうに見えなかった。
アメリカ人は、健全なものを排斥して、病人は歓迎するんだな。令く偽善者だなア。病人にかう親切にしてくれなくとも、健全な時に、可愛がってくれた方がいいんだがなア』
 駿治は、そんなことを考へた。
 翌日、早朝、見舞ひにきてくれた男は、田代万吉であった。
『わしは仕事がないし。当分の間遊んでゐるからね。少し世話さして貰ふよ』
 カーキー色の、折襟のシャツに黒のネクタイをつけた、細眼の田代はさういひながら椅子に腰を下ろした。
 それから、彼は、便器の世話から、食事の心配まで、細かい処に注意してくれた。その親切な態度に恐れ入った斎藤駿治は、頸から上だけが自由になるので、首を上下に振って、心からの感謝を彼に献げた。
 その日の夕方、橋本ホテルの女将が、アンナをつれて病室にはひってきた。
『新聞を見てびっくりしましたわ、よくまあ、あなた、助かりましたね、西村さんは、たうとういけなかったんですってね、小池さんが居れば、くるんでせうが、ロサンゼルスヘ、一昨日行ってしまったんでね、私はアンナさんと二人でやってきましたのよ』
 橋本の女将が挨拶してゐる間、アンナは遠慮して傍に静かに立ってゐた。
 彼女は、パラフィン紙で包んだ小さい花束を持ってゐた。
 橋本の女将が、数歩後へ退いたので、アンナはその花束を駿治に見せて、微笑しながら小さい声でいった。
『あなたが、ここに入院していらっしゃることを、ミセス橋本から知らせて載くまで、知らなかったんですの。……すぐによくなるわね』
 さういって、彼女の白い右の手を差伸ばして、彼の頬ぺたを撫で、その上に軽い接吻をした。
(この女は、余程変った女だな、まだついてきてゐる。日本人を劣等人種だと思ってゐないんかなア。恋愛のために盲目になってるんだらうか? お母さんに勘当されるだらうなア、きっと)
 接吻を受けた瞬間に、駿治はさう思った。アンナは続けてこんな事をいった。
『あなたは、こんどはほんとにいい子になるでせうね』
 さう訊かれた駿治は、沈黙したまま力をこめて首を上下に振った。そして小さい声で答へた。
『よくわかったよ、アンナ。僕はこんどきっと善人になるよ。こんどの怪我は、僕にはいい教訓だったよ。僕は必ず、君が希望してゐるやうな善人になるよ』
 さういふと、彼女はまた、うつむき込んで、駿治の額に接吻した。
 その晩、アンナは田代万吉と、橋本の女将を無理遣に帰して、徹夜して屎尿の世話をやいてくれた。そこには、人種の区別や、言語の差異や、皮膚の色などは問題ではなかった。快活なアンナは、持ってきた雑誌から面白い滑稽小説を探し出して、にこにこしながら、夜遅くまで読み聞かしてくれた。

  よき協同者

 それから三十日は夢のやうに過ぎた。毎日、晴天続きのカリフオルニヤの気象は病人には持ってこいであった。それに阿呆鳥のやうに正直な田代万吉は、どこから工面してくるか、毎週毎週、入院料を払ってゐてくれたし、昼の間は他に仕事もしないで、つきっきりで世話してくれた。
 そして、アンナは殆ど一日置きに、汽車では一時間以上もかかる処を、駿治に貰った襤褸フォードを運転して、仕事が退けてからやってきた。そしてその晩は、大抵病室に泊まっていってくれた。
『こんなにして、お母さんに叱られやしない?』
 駿治が、さう訊くと、
『もうお母さんは諦めてゐるのよ。だって、お母さんも若い時には、お父さんのいふことも聞かないで、自分のラヴァと一緒になったんですもの』
 アンナはさういって大声に笑った。アンナはまた続けていった。
『私ね、お母さんにいってね、あなたを、日本まで送って行く許可を得たのよ。三等なら、百五十弗も出せば、日本に行けるんですってね、看護婦の代りに私が、あなたを日本に送って行ってあげますよ』
 さういってくれたのは、入院してから丁度三十二日目であった。その頃から、駿治は漸く松葉杖をついて、便所に行けるやうになった。幸ひ、手の方もだんだん恢復してきたので、彼は急に日本に帰りたくなった。
 然し駿治には、日本に帰る旅費のあてはなかった。少し恥かしかったけれども。その事をアンナに話した。すると、
『あの自動車ね、あれを売りませうよ。そしたら、あなたの船賃くらゐ出来てよ……私の旅費は自分の貯畜から持って行きますよ』
 要領のいいアンナは、簡単にさういって除けた。駿治は考へた。
(親切っていふのは、しておかなければならぬもんだなア。アンナにやった自動車で、日本に帰る旅費が出来るとは思はなかった)
 アンナと入替りに。田代が病室にはひってきた。駿治は人の好い田代に、厚く礼を述べて大きい声でいった。
『田代さん、ほんとにこんどはお世話になりましたね。自分の親でもこんなにはしてくれませんよ。それにあなたは、見ず知らずの仲だのに、よくこんなに世話してくれましたね。この御恩は、必ず日本へ帰ってからお返し致しますよ』
 駿治が日本に帰るといひ出すと。田代も帰るといひ出した。
『君、ぢゃあ。僕も日本へ帰るよ、君と一緒の船で。そして僕は満洲へ行って砂糖大根でも作らうかなア。君も、僕と一緒に満洲へ行かんか? 君は、電機のことに精しいんだから、開墾地の電機の設計でもしてくれ給へ。金の方はなんとかするよ。俺も独身で淋しいからなア。君のような青年と一緒に仕事をやると力強いよ』
 さういった田代は、それからぽつりぽつりと、身の上話を始めた。そして、彼は、サクラメントで雑貨商をやってゐる男に一万ドルくらゐ出資してゐること、その金が取れると、満洲では大きな畑が買へること、駿治の入院料はその店から持ってきたことなどを、朴訥な口調で物語った。その時駿治は、アメリカ移民として来てゐる日本人の中には、表面乞食のやうな生治をしてゐて、蔭ではとてもえらい底力を持った田代万吉のやうな男が大勢ゐるんだ、といふことを発見した。

  眼尻の皺

 アンナは自動車を売ったといって、病院へ百五十弗持って来た。そして、これからパスポートをとるのだと、すぐ帰って行ってしまった。
 田代万吉は、最後の入院料を斎藤駿治のために支払った。そして親爺が病児を抱くやうにして、駿治をタクシーに乗せ、サンフランシスコの橋本ホテルまで、連れて帰った。
 帰って行くタクシーの中で、駿治は、つくづく、田代のえらいことを考へた。彼が、心から底から、生れつき親切な男だといふことを思ひ廻らした、そして田代が、アメリカ人に、土地を取上げられたといふことも、全く、彼が、あまりに人が好すぎた結果だといふことを知った。彼はこんな男となら兄弟分となって、一生涯事業を共にして、差支へないと思った。
『田代さん、僕はね、君となら、満洲へでもどこへでも行くよ。「人生意気に感ず」だからね。僕は、アメリカにきて、それだけを習って日本へ帰って行きますよ』
 さういって。駿治が右手を差出すと、アメリカインディアンのやうな皮膚をした田代は、眼尻に多くの皺を寄せて、笑ひながら駿治の手を握った。
『いや、ね、斎藤君。僕が、君に見込みをつけたのは、あの優しいアンナが、どこまでも君についてきて、尽してゐるのに感心さやられたんだよ。君が賭奕場へ出入りしてもさ。また、太平洋商会のやうな悪い店へ勤務しでもさ。ねえ、それで、僕は、君に、どこかえらい処があると思って、君をあまり脱線させないやうに、祈って居つたんだよ。そりゃ、僕も、折々楽しみにトラムプくらゐはするぜ。然し、ほんといふと、僕は賭奕は嫌ひなんだよ。殊に、僕は、あの小池っていふ男が嫌ひなんだ。それで、丁度。土地も奪られてしまっていい時だから、君が応援してくれるなら、二人で満洲開拓事業でもやるかなア。ねえ君、日本はあまり狭すぎるからなア。我々のやうに、長年、大陸の土を耕してゐる者には、日本のやうな狭い処は、耕す気にならんよ……然し、君も、アンナには感謝しなくちやいかんなア。ありゃ、えらい女だぜ。僕は、あの女のすることを見て、アメリカ人に対する偏見がすっかり溶けたよ。あの女は、毎晩、夜中に起きて、君が改心するやうに、祈ってゐたんだってね。そんなことをいってゐたよ。駿治が改心するために。奇蹟をお現し下さいって、祈ったんだってよ。すると、君の自動車が顛覆したんだって。まるで。奇蹟ぢやないか。ほんとに、こんどは、君も、過去一切を清算してやるんだなア』
 日本内地で、かうしたことを聞かされても、あまり感じないが、遠く数千哩離れた米国植民地で予想以上に親切をされて、丁寧にいひきかせられると、その言葉が一一よく身に泌みた。
 満洲に行くと腹を決めても、まだ北米合衆国に思ひ残りがあると見えて。田代万吉は再渡航米国官憲の許可証を得るために、馬鹿にひまをとった。そして、たうとう四月二十三日に日本に帰るといってゐた船が延びて、五月四目の浅間丸になった。
 ところがどうしたことか、サクラメントにまで一日置きにきてゐたアンナが、サンフランシスコに帰ってから、一度も顔を見せなくなってしまった。
 あれほど、日本へ送って行くと、駿治に堅い約束をしたアンナが、今更変心するとも思へなかった。然し、船が、明日出帆するといふ間際になっても、なんの消息もなかった。

2014-12-19

颱風は呼吸する24

  殉教者

 駿治は更生した生活を送るために、月給は今の半分でもよい。法律の咎めをうけない立派な正業に就きたくってたまらなくなった。
 然し、あちらこちらに借り倒した借金を払ふために、不正なことをしてでも、金が多く入用であった。然し、朝起きてから晩寝るときまで、安心して業務についてゐることは出来なかった。巡査の姿を見ると、地下室を調べにきたのではないかと、そればかり気に病んだ。
 新聞で、酒類密造者が検挙されたといふ記事を見る度に、この次は自分の番だといふ気がした。そして、覚醒軍の存在は、更に彼の神経を尖らせた。
 かうした不愉快ないらだたしい日を、毎日送ってゐるうちに、早くも十日経ち、二週問過ぎてしまった。その間、ウォナッツグローヴの小さい町の話題は。賭奕場征伐の覚醒軍のことで持ちきってゐた。
 蒸し暑くなった五月十日のことであった。朝、駿治が、表を掃いてゐると。労働者風の日本人が、前を通りかかった。
『今、あそこで、大騒動してゐるよ。昨夜、教会の牧師がピストルで打殺されたってね』
 大変なことになった、と思った斎藤駿治は、スエターのままで教会の方へ飛んで行った。そこは、人山で黒くなってゐたが、兇漢は、教会の裏の塀をよぢ登り、硝子戸を捩ぢ開けて、内にはひり、二階に寝てゐた牧師を、一発のもとに、打殺してしまったといふことが判った。
『やりすぎたんだなア!』
『然し、えらい人物だったなア!』
『殺すのは無茶だよ』
『こりゃ、州庁から圧迫がくるぞ』
 その言葉を聞いた駿治は、すぐ店に引返して、サクラメントに電話をかけた。
 西村が飛んできた。そして駿治に、教会へ花環を持って行くやうに、命令した。
 駿治は苦笑しながら。西村がサクラメントから持ってきた花環を、教会へ持って行ったが、帰ってくると、主人は、自動車の座席の下へ、地下室から運んだ葡萄酒の壜を匿してゐた。
『これは。きっと、大きな問題になるなア、君。誰がやったか知らんけれど、無茶をしよったなア。ああまでしなくともいいんだよ。然し、いいこっちゃよ。これで、日本人の間に、賭奕もだんだん減るよ。殺されてみると。牧師の徳永正憲君は、えらかったなア』
 座席の下に、密造の酒類を詰めた西村保次は、その日に限って、彼に、護衛兵の役を仰せつけた。
『こなひだも、君、サクラメントで日本の宿屋の主人が、酒を密造してゐて、検挙されたんだよ。よく、サクラメントの入口で、巡査が立番してるんでな、ひとりで帰るのは少し冒険だから、君、ついてきてくれ!』
 サクラメント川の堤防を走りなから西村は、死んだ徳永正憲のえらかったことを、いろいろ彼に聞かせた。
 馬鹿に感心なことをいふと思った斎藤駿治は、西村にきいてみた。
『あなたも、曾ては、教会へ行ったことがあるんですか?』
『うむ、若い時にはね、これでも相当に熱心だったんだがなア。女の問題に失敗してから、恥かしくなって、こんな邪道ばかり踏むやうになったんだよ。人間っていふものは、なかなか真直な道を踏めないものだね』
 そんな話をしてゐるうちに、自動車サクラメントの郊外近くなった。道はだんだん広くなり、アスファルトで舗装した道は、コンクリートになってきた。
 日は長くなったけれども、黄昏近くなると、心持ち、水蒸気が市街地の上に立ち罩(こ)めて、夕焼もあまり冴えなかった。

  天罰

 ふと、運転台に並んで乗ってゐた駿治が、後を振返ってみると、速力取締の交通巡査が、後方から、西村の車を追ひ駆けてくるのに気がついた。
『西村さん、交通巡査オートバイが、我々を追っ駆けてきてるやうですぜ』
 さういふと。西村は慌て気味に、
『そら、いかん! 少しヘビーを出して逃げなくちやあ。つかまると、えらい目に遭ふからなア』
 丙村はヘビーをかけた。速力計の針は見る見るうちに騰った。
 三十五、四十、四十五、五十哩! 街の両側に灯った電燈が、星のやうに流れた。少し危険だと思ったけれども、犯罪の発覚を恐れた西村は、サクラメントと反対に、オレゴン州に抜ける国道の方へ曲った。
 然し、交通巡査もそれと気がついたか、しつこく追ひ駆けて来た。
『おい、斎藤君、まだ追跡してるか?』
 さう訊かれたので、駿治は後を振向いて硝子越しに、瞳をこらして、薄暗くなった街上を凝視した。
 その瞬間! 地軸が折れたか、と思ふやうな大震動と共に、自動車は、空中に飛上った。
『あッ!』
 駿治は、もう死んだと思った。彼は、自動車が顛覆して、彼と西村が、その下敷になる刹那的光景を、明瞭に意識した。
自動車が衝突したのだ!』
 左側から疾走してきた自動車も、空中に飛上って、顛覆したらしい。女の声で、
『キャッ!』
といふ叫び声が聞こえた。
 路面に投出された駿治は、彼の頭の上から、自動車が被さってきた時、それが最後だと思った。然し、不思議に彼は死ななかった。自動車が逆倒しになった時に、屋根が破れて、彼の左手と左足が車体の下敷になったが、幸ふ、胸から上だけは助かってゐることがわかった。
 然し、西村がどうなったか、車体に敷かれてゐる彼には、すこしもわからなかった。
(これが天罰といふのだ。悪うございました。神様、私はこれから改心いたします)
 車体の下で、まだ、命が続いてゐるといふことがわかった時に、斎藤駿治は、さういって神に祈った。
 車体の外側に、幾台かの自動車が止まった。みんなが大勢かかって、車体を取除けてくれた。
『おッ! ひとりは助かってゐるよ!』
 その言葉は、たしかに日本語であった。
 然し、どうしたことか、駿治は、そこに誰が居るか、首を廻して、正視するだけの力はなかった。それで、身動きもしないで倒れてゐた。
『おや! 運転してゐた男は頭蓋骨がぺちゃんこに潰れてゐるよ、可哀さうに』
 さういふ言葉が駿治の耳にはひった。
(さては、主人の西村は、自動車の下敷になって死んでしまったんだな)
 と、彼は思った。
 然し、その瞬間には、西村のために泣く勇気は、勿論なかった。
天罰だ! 天罰だ! 俺が改心するやうに、天が制裁してくれたんだ。主人が死んだのも天罰だ!)
 そんなことが頭に浮かんできた。

