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Think Kagawa 賀川豊彦を考える RSSフィード

2008-10-02

鼎談 下中弥三郎と世界連邦運動(2)


 パール博士を日本に招く

 尾崎 下中さんのユニークな発想だという感しがしますね。同じ世界連邦運動を広げていく上においても、原爆の被災国である日本でそれをやるというあたりは、非常に在野派らしい発想が見えるように思いますが、パール判事の招聘は、その時(昭和二十七年)になるわけですね。

 田中 そうです。下中先生が実行委員長となり、賀川、松岡、下中のコンビで世界に向かって呼びかけるわけですが、ちょうどそのころ、実は私事で恐縮なんですけれども、清瀬一郎先生の御支援もあって、パール博士の東京裁判における判決文を翻訳したものを取りまとめて出版するという作業を私しておったんです。ご存じと思いますけれども、東京裁判は法に名をかりた復警であるとして、全面的にこれを否定したパールの判決書は、当時門外不出の書というか、絶対に公開することを許されなかった。したら生命の安全さえ保証しないと言い誰が願い出てもGHQは拒否しておったんですね。
 ところが、二十七年四月二十八日に日本が独立する。すると裁判権も日本に移る。もし出版してつかまったにしても、つかまえるのは日本の官憲です。それで、当時講談社から独立して太平洋出版というのをおつくりになっていた鶴見祐輔さんが、〃田中さん、私も一緒に引っ張られるから出そうじゃないですか〃と言うわけです。それならというんで、最初に出したのが、世にいうパール博士の「日本無罪論」という本です。
 この本を下中先生が読まれて感激され、参議院議員会館で、私のために出版記念会を開いてくださいました。その席で先生がパールを日本へ呼ぼうと発言されたんです。そして先生は、パール博士歓迎準備委員長に自らなられ、当時の金で二十五万円を出して下さいました。広島世界連邦アジアアフリカ会議が終わったあと、博士は二十七日間日本に滞在するわけですが、あのお忙しい下中先生がその間ずっと一緒に東京横浜を振り出しに名古屋大阪岡山広島博多福岡とお回りになった。大学や弁護士会やあるいは遺族会などいろんな団体の集まりで講演会や座談会を開いて回られるのであるが、先生とパール博士が義兄弟の契りを結ばれたのも、そのときのことでございます。
 そういうことで、世界連邦アジア会議の成功と全国遊説によって日本に世界連邦運動の組織がひろまり、各地に支郡組織が続々できてくる。それまではどちらかというと、世界連邦もサロン的で、いわゆる同好者が集まって議論を闘わしておる範囲にすぎなかったわけです。下中先生は、大会の後建設同盟の理事長に就任するんですが、古くから世界連邦談義をやっておった人違は、おれのほうが古いんだ、下中は後から来たんだというんで、先生がユ二−クな発想で運動をどんどん進めようとしてもどうもついていけないで文句ばかりを言う。

  さもあらんと思う。

 世界平和アピール七人委員会

 田中 そこで窮余の策として、生まれたのが例の七人委員会……これは茅先生にお聞きしますけれども、何か何人委員会というのが外国にあったんですか。

  ラッセルの百人委員会というのがあった。

 田中 それがヒントですか、「世界乎和アピール七人委員会」というのは。

  そうじやないかと思うんですがね。平和アッピール七人委員会は、昭和三十年十一月にできたんですが、たしかその前に、日教組文部省と対立した最初のとき、文部大臣は灘尾さんですね。私は二十九年から学術会議の会長になったから、二十八年は副会長でしたか、そのときに蝋山政道さんと下中さんと三人して調停に立とうとしたんですよ。ところが灘尾さんは、要らざることであるから引っ込んでほしいと、どうしても承知しなかった。そのとき私は初めて下中さんにお目にかかったんです。

 尾崎 それまではお会いになっていなかったわけですね。

  それまでは知りませんでした。名前はよく知っておりましたけれどもね。

 尾崎 百人委員会なんかからアイディアを得たにしても、七人委員会の発想は、これまた日本では非常に珍しいユニークなものですね。いままでの組織は、固まれば固まるだけ、小回りがきかないというか、一旦緩急の場合に対処でき難いということもあったと思いますが、世界平和の危機の問題、あるいは国内外のさまざまの問題に対応しながら、臨機応変の処置をとって運動を展開していくという点では、七人委員会の行動性あるいは機動性が非常に見事に生かされたんじやないでしょうか。

