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Think Kagawa 賀川豊彦を考える RSSフィード

2008-09-08

「世界国家」の歩み−その2−柿8年に実が実るか

 世界国家1954年2月号 村島歸之

 22年11月、第5号から「世界国家」の編集は合議制となり、小川、白水、岩間、斎藤潔、寺島の5委員は、毎月、編集会議を開いた。一方、同志も次第に増え、大阪京都郡山には支部が設立された。郡山支部では、雑誌「平和」の刊行を見た。本部でもこれにまけてはならじと、横田喜三郎博士や今中次麿氏らを聘して講演会を催したり、座談会を開いたりして、その筆記を誌上に載せた。

 このころ米国では、ルクセンブルグで開かれる第2会世界連邦会議に提出するため、ハッチンス博士らの世界憲法の草案が稿脱し、その一本を急送して来たので「世界国家」はいち早くこれを取り上げ、第2巻7号をその全文で特集すると共に、ハッチンス博士の承諾を得て、日本版の刊行に着手した。世界連邦問題はこのころになって、漸く日本の一部の識者の注目を惹くようになり、東洋経済新報が各紙に先駆けてこれを詳しく紙上に紹介し、また延島氏が世界憲法草案の翻訳出版に着手しようとしたが、すでに平和協会が翻訳権を得たと知って手を引いた。

 23年末に「世界憲法草案」は英和両文を一冊として国際平和協会から刊行された。原書だけで1ドルするものを、英和両文で100円は廉すぎたが、ソロバンを度外視して売り出した。その憲法草案の解説に記されている「世界国家か、然らざれば世界崩壊か」は往年のパトリック・ヘンリーの「自由か然らざれば死」のように、新しき世界のスローガンとして使われはじめた。世界連邦はもう夢ではなく、現実となりつつあった。

 終戦後早くも4度目の春が訪れて来た。マッカーサー元帥は24年元旦の声明で「戦争は人類の悪を治す万能薬ではないことを世界の心ある人々に目覚めさせた」そして戦争を放棄して、それに代わる他の解決方法がまじめに探究されている」と叫んだ。戦争放棄に代わる他の解決方法は世界連邦のほかにない。だが、日本の識者の多くはまだそれに気づかない。

 この月、日本の新聞記者で、終戦後に一番乗りした毎日記者が、アインシュタインに会見した時、「世界連邦運動は日本にも起こっているか」と問われて、あいまいに返事をしているのもそのためだった。国際平和協会は、もっともっと運動に拍車を掛ける必要があると痛感し、賀川主幹をはじめ小川清澄、筧光顕らは懸命になって筆に舌に世界連邦の宣伝に努めた。

 これより先、23年8月6日、広島原爆3周年記念日を期して「世界連邦建設同盟」は生まれた。その規約の冒頭には次の如く規定された。

 一、本同盟は世界の恒久平和を実現し、人類の福祉を増進するために世界連邦を建設することを目的とする
 一、本同盟は、前条の目的を達成するために、左の事業を行う
  1、世界連邦の建設のために必要な国内運動の展開
  2、世界連邦の建設のために必要な国際運動への参加
  3、世界連邦の建設のために必要な調査研究
  4、その他の必要な事業

 3年前、世界平和協会の誕生に際しては、遠慮がちに「事業」の片隅に掲げられていたにすぎなかった。「世界国家」がいよいよ正面切って出て来たのだ。

 賀川氏は同盟副総裁となった。総裁には尾崎行雄翁を据え、理事長に国際平和問題のヴェテランとして知られた稲垣守克氏が就任した。
 雑誌「世界国家」は24年9月に第3巻6号移行は世界連邦建設同盟編集、国際平和協会発行ということとなり、編集委員には稲垣、筧、小藍氏らが加わって頓みに活気を増した。ただ当初からの委員だった詩人斎藤潔氏の死去は痛恨の限りであった。 同盟の編集になってからの「世界国家」は、従来の啓蒙宣伝本位のものから、実践運動の報告を主体としたものに変貌し、稲垣氏らの内外の世界連邦運動ニュースが精彩を放った。

 世界連邦運動は燎原の火のように広島をはじめ日本各地に広がっていった。その後教育宣伝を一手に引き受けた小藍氏は、席暖まる暇なく全国を飛び回った。新しい有力な同志が次々加わった。名古屋には大黒様のようにニコニコ顔の大橋松太郎氏がデーンと座って山陰から中部を指揮し、近畿には大阪に中島進氏、中山福蔵氏、河合栄治氏ら、京都に東則正氏、神戸に池田豊氏などがいち早く立ち上がった。

 広島では当時の副知事楠瀬氏、濱井視聴らが立って世界に呼びかけ始めていた。長野県では知事以下県議全員が加盟、小諸では藍川清兵衛氏らが、長野では丸山止戈夫氏が支部を結成、関東では最も早く鎌倉の大庭国紀氏が立ち上がっていた。道の奥東北では、岩手の飯島亀吉氏などなどその他各地に有力な同志が次々と与えられた。元大本教の愛善苑では出口会長は中部総局の呼びかけから熱心な同志となり、世界連邦運動の踊りまで作られたのもほほえましい。

 この連邦運動の上昇期に即応するため、武藤富男氏が「僕も手を貸そう」と編集の大役を買って出てくれた。武藤氏は戦時中に情報局部長として文化人の間に知られた人で、終戦後180度の大転換をしてキリスト教に入信し、賀川氏の推薦で、新聞社主幹となり、さらにキリスト教牧師となった熱血漢。自ら筆を執り、カミヤマタケシの匿名で、世界連邦の未来記を「新しき黙示」の題名のもとに本誌に連載したりしながら、1年近く編集に当たった。その間、毎号の巻頭は内外の連邦運動ニュースで飾るといった思い切った英断に出て、読者を驚かせた。

 24年、賀川副総裁の肝入りで世界連邦日本国委員会が誕生した。その年の8月、稲垣氏は初めて、日本代表としてストックホルムの第3回世界運動総会に派遣された。次いで25年12月にはジュネーヴで開かれた世界臣民会議に同じく稲垣氏以下十数名の有志が参加し、26年4月にも稲垣氏の外十数名の日本代表が、大挙第4回世界運動ローマ大会に出席した。

 これらの間に「世界国家」誌も成長して武藤氏の片手間仕事では間に合わなくなり、編集事務は小藍氏に引き継がれていった。この間、兼ねて教壇から運動第一線に飛び込んできた西澤氏が、世界連邦学生青年競技会を起こして、小諸や鎌倉に奔走し、九州では福岡の原田才治氏が九州協力会を起こして、「世界国家」誌毎月1000部を引き受け、中部の大橋松太郎氏、高知の中澤寅吉氏らも各々500部の大口を一年間引き受けて本誌発展のために大きな奉仕を続けた。

 26年の暮れになり、終戦前後より世界はひとつを提唱していた下中弥三郎氏が同盟に迎えられた。果然、同氏は世界連邦アジア会議を提唱、日本の世界連邦運動は一躍内外の視聴を集めるにいたった。

 こうして運動はいよいよ軌道に乗り、27年秋の広島アジア会議に至って第一の頂点に達し、ゆるぎない運動の基礎が固められた。各地の支部は拡大され、同志の数も著増した。この間、「世界国家」誌の編集は小川氏陣頭指揮の下に西澤氏の手に移され、彼は同盟や国会委員会や、青年の仕事に奔走する傍ら微妙な時期の神経の細かい編集に当たった。

 また西澤氏のよきコンビとして、山川丈一氏あり、会計や庶務担当の長谷川正則氏がある。(彼は賀川氏から人の世話が好きなので「親切係」のニックネームを授かった)

 躍進する日本の世界連邦運動は、再び第2回アジア会議を前に教育宣伝部長として筆舌の雄、小藍完次氏あり、企画調査部長として大西雅雄氏あり、財務部長に大橋松太郎氏、同盟及び協会の彦左として小川清澄氏があり、さらに後ろ盾として賀川、下中弥三郎両大御所があり、さらに今回新たに堀内謙介理事長があり、また北村徳太郎氏の如きがある。今や世界国家の陣営は盤石の如しといいたい。

 識らず、今後8年、10年、世界連邦運動の展開と共に、本誌「世界国家」はどんな変貌をみせるであろうか。