 その瞬間

 意識ははっきりしてゐるのに、まだ目が見えなかった。その中でも、最も明瞭に記憶されてゐるのは自動車が顛覆した瞬間に、彼が今まで放蕩してきた、玉ノ井と、サクラメントの淫売宿の光景が、活動写真のフイルムを、一度に投出したやうに、目の前に、フラッシュ・バックされたことであった。
(ああ、このままで、俺が地獄に行くのであったならば、どうなるだらうか? 俺の命が助かったといふのは、全く天祐だなア、悔改めだ! 悔改めだ! 更生だ! 更生だ!)
 ぶっつけてきた自動車は、遊びに行く女連れが.四人ばかり乗ってゐたと見えて、泣くやら、騒ぐやら、とても、近くで聞いてゐられないやうな、いたましい惨状を呈してゐた。
『可哀さうになア』
『応急手当の病院まで連れて行ってやらうや』
 かうした時に話される日本語は、天の使ひの声のやうに響いた。一人は斎藤駿治の頭を持ち.もう一人は彼の胴を持って、乗って来た自動車の中に、運び入れてくれた。
 駿治は、少しは首が自由になるかと思って、動かしてみたが、頸より上には、異常がなかった。然し、脊椎を打ったと見えて、腰から下が痺れてゐて、両足を動かすことは絶対に出来なかった。
『頭蓋骨が潰れた方は、動かしても仕様かないから、警官がくるまで、横っちょへ寄せて置かうや……もう一度帰ってくるからね、君ここで番してゐてくれ給へ』
 さういって、要領のいい日本人は、連れの一人をそこに残して、すぐ自動車の運転を始めた。
 眼を閉ぢたまま、斎藤駿治が、運転台に乗ってゐる二人の男の話を聞いてゐると、彼等は、覚醒軍の同志であって、ウォナッツグローヴで殺された牧師、徳永正憲の葬式に行く連中であったらしかった。
 十分と経たないうちに病院に着いた。そして、駿治は、南側のとてもいい部屋に入れられた。
『安心したまへ、君!………君は、全く幸福だよ』
 運転してきた顔の丸い男が、ベッドの傍に立って、駿治にそんなことをいった。そこへ背の高い医者が、二人の看護婦を連れて、はひってきた。そして、あちらこちらと、駿治の身体を検べた結果、
『大丈夫! 一筒月も寝て居れば治る』
 さういって、出て行ってしまった。
 それと入替りに、板切や、繃帯を持った看護婦がはひってきて、駿治の手足を動かさないやうにしてしまった。
 看護婦が去った後で、運転してきてくれた男が、元気のいい口調で、彼に尋ねた。
『おい。君、君の名は、なんていふの? 家はどこだね?』
サクラメント太平洋商会の従業員です。名は斎藤駿治といふのです』
『ああ。あの太平洋商会か。あすこは酒の密造専門ぢゃないか、君』
 それに対して。放治は一言も答へなかった。
『あの、死んでゐた人、誰ぢや? 君』
『おれは、私の主人の、西村保次です』
『西忖君か? あの人がさうか? 滅茶苦茶に頭蓋骨がこはれてゐたので、誰だかわからなかったよ。可哀さうになア……妻君が聞いたらびっくりするだらう……ぢゃあ、西村の妻君に、ここから電話をかけてやらうか』

颱風は呼吸する23

  闇に輝く

 それでも、やはり巡査がこはかった。出入口は一つしか無いし、その扉は二重になってゐるし、その出入口から二、三十人の警官が、一度に闖入してくればどうしようか? それが彼の最後だ。官憲から日本の領事に渡され、日本に送還せられるのだ。恥かしいことだ。
 そんなことも考へたりした。骰子賭奕の勝負は早くつくので、そこが最も人気を集めてゐた。
 場内には、百、五六十人の者がはひってゐたらうが、半分以上はそこに集まってゐた。然し、一文も金を払ってゐなくとも、十五分置きに入口の扉が開くと、彼は、巡査がそこからピストルを持って飛込んできはしまいかと、開くたびに必ずその入口を見た。
(この中にはひってゐる者にも、きっとスパイがゐるに違ひない。さうすると、俺の顔も、その密偵に覚えられたな)
と、良心の奥底で、鋭い声が聞えた。彼がぼんやり、馬鹿票(日本ではチーハー賭奕ともいふ)を売る前に立ってゐると、
『チャーレー、お前は、シュンジといふ名と違ふか?』
と、一時間ほど前、秘密室の表の入口で会った、籠を持った男に尋ねられた。
『さうだ! 俺は駿治だ』
 さういって頷くと、
『お前を探してゐる、アメリカの婦人が、地下室にゐるよ』
と妙なことをいうた。
(さてはアンナかしら……困つたなア。アンナが、俺の堕落してゐる状態を調べるためにやって来たんだな)
 彼は、彼女が、どうして。いっ、この秘密室にはひってきたか、それが不思議でたまらなかった。
 駿治が、馬鹿票の台から、地下室の方へ、靴を引摺りながら歩いて行くと、支那人がいった通り、質素な服装をして、アンナが、地下室から上ってきた。
『おや! たうとう、あなたを見附けましたよ』
 明るいアンナは、両手を拡げて、さういった。
 駿治は、あまり恥かしいので返事をしなかった。
昼過ぎに橋本ホテルへ行ったんですよ。すると、あなたがあそこを二、三日前に引払ったと聞きましてね、失望してゐたんです。そこへ、小池っていふ方が出てこられましてね、大抵あなたが、ここに居るだらうと教へてくれたもんですからね、今し方、ここにやってきたんです……まあ、ここは、びっくりする程、大きな処なのね』
 アンナは頭から彼を叱りとばさうとはしなかった。然し、ハンド・バッグからハンカチを出して、そっと鼻汁を拭いた。それだけでアンナの心持はよく彼にわかった。
『なにも、別に用事は無いんだけれど、あなたに会ひたかったから探し廻ってゐたのよ……然し、ね……』
 さういって、また、アンナは。ハンカチで眼を拭いた。
 それを見た駿治は、巡査に蹴飛ばされるより辛かった。まだ良心の残ってゐる彼は、涙がぽたりぽたり、二つの頬を伝って床に落ちるのを覚えた。
『シュンジ、ゆるして下さいね。うちのお母さんが、あまり、あなたを虐待したから、あなたは、こんなに拗ねちゃったんでせう……』
 さういひながら。アンナは、泣いてゐる様子を人に見られまいと、地下室の階段に導く、真暗な戸の蔭へはひって行った。

  黄昏

 彼女を追駆けて駿治も、泣く泣く暗がりにはひって行った。
『アンナ、ゆるしてくれよ、俺はきっと、再生するから。お前が、俺のやうな不良な男に、まだ愛想をつかさないで、どこまでも訪ねてきてくれるかと思ふと、ほんとに感謝するがね……俺は、もうこんなに堕落した男なんだから、放っといてくれ』
 殆んど顔も見えない闇の中で、駿治がさういふと、アンナは、跳附いてきて、彼を抱擁した。
『いや! いや! いや! いや! わたしが、あなたを見捨てるっもりなら、私は、こんな処まで訪ねてきませんよ。私は、あなたとなら、地獄へでも行く覚悟なんですよ。兎に角、シュンジ! ここから出て行きませうよ』
 それで、彼は、アンナの後について、秘密室の出口まで歩いた。彼は。朝から飯を食ってゐなかった。それでもアンナに、金をくれとはよう切り出せなかった。
 扉が開いた。表に出ると、澄切った黄昏の空は、金色に輝いてゐた。そして。アンナの顔は天使の如く光った。
『どこかへ散歩に行きませう』
と、彼女がいひ出すと思ってゐると。アンナは、
『ほかに約束があるから、これで失礼しますわ』
といって、朗かに笑ひながら、またマーケット街の方へ、姿を消した。
 狐に撮(つつ)まれたやうになった斎藤駿治は、サクラメントに行く旅費でも借りようと、まるで空虚のやうになった身体を引摺って、橋本ホテルの方へ歩いた。そして小池の部屋を訪ねた。
 然し、小池はそこにはゐなかった。いつも賭奕を打ってゐる向ふ隣の部屋にも、今日は不思議に、人影が見えなかった。
 然し、トラムプや、花札を載せたテーブルに、十ドルの札が二枚と、一ドル銀貨が三枚。無造作に置かれてあった。
 あまりにも長く飢ゑてゐる駿治は、そこに誰もゐないのを、勿怪(もっけ)の幸ひと、ひきつけられるやうに。その方に手が出た。悪いとは思ったが、そこにあった金を、彼は全部ポケットの中に握込(ねじこ)んだ。そして一旦、戸口まで出たが、また良心に咎(とが)められて、十ドル札二枚だけを、テーブルの上に返しに行った。
(盗るならば、三ドル盗るのも、二十ドル盗るのも同じだ)
 そんなに考へて迷った。
(かうまで堕落するとは、高等教育を受けてゐる自分として、恥かしいなア。しかし、これも、我々を拗ねさすやうにしたアメリカが悪いのだ!)
 さうは考へたものの、今日まで、人のものを盗んだ覚えのない彼は、全く迷うた。廊下に足音がした。彼は慌てて、ポケットに入れてゐた三ドルも、つかみ出してテーブルの上に置いた。

   新しい部屋

 そこへはひってきたのは、白人に土地を取られたといふ人の好い田代万吉であった。
『親爺さん、金を貸してくれんか? もう三日も、飯を食って居らんのぢや』
 さういふと、田代は。いかにも落着いた朴訥な顔をして。
 『そこに二十三ドルあるだらうかな、それをみな持って行き給へ。みんなが、寺銭をやると、僕に置いて行ってくれたんだけれど、僕は、こんな金を貰ふ道理がないから、君にやるよ』
 駿治は、万吉の大きな胆っ玉にびっくりしてしまった。
 そこへ、小池がはひってきた。
 『おい! 斎藤君。いい口があるが。行かんか! あまり感心した口ぢやないが、食ふだけはあるから、行ったがいいだらう……今日も、君のラヴアがきとったが、あの娘を見ると、いくら、僕のやうな男でも、君に、しっかりして貰ひたいやうな気がするなア』
 小池が周旋してくれた雑貨屋といふのは、実は酒の密造で儲けてゐた。そして。サクラメント川の流域に。あまり感心しない取引先を、沢山持ってゐた。然し月給はよかった。毎月、百二十ドルくれるといふことであった。それで、駿治は悪いとは知りつつ、その雑貨屋の経営してゐる、一つの支店を受持つことにした。
 そこは、大きなサクラメント川に沿うた、支那人と、日本人の小さい植民地であった。その商店の名は、太平洋商会と呼ばれてゐたが、経営者は、西村保次といふ狡猾さうな横浜生れの、年とった男であった。
『この川には、とても魚が沢山居るぞ』
 パッカードの高級車を自ら操って、西村は、駿治を、ウォナッツグローヴに連れて行く車の中で、さういうた。
 この辺一面は、幾万年も有機物が堆積した、米大陸にも珍しい豊饒な地域で、見渡す限り、茫漠たる平野であった。
 大きな堤防を下って、ウォナッツグローヴに着いたのは。その日の午後一時過ぎであったが、駿治の眼に映じた第一印象は。そこが一種の貧民窟である、といふことであった。
 然し、街の汚いことに驚くよりか、日本語で書いた賭奕場征伐のビラが、街のあちらこちらに、ぺたぺた貼附けられてあるのを見て、妙な感じがした。
(さては、ここにも、正義人道の士がゐるんだな、有難いことだ)
 さうは思ったが、彼は、西村が、賭奕場に必ず関係があると察したので、さうは、あからさまにはいはなかった。
 西村の太平洋商会の支店といふのは、比較的堂々たるもので、大
抵の雑貨類は、そこに揃ってゐた。
 留守番をしてゐたのは、最近夫に死なれたといふ、気の毒な寡婦であった。高原いく子といって、まだ四十にならない元気な婦人であった。
 店に着くなり、西村は、高原に、駿治を紹介して、すぐ彼にいうた。
『君、賭奕場征伐のビラを見たか? ここの教会の牧師は、とても極端な男で、みんな困ってゐるんだよ。賭奕も娯楽の一種だからね、少しは大目に見てやらぬと、こんな淋しい植民地にきてゐる者には、他に慰安の方法がないからね……』
 丁度さういってゐる時に、店先を、若い女と二人で、中折帽子を被った、丸顔の紳士が通過した。
『あ! あの男が、徳永正憲といってね、サクラメントで、賭奕場征伐をやってゐる覚醒軍の隊長だよ』
 さういって、西村は駿治に注意した。

  血

 パッカードの自動車が、表に着いてゐるのを見た賭奕場の仲間は、四、五人、ばらばらと太平洋商会の店にはひってきた。
『ど畜生!』
『あの覚醒軍のど畜生をどすんと、一つピストルでぶち殺してやりたいなアー』
 みんないひ合せたやうに、労働服の上に、上衣だけ普通のものを引っかけて、アメリカの軍人が被るやうな縁広の帽子を被ってゐた。
 彼等は手に手に、ミルクを入れる罐や、エナメルを塗った茶瓶を提げてゐた。そして、かはるがはる、店番の女を呼んで持ってきた器を波した。彼等は、みな密造の酒を買ひにきてゐたのであった。
 その晩のことであった。太鼓とタンバリンを持った、覚醒軍の一団は、禁酒の歌をうたひながら太平洋商会の前まで、示威運動にやってきた。
 その中には、昼過ぎに、サクラメントからやってきた覚醒軍の隊長徳永正憲も混ってゐた。彼等は、太平洋商会が、密造の酒を売ってゐるのをよく知ってゐた。それで皮肉にも、禁酒の歌がひとくさりすむと、ウィナッツグローヴの牧師、徳永正憲が、禁酒演説を始めた。
 自分の店が攻撃せられてゐると気がついてゐても、犯罪をやってゐる太平洋府会側としては、それに抗議を申込むことも出来なかった。
 五分間ばかりの演説が済むと、また太鼓を叩いて一行は、街路に沿うて一町ばかり南に下った。駿治は、何事がきっと起るに違ひたいと、後からついて行った。サンフランシスコと同じやうに、支那人が経営してゐる賭奕場の前に陣取って、一行は賭奕反対の演説を始めた。
 彼等は、勇敢にも、秘密室の入口の鉄の扉に立塞がり、そこから出入することを妨害した。
『……日本民族の将来は、神の声を聴くか否かにあるんだ! 日本民族が軽蔑せられるとすれば、それは、自ら侮蔑して、罪悪の淵に陥るからだ!』
 丸顔の覚醒軍の隊長が、舌端から火を吐くやうに、賭奕場の前に立って大声にさう叫んだ。
『嘘つけ! 貴様等、外国の宗教を信じる者に、日本民族の将来がわかるか!』
 労働服を着た、背の小さい、五十を越えたかと思はれる年寄りが、覚醒軍の一団が作ってゐた、円陣の真ン中に飛込んだ。
『偽善者よ、白人は、宗教を信じてゐても排日をやるではないか!少しくらゐ賭奕を打つのが、何か悪いんだ! そこを通せ、そこを通せ!』
 その男は、秘密室の出入口に立塞がってゐる、徳永正憲を初め数名の者を、かき分けるやうにして、扉に接近せんとした。徳永は、勇敢にもそこを動かないで、彼の進路に立塞かった。それで、小さい男は拳闘の手を以て、いきなり徳永の鼻柱の上に一撃を加へた。
 血が、たらたらっと、鼻から、口から、流れ出た。然し、徳永は、猶もそこを立退かうとはしなかった。
『父よ、彼等を赦したまへ。彼等は、そのなす処を知らないんです!』
 さう大声に叫んだ。
 徳永は、なほも殴りつけて来ようとする、小さい男の両腕を払って、天を仰ぎながら、祈りの姿勢をとった。
 次の瞬間には、背の低い五十男は、気狂ひのやうに、懐中から短刀を取出して、盲滅法に、徳永に斬ってかかった。それを見た斎藤駿治は、円陣の中に飛込んで、兇漢の刃を取上げた。

颱風は呼吸する22

  どん底への一歩

 自分自ら愛想をつかしてゐる斎藤駿治に、一旦約束したからといって、いくら断っても義理だてをしようとする、アメリカ娘の心を知った時、さすがの駿治も、彼女を尊敬せずには居れなくなった。
 それで彼は気前よく、暮に買ったフォードの自動車を、彼女に与へる約束をして、更に彼女を連れて、活動写真を見に行った。
 彼女は非常に満足して、その日はそれで別れることになった。
『二年待って下さいよ、シュンジ。妹がハイスクールを卒業すれば、私は自由になれるんだから、それまで辛抱して頂戴ね。然し手紙は寄越さないで頂戴、見つけられると。ひどい目に遭ふから、二週間に一回くらゐはきっと会ひに来てよ。あなたも必ず、私を忘れないでね』
 さういって。長い彼女の腕を彼の方に差伸べた。
(二年なんか待てるものか、俺は、今夜の情慾に悩んでゐるのだ。俺が彼女を活動写真に引張ってきたのも、フォードの自動車をやったのも、その機会を与へてくれるかと思って、彼女を引張ってゐたんだ。彼女はあまり純潔すぎる。俺はサクラメントの女より美しい彼女を、最も安価な方法で弄びたいと思ってゐたのだ……それだのに、彼女はあまりに真剣すぎる)
 こんなに思った駿治は、
『頼りないね、二年はあまり長すぎるよ。今夜が、僕は淋しいんだ』
 アンナは、そんなことを聞くわけがなかった。
 サンフランシスコの霧が、だんだん深くなった。街燈の周囲に、丸く虹のやうに五色の光がさした。人道の上を、棍棒を振りながら、ヘルメットを被った巡査が近づいてきた。
 アンナは忽ち手を引込めて、逃げるやうにして、路地の奥に駆け込んだ。それは、日本人と逢い引きしてゐた白人の娘が、これまで度々拘留に処せられた話を彼女は聞いてゐたからであった。
 不愉快な思ひを抱いて、彼女を見送った駿治は、すぐさま、橋本ホテルに飛んで帰って、アンナに済まぬとは思ひつつも、小池のベッドの下に隠してあった、茶瓶の酒を、グーッと煽って、一気に飲み干した。そしてすぐ、向ひ側の賭奕場へ急いだ。
 そこには、九人ばかり集まって骰子賭奕をやってゐた。そして、今夜はいつもとは違って、一向見馴れない顔がそこに一つはひってゐた。それは、田代といふ、中央カリフオルニヤの百姓であった。小池はその傍に坐ってゐたが、駿治の顔を見るなり、その男を彼に紹介した。
『斎藤君、この人はね、こんどの土地法でね、今まで借りてゐた土地を放さねばならなくなって、四十エーカーの土地をすっかり白人に捲上げられて出てきた、気の毒な人なんだよ。今夜の寺銭は、この人にあげることにしたからね、それを承知してゐてくれ給へ』
(カリフオルニヤでは、東洋人に土地の所有を禁止してゐた)
 不思議なことには、その晩、彼の運がとてもよく、賭(は)る度毎に勝目に廻って、わづか一時間足らずのうちに、田代の金をも含めて九十九ドルもせしめた。然しかうなると、そこにゐる者がやめさせてくれなかった。もう三十分でやめよう。もう一時間でやめよう、と思ってゐるうちに、十二時が鳴ってしまった。
 疲れた彼は、その頃から少し負け出して、みんなが寝ようといひ出した一時半頃には、五十ドルくらゐしか勝ってゐない計算になってゐた。
 然し、その五十ドルを持って部屋に帰ったとき、彼は、超自然の力で、この堕落しつつある彼自身を、救うてくれることは出来ないかと、蒲団の中にもぐり込んで、罪の怖ろしさにわなないた。

  駒鳥

 春に先駆する駒鳥が、早くもサンフランシスコに帰ってきた。
 然し、爛(ただ)れきった駿治の生活はまだ厚い結氷に閉され、密造の酒と、サクラメントの娼婦と、下宿屋の賭奕場通ひで、一杯になってゐた。
 谷本満も、彼のよき忠告者である正木も、全く彼には、愛想をつかしてしまった。谷本の主人は、東京芝浦の関東電機会社へ宛てて、それとはなしに、忠告めいた手紙を書き送った。そして、四月の初めに駿治は、たうとう日本の本店から、至急に帰って来いといふ命令を受取った。
 で、駿治は、もう日本に帰らない覚悟をした。そして谷本に挨拶をして、マーケット街の事務所を引払った。
 一週間経ち、二週間過ぎ、太陽は。北へ北へ回帰線を移したけれども、駿治には、よい仕事がなかった。彼は、毎日のやうに、支那人街の真ソ中にある口入屋へ出かけて行ったけれども、いい仕事は見つからなかった。
 橋本に払ふ下宿料は、だんだん嵩んできた。然し、シャツ一枚買ふ金のない彼に、下宿料の払へる道理がなかった。
『おい。斎藤君、君済まんけれども、田舎から客が出てくるので、あの部屋をあけてくれんか?』
 さういはれたのは、仕事を失ってから。三週間目の朝であった。下宿料は、もう二箇月以上たまってゐたから、駿治は頭を掻きながら、黙って表へ出た。
(どちらへ向って行かうか? 教会を訪ねて行くには、恥かしいし、慈善団体に救ひを求めると過去の罪悪を告白せねばならず……)
 彼は。公園のベンチで考へることにした。
 マーケット街の公園に行くと、そこには幾百人の失業者がぼろぼろの着物を着て、所狭しと、ベンチに腰かけてゐた。或る者は俯向いて居睡ってゐた。或る者は、けだるさうに煙草を吹かしてゐた。或る者は横になり、或る者は漫然と歩いてゐた。シガレットの吸殻を探す者もあり、手鼻をかんでゐる者もあった。
 しかし、彼等の服装に較べて、駿治の洋服だけは、まだ美しかった。ただ、彼の靴の裏は破れて修繕する必要があった。しかし。さうするには金がなかった。
(アンナに金を借りに行かうか? 自動車をやらなければよかったなア。あれを売れば、まだ二、三ヶ月食へたんだが――まづいことをしたなア。今頃、恥かしい! どうして。アンナに金を借りられるものか!)
 公園の噴水を見つめながら、ベンチに腰かけた斎藤駿治は、断片的に、そんなことを考へた。
 一時間くらゐぼんやりしてゐて、また職業紹介所に廻ったけれども、勿論仕事はなかった。そこで、みんなが博奕を打ってゐるのが、羨ましく考へられた。博奕を打つ一銭の金さへ彼には無かったからであった。
 彼はまた、とぼとぼ歩いて、金門公園までやってきた。
 ぽとり、ぽとり、瞼毛を伝って、大きな涙の雫が鋪道の上に落ちる。
自殺しようか?)
 春の太陽が、やはらかく頭の上から照らしつける。駒烏が声高く鳴いてゐるのも、癪にさはる。

  秘密

 飢ゑた日が毎日続くと。今まで考へつかなかった、いろいろな場所に目がつき出した。裏口に置かれてある塵埃箱、食料品店のパン、缶詰詰、果実類、それにうまさうな、食堂の料理部屋から漂うてくる匂ひ……。
 自業自得とはいへ、あまりに社会が冷酷なやうに思はれた。然し、断然、放浪者に身を落す覚悟をした駿治は、ユダヤ人に美しい洋服を売って、労働服に着かへた。
 ホテルを出て。第一夜は、労働服を着たまま、停車場の待合室で寝た。二目目の晩も、同じ処で寝ようと思ってゐると、背の大きな放浪者に占領せられてゐたので、波し場の待合室で夜を明かした。
 ベンチの上で、蝦のやうにちぢかまって寝る夜が続くと、昼の日中に労働する気などは全くなくなって、骨の髄まで細って行くやうな気がした。
(こんな光景をアンナが見れば、どんなに失望するだらうか?)
 さうは思ったけれども、いい考へが湧いて来なかった。
 四日目に。やっと考へついたのは、支那賭奕の仲間にはひれば、どうにか、かうにか食って行けるといふことであった。
 とぼとぼと。彼は、オヴアオール(労働服)のポケットの中に手を突込んだまま、半泣きになって、渡し場から、山手の支那人街の方へ歩き出した。
 表が煙草屋になってゐて、左側に、大きな鉄の扉が二重についてゐる秘密室があった。外側からは、十五分に一度づつ開き、内側からは、三十分に一度づつ、自動的に開くやうになってゐた。ここへは、二、三度、小池に連れられてきたことかあった。そして、賭奕に負けた者が、地下室で、お粥を貰って食ってゐる光景を見たこともあった。そのお粥を彼は食ひたかったのだ。
 秘密室にはひらうと、やってくる白人の労働者も、三人ばかりあった。然し、みんな荒らくれた、恐ろしい顔をしてゐた。
 駿治が、鉄の扉の前に立った時、後からやって来た支那人は、豚肉や、西瓜の種を、新聞紙に包んで、籠に入れ、彼の傍に佇んだ。
『まだ、十二、三分、待たなければならんだらうなア』
 布で作った支那靴を履いた。散切り頭のその支那人が、駿治を支那人と思ったか、さういった。
 白人の間にゐると、なんだか淋しい彼も、同じ皮膚の色をした支那人の処へくると。なんとなしに、打寛(うちくつろ)いだ感じが与へられた。
 やっと、扉が開いた。二間ばかりはひって行くと、もう一つの大きな扉があった。一分くらゐ待ってゐると、またその扉も開いた。内側は、天窓から採光した、大きな秘密室になってゐた。
 そこでは、大びらに、数十種類の各種の賭博がやれるやうになってゐて、まるで、賭奕のデパートメント・ストアのやうな感じがした。
 駿治は、ここにはひったけれども、賭奕を打つ金がなかった。彼の目的は、地下室の食堂にあった。勝手を知ってゐる彼は、すぐ暗い地下室に下りて行った。そしてそこで。お粥の余りでもあるかと尋ねた。
『晩の七時だよ、この次のお粥は』
 さう教へられて、彼はがっかりした。
 彼が再び階段を上る時には、全く力が抜けてゐた。
(このまま巡査につかまへられて、監獄へはひった方が、どれだけ仕合せだが知れない。監獄へ行けば、三度の食事に事は欠かないだらうから)
 などと、絶望的なことを考へた。

台風は呼吸する21


  拗ねた男

『まあ。さう怒るなよ、君。然し、君はまだ若いんだから、今のうちに、うんと勉強しなければ、アメリカごろになってしまって、取返しのっかんことになるぜ』
 『いや、俺はもう、ごろつきになってしまってゐるんだ。俺は今、自分でとってゐる方向を少しも悔いてゐないんだ。俺は国事探偵にでもなって、日米戦争が起きたら、早速、このサンフランシスコを占領する戦略を考へてゐるんだよ。わははははは、君は日米戦争がないと思ふかね。僕はきっとあると思ふよ。僕は、日本人をそんなに排斥しやがる米国人の胆玉を、冷してやらうと思ってゐるんだ』
 正木は、腰を屈(かが)めて、ストーヴに石炭を放り込んだ。
『えらい、君も変ったなア。失恋したので、ぐれたのか。弱い奴ぢゃなア、君は』
 正木は、椅子を、ストーヴの脇に引き寄せて、それに腰を下ろした。
『僕は、悪魔になる希望を持ってゐるんだよ。僕は、一切の宗教と、一切の道徳と、一切の法律と、一切の社会組織を否定して、我等黄色人種を排斥する白人に、徹底的な復讐をしてやりたいと思ってゐるんだ』
 さういった駿治の顔には、クリスマス前に見たやうな、柔和な瞳はもう見られないで、酒に焼けた頬の皮膚と陰険な眼球の使ひ方が、いかにも彼を破落戸らしく見せた。
 そこへ、谷本満がはひってきた。
『斎藤君、サンデイヤゴ行きの、電球干個が着いてゐないさうだが、あれは君どうしたんだ? 今、向ふから電話がかかって、今週中に着かないと契約を取消すといってきたが、困ったね』
 さあ困った。その電球の荷物はサクラメソトに持って行って、半値に叩き売り、みんな.女と博奕に駿治は使ひ果してゐた。
 然し、嘘の上手な駿治は、休裁よく誤魔化した。
『着いてゐないことはない筈ですがね。先週の金曜日に、汽車便で出したんですよ』
 谷本はその言葉を聞いて、更に数歩、机の方に接近した.
『ぢゃあ、君.送状の写しを見せてくれ給へ』
 駿治は.さういはれて、去年の暮に書いた、多くの送状をばらばらと繰って、いかにもほんとらしく見せかけようとした。
『変だなア、たしかに送ったのは送ったんですよ』
 彼は抽出の底から、状袋の中まで、わざと手まどるやうに、調べ始めた。
 その時、丁度.部屋の入口の扉を叩くものがあった。それで駿治は、早速、大股に扉の方に歩み寄った。そして扉を開いてみると、そこには、一と月近くも見なかったアンナが立ってゐた。
 彼女は、にこにこしながら少しもわるびれた顔もしないで、そこに突っ立ったまま、彼にいうた。
『ハロー! シュンジ! 機嫌はいいの?』
 さういって、彼女は、進んで、彼の握手を求めた。然し、意地の悪い斎藤駿治は、彼女が、握手を求めたのにも拘らず、態々(わざわざ)両手を後に廻して、無言の儘、席に帰ってきた。
 然し、人の好い、そして日本人の心理をよく知ってゐるアンナは、わるびれもしないで、毛皮の頸巻(くびまき)を外して、片手に持直しながら、谷本と正木に丁寧な挨拶をした。

  遠心力・求心力

 アンナが来たおかげで、駿治は送状を探す必要がなくなった。谷本満は親切に、アンナの近状を尋ねたり、家族の健康をきいたりしたが、明るい心の持主のアンナは、無邪気な子供のやうに、一々、簡単な答へをした。
 然し、アンナは、谷本商会に別に用事はなく、駿治に用事があるらしかった。
『シュンゾ! ちょっと』
 さういって、アンナは、部屋の外へ、彼を連れ出した。
『私と、少し散歩して下さらない?』
 さう要求せられた駿治は、すぐ外套と帽子を持って、彼女の後から階段を下りた。
 店を出て半丁くらゐ、無言で歩いたアンナは、あまりに、駿治がふくれ面をしてゐるので、彼に訊いてみた。
『あなたは。私が、あなたを裏切ったと思ってゐるの? 私は、お母さんが、あまりやかましいから、ちっともあなたに手紙が書けなかったけれども、決してあなたを忘れてゐるのぢゃないのよ』
 それを聞いて、駿治は、全く返事のしやうがなかった。彼女の純潔に引替へて、彼はもはや、彼女と神聖な恋愛を語る資格のないほど、堕落してゐた。
 で、彼は。下手糞な英語で正直に告白した。
『僕はね、アンナ。君の家を出てから、アメリカ人を呪うて、呪うて、呪ひ続けてゐるんだよ。それで、君が僕を愛してくれるのは有難いが、僕は、君と結婚しないつもりだ』
 その言葉を聞いて、アンナはびっくりしてゐるやうだった。
『ゆるして下さいね、シュンジ。あなたが怒ってるだらうと、私は思つてゐたのよ。あなたが、私と結婚して下さらなければ。私は一生独身で送りますよ。私はその決心をしてゐるんです』
 大通から、あまり人の通らない路地を並んで歩きながら、アンナは、小さい声でさういった。
『そんな窮屈なことをいはないで、君は自由にしてくれ給へ。こんな風俗習慣の違ふ二つの人種が一緒になっても、決して幸福ではないだらうから、君は、白人と結婚して、よい家庭を作り給へ。僕は、その方が、君のためには幸福だと思ふよ』
 町を歩いてゐても。落着いて話が出来ないので、駿治は、アンナを彼の下宿に連れて行くことにした。
 タクシーを飛ばして、橋本ホテルに着くと、真面目臭った顔をした橋本ホテルの主人は、アンナの顔を見るなり、英語で、
『いいお天気です(グッドデー)』
とお愛想をいった。
 相変らず、三階では賭奕がはずんでゐた。そして、小池重蔵もその中にはひってゐたので駿治は、アンナを彼のベットの上に腰かけさせ、自分は小池のベットの上に腰を下ろして、きっぱりいった。
『ほんとに、君、僕のやうな詰らぬ者を相手にしてゐても仕方がないから、僕と結婚するなどとはいはないで、他に良縁を求めて行ってくれ給へ』
 さうはいったものの、彼は、サクラメントで知った二人の娼婦に較べて、アンナが、いかに気高い女であるか、そればかりを考へ込んでゐた。
 さうはいったものの.彼は、サクラメントで知った二人の娼婦に較べて、アンナが、いかに気高い女であるか、そればかりを考へ込んでゐた。

  国境を超越して

 駿治があまり解らぬことをいふので、アンナは、
『どうしたの? あなた、元気がないぢゃないの、私、心配するわよ。私はね、もう決めちやってゐるの。お母さんがなんといっても、私は、あなたと結婚して、日本へ行くっもりなんです。私には白人だとか。日本人だとかいふ区別はないわ。私はね。私のやうな詰らぬ者が、蝶番(てふつがい)になって。日本とアメリカとを繋(つな)ぐことか出来るなら、どれだけ仕合せか知れないと、そればかり思ってゐるの』
『いや、僕はそれと反対を考へてゐるんだ。僕は、有色人種を侮辱する白人種を、徹底的にやっつけてやりたいと思ってゐるんだよ』
 意地っ張りの駿治は、アンナが、びっくりするやうな口調で怒鳴った。
 そこへ、女将さんが、親切にも。コーヒーを入れて、持ってきてくれた。それに対して、アンナは。微笑を湛(たた)へて丁寧にお礼をいった。
 アンナの告白によって、彼女の気持はよくわかったけれども、駿治の要求してゐるのは肉慾であり、アンナの歩んでゐる世界は、あまりにも高い精神の世界であった。それを知ってゐる駿治は、
『君は、あまりに理想主義的すぎるよ』
と早ロにいうた。
 それから、ポスト街を引越した一家族は、母の勤先のホテルに住込んだこと、そして彼女はホテルのマネーヂャーのステノダラファになったことなどを、アンナは簡単に話した。
 そして最後に、
『日本には、私をタイピストに雇ってくれるやうな処はないでせうか? 私は、あなたがヨーロッパを廻ってくるより先に日本へ行って、あなたを待ってゐようと思ふんですが、どうでせうか?』
 そんなことを尋ねて、いくら駿治が腹立たしく物をいっても、二つの眉をひそめることさへしなかった。
『日本は不景気だからね、白人をタイピストに雇ふやうな処はないよ』
『ぢゃあ、私は、日本へ行って英語の先生になるわよ。パンは自分で作るし、肉は、あまり好きぢゃないし、私は、日本へ行っても、少しも困らないわ』
 コーヒーを持ってきた女将さんが、戸の外で立聞きしてゐたと見えて、またはひってきた。
『斎藤さん、この白人は感心な人だね。こんな人も、アメリカの娘の中にあるんだらうか。きっと、教会にでも関係ある人でせうね、ずゐぶん美しい人ね』
 さういって、彼女は、駿治の傍に、腰を下ろした。
 おかみさんがいった日本語がわからないので、アンナは通弁してくれと、彼に要求した。
 それで。簡単に要領だけを話すると、彼女は大声に笑った。
 橋本の女房は、駿治にきいた。
『この娘さんですか? 斎藤さん。あなたと二人でヨセミテに行ったといふのは? えらい別嬪を、あなたは手に入れたものね。この人は、余程、あなたに惚れてるやうだね。結婚してやんなさいよ。カリフォルニヤでは出来ないけれども、シカゴへ行けばいいんだから、旅費くらいゐは貸してあげるわよ』

2014-12-18

台風は呼吸する20

  下宿屋の三階

 眼に涙の残ってゐる者にとって、コンクリートの道ほど、冷酷に見えるものはなかった。駿治は、その時ほど、物質文明を呪ったことはなかった。
 ポスト街の四つ辻に立って、暫くの間、ぼんやりと彼は立ってゐた。やうやく、気が落着いてくると共に、支那人街に近い、日本人の経営してゐる下宿屋に。落着けばいいと考へが纏った。
 少し荷物が重たかったけれども。彼は、とぼとぼその方へ歩き出した。そして『橋本ホテル』といふ下宿屋に、落着くことにした。
『よう!』
 丸々ふとった、背の高い、頭の禿げた主人の橋本が、元気よく言葉をかけてくれたので、忽ち、彼の元気が恢復した。
 そこへ、写真結婚で迎へて、彼とは二十ほども違ふ、年の若い口元のやさしい、小綺麗な、橋本の女房が、奥から出てきた。
『あら、誰かと思ったらば、斎藤さんぢゃないの! あなたは白人の娘と二人で、ヨセミテまで、新婚旅行に行ったんですってね、とても、うちの食堂では。みんな羨ましさうに噂してゐましたよ。いつ帰っていらしたの? おほほほほほ』
 頭から冷かされたので、斎藤駿治は、きまりが悪かったけれども、アンナから教へられた、静かに物をいふ態度をとった。
新婚旅行ぢゃありませんよ。ただ。娘がヨセミテを見たいといふから、二人で行ったまでのことですよ』
 冷かされても、風習の相通ずる、日本人同士の間では、いふにいへない温かさがあって、まるで自分の家に帰ったやうな気がした。
 この下宿は、必ずしも評判がよくはなかった。下宿人の間は博奕が盛んで、しかもここに来れば、茶瓶に酒を入れて飲ますといふことも、人から聞いてゐた。
 然し、またそれだけ、誰でも歓迎してくれる特徴はあった。
『おかみさん、今夜から、僕、ここに泊めて貰ひたいが、部屋がありますかね?』
 女将の代りに、亭主が答へた。
『さあ! 一人の部屋でなくちやいけませんか? ……丁度、クリスマス休みで、地方から大勢人が出てきてゐますからね。クリスマスの休がすむと、部屋はあきますが、ここ一週間位は、一室に二人はひって貰はねばなりませんがね、それでも我慢してくれますか?』
 駿治が、それでもよいといったので、橋本の亭主は、三階の西側の真中頃の部屋に彼を案内した。その向ひ側には、七、八人の中年の男が、テーブルを囲んで、賭奕に熱中してゐた。
(――えらい処へ飛込んできた。これだから、日本人は排斥されるんだ)
 さうは思ったが、駿治は、すぐ荷物を置いて表へ飛出した。そして、谷本商会へ廻って春の荷捌きの準備をした。
 彼が黙々として、送状を書いてゐると。正木が部屋にやってきた。
『よう! 斎藤君、ヨセミテは面白かったか?』
『ウム、面白くないこともなかったが、あそこは壮大っていふだけだなア』
『熊を見ただらう?』
『ウム、熊には感心したね』
『アンナは今日出て来ないが、どうしたんだ?』
『いや、それには問題があってね。実は、僕は、あの家を、出てしまったんだよ、今朝』

  復讐心

 ストーヴの灰を掻きながら、駿治は、正本に凡ての事情を打明けた。
 それを聞いた正木は一々頷きながら、今日まで、彼が見聞した日米人間の結婚の話や、日本人排斥の歴史を細かに語り始めた。
 クリスマス明けでもあり、店には用事がないので、正木は、ぽつりぽつりと、血の出るやうな話をした。そして白人に対する日本青年の失恋物語をも聞かせてくれた。
 話を聞いてゐて、駿治は淋しくなった。
(なぜ、造物主が、黄色人種と白色人種とを区別して造ったか?)
といふやうなことが、頭の中を掻き廻した。
『おい、斎藤君、昼飯を食ひに行かう、昼飯を……君も少し元気をつけろよ。白人の娘に振られたからといって。そんなにしょげちゃ駄目だよ。結婚しても、アメリカの娘はなかなかむづかしいさうだぜ、寧ろ、振られた方が。君に幸福だったかも知れないぜ、わはははは』
 駿治は、アンナが決して、彼を捨ててやしないといふことをいひたかったけれども、余りにしょげてゐた彼は、その問題を口にすることすら面倒臭かった。
 二人は表に出た。四、五町歩いて、大通の小綺麗な料理屋にはひって行った。
 帳場の傍には、装飾を施したクリスマス・ツリーが立ってゐた。その横っちょの壁の上には小さい文字で、
 “白人に限る”(ホワイトオンリー)
と、書いた紙が貼り附けてあった。
『おや、ここには“白人に限る”と書いてあるぞ。日本人に飯を食はしてくれないかも知れぬなア』
 さういひながら、正木は。あまり白人の坐ってゐない、表の硝子戸に近く席を占めた。それで、駿治も、彼と向ひ合せに坐った。
『……斎藤君、君、白人と結婚するなら。スウェーデン人と結婚せいよ。とても、いいさうだね、日本の世話女房と変らんさうだぜ。ニューヨークあたりの家庭に労働してゐる日本人などで。スウェーデンの娘と結婚してゐる者が、ずゐぶんあるね……』
 正木は笑ひながら、教へるやうに話を続けてゐたが、いくら待っても女給仕がやって来なかった。
『おい、正木君。ここはやっぱり駄目だぞ。日本人も、有色人種のうちにはひってゐるらしいぞ。見給へ、ウエーターがやって来ないぢゃあないか』
 正木は、左手を帳場の方にさし伸ばして。静かに人差指を動かした。黒装束に白のエプロンをかけ、髪に白いリボンを巻いた、痩せぎすの女給仕がやってきた。
『君んとこは、日本人には食事させないのか?』
 正木は、ごく親切な口調で。静かに尋ねた。
『お気の毒さま』
 答へは、簡単であった。
 正本は、黙って、その儘席を立った。それで駿治も。沈黙したまま彼の後について、表に出た。
『――かういふ店は。日露戦争の後には。ずゐぶん多かったがね、近頃、殆んど無いと思ってゐたんだが、やはり有るんだなア。日本人が多くはひると、白人のいい客が寄り附かなくなることを心配するんだらうね。わからない奴だなア、あの人達は。次の世界では、地獄へ行くよ。わははははは』
 人の好い正木は、排斥せられても寛容な精神で、少しも腹を立てなかった。
 然し、駿治は、白色人種に対する復讐心で胸が一杯になってゐた。

  忠告

 夢のやうに、一筒月は過ぎてしまった。米国では御法度なのでアンナの家に居る間は、口にもしなかった酒を、下宿屋で駿治は飲み出した。それは同室の小池重蔵が、どこから手に入れてきたか、茶瓶に入れて持ってきたものであった。
 それから駿治は、毎晩トラムプの仲間入をした。日曜日の日などは、金門湾を越えてサクラメントまで、女遊びに、小池に連れられて出かけた。
 それらは、悪い道であるといふことは斎藤駿治によくわかってゐた。然し、サクラメントの娼婦のやうに、心安く日本人を愛してくれるものは、サンフランシスコにはゐなかった。
 いや、アンナといふ一人の天の使があったけれども。彼女の家を出てからといふものは、アンナは谷本商会へすら出てこなくなった。駿治が元旦に、そっと、ポスト街の家を訪問してみると、貸家札が貼られてあった。そして、どうしたことか。その後アンナからは、あれだけ彼女が約束したに拘らず、手紙の一通さへこなかった。
 自暴気味になった駿治は。白人に対する復讐のみを考へて。悪魔の道に走ることが何だか愉快なやうに思へた。
 然し。近頃は、いつも、店に出勤するのが十二時前になった。
 一月の最後の霧の深い朝であった。彼は酔ひ爛(ただ)れた重い胸を抱いて、金門湾の渡しを桑港の方に渡り、マーケット街の谷本商会へ、十一時半頃着いた。
 二階の机の上には、日本からきた郵便や新聞が、堆(うづたか)く積上げられてあった。支配人の近藤兵蔵からの手紙も、その中に混ってゐた。――不況のために人員淘汰の止むなきに至ったから、彼をヨーロッパに送るだけの旅費が出来ないので、六箇月位、北米合衆国の電機事業を視察した後、真直ぐに。シヤトルを経て横浜に帰って来い、と書いてあった。
 その手紙には全くがっかりした。然し、彼が、あまりにだらしない生活をしてゐるので。そんな結果になることは。百も承知してゐた。しかし、まだ三箇月位、アメリカが見物出来ると思ふと。少しゆっくりして居れるやうな気もした。
 そこへ。正木が入ってきた。
『よう、景気はどうだね、斎藤さん』
 正木はさういって、立ったまま、ストーブの前に両手を差伸べた。
 駿治は、酒と。博奕と、女に馴れ初めてから。少からず。正木が、煙たくなってゐた。それで、谷本の店にきても、出来るだけ、彼に会はないやうに努めてゐた。
『日本も不景気で悪いやうですね、ヨーロッパに廻らずに、すぐ帰ってこいといってきましたよ。少し失望しましたね』
 駿治が、椅子から立上ってさういふと、正木は、彼の右の手を斎藤の肩に置いて、いつもの如く。やはらかい調子で、こんなことをいひ出した。
『斎藤君、谷本の親父が君にいってくれといふから、僕は忠告にきたんだがね、今の下宿屋をかはる訳にはいかんのかね。YMCAの寄宿舎の方が、青年のためにはいいやうに思ふが、僕も。君の近頃の生活様式にはあまり感心せんね』
 痛い処を突かれた駿治は、すぐに眠尻をつり上げて大声で怒鳴った。
『そりゃ、余計なお世話だよ、君。俺には、俺の考へてゐることがあるんだからなア……』

台風は呼吸する19

   跪くもの

 身体はわくわくしてゐた。駿治の目には世界一の桧の絵などは、映らなかった。動悸が早く搏(う)ち、総身がしびれるやうに感ぜられた。鋭い皮膚感覚が……腕から……脇腹から……腰から絹のやうに柔い。微妙な感じを伝へた。彼は、しつこく彼女に吸ひつくやうにしてゐて、嫌はれやしないかといふことを心配した。
 然し、彼女は不思議な沈黙を続けた。書物を、しづかに傍においたアンナは、無言の儘、両腕を伸ばして、駿治の頸(くび)を抱締(だきし)めた。一分――二分――二人は身動きもしないで、鼻から出る空気の音ばかりを聞いてゐた。
 すると、アンナは、小さい声で、彼にいうた。
『私はね、あなたがね、大好きなの!』
 さういってまた、彼女は沈黙した。然し、困ったことには、どういふ返事をしていいか、彼は英語の言葉につまった。中学校で習った『結婚』といふ言葉を思出して、彼は、『マリエッチ(結婚)!』
と一言だけいった。
 すると、アンナは、頭を上下に振って、彼の頬ぺたに接吻してくれた。彼も接吻を返した。
 駿治はきいてみた。
『なぜ、あなたは、東洋人と結婚する気になったの』
『シュンジ! 愛にはね、東洋、西洋の区別はないわ』
 さういって、彼女は、美しい歯を出して笑った。
 遠くの方に、熊の吠える声が聞える。風は相変らず激しい。
 その晩、彼は、二つ枕を並べて寝たいと、アンナにいったけれども、アンナは、それをきっぱりことわった。賢い彼女は、こんなことをいった。
『シュンジ! カリフオルニヤぢゃあ、東洋人と西洋人と結婚出来ないから、シカゴニューヨークに行って、結婚してきませうよ! 公の手続がすんでから、正式の結婚をしませうよ。それまで、間違ないやうにしたいのよ。ほんとに!』
 さういひながら彼女は、寝る支度を始めた。で、彼も、いやいやそれに賛成し、スート・ケースの中から寝巻を取出して、コンビネーションの上に、それを引っかけ、キヤンバス・ベットの中にもぐり込んだ。そして、アンナが、どんな風にして、寝床の中にもぐるか、ベットの中から見てゐた。
 すると、落着いた彼女は。まづ靴を脱いだ。靴下を取去った。ドレスを脱いで、雪のやうに白い肌を露した。腰にはコルセットをはめてゐた。彼に背を向けてゐたけれども、美しい肉体の曲線美は、生きたギリシヤの彫刻を見てゐるやうであった。
 部屋が狭いので。隠れる処のない彼女は、
『ごめんなさいね!』
といつて、コルセットを外して、ヅロース一つになった。そして、すぐ、スート・ケースの中から日本のキモノを取出して、大理石の塑像のやうに美しい身体の上に、引っかけた。キモノの上に細紐を結んだ彼女は、ベットの傍に跪いて。お祈りを始めた。
 初めてさうした光景を見た駿治は、その厳粛な姿を通して、アンナが東洋人を嫌はない理由を発見したやうに思った。

  旋風

 ヨセミテから帰った二人は、アンナの母が、非常に不機嫌なことに驚いた。
『シュンジ! カリフオルニヤではね、州の法律として、白人と東洋人と結婚出来ないことになってゐるんだから、あなたがアンナを愛するなら、うちを出てもらはなければなりませんよ!』
 と、シャロッテは、えらい剱幕で、次の日の夕方、駿治が、店からポスト街に帰るのを待ちうけて、宣告した。
 その時アンナは応接室で、友人からもらったクリスマス・プレゼントの箱を、一々開いて嬉しさうに調べてゐた。
 然し、アンナは、母の言葉が、駿治に対してあまり侮辱的なので、玄関の入口で立話してゐた二人の方に歩みよった。
『お母さん、いいぢゃないですか。私だって、それくらゐのこと知ってゐてよ。しかし、お母さん、神様から見れば、東洋人、西洋人の区別があるでせうか? 私は無いと思ひますわ。私はね、お母さん、どうしても、将来は、東洋と西洋とは、仲好くしなければならないと思ってゐるのよ。そして殊に日本人とアメリカ人が仲好くすれば、世界の平和は、早くくると思ふわ。それに、シュンジはこんなにいい人ですから、私は、もう決心してゐるんです。私は、ニューヨークに行って、結婚してこようと思ってゐるの』
 その言葉を娘から聞いた母は。つかつかと、応接問の椅子に、歩み寄って、その椅子の上に泣き倒れてしまった。そして、ハンカチで両眼を拭きながら、大声で怒鳴った。
『私は、お前が、あのジャブと結婚するために、今日まで苦労してきたのぢゃないよ。お前のやうな美しい娘は、白人と結婚すればいいぢゃないか! お前は、米ばかり食って生きてゐられやしないわよ。混血児を生むつもりかい。お前には、悪鬼でもついてゐるんかい。気狂娘!』
 もうかれこれ、二箇月、へースの家に厄介になってゐても、こんな荒い言葉を一度も聞いたことがなかったので、悪鬼のやうに怒鳴り散らす、母シャロッテの声を聞いて駿治はびっくりした。
 アンナは、母の嘆く姿を見るに見かねて、二階に上って行った。その足音を聞いたシャロッテは、夜叉のやうに、眼を吊上げて、ぼんやり、入口の傍に立ってゐた駿治の処にとんできた。そして、全くヒステリーのやうになって、大声に怒鳴った。
『シュンジ……今日限り、家を出て行ってくれんか……うちは、都合でこんど他処へ引越さうと思ってるんだから』
 かうくると、駿治は思ってゐたけれども、まさか、こんなに早く、シャロッテの家を迫ひ出されるとは思はなかった。
 彼女が、あまりわからぬことをいふので、不憫に思った彼は簡単に答へた。
『よろしい(オーライト)……』
 一言いったきり、駿治はすぐに居間に通って。トランクに荷物を詰め始めた。その物音を聞いて、アンナは、泣き脹らした瞼をしばたたきながら、駿治の部屋にはひってきた。そして、いきなり、駿治にとびっいて、彼に接吻した。
『シュンジ! お母さんがどういっても、私は、決してあなたを捨てやしないから……お母さんをゆるして頂載ね』
 さういって、彼女は、ハンカチで涙を拭いた。

  霧

『僕は、お母さんのことなんか、気に止めてやしないよ。しかし、僕は、お母さんと争ひたくないからね、今日限り、この家を出るよ……またどこかで会ふことにしよう』
 さういふなり、駿治は、スート・ケースーつを持って部屋を飛出した。
 それを見たアンナは、
『行っちゃあいやよ! ねえシュンジ、かまはないぢゃないの、いつまでも居て頂載よ。お母さんの気持は、すぐ和ぐから決して腹立てないで下さいよ。お母さんは、いつも。あんなに怒る癖があるんですよ。けれどあとはけろりとするんですから、……ね、どうぞ、そんなに怒って出て行かないで頂戴よ。私はきっと。お母さんを説き伏せるから』

 その会話を、階下で聞いてゐた母親は、物凄い音を立てて、階上にをどり上ってきた。その姿といへば、まるで生塚(しやうづか)の脱衣婆さんそっくりであった。鬢の毛はほつれ、上瞼は三角形につり上り、上唇は中央部で切れてゐるやうに見えた。
『アンナ! お前は部屋にはひってゐなさい! ジャップは嫌ひだよ。私は、こんな畜生のやうな人間と、一時間だって、一分だって、一緒に居ることは嫌ひだよ。この男が出ようといふのに、お前は、なにも止めなくてもいいぢゃないの!』
 今にも、胸をとっつかむやうな剱幕で、両腕を前に伸ばして、拳闘者のやうに、それをふるひながら、母シャロッテは、甲高く怒鳴った。
『お母さん、お願ひだから、少し気を落着けて下さいよ』
 背の高いアンナは、やさしい口調で、母親の肩に手をかけた。
『私は落着いてゐるよ。寧ろお前が昂奮してるぢゃないの。考へてごらんよ。あの顔の平べったい東洋人と、お前のやうに美しい娘が、どうして一緒になれるかね。それに、日本人は不道徳だから、すぐお前は見捨てられてしまふよ』
『お母さん、どうぞ、日本人とか西洋人とかいふ区別を、しないで下さいよ。みんな神の子なんですもの。私は、上べを見ないで、魂を見たいと思ふの』
 駿治は階段を下りかけて、暫くの間、二人の会話を聞いてゐたが、アンナの美しい心に彼女を拝みたいやうな気がした。然し、もうかうなった以上は。この家に諦めをつけるより道はないと思ったので、階段の上へ向って、叫んだ。
『さよなら(グッドバイ)!』
 諦めのいい日本の青年は、なんの執着も後にのこさないで、さっさと、階段を降りかけた。すると、かつて平静を破ったことのないアンナが、その時だけは狂気のやうになって、飛下りてきた。
『いやよ、シュンジ! いやよ、シュンジ! 出て行っちゃあいけない!』
 さういって、彼の上衣を捉へて放さうとはしなかった。
 すると、母親もさるもの、すぐまた二階から、ゆっくり降りて、きて、駿治の上衣を捉へて放さうと、力強く、彼女の腕をひっぱった。
『お母さん(マザー)、いやですよ(ドント)!』
 その声に、シャロッテは、こんどは彼女の耳朶を右手で捉へて、無理遣に、上に、引上げようとした。
 アンナは漸く、駿治の上衣を放した。そして、二、三段上に母に引上げられたが、階段のをどり場の処で、すすり泣きしながら、打倒れてしまった。
 その光景を見た駿治は、もらひ泣きしながら、ゆっくりと階段を下りて表に出た。
 外には、サンフランシスコ特有の霧が立罩(こ)めて、うら寒い北風が、ぴゅうぴゅう吹いてゐた。

颱風は呼吸する18

  深い靨

 今夜は、クリスマスの前夜だといふのに、アンナは、駿治を乗せて、サンフランシスコを後に、南へ南へ、車を走らせた。彼女は、黒狐の襟巻を、横っちょに、頚から肩へ垂らし、平均三十五哩くらゐの速力を出して、アスファルト道を、真直に、余所見(よそみ)もせずに、前方を見守ってゐた。
『この機械は、思ったより調子がいいのね。振動も割合に少くってさ。あなたは、ずゐぶん掘出しものをしたわね』
 運転台の傍に腰掛けてゐる駿治の顔も見ないで、アンナは落着いた口調でいった。アンナは、実に注意深い運転手であった。殆んど同じ速力を持続して、前の車を追越さうともしなければ、速力をかけたり、また弛めたりするやうなこともしなかった。その運転振りが、駿治にはとても気に入った。
『これぢゃあ、汽車に乗ってゐるより、気持がいいね』
 駿治はさういって、お愛想をいうた。
 サンフランシスコを離れると大空は、コバルトを流したやうに、青く澄み、黄色っぽく見える野路は、なんとなしに、荒涼たる感じを与へた。マドンナのやうに、おとなしいアンナは、あまり東洋人を歓迎しない、このカリフオルニヤに於て、いかにも悟りきったかの如く、人の目に着く運転台に、顔の平べったい日本人と並んで坐って、少しも恥かしく思ってゐない様子であった。
 ガソリソ・ステーションの前で、先の自動車が、速力検査をゐる警官にぶつかった。そして、駿治の自動車も止められた。警官は、素敵な白人の娘が見馴れない東洋人と、仲好く、運転台に坐ってゐるのを見て、左の瞼を、軽く瞬(ウインク)させて冷かすやうにいうた。
『え! いいことやってるね!』
 さういひながら、長い手を伸ばして、アンナの坐席の下に、密造の酒を、隠してゐるかどうかを調べた。それらしい物が無かったので、警官は無言のまま、ガソリソ・スタンドの方へ立去った。
 アンナは、また、自動車を急がせた。けれども、その日に限って、警官は三度も、サンフランシスコヨセミテの間に。アンナの自動車を止めた。
 スタクトンの郊外で、警官につかまった時などは、駿治に向っていかにも嘲笑的に、
『お前は、結婚するために、リノ市に行きよるのか?』
 と、露骨に質問した。
 それは、カリフオルニヤ州では、東洋人と白人との結婚を禁止してゐるので、結婚したいものは遠く他の州まで出掛けて、結婚して帰ってくるからであった。学問に於ては、あまり白人に負けないと思っている駿治でも、そんなに露骨に尋ねられると、彼自身が、やはり、外国にきてゐるやうな感じを持たざるを得なかった。
 なんといはれても、アンナは頗る平気であった。少しも、悪びれないで、相変らず明るく、警官に厭味をいはれても、一言の報復的言葉を出さず、また、ハンドルに手をつけた。
 サンフランシスコの市内にゐると、東洋人に対する侮辱的な態度に就ても、あまり感じないでゐることが多いに拘らず、美しい娘と二人で旅に出ると.馬鹿にさうしたことが気になった。
『癩にさはるね! なぜ、カリフオルニヤでは.東洋人を排斥するんだらう!』
 駿治が.くやしさうにさういふと、アンナは、
『シュンジ! 私、あなたを排斥してゐないからさう怒らないでね、おほほほ』
 さういって美しい頬ぺたに深い靨(えくぼ)を作った。

  ヨセミテの熊

 きた、きた! たうとうヨセミテにきた。大きな絶壁、巨大な石、それは実に、想像も出来ないほど、荘厳なものであった。
 自動車をホテルの前に置いて、小舎(こや)の鍵をもらひ、二人は仲好く、九尺二間の組立小屋にはひった。
 実をいへば、駿治は、ヨセミテよりアンナの方に趣味を持ってゐた。然し、アンナは.駿治より熊の方に.気を惹かれてゐるらしかった。
『シュンジ! 熊を見に行かない?』
 少しも疲れた様子を見せず、顔をきれいに洗って、頬ぺたを林檎のやうに赤くしたアンナは、活発にさういった。
『熊って、どこに居るの?』
『あなた、知らないの? この国立公園ではね、熊が数百も野生してゐてね、そりやあ、よく、人に馴れてゐるのよ。あまり暗くならないうちに、熊を見に行きませうよ。私は、小熊が、とても可愛くて仕方がないの』
 また二人は自動車に乗って、大きな森林の中につけたアスファルト道を、ぐるぐる廻って、ヨセミテ渓谷の南岸を徐行した。蝦夷松が生ひ繁ってゐる。樅が勢よく背伸びしてゐる。冬至に近い黄昏は、もう森に近附いてゐた。
 然し、まだ、電燈には灯がはひってゐなかった。アンナは、ぱたっと、自動車を止めた。そこには、二、三台の自動車が停ってゐた。みなクリスマス休みを利用して。ヨセミテに熊を見にきた連中らしかった。
 アンナは、そのうちの運転してゐた男に、そこから、対岸の熊を見るのだと教へられた。
 成程! 約半丁離れた河の北岸に、大きな熊が小熊を一匹連れて遊んでゐた。
 アンナが呼ぶので、駿治も、南岸に立って、熊の遊ぶのを見つめてゐた。
『今夜の九時にね、もう一度、ここにくると、二、三十匹も、熊の集まってゐるのが見られるのですって! さういってゐたわよ。向ふの自動車に乗ってゐる方が……私、こんな遠い処ぢゃなくて、もう少し、熊に近く寄ってみたいわ。シュンジ、行かない? 私は、あの熊の処へ接近してみたいのよ』
 アンナは。まるで子供のやうなことをいひ出した。
『噛みつきやしない?』
 駿治は、やや恐怖をもって尋ねた。
 親熊は、しきりと、舌で、自分の体を嘗めてゐた。小熊が、四、五尺、樅の木に攀ぢ登った。
『噛むものですか。人間が乱暴すると噛むけれども、ここの熊は、決して、人間をこはがらないんですよ。みんなが可愛がってやるから、お友達のやうに思ってゐるんでせう……さあ、シュンジ! 向ふへ廻りませう!』
 また自動車に乗って、南岸を、渓谷の入口の方へ疾走した。
 突然! アンナが、自動車の速力を落した。
『居る、居る! あれ、あそこに、大きな熊が居るぢゃないの』
 アンナは、さういひながら、自動車を止めてしまった。
自動車を近附けると、逃げるかも知れないね。大丈夫だらうか?』
 心配しながら、彼女は、静かに、二十間ばかり、音もさせない
で、自動車を熊に近づけた。そして、道の傍に。何か漁ってゐた熊の前で、また自動車を止めた。
 熊が驚くかと思ってゐると、それとは反対に、かへって、のそりのそり、自動車の方に接近してきた。そして、まるで、飼犬がするやうに、後足で立って、前足を土地から離し、何か呉れよといってゐるかの如く、ちんちんをした。
『まあ! ごらんなさい。ちんちんしてゐるぢゃないの。あなた、何か持ってゐない?』
 さういはれて、駿治は早速、弁当の食ひ残しのハムサンドウヰッチの一片を、熊に投げ与へた。

  樅に吹く嵐

『なんていふ可愛い熊なんでせう!』
 アンナはさういって、自動車から降りた。そして奈良の春日の鹿に煎餅をやるやうな調子で、まだ残ってゐた二片のハムサンドウヰッチを。熊にくれてやった。
 その光景を、自動車の中で見てゐた斎藤駿治は、頭の中で、いろいろのことを思ひ浮べた。
(猛獣が人間を咬むのは、人間が猛獣を殺すからなんだな。さうすると、我々が、日本で学んだ生存競争の学説なんて。全く嘘だなア。クリスマスのまへに、俺はいいことを教へられた。世界に戦争があるのも、結局は。お互ひに。愛が足りないからなんだ)
 そんな回想に耽ってゐると、
『もう少し。サンドウヰッチが残ってゐない? おほほほほ、この熊は、お腹が空いてゐると見えて、いくらでも欲しがるのよ』
 アンナは熊を見つめながら、自動車の中に手を入れてさういうた。
『おあいにくさま! もう無いのよ。つまらないのね。もう少しビスケットを買ってきてやりたいわ。しかし、今から買ひに行ってると、居なくなるでせうね』
 熊は、アンナのサンドウヰッチが品切れになったのを見て、のこのこ山の手の方に歩き出した。
 よほど、アンナは、その熊の後をついて行きたかったらしい。然し、電燈には灯がはひって、渓谷の影が、深まってきたのでアンナは口惜しさうに、
『熊さん、さようなら!』
と、右手を振って、またフォードに飛込んだ。
『ああ、今年は、いいクリスマスをするわ』
 アンナはほんとに嬉しさうであった。
 ホテルに帰って、二人でテーブルに向ひ合って坐った時でも、アンナは、熊の話ばかりした。
 クリスマスの前夜だといふのに、この山奥のホテルにも、客は相当にあった。然し東洋人と白人の娘が、一組になってやってきてゐるのは、他にはなかった。アンナは少しも悪びれないで。いつものやうに、平静を続けてゐた。食事がすんで、二人は、仲好く手を繋いで、小舎に帰った。
 小舎の扉を開けると、石油ストーヴを焚いてゐる匂がしてきた。食事をしてゐるうちに、ボーイがそれを運んでくれたものらしかった。
 部屋にはひった。小舎の周囲に立ってゐる大きな樅の木に、強い木枯(こがらし)があたって、物凄い響きをたてるほかは、近くに、人声さへしない。
 全く二人きりだ! 駿治の胸は急に騒ぐのを覚えた。
 ベットの上に腰かけたアンナは、ホテルの帳場で買ってきた、ヨセミテ公園案内記を読み続けた。
 反対側のベットに腰を下ろして、駿治はアンナの横顔を見つめた。彼の心は、全く彼女の輝きで、蝋のやうに溶(とけ)けさうであった。
 控へ目勝ちなアンナは、彼のやうに、熱情的ではなかった。然し、案内記のなかにはひってゐる世界一の桧を、駿治に見せてやらうと、彼の傍に、並んで坐った。それで、駿治は、右手を伸ばして、彼女の肩に手をかけ、静かに、彼女の見せてくれる絵を覗き込んだ。

颱風は呼吸する17

  埠頭

 銅鑼が鳴る。見送客は急いで、階段の方に群る。五色のテープが投げられた。十一月十三日の金曜日だといふのに、別に不吉な徴候も見えず。波は静かだし、太陽はまばゆいほど照ってゐた。
 見送りなんかしなくともよい、と断ったけれども、会社からも家からも、三、四十人の見送人があった。その中でも、最も嬉しかっだのは。支配人の近藤兵蔵と、越谷の長兄斎藤誠之がきてゐたことであった。
 二等といっても、秋父丸の二等は、関東電機の応接室より立派なものであった。枕の上に花束が一つ置かれてあった。それについてゐた名刺には、柴田春枝と印刷してあった。
(なんだ、あの会社の女の給仕が花束を寄越してるな。あいつもなかなか気の利いたことをするなア。俺についてこんなにまで興味があったなら、俺ももう少し彼女に興味を持てばよかったになア)
 そんなことを考へながら、船室からA甲板に上ると銅鑼が鳴ったに拘らず、花束を持って急いでやってくるのは、せきせいいんこのやうな着物を着だカフェ鈴蘭の女給園子であった。彼女は頭がデッキに着くくらゐ丁寧なお辞儀をしていった。
『お女将さんが、お見送りにくるはずでございましたが、私に、行ってくるやうにといはれましたので、ちょっとお伺ひいたしました、どうかお達者に』
 さういって、彼女は、柴田春枝が持ってきたと同じやうな花束を駿治に渡した。息苦しさうに岸壁を走ってくるのは、顔の膨れた、川越の姉の愛子であった。船の下から伊原の義兄が、ハンカチを振って駿治に合図をした。なんに感じたか、漾子姉さんはハンカチで眼を拭いてゐた。
 月島の工場からも、職工の一団が見送りにきてゐた。芝浦の営業部の番頭も、倉庫の連中と一緒になって五、六人見えてゐた。
 二度目の銅鑼が鳴った。階段が外された。汽笛が鳴った。船は岸壁を離れた。幾千となく舷側に、投げ交された五色のテープが、片っ端から切れて行った。女の給仕柴田春枝が、特に熱狂して、ハンカチを駿治に向って振ってゐるのが目につく。
 船は速力をかけた。大地が後に退くやうに思はれた。埠頭に立ってゐる幾干の群衆が、小さくなってゆく。白いハンカチが幾百となく、波打際の白い泡のやうに沸いてゐる。功名心に燃えた駿治には故国を離れる悲しみなどは、少しも考へられなかった。否、寧ろ、埠頭に立って、蟻のやうに蠢(うごめ)いてゐる。背の低い日本人が可哀さうだとさへ思った。
(日本にはずゐぶん人間が多いなア)
 そんな風にも思った。
 東京湾を出て、房総半島の先を廻った時には、もう暮に近かった。
澄切った西の空は、金色に彩られ、黄昏の富士は紫色して、駿治の鹿島立ちを祝福するかの如くに見えた。
 船は黒潮を横切って東南に走った。生れて初めて太平洋に乗出した彼は、嬉しくて船室にぢっとして居ることが出来なかった。犬吠崎の燈台を見送り、もう日本の陸地が見えないといふ頃まで、デッキの上に立ちつくした。日本を離れてから二日路ほど波はあったけれども、あとはまるで、畳の上を行くやうなものであった。
 ハワイで半日程上陸した駿治が、また五日ほど船に揺られて、金門湾の荘厳な米大陸の一角を望んだ時は。十一月の二十七日であった。

  ポスト街の下宿

 アメリカといふ処が、相当日本とは違った処だと思ってきた駿治には、少し見当が外れた。サンフランシスコ東京より賑やかではなかった。自動車の数も別に多いとは思はなかった。もし敢て違ってゐる処を見つけやうとするなら、それは言葉だけの差であった。
 彼が中学校と専門学校で習った英語は、なんの役にも立たなかった。
 幸ひ、サンフランシスコのマーケット街で、手広く商売をしてゐる谷本商会から出迎へがきてゐたので、上陸には困難しなかったけれども、そこから紹介された白人の 下宿に着いた時には。全く唖の旅行のやうな気がして、すぐにでも日本に帰りたいやうに思った。
 然し言葉はわからないけれども、下宿させてくれるお女将さんの親切はわかった。
 すぐ彼女は、谷本商会に働いてゐる、彼女の長女のアンナに紹介してくれた。アンナは、顔の美しいギリシヤ人のやうな鼻をした、痩型の女であった。またその下のハイスクールに行ってゐるグレースといふ、姉より背の高い妹に紹介せられた。
『まだもう一人ボーイがあるんですがね、どこかへ遊びに行ってゐませんから、そのうちに帰ってくれば、御紹介しませう』
 お女将さんのシャロッテは、はきはきした口調でさういった。彼女は親切に二階へ連れて行って、駿治の部屋を見せてくれた。そして。
「これがあなたのベットで、……これがあなたの勉強するテーブルで……ここにがあなたの洋服かけで……これがあなたの洗面所で、ここがあなたの便所です……』
と丁寧に教へてくれた。
 娘のアンナが、折目のついた純白の手拭を、幾条も隣の部屋から持ってきて、洗面器の前の手拭掛にかけていった。部屋は八畳敷くらゐしかない、狭いものであったが、街路に向った、気の利いた、明るい部屋であった。紺色の壁紙も気に入った。
 言葉は充分わからないけれども、お女将さんのシャロッテは大の日本人好きで、今日まで、日本人を六、七人も下宿させた、といふことを自慢にしてゐた。
『日本人はみんな行儀がよくて、親切な人ばかりですね。みんな紳士ですよ』
 彼女は、駿治にわかるやうに、そろそろ発音して、そんなお世辞もいふてくれた。
 然しほんとのことをいふと、お女将さんのお世辞より、駿治にとって嬉しいことは、年頃の美しい娘が二人もゐる寡婦の家に、彼が下宿することが出来たことであった。
(後に知ったことであったが、お女将さんは、まぢかのホテルの使用人として働き、アンナと親娘して、二人の子供の教育に専念してゐる、まことに小ぢんまりしたいい家庭を持ってゐた)
 谷本商会の主人、谷本満氏は、英語の練習にもなり、日本人のよ
く遊びに行く、よろしくない処から遠ざかるやうにと、ショロット・へースの家を選んでくれたのであった。
 そのよい下宿についたばかりに、駿治はアメリカがすっかり好きになった。晩方、電車を下りて、ポスト街を上って行く時、彼は、女将さんのショロッテの微笑に迎へられた。彼は、アンナやグレースや、ローイといふ男の子と一緒に、貧しい食卓に着くのがどんなに幸福に思はれたか知れなかった。
『もう、あなたはサンフランシスコにお馴れになりましたか?』
 ショロッテが、鶏の煮附けを、大きなナイフで切りながら駿治にきいた。
『ええ、この家にきたばっかりに、私はサンフランシスコが、特別好きになりましたよ』
と、彼は真面目に答へた。

  アンナ

 アメリカに於る、関東電機会社の電球は、サンフランシスコの谷本商会の手を経て売捌かれてゐた。それで、店主の谷木満は、彼の事務室の一隅に、駿治の事務机を作ってくれた。
 彼がサンフランシスコに着く前の週間に、クリスマス・ツリーに飾る豆電球が十万箇ほど、谷本商会の倉庫にはひってゐた。まづその十万箇の豆電球を、太平洋沿岸のデパートメントストアに売込むことが、クリスマス前の駿治の主なる仕事であった。何しろ、話にならぬほど安かった。で、英語の少し出来る谷本商会の番頭と二人で、デパートを廻ると、サンフランシスコだけで、半分以上が一週間で売れてしまった。そしてあと五万箇は、ローサンゼルスの大和商会が、全部引受けると申込んできた。
 ポスト街の下宿は、三階の大きな建物であったが、へースの一族は、三階を、瓦斯会社に勤めてゐる職工の一家族に貸していた。
 然し主人は朝早く家を出て、晩遅く帰ってくるので、日曜日でなければ、その男の顔を見ることは稀であった。アンナは家に帰ると客間の安楽椅子に腰を下ろして、お母さんへのクリスマス・プレゼントにするのだと、毎日純白の毛糸でスエターを編み続けてゐた。
 小学校の四年生になる末っ子のローイは、組立ラヂオのセットを買ってきて、自分の寝室にはひったなり、なかなか出てこなかった。グレースは、ピアノの稽古に遠くまで通ってゐたので、夕飯時でなければ、顔を見ることは珍しかった。お女将さんのショロッテは、いつもホテルから三時頃帰ってくると、台所にはひって、カステラを焼いたり、クッキを作ったりして忙しくしてゐた。
 それで、暮方に駿治が家に帰ると、大抵、戸を開けてくれるのはアンナであった。アンナはいつもにっこりして、
『お帰んなさい、疲れたでせう? まあお掛けなさいまし』
 と、彼が家族の一人でもあるかのやうに、駿治が、言葉の充分出来ない、東洋人であることも忘れて、彼を客間に通してくれた。そして彼女の坐ってゐる反対側に据ゑられた、大きな肘掛椅子を、駿治に、提供するのがいつものことであった。
グレースはまだ帰ってこないんですか?』
 駿治はいふことがないので、肘掛椅子に腰を下ろしながら、そんなことをいった。
ピアノのお稽古からまだ帰ってこないんですよ』
 と、アンナは、スエターを編んでゐる手を休めて、駿治に、二つの瞳を向けながら、澄みきった声でさういった。
 彼女は、彼を『ミスタ・サイトウ』とはいはないで、『シュンジ! シュンジ!』と呼捨てにして、スエターを編む針を運びながら、幼い時の思ひ出話や、女学校時代にテニスをして負けた話など、ナンセンスな物語を、面白さうに小声でぽつりぽつり話してくれた。
 アンナの家に下宿して。二週間ほど経った木曜日の晩であった。テニスの話から、アンナは、
『シュンジ! この次の日曜日にね、家の者みんなでね。公園に、
テニスしに行きませうか?』
 と、単調な生活に苦しんでゐる駿治には、思ひがけないよい話を持出してくれた。勿論、彼は賛成であった。それで、次の日曜日の午後、家の者みんなは、ラケットを持って、金門公園に出かけた。アンナはファオルばかり出してゐた。然し、みんなよく笑って幸福であった。

  風邪気味

 『おはひり!』
 ベットに寝てゐるアンナは、やさしい声で駿治を呼入れた。もうあと一週間で、クリスマス休みになるといふのに、アンナは、昨日公園でテニスをして、発汗した儘、スエターも着ないで帰ってきたので、風邪をひいたと見え、月曜日は一日起きてこなかった。それで、これといった用事のない駿治は、昼飯に、アンナが困るだらうと思って、十二時前にちよっと、家まで帰ってみた。
『熱は出ない?』
 駿治は、大理石のやうに白いアンナの横顔を、見つめながら尋ねた。
『いいえ、大したことないんですけれどね、頭痛がして、めまひがするものですからね、今日だけは無理しないことにしたんですの……あなた、何か御用事? 忘れものでもあって?』
 アンナは、ブロンズ色の鬢(びん)の毛をかき上げながら、寝返りしていった。
『いいえ、別に物を忘れたんぢゃないんだけれど。お母さんがいらっしやらないし、あなたが昼飯に困るだらうと思って、ソーセージ・ミートを買って、持って帰ったんですよ』
 さういって。彼は、白い、やや大きな皿に並べた、羊の腸に詰めたホツト・ドッグを、アンナに見せた。
『まあ、あなた、気かきいてゐるわ! あなたは。ずゐぶん良いボーイね』
 さういってアンナは、彼女の左手をさし伸べて、駿治の握手を求めた。それで、駿治は、その手を両手で握りしめて、更にそれを、彼の唇に持って行った。
『シュンジ! あなたは、クリスマス休みにどこかへ行くの? 私と二人でヨセミテへ遊びに行かない? なかで一晩泊ってね、世界一の桧を見てこない?』
 アンナは、駿治が握った手を振放さうともしないで、落着いた口調でいうた。
『それまでに、アソナ、病気治る?』
 駿治は、彼女の手を彼の二つの手の中で揉みながら、訊いた。
『私の病気? 私はもう、明日起るのよ。大丈夫なの。咳さへ出ないくらゐなんですもの、なんでもないのよ』
 彼女は、瞬きもしないで、駿治の顔を見つめた。古典的な彫刻物のやうに、桜色したアンナの皮膚が、喉元から乳へかけて芙しいふくらみを持ってゐた。それか余り美しいので、駿治はなんだか、彼女に接近するのが、恥かしいやうに思はれた。
ヨセミテつて、どこ?』
『そら! あなた知らないの、国立公園ですよ、豹が出てきた――私、まだ行ったことがないから、是非、今度。行ってみたいと思っ
てゐるの。十ドルもあれば行ってこれるのよ、一緒に行きませうよ。ねえ』
 手当をも含めて、月百ドルしかもらってゐない駿治は、十ドルで行ってこれると聞いて、安心した。
『そんなに安くて、行ってこれるの?』
自動車を借りると、往復ニドルくらゐで行ってこれますよ。誰かの自動車借りない? 私、ドライヴしてあげるわよ』
 病人は、むっくり、ベッドの上に起上った。
『あなたが買ってきて下すつた、ホット・ドッグでも戴きませうかね』
 アンナがさういったので、駿治は、彼女の手を放して。側のテーブルの上においてあった、ソーセージ・ミートを彼女の方に運んだ。

  古い自動車

 夏冬あまり気候の変らないサンフランシスコでも、クリスマスといへば、やはり寒い気がした。アンナは、箪笥の底から毛皮のついた外套を引張り出して、マーケット街の谷本商会に通ふやうになった。
 あれほど、駿治と親しくしてゐても、事務所にくると、アンナは決して駿治に言葉をかけなかった。それほど、彼女は勤勉でよく仕事の能率をあげてゐた。
 然し、駿治が、古自動車を一つ買ひたいといひ出したので、すぐ、それが店の話題となった。
『君は、運転出来るんかい? あぶないなア。少し稽古してから、買ったらどうだね』
 腹のでっぷり肥った谷本満は冷かすやうにいった。
『いや、白状しますがね、アンナが教へてやらうといふもんですから、教はるつもりなんですよ』
 上衣をとって、チョッキだけになった斎藤駿治はストーヴの前で。手を揉みながら少しも匿さずに、事実を吐いた。それを聞いて、永年、谷本商会に勤めてゐる正木明は、真面目くさった顔をして、ストーブの灰を掻き落しながらいった。
『ウム、アンナなら大丈夫だよ、なかなか腕はしっかりしとる。
……ほんとに、あの娘は感心な娘だぞ。ハイスクール時代に、一週間ばかり、お友達のフォードで練習したんださうだが、なかなか運転は上手だよ!』
 日本であれば、若い娘が、青年に自動車の運転を教へるなどいへば、すぐに噂を立てられるけれども、それが普通になってゐる北米では、駿治が、アンナに対して抱いてゐる感情を、何人も汚れたものとして、取扱はなかった。
 正木は親切に。百五十ドルで買へる中古のフォードを、彼の知ってゐる日本人の自動車屋から、買収る手続をしてくれた。そして、代金も月賦でよいと教へてくれたので。駿治は、忽ち、一台の自動車の所有者となった。
 『アンナ、自動車が手にはひったよ! 帰りに秉って帰らない?』
 駿治は、階下の自分の部屋から。二階の彼女の事務室まで上って行って、さう報告した。
『まあ、いいこと! では帰りにその自動車を、取りに行きませうよね』
 アンナは、廻転椅子をぐるりと廻して、入口に立ってゐる駿治に答へた。
『いや、もう車はきてるんだよ。向ふから持ってきてくれたんだよ。帰りには、ただ乗って帰ればいいんだよ。これから、毎朝事務所に通ふのも、車で往復出来るから便利だね』
 駿治は、圧さへきれない悦びを、態々日本流に隠すために。小声でさういった。
 その日の午後四時、アンナは自転車にでも乗るやうな調子で。駿治を傍に乗せ、ポスト街の丘の上まで、二十分問足らずで、帰って行った。
 主婦のシャロッテは、二人が自動車で帰ってきたのを見て、びっくりしていた。
『便利なものが手にはひったね。これからは、毎日曜に、自動車に乗って遠乗りが出来るわね、このクリスマス休みにも、遠くまで遊びに行けるぢゃないの!』
 母のシャロッテは、古い車に目を止めながら、早口でいった。
『行くんですよ、お母さん! 私はね、シュンジと二人でね、ヨセミテへ行かうと思ってゐるの、お母さん、行ってもいいでせう?』
 アンナは、帽子を鏡台の上におきながら、母の許可を求めた。
『大丈夫?』
『いいですとも』

颱風は呼吸する16

  痴愚

 来月アメリカへ出発するといふのに。駿治は少しも準備が出来てゐなかった。旅行免状の下附願は。代言人に書いてもらった。然し、憲友会の代議士に頼むと許可が早くくると、支配人の近藤兵蔵が注意してくれたので、姉に無心をいひ、菓子折を一つ持って、憲友会の代議士勝浦又兵衛を訪問した。
 勝浦は、総選挙の度毎に、少からざる選挙運動費を、関東電機の社長今岡幸太郎からもらってゐるので、にこにこしながら会ってくれた。そして心持よく、旅行免状がすぐ下るやうに運動してやるといってくれた。
 旅行免状はそれで片づいたが、旅費をいくら出してくれるか。それがわからなかった。二等の運賃だけは呉れさうだと、他の者もいってゐたが、二等だと上陸する時困難すると人にいはれたので、支配人にきき質さうとも考へたが、
『あまり無理をいへば他の者を遣るから……』
 と、いはれるのが恐ろしかったので、黙々として御宣託の下る日を待ってゐた。
 眼科病院に行って、眼の診察もしてもらった。胃腸病院に行って、寄生虫の検査もしてもらった。その結果。真田虫と十二指腸虫がわいてゐると聞かされて、一日絶食して、虫下しの薬を飲んだ。
 物質上の準備は大体出来た。然し、まだ出来ないのは精神上の準備であった。義理の兄の伊原忠男は、五日目に釈放されて、警察から帰ってきた。然し、それと入替りに、埼玉県越谷で郵便局を開いてゐる長兄斎藤誠之の息子が、左翼思想に関係したといふ理由で三田署に検束された。
 長兄が越谷から出てきた。そして、駿治と二人で、三田署へもらひ下げに行った処が、面会さへさせてくれない。
 刑事は、二十九日経たないと誰にも面会させないよ。と紋切型のことをいうた。空しく家に帰ってくると。川越の姉は流産したと通
知してきてゐた。破落戸新聞の記者が、次から次へどうして知ったか、酢の密造を種に伊原の店へ恐喝にやってきた。
 松代は。縫ひ方が悪かったとかで、また髪の毛を少し剃り落して、病院で傷口を縫ひ直した。一つとしてよいニュースは、駿治の耳にはひらなかった。末世末法といふのは、こんなことだらうと、駿治は、考へざるを得なかった。
 かうした生活の圧力のためであるか、感じ易い駿治は、電気学を勉強する興味さへ失ったやうに思った。
(なんのための電気学だらう。幸福は地上から逃去り、愉快といふものは。人生から逃亡してしまった今日、科学も、修養も、なんの役に立つものか?)
 深い疑惑が駿治の胸一杯に拡がった。なんとなしに破壊的になって、心中してくれる女でもあれば、一緒に死んでしまはうか、火をつけてもいい家があれば、焼捨てたい気持になった。そんな晩に限って、女が慕はしくてならず、頭の紐帯がとれないので、友人の下宿に同宿してゐる松代を訪ねて行くのが、毎日の日課であった。然し、駿治に金のないことを知つてゐる松代は、
『今夜はね、うちへお宮様がきますからね、済まないけれどもあなたは、気をきかして帰って頂誠よ』
 などといふ冷たいことをよく繰返した。
 その時は憤慨しても、諦められないのは駿治であった。必ず毎日一回は、松代の顔を見ることを一日の行事のうちに加へてゐた。
『あなたは余程馬鹿ね、そんなに私の処へ遊びにきたければ、私の生活費くらゐは保証しなさいよ』
 松代がさう罵るやうに彼にいったけれども、まだ諦められないのは駿治であった。

  銭別

 十月も、今日一日といふ晦日の午後であった。会社の店から駿治は月嶋工場に出かけようとしてゐた。すると支配人の近藤が、彼を麾(さしまね)いて、
『君、十一月の十三日に、秩父丸が出るから、それで行くやうにと、社長からの命令があったよ』
 駿治は手帳についた、暦を繰ってみた。それは、金曜日であった。
(なんだ! 金曜日の十三日に船出せいといふのか! 縁起の悪い日を選んだものだなア)
 然し、それも社長の命令であった。宗教を信じないことを誇にしてゐる、小工学者斎藤駿治にも迷信はあった。いや、それは宗教以上に、彼の脳底にこびりついて。なかなか離れなかった。然し、また無理をいへば、ほかの人を遣るから、といはれるのが恐ろしさに、黙々と頭を下げて引下がった。
 玄関を出ようとしてゐると、彼の耳に支配人の近藤が、秩父丸の二等を予約してゐる電話をかける声が聞えた。
(なんだ、やはり二等しか奮発してくれないのか、吝だなア)
 さうは思ったけれども、これまた無理をいへば、アメリカを見る機会を失ふと思ったので、黙々として、会社の方針に絶対服従することにした。
 さて、いよいよアメリカに行く切符は買へたけれども、会社ではどれだけ手当をくれるか、それが明瞭ではなかった、それで、駿治はおそるおそる、姉の漾子に事情を打明けて。二、三百円、義兄に貸してもらってくれないか、と申込んでみた。酢の密造をやってゐても、そんなことにはなかなか義理堅い伊原忠男は、へらへらと笑って、現金三百円を、まだ折目のつかない百円札で渡してくれた。
『もう少ししたいんですかね、何しろ、あなたの知ってゐる通りの不景気でせう、これだけは銭別として進呈しますから、自由に使って下さい』
 顔の四角な二重瞼の伊原忠男は、雲斎(うんさい)の前垂の下に片手を突込んで、目を伏せた。平素は、義兄をよく思ってゐなくても、こんな時に力になってくれると馬鹿に嬉しいもので、駿治は二つの頬ぺたに皺を寄せて、明るく笑った。
『済まんですなア。僕だって、いつまでも素寒貧ではゐたくないんですから、何か、うまい発明でも出来る時まで、ぢやあ、このお金は拝借しておきます』
 人の好い漾子は、忠男が弟に尽してくれることを、ほんとに嬉しく思ってゐた。
 伊原忠男が、銭別を三百円した、と聞いた越谷の兄貴は、四百円持ってきた。これには、駿治もびっくりしてしまった。
『何かにつけ、風習の違った処へ行くんだから、まあ、少しは準備してゆかないとなア』
 さういって、妙な処に力を入れてくれた兄の誠之は、金を置いて、すぐまた、引続き検束されてゐる息子を、釈放してもらふために、讐察署に廻った。
 七百円財布にはひった駿治は。金の威光を見せてやらうと、すぐ新宿のカフェ鈴蘭に飛んで行った。
 然し彼がはひっても、誰一人椅子にかけよと勧めてくれるものはなかった。繃帯のとれた松代は、彼女に傷を負はせた博奕打の親分とかいふ、まだ年のあまりいってゐない中年の男と、テーブルの下で足を組合せて盃を交してゐた。他に四人の客が四つのテーブルを占領してゐた。その中の一人は酒を飲みながら、低い声で流行唄を口ずさんでゐた。

  清算

 空いてゐるテーブルは一つであった。それは奥への出入口に一番近い処で、松代の腰かけてゐる場所とは、対角線の丁度反対側にあった。松代の客に遠慮した、押しの弱い斎藤駿治は、空いたテーブルの前にちよっと腰を下ろして、バアの前でコップを拭いてゐた芸者上りの、丸髷を結った女将に、別れの言葉を述べた。
『おかみさん、今夜はお別れにきましたよ、僕は、一、二年、ちょっと、アメリカから、ヨーロッパの方へ廻ってきますからね、当分の間、お目にかかれないと思ひますよ』
 そこへ、正月にでも着るやうな、美しい裾模様のついた青色の錦紗(きんしゃ)の着物に、大きな錦の帯を結んだ園子が、ウヰスキーのお替りを取りにきた。そして。駿治の挨拶を聞いて。歯切れよい言柴でいった。
『では、斎藤さんも、いよいよ御出発ですか? 船は何丸ですの?……私も連れて行って欲しわ』
 女将は、ウヰスキーの大瓶から、小さいコップに、黄色い酒を注ぎながらいった。
『ほんとにね、一生に一度でいい、私達も世界漫遊したいわね。斎藤さんのトランクの隅にでも、入れて行ってくれるといいわね、おほほほほ』
 園子はまた、ウヰスキーのコップを持って立去った。要領のいい女将は、比重の違った葡萄酒を、円錐形のコップに注ぎ始めた。
『ぢゃあ、お祝ひにコクテルでも奢らしてもらひませうかね……まあ、お掛けなさいましよ、斎藤さん、お急ぎぢゃあないんでございませう?』
 駿治を、あいたテーブルの前の席に坐らせて、女将みづからが三色のコクテルを運んできた。松代が、葡萄酒を一瓶とりにきた。そして駿治を目の前に見ながら素通りしてゆく。それを見た女将は、彼女の快を捉へた。
『斎藤さんは、もう御出発ですって! この十三日の秩父丸でお立ちになるんですってさ』
 さういったけれども、松代は見当違ひの返事をした。
『おかみさん、ポートワイン一本抜いて下さい』
 駿治は、松代が、なぜそんなに彼を嫌ってゐるか、その理由がわからなかった。然し、もしも怒る理由があるとするなら、彼女を医者に連れて行って、十五円の手術料を彼が払はないで。彼女が女将に借りて自弁したといふ処に、吝な蟠(わだかま)りがあると気がついてゐた。で、彼は、松代にいった。
松代さん、この間の晩、あなたが怪我した時に、おかみさんに借りた金ね、僕が払っておくよ』
 さういって彼は、態々札束を財布の中から取出して。百円札を一枚、カウンターの上に置いた。
『おかみさん、これね、この間松代さんか借りてゐた十五円を、僕からお返ししますよ』
 大抵なら『いいのよ、私払ひますから』といふ処を、多くの男に守られた松代は、羞恥心とか、遠慮とかいふものを持つてゐなかった。あっさり、顔も見ないで、簡単にいった。
 『あなた、ずゐぶん、今夜は、お金を持ってんのね。奢んなさいよ、少し』
 女将は百円札をかへる金を持ってゐなかった。園子がその札を持って、どこかへ替へに行った。園子が百円札を持って表に馳け出して行ったので、そこにゐた十人ばかりの女給に、駿治が金を持ってゐる、といふことがすぐに解った。松代は第一に博奕打の親分を捨てて置いて、態々(わざわざ)駿治の傍に椅子を運んできた。そして五体を駿治の身体へすれすれに持ってきた。

  百円札と彼女

 表から帰ってきた園子も、他の客を放っておいて、駿治の真向ふに席を占めた。学生らしい男と酒を飲んでゐた、背の高い昨今この店にやってきた美人も寄ってきた。特別きつい香水を襟筋にふってゐる、背の低い年増の、丸顔の女も、園子の傍に腰を下ろした。そして、松代は今夜に限って、愛想よく、駿治のシガレットに火をつけたり、彼の落したナプキンを拾ひ上げたり、百円札を見てからの彼女の態度は、全く一変してしまった。
 この時だと思った駿治は、財布を取出して、百円札をテーブルの上に、六枚並べて見せてやった。そして彼は。松代にいった。
松代さん、君はあまり現金だなアー 僕に金がないとみると、見向きもしないでおいて、少し金を持ってゐると見ると、すぐにやってくるぢゃないか。俺はなア、今夜、君等の頬ぺたを札束で、殴ってやるつもりでやってきたんだよ。俺も男だからなア。金で自由になる女には、もう目をくれないつもりなんだ!』
 さういふなり、彼は、ポケットに捩込んでゐた、一円札十枚を束にして、駿泊の腕にすがりつくやうにしてゐた松代の頬ぺたを、その札束で殴りつけた。松代は馴れたもので、
『ああ、いい気持! 百円札の束でもっともっと殴って欲しいわ……』
『よし、希望ならばなんぼでも殴ってやる!』
 さういふや否や、駿治は百円札を引っつかんで、白粉を塗った松代の左の頬ぺたを五、六回叩いた。そして、一円札十枚をテーブルの上に投出し。
『おかみさん、さよなら!』
 さういふが早いか、彼は、表に飛出した。
 松代はびっくりして駿治を見てゐたが、駿治には深く決する処があった。
(ああ気持がよかった。金のほかに何物も知らない、あの松代を、百円札で叩いてやったことは、痛快だったなア。俺は。もうカフェ鈴蘭には二度と行くまい。俺は大陸を渡って、うんと勉強するつもりだ)
 新宿の大通には、人が一杯になってゐた。人間、人間、人間、人間! 夜店、夜店、夜店、夜店! まばゆい電燈と、ネオン・サインと、電気蓄音器と、人いきれとで、狭い街は息苦しく感ぜられた。人混みの中を、駿治は泳ぎながら。循環道路の角までやってきた。
 彼は、鉄のポールの根っこに身体を寄せつけて、暫くの間、主観を離れて。超然とした気持で、なんのために、みんなが。こんなにうようよしてゐるのか、といふことを考へ直してみた。交通巡査の信号で、潮のやうに流れてゐた人間と車の行列が、ぱたッと停る。そして、直角の道が開かれる。
(然し、なんのために人間が生き、なんのために人間が歩いてゐるんだらうか?)
 なんとなしに馬鹿臭いやうな気がする。一切の科学も、一切の金儲けも詰まらないやうな気がする。
(さうだ、俺は、日本を離れる機会にもう少し哲学的になってやらう!)
 彼は京王電車に乗って、代田橋に帰る途中でも、松代の頬ぺたを百円札で殴った痛快さが思ひ出されて。ひとりで微笑が洩れてきた。
 店に帰って二階に上ると、漸く自分といふものがはっきりしたやうな気がした。冴えきった秋の月が、窓の障子を、銀色に照らしつける。
(ああ! いい月だなア、 女を清算してくると、月までが明るいわい。武蔵野の明月を見るのも、当分これが最後だなア)
 駿治は心のうちでさういった。

颱風は呼吸する15

   沈黙

『えらい、今夜は、平常の唯物論とは逆なことをいうてゐるぢゃないか、君は! ふふふふ』
 駿治がさう冷かすと。
『別に唯物諭とは衝突しないかね、確かに性慾は恋愛の墓場だなア。実際、俺はずゐぶん女と関係してきたが、関係がつくと俺はもういつもその女が厭になったなア。だから関係しないでゐて、しんみり交際してゐる間は。非常に幸福でもあり、甘い感じを受けてゐても、その程度を超えると。厭気がさして、その女を振返ってみることさへ厭になる場合が多かったなア。殊に、若い女学生などを相手にする場合などは。関係が出来ると、結果は面白くなかったよ。近頃の娘はずゐぶん自由になって、深人りしたがる者も多いけれどもそんな場合には、よく僕の方から教へてやることが多かったね』
 太田はいかにも、その道の通人のやうなことをいった。駿治は、放蕩にはまだ素人だったので、感心して聞いてゐた。
 バスが何台も、二人を追ひ抜いた。近いやうでも遠いのは、広い東京の道である。太田はたうとう閉口して、バスに乗らうといひ出した。然し、駿治は、是非、別れる前に、特許権侵害の問題を、もう一度持出す必要があると思った。それで、バスを停留所で待ってゐる間に、口を切った。
『君、また煩い話を持出して済まないが……うちの支配人の考へでは、どうも、あの君んとこの機械が、関東電機の特許権の侵害になる、といってるんだがね』
 太田は、その言葉を聞いて、ぷりぷり怒り出した。彼は持ってゐた吸ひさしのシガレットをそこに投つけて、罵るやうな口調でいうた。
『君もわからん奴ぢやな。出てくる時に、あれだけ君に説明したぢやないか。僕がいった通りに、君んとこの支配人に説明してくれたらいいぢやないか! その上で、近藤が僕を訴へるなら訴へてもいいよ』
 太田は、彼の顔を。決して駿治に見せないで、癪にさはった表情を示すつもりか、靴でバスの停留所の信号標をぽんぽん蹴った。
『近藤の方では、うちの親父でも訴へるつもりかい? 君』
『まあ、さうなるだらうと思ふなア、僕は――』
『なに、関東の方でさうするならしたらいいさ。その代り、うちの方でも復讐的に、関東の盗電問題を持出して、公にきゃつ等の恥を
曝してやるさ』
 その言葉に、駿治は少からず驚愕した。それは、駿治も、関東雷機会社が、メートルを通さない電力を、毎晩コンデンサーに盗んでゐることを、今まで、度々見てゐたからであった。
 そんな話をしてゐるうちに、バスがやってきた。太田は先に飛乗った。それで、駿治も彼のあとに従った。然し、行く時にはあれほど快活に話した太田が、浅草の営門に着くまで全く沈黙してしまひ、いよいよ別れる、といふ時になっても『さよなら』の言葉もかけないで、彼は市内電車に飛乗ってしまった。友人の奇妙な態度に憤慨はしたが、どうすることも出来ない駿治は、奮発して、地下鉄をとり、上野で、省線に乗換へて、池袋を廻って新宿に出た。
 金は持ってゐなかったけれども、駿治はまっすぐに、代田橋に帰ることが出来なかった。また長い地下道をくぐって、新宿駅の東出口から、新歌舞伎座裏のカフェ街へ急いだ。

   野獣の群

 然し、これはどうしたことだ! カフェ鈴蘭の入口には、大勢人だかりがあって、中では、猛烈な喧嘩が始まってゐた。背伸びして、人の肩の上から内部を窺ってゐると。暴れてゐるのは、昨夜松代がその腕にすがってゐた、デブさんであった。デブさんは、テーブルの上にあった洋食皿をひっつかんだ。
『無茶しちやあ、駄目よ、寺西さん!』
 女給の一人が、大声にさう叫んでゐた。
 デブ君はその洋食皿を、松代に連れられて、奥へはひってゆく酔払ひを、目がけて投げつけた。運悪くその洋食皿が酔払ひにあたらないで、松代の頭に当った。
 『あ、あ、痛ッ!』
 松代が大声に叫んで、その場に倒れてしまった。デブ君は、松代が倒れてゐるのを見るや、群衆を押分けて逃げ出ようとした。
 さっきからの光景を、入口に立って見てゐた駿治は、デブ君の逃亡を阻むために、学校で覚えた柔道の手をつかって、テブ君を入口で引っつかまへて、そこに投げ倒した。そして、デブ君の上に馬乗りになって、彼の咽喉元を締めた。
『おい! 俺を殺すつもりか! 殺すなら殺せ!』
 酒に酔払ったデブ君は、細い眼をぱちつかせて、酒臭い息を、駿治に吹きかけながら、嗄れ声で怒鳴った。
 女給が出てきた。そして松代に乱暴したデブ君を取押へたことを、女給達が喜ぶだらうと思ってゐると、女給の一人が、駿治の首筋をつかまへて後にひっぱった。またもう一人の女給は駿治の頬ぺ
たを掌で殴った。駿治はなんのことだか、さっぱりわからないので、多分酔払ひのデブを赦してやってくれ、といふことだと思ったので、すぐデブをゆるしてやって、そしてつかつかと、カフェ鈴蘭の内へはひって行った。
 不幸にして松代の傷は深かった。血がなかなか止まらなかった。こんどは女給がびっくりした。ハンカチを持出して、頭の傷を拭くものもあれば、手拭をひき裂いて、繃帯代りにしようといふものもあった。
 然し、要領のいい駿治は、すぐ松代を背負うて、二丁ばかり離れた医者の処まで走り出した。生憎、そこの医者は留守であった。それで、またもう一丁走って、頭の傷を三針縫ってもらった。
 手術が終った時に、松代は漸く元気がついたと見えて、物をいひ出した。それで、斎藤駿治は、あのデブ君が何者であり、松代が奥へ連れて行かうとした酔払ひは、何者であるかと訊いた。そして松代の意外の返事に、彼は唖然としてしまった。
『デブさんは、あれは掬摸の親分なんですよ。そして奥へ連れて行かうとした酔払ひはあれは博奕打よ』
 それを聞いた時、カフェの女給といふものは、あさましいものだ、と彼は思った。チップをくれさへすれば、拘摸の親分の腕にでもすがりついたり、博奕打の親分の機嫌をとるのだと思ふと、あさましいことだと思はざるを得なかった。
 彼が、松代の片腕をとって医者の玄関まで出ると、
『ああ、もしもし、料金を載きます』
 と看護婦が声をかけた。
『おいくらですか?』
 と、駿治は訊き返した。
『十五円載きます』
 と看護婦はびっくりさせるやうなことをいうた。どこを探したって、駿治にそんな金のある筈はなかった。

  脅迫

松代さん、あんたお金持ってゐる!』
 彼女は頭を左右に振った。そして、蚊のなくやうな声で、駿治の耳許で囁いた。
『鈴蘭の親方が貸してくれるでせう』
 その言葉を聞いて。やや安心した駿治は、看護婦にいった。
『慌ててきたものですから、お金を持っでくることを忘れちやったんですよ。つい筋向ひのカフェ鈴蘭のものですからね、今すぐ持ってきます』
 松代はそろそろ歩き出した。めくらみがするといふものだから、駿治に彼女の左腕を支へてもらひ、一歩歩いては休み、二歩歩いては立停った。海綿のやうに柔かな彼女の乳房が、気持のいい程なめらかに、彼の上腿部に摩擦する。
 やっとのことでカフェに着くと、他の女給達は、松代の頭の繃帯を見て、彼女の周囲に群ってきた。
『二階に、床をとってあげませうね』
 さういって、園子が階段を飛上って行った。
『大丈夫? 頼りないのね』
 鈴子が、駿治とは反対の方向から松代を支へた。
『傷が深くなければ、治ることは早いでせうね』
 もう一人の女給がいった。然し、松代は、一言の返事をも発しなかった。駿治に助けられて二階に上り、そのまま眼限を閉ぢて沈黙を続けた。
 彼は松代の寝顔をうち見守って、五分間くらゐもそこでぢっとしてゐたが、彼女が何もものをいはないので、そのまま、すぐ代田橋の義兄の店に帰った。
 然し、その晩は、珍しくもう午後十一時過ぎであったのに、店の戸は開いて居り、電燈は煌々とついてゐた。
(何か変ったことが起ったんだな)
 と、彼は不安な念を抱きながら、店にはひった。そして驚いたことには、人相の悪い印半纏や、半ズボンを穿いた破落戸(ごろつき)らしい男が、座敷に上って、姉としきりに談判をしてゐた。しかも表で立番してゐる男も一人ゐた。
 姉は、夫がインチキの酢を売るといふことから攻撃せられて、この破落戸連中の発行する新聞に、謝罪文を広告せよと。手強(てごは)い談判をせられてゐるところであった。
 姉は明快な言葉で、これを撃退してゐた。然し、そこに居た四人の破落戸は決して帰らうとはしなかった。駿治は暫くの間、彼等のいふことを内庭に立って聞いてゐたが、あまり姉が可哀さうだと思ったので。静かに、姉の傍に坐り込んだ。
『まことに申し兼ねますが、今晩は、これでお引取り下さらないでせうか?』
 元気のいい姉は、破落戸にさういって要求してゐた。
『広告を出してくれなければ、我等の新聞の株主になってくれませんか?』
 なかなか面白い戦術を、次から次へ、破落戸連中が編みだす。それで、駿治は、まづ二階に上り、二階から姉を呼んだ。姉が二階に上ってきた。
『姉さん、三円ぐらゐ渡してやんなさいよ。手ぶらで帰すと、またいたづらでもされると悪いからね。少しやって下さい』
 それで姉は、一円紙幣を状袋に入れて静かに階下へ下りた。
 『これは僅かですけれど、電車賃のたしにでもお加へ下さいまし』
 破落戸の一人は、それが紙幣であるのに気がっいたと見え、黙ってそれを受取って懐にねぢ込み。
 『ぢやあ、帰らう』
 といひ出した。

2014-12-17

颱風は呼吸する14

   色懺悔

 玉ノ井を出た二人は、あまり昂奮してゐたので、乗合自動車に乗るのをよして、隅田川の堤防の上をとぼとぼ歩いた。哲学的な駿治は、太田にいった。
『あれだけ性慾に迷うてゐる群衆を見ると、僕はもう、いやになっちゃったなア。俺は性慾の問題を離れて、あの可愛い娘達の永久の友人になってやりたいやうな気がしたよ……』
 彼は立停って、シガレットに火をつけた。
『いや。僕もさう思ったなア。僕等のやうに、放蕩が慢性になったものでも、深入りしてくると。結局、面白いのは性の問題を飛越えた、女そのものに面白味を感じてくるんだなア』
 駿治は太田の言葉に共鳴した。河岸で西風に吹きつけられた水が、落着きのない音をさせる。風がきついので帽子が飛びさうだ。帽子を飛ばさないやうに、中折帽を目深に被り直した駿治は。太田と並んで歩きながらいうた。
『さうすると、なんだね、君、女の面白さっていふのは、結局、性慾を離れた処にある訳だね』
『いや、あまり俗人離れしてゐるがなア。ほんとの女の面白さは、性慾ばかりぢやないなア、寧ろ、女と膝つき合せて、しんみり話し込むやうな時の方が面白いね』
『成程ね……さうかなア、さうかも知れぬなア。君のやうにいふと、性慾は恋愛の墓場といふやうなことになるなア』
 太田もシガレットの火を、駿治からもらひながら頷いた。
『よくいうた。全くさうだぞ君。君もその経験があるだらう。うふふ……吉原より玉ノ井の方が面白いのはそのためだらうし、玉ノ井よりカフェの方が面白いは、結局、女をながめる機会が多いからだらうなア、やはり。然し今考へてみると、俺は一年ほど同棲してゐた、あの君も知ってゐる邦子との、二階借りの生活が一番愉快だったやうに思ふなア』
 さういひながら、太田はなんに感じたかほろりと涙を流して、ハンカチで目頭を拭いてゐた。太田のやうに向ふ意気の強い男でも、余程、邦子が可愛かったのだと駿治には受取れた。
『なぜ、君は、そんなに可愛い女を捨ててしまったんだね』
 さう駿治がきくと、太田は立停ってしまった。そしてまたハンカチを出して。涙を拭いた。
『僕が迷ってゐたんだなア。全く僕はあの時、迷ってゐたよ。学校時代から俺は少し遊んだからなア。邦子が妊娠すると、もう淋しくて淋しくてたまらなくて、つい芸妓狂ひを始めたのさ。そして、邦子も可愛いし、馴染の芸妓もよう捨てなくなったんだね。その中に俺は、つい遊びが過ぎて、会社の金を使ひ込んだものだから、君が知ってゐる通りに。会社は馘になるしさ、邦子の親父は怒って、あいつを故郷へ連れて帰ってしまったんだよ。今思ふと、女房がやはり一番いいなア。そりゃ、君、なんともいへぬ味があるからなア、言葉でいひ表せないよ。それは確かに、性慾以上の心理的な、また意識的な方面があるやうだなア。つまり、まあ〈赦し合った〉といふ気持だらうなア。御互ひの欠点を、みな知り合って、いいことにも悪いことにも、みんな赦しあってゆくといふ、精神的な分子が、確かにはひってゐるよ』
 さういって、太田はまた、両眼をハンカチで拭いた。

颱風は呼吸する13

  白い奴隷

『結局、やはり、こんな商売をしてゐると、罰が当るんだなア。子供は、全く、こんな処で育てると、スポイルされてしまふからなア』
 出口は、悟ったやうなことをいうた。縁側を、制服制帽の大学生らしい男と、案内に出た娘と同じ柄の着物を着た娘とか、相前後して沈黙のまま通って行く。それと入替りに、乳呑児を背負うて、三つの子供の左手をひいた、出目の細君が帰ってきた。
 彼女は客がきてゐるのでびっくりした様子だった。
『御免下さいね』
 さういって、彼女は、押入から赤ん坊の夜具を取出して、背中の子供を下ろした。出口は。長男をも寝かすやうに、女房に注意した。
『こんな厭な商売をしないでも、食って行ける道があれば、その方がいいと思ふんだがね。百姓はようしないし、土方にはようならんし、弁護士試験には落第するし、たうとう玉ノ井に落ちてきたんだよ。玉ノ井に落ちてくると。夏の蝿がとりもちに足をとられたやうなもので、もう身動きならんやうになってしまったよ』
 駿治は、醜業を営んでゐるものにも、良心といふものがあるんだな、といふ気がした。それから話は、最近のエロチックな傾向の噂となった。出口が、大阪失業者の間に、トイチハイチといふ男娼が、非常に増加してきたことを話した。
木賃宿のある大阪の南の今宮では、三百五十人くらゐ、女装をした男娼が居るんだってね。まるで。日本も文化、文政の頃に逆戻りするやうな傾向だね。吉原に飽いて、私娼やカフェが繁昌するかと思ふと、こんどはもう一度また徳川末期へ逆戻りするものと見えるね。神戸では、男娼の遊廓さへ設立さしてくれと、出願したものもあったさうぢやないかね』
『徹底してるねえ、わはははは』
 と太田は大声で笑った。
『憲友会の連中の間では、左翼思想を暴圧するために、ダンスや遊廓を奨励した方がよいというてゐるさうですが。ほんとですかね?』
 駿治は真面目になって、出口に訊き直した。出口の長男は、赤ん坊の傍にはひって寝た。
『いやそれ以上ですよ。僕の知ってゐる範囲内に於ては、遊廓や淫売窟の許可で、政党政治に関係のないものは一つもないと思ひますよ。だから、ここなども、巡査は見てゐて、見ぬ振りをするんだからね。腐敗した政党政治といふものも厭なものだね』
 そんな真面目なことをいってゐる出口は、また太田に、
『久しぶりだから、今夜は遊んで行かんかね。今夜、うちに居る娘は、君の選択に任すよ』
 さういうて、娘等を呼つけた。呼出しに応じて、出てきた娘は四人あったが、取次に出てきた銘仙の派手な縞柄を着た娘、それと同じ着物を着た、髪に鏝(こて)をあてた娘、その他に洋装してゐた娘が二人出てきた。
 駿治は、じろりっと四人の白い奴隷の顔を見較べたが、一人として娼妓タイプの女はゐなかった。かうして、第三者の紹介で会ってみると、不思議に遊びたい気持が引込んでしまって、娘たちの生活様式に、心よりの同情を寄せたい気持になった。
 太田は、ことわるのに言葉がなくて困ってゐる。
 娘たちは沈黙して坐ってゐたが、無言のまま一人一人立去った。その沈黙劇があまり悲愴なので、駿治は、性慾問題を全く忘れて、生命の悲痛なる一舞台面を見たやうな気がした。

颱風は呼吸する12

  硝子のはひった簾戸

『おい、君、金持ってゐるのか?』 カールの女に路地の奥まで連れ込まれた太田は、数開離れて前方
を歩いてゐた駿治に、大声で尋ねた。生憎、彼は財布の底に一円五十銭しか持ってゐなかった。それは、昨夜新宿で飲んだ五円の残りであった。
『持ってゐないよ』
『なんだ! 君が持ってると思ったから出掛けてきたのに、少しも持ってゐないのか!』
(太田はカールの女に、大声でいうた)
『おい、そこを放せ! 今夜は金が無いってよ』
 さすがに、しつこい女も、金が無いと聞かされて、すぐ、彼を釈放した。そして。駿治を掴まへてゐた小娘も、カールの女に見倣った。
『あんまり飽っけないなア、君』
 カールの女と別れた太田は、駿治の処に笑ひながら歩み寄ってきて、小さい声でさういった。然し、駿治は昂奮してゐたので、何も答へなかった。
『君、今夜は、女の顔だけ見て帰らうや。僕の知ってる処へ行かうよ』
 さうひながら、太田は。大股に歩き出した。大股で歩くと、さすかに群って立ってゐた街上の処女等も、ようついてこなかった。娘の一人か冷かしていうた。
『まあ、おにいさん達の元気のいいこと……』
 その言葉がおかしかったので、駿治はくすくすっとひとりで笑った。
 速足に歩いても、太田が目的としてゐた柊家(ひいらぎや)に着くまでには、五、六回、女を振りきらなければならたかった。
 硝子のはひった簾戸を開くと卯色の壁に寄せて、小綺麗な下駄箱がおいてあった。玄関の障子も普通の家とは変らなかった。そして座敷の構造までが、特殊な感じを少しも与へなかった。
 太田は真面目くさって、
『ごめん下さい』
 と小声にいった。
 出てきたのは、美しく白粉を塗った、厭味のない、小ざっぱりとした、銘仙の着物を着た小娘であった。
『出口君は居られますか?』
 と、太田がまた訊くと、赤ら顔の、背の高い中年の男が出てきた。
『よう! 誰かと思ったら、君か! まあ上り給へ、久し振りぢゃなア』
 セルの単衣を着た磊落(らいらく)さうな中年の男は、無造作に、彼等を奥座敷に通した。取次に出てきた小娘が、また馬鹿丁寧にお辞儀をして、二人のために座蒲団を運んだり、お茶やお菓子を運んできた。
 駿治は。まるで狐につままれたやうな気になった。彼は猟奇的な気持でこの家にはひったに拘らず。それらしい所を、少しも見出すことは出来なかった。
(間違ってゐるのではないか)
 と彼は考へてもみた。然し、確かに、女を見せて貰ふ約束で、太田が連れてきてくれた筈だったんだ。
 衣の簾戸(すど)を開けて、
『只今!』
 といひながら、小学校の制服を着た男の子が座敷にはひってきた。
『面白かった! お父さん、今夜の活動写莫は面白かったよ』
 と、子供は背後から出口の肩に手をかけていった。太田は、出口に尋ねた。
『君は、子供、何人あるの?』
『三人あるんだよ。全く教育に困ってゐるよ』

颱風は呼吸する11

  街上の処女

 月のない晩であった。そして隅田川はどす黒く、漆で塗り潰したやうに見えてゐた。埃の多い下町では、空の星さへはっきり見えなかった。
『ありゃ、君、問題にならんよ。そりゃ、訴へてもいいがな。弁護士に支払ふ弁護料を損するだけのことで、結局ものにならぬと思ふなア。だって君、僕もあれを考案するのに、相当頭を悩ましてゐるんだからなア』
 隅田川の堤を伝はって走る。玉ノ井行の乗合自動車の中で、頭を五分刈にして詰襟の服を着た太田は、賢さうな瞳を輝かして、駿治にさういった。
 彼は、今年二十八歳の未婚者で蔵前の高工出身者としては、頭のいい青年として同じ年輩の技術家の間で、相当に嘱望せられてゐた。然し素行の上では駿治が見ても、あまり感心しないことが多かった。そのくせ彼は、酒も煙草も飲まない、一見聖人のやうな処があった。ただ彼の弱点は、性慾方面だけであった。
 駿治は彼に案内してもらって玉ノ井に行くのは、これが二度目であった。バスを提の上で降りて、うねりくねった細い街路を幾丁か歩くと、一歩一歩が、雪渓の亀裂の上を歩いてゐるやうな気がした。一年前にきた時より、玉ノ井は更に繁昌して、細い街路は、縁日のやうに人が一杯になってゐた。袴を穿いた学生帽の青年、金釦に制帽を被った大学生。ハンチング帽を被った職工らしいの、印半纏に半ズボンの労働者、学生、学生、金釦、ハンチング――そのうちでも学生の多いこと。駿治は、日本の亀裂がここに見られるやうな気がした。
 ここへはひると、太田友蔵は急に緊張して沈黙してしまった。貧民窟のやうに、細い路地が幾筋となく続く。平屋の狭苦しい長屋の軒に、粋な電燈が幾十箇となく灯ってゐる。婀娜(あだ)っぽい声が座敷の奥から洩れてくる。幾十人となく、皮膚の柔かな顔の形の美しい十七、八歳に見える小娘達が、路地の真中に立ちふさがって袖を曳く。
『ねえ、ちょいと、兄さん……』
 前に行く学生は若い娘に連れられて、路地の奥にはひって行った。太田は、年増の背の高い娘に掴まへられて弱ってゐる。
『おい、斎藤君、助けてくれよ』
 娘が、太田の洋服の裾をつかまへてゐた。
『この前もあなたは、うちに遊びにきて下すったんでせう。私、覚えてゐてよ』
 額の上に、後毛(おくれげ)をカールにして巻下げた一重瞼の、鼻の大きな、色の白い娘が、左手で太田の腕を抱締め、甘ったるい口調で。昔馴染みのやうなことをいった。
『こいつ、なかなかうまいことをいふなア。僕は君の処になぞ、遊びにきたことはないよ』
『まあ。御冗談でせう。私、覚えてゐてよ』
『そら、人違ひだらう』
 愚図愚図してゐるうちに、駿治もつかまった。それは十五、六としか見えない小娘であった。日本髪に結った二重瞼の、鼻筋の通っだ愛くるしい、丸顔の娘であった。
 待ってましたわ、ほんとに暫くでしたのね。もう、お忘れになったかと思ってゐましたの』
 初めて会った彼女が、奇妙な挨拶をするのに、駿治はたまげてしまった。然し、なほ不思議であったのは、街路に網を張ってゐる、この娘たちが、少しも職業的でなくて、いかにも処女らしく装うてゐることであった。