  私自身は、最初非常に疑間を持っていたんです。やってるうちに世間の反響がだんだん積算されてくるんですね。思いもかけず多くの人から注目を浴ぴるようになって驚いた。それがわれわれの偽らざるところでしょうね。
 最初は昭和三十年十一月十一日につくられたんですが、どうして私が選ばれたのか。日教組との話し合いで知り合ったんですが、私自身は、日本の原子力の問題で一番最初に発言しているんです。学術会議の副会長をしておるとき、講和条約によって原子力の問題を研究してもよろしいと許可になった。それで私は準備しまして、学術会議に提案したのは、日本は原子力の問題についてはまだ何も知らないから、
 原子爆弾の間題にしても、原子力平和利用にしても、文献を集めようじやないか、それに基づいて日本はどうしたらいいかということを決めようじやないか、ということなんです。それが非常な反対を受けた。まるで原子爆弾をつくるみたいなことを言われて、私は非常に不満でして、そういうことから始めるのがどうしていけないのか。しかし、学術会議では非常に反対が強かった。そして学術会議が原子力に対してどうしたらいいかという態度を決めるための委員会をつくったんです。その委員会はそれから一年間やったんですが、まだ文献を集めるには早いという結論を出しただけで終わっちゃった。
 私は、いまの学術会議の会長伏見君と二人でそういう提案をして、とにかく原子力の問題について日本がどういう態度をとるべきかということは非常に重要な問題である、ということで来たんですよ。それが当時左翼の連中に原子爆弾をつくるような宣伝をされましたけれども、そこは下中さんはよく理解されたと見えまして、原子力の平和利用をどういうふうに徹底させるかということで行こう、と。湯川さんも同じ考え方で、原子力に対して日本はどうするか、研究もしないで人様のやった後だけを追っていくものにするか研究もやるか、やるとすれば絶対平和に徹して、原爆等の製造に対しては反対していくか、そういうことが七人委員会の主要な題目の一つだったもんですから、私が選ばれたと思うんです。
 私は当時学術会議の会長という身分で、湯川さんのそのときの身分は……

 尾崎 京都大学教授で、基礎物理研究所長をなさっていたんですね。

  それから、前の文部大臣、そのときはユネスコ国内委員会理事長という立場の前田多門さん、日本女子大学長の上代たのさん、平塚らいてうさん、植村環さんと下中さんでスタートして、以後の態度は、原爆の実験に対して徹底的に反対の表明をしたんですね。それは世間では初め、ただ反対したからといってもだめじやないかという見方だったんじやないかと私は思うんですよ。私達の立場は、新聞記者にもよく言ったんですが、日本人は反対であっても黙っているから困るんだ。おれ達は役に立とうが立つまいが言うよという根本的な態度だった。終局的に世界連邦というものによって平和を達成しよう、と。
 皆さんご承知のとおりに、アメリカ英国カナダが一緒になって最初原爆をつくったときには、ドイツに先にこしらえられると困るということが一つの理由なんですよ。それでつくってしまったら、ソ連は、アメリカに持たれたんじゃおれ達はやっていかれないから、アメリカがそんなものを持つ以上はわれわれも原爆をやるといって、五年くらい置いてつくったわけですね。それができますと、アメリカは、ソ連原爆を持った以上その上のものをつくられては困るから、われわれもその上の水爆をやろう。それは両方同時にできた。両方が相手に責任をかぶせながら、今日のような危険なものを作ってきたんですが、中国の場合もフランスの場合も英国の場合もインドの場合も言うことは全く同じなんです。相手がそういうものを待っている以上、自分達も待たないわけにはいかないじゃないかと、自分が原爆を待つことの責任を全部相手の国にかぶせる卑劣な考え方なんです。
 われわれ七人委員会は、原爆で戦争を抑えているという原爆抑止力ということがよく言われたが、徹底的に反対した。そういうもんじやない。そういうことに名をかりて、お互いが競い合ってますます危険なものをこしらえていく。それが一たび爆発したら大変なことになるじゃないかという態度で現在に至っている。世間では、実際に当てはまらないようなことを言う連中であるという考えの方も多いんじゃないかと私達思うんですが、最初の言うベきことは言おうじゃないかという態度で徹底してきた。

 尾崎 あの当時は、ちょうど世論が大きく分かれていた時期であったし、国内的にも非常に厳しい要求があったと思うんですね。だから、それだけに………。

 田中 反響が大きかった。七人委員会が発表するたびに、新聞もラジオも大きく取り上げましてね。

 尾崎 日本の良識の発言ということで、それなりの大きな効果があったと思うんです。

  そう思います。びっくりしたんですよ。実のところ、私などは、どういうわけでこんなに皆さんが大きく取り上げてくださるのかわからなかったくらいなんです。科学者文学者政治家の方も入ったんですが、不偏不党の立場で、自分達の考えだけを一言うことに徹底した。その基礎は、下中さんが築かれた精神にのっとっていたと思うんです。